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大そうじへの備え
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次は「石の美術館」とある意味で似ているところがあります。石というと非常に重たいものと思われがちですけれども、物質性というものは逆に軽やかなディテールを媒介としてではないと伝わらないのではないかと僕は基本的に思っているんですね。物質性を重たいディテールでつくってしまうと、ディズニーランドみたいなフェイクにしか見えないわけです。軽くしたときに初めて、物質というのは正体を現してくれるという思いがあります。ここでは木なのですが、木を使って思い切って軽やかな建築をつくりたいと考えました。 建物は安藤広重の収蔵品のある「馬頭町広重美術館」という建物で、屋根も壁も全面、木のルーバーでできています。ひとつのマス、単純な切妻のかたちが全部ルーバーで覆われてつくられている。建築の実務経験のある方は、どうして屋根に木が使えるのかと計しく思われるでしょう。ひとつは、建築基準法に、屋根は不燃材でつくることと書いてあ
「熊本県営保田窪第一団地」です。これは私が最初に手掛けた公共建築です。 この団地が出来上がったときさまざまなメディアからいろいろな批判をされました。 なぜそんなに批判されたかというのは先ほどの話と同じです。ここでも、多くの人は集合住宅のプログラムが先にあると思っているのです。快適な生活のためのプログラムがあって—そのプログラムを「内容」と呼びましょう—建築家はその内容を受け止めて、そのための容器をつくっていくという構図を想定しているのです。建築家側からその内容、つまりプログラムに対して提案があるとは思ってもいません。快適な住まいはこうあるべきであると、あらかじめある理想像に基づいて建築が出来上がっているのだと誤解しているのです。しかし、そんなものはありません。だれもが納得できる理想的な生活像などあるはずがありません。ですからわれわれの立場から新たな生活像について提案すると、それは建築家の越
先日、東日本大震災からちょうど一年が経ちました。東京にいると地震も頻繁にあり、東北をずいぶん近いところのように感じながらこの一年を過ごしました。 そこで本日は地震の話から始めて、最近進行しているプロジェクト、あるいはでき上がったばかりのプロジェクトをご紹介しながら、震災後に考えたことなどについて、お話をさせていただきたいと思っております。 ■略歴 1941京城(現在のソウル市)生まれ。父の郷里の長野県で育つ 1965東京大学工学部建築学科卒業 1965-69菊竹清訓建築設計事務所勤務 1971アーバンロボット(URBOT)設立 1979伊東豊雄建築設計事務所に改称 現在AIA名誉会員、RIBA名誉会員、くまもとアートポリスコミッショナー ■主な受賞 1986日本建築学会賞作品賞 「シルバーハット」 1992第33回毎日芸術賞「八代市立博物館・未来の森ミュージアム」 1998芸術選奨文部大臣
茅葺きの上にアイスクリームのトッピングみたいな草が生えていて、全体のバランスがすごくいいんです。自然素材の茅がピラミッド状に盛り上がって棟のところにちょっと緑があるというシンボル性みたいな使い方が上手くいっていると思ったんです。 この茅葺きは東北地方の岩子県の農家です。芽の上に草が生えています。これはニラです。乾燥したときにはニラが最後まで生き残ります。ぼくはこういうふうに白然が載っている屋根は上手くいっていると思います。 ニラがほとんどベレー帽みたいに生えているものもあります。これは芝棟という日本の伝統的な技術です。茅葺きのてっぺんに植物を入れる技術で、戦前には九州にもありました。熊本県にあったことがわかっていますが、主に東日本でたくさんつくられました。西日本では少ないのですが、丸州にもあったので、かつては日本全国に分布していたんだと思います。 ユリを植える場合もあるわけです。自然に生え
今日お話する「地域社会圏」というテーマは、2008年の11月に『新建築』の巻頭論文で書いたことです。これは横浜国立大学の大学院生課題にも取り上げています。なぜ私がこのテーマについて考えているかというと、現在の社会の組み立て方がなんとなく私たちの身体にしっくりなじまないと私自身がつねづね思っていたからです。 現在、建築をつくるという行為が社会の中で信頼感を失っている気がします。今日は建築の設計や施工に携わっている方がたが大勢いらっしゃると思いますが、皆さんは建築をつくるということが社会の中で重要な働きをしているという信念を持って日々取り組まれていることと思います。私もそうです。ところが私たち建築に携わる者のそうした信念と、社会の受け止め方が非常に乖離していると強く感じています。私はここ何年か建築家としての居心地の悪さを感じていますが、最近はますますその思いを強くしています。 皆さんはご存知か
これはわれわれの設計した「屋根の家」です。ことのはじまりというのは、「手塚さん、きてください」と呼ばれまして、その頃仕事がなかったのでいそいそとかけつけまして、話を聞きました。 だいたい建物をつくるという時は、「この人って何だろうな」と、心理学者みたいな感じで、相手の中から深層心理を引き出すようなことを一生懸命するんです。要は趣味とか好きなことだけ引っ張り出そうとするんです。調子に乗せてあげると、みんなその気になっちゃうんですね。 この家の方にも「面白いことは何ですか、何をして過ごすのが好きですか」と聞いたら、「この屋根の上でご飯を食べるのが好きです」との答えが返ってきました。「この窓から出て、晩ご飯や昼ご飯をを食べるのが好きです」と。実際に屋根に登っている写真を見せられたのですが、瓦が落ちかけたりしていてかなり危ない。「娘さんたちは大丈夫ですか?」「夫婦も一緒に四人で上がってまずから大丈
「中野本町の家」という住宅を1976年に設計しました。私の姉の家族のための住宅です。私自身にとっては四番目のプロジェクトです。昨年この住宅が突然解体されました。今日はその話から始めます。 「中野本町の家」は新宿からわずかな距離のところにあり、私自身もその隣に住んでおりましたが、80年代に入ってそこに「シルバーハット」という自邸をつくりました。 去年の二月二十八日のことですが、姉たちは引っ越して、すべてのものがこの家から運び去られ、竣工時と同じように何もない空間が再現されました。マッキントッシュの椅子が置かれていますが、この椅子だけは隣に住んでいた私の持ちもので、最初からあったわけです。撮影のときにこの椅子を置いたらいかにもいい雰囲気だったものですから、そのまま置きっぱなしにして二十何年かがたちました。もちろんカーペットも汚れていますし、壁も汚れましたが、光は同じように上から射し込んできます
今日のテーマは「近作を語る」とありますが、最近の仕事の中でも、特に海外の仕事を中心にお話したいと思います。 建築の分野でもグローバリゼーションが進んでいる中、この10年くらいでわれわれも海外の仕事が増えてきました。そうした仕事を通して、日本とは何だろうか、と考える機会が多くなりました。また逆に日本の仕事を通じて、海外で仕事をすることの意味についても考えます。私は既に50年以上仕事をしているわけですが、若い時には国内でまかなえる素材だけを使って、いかに建築をつくるかという課題が常にありました。しかし高度経済成長期に入り日本が豊かになってきますと、海外から素材を輸入して日本の建築に使うということが可能になりました。その頃は素材に関してのみでしたが、中国など新興国の経済が台頭してきた現在では、素材だけでなく部品までも海外で調達するということが、世界各地で起きています。 海外で仕事をする時は、当然
今日は仙台にゆかりのあるカルロ・スカルパの話を皮切りにして、今私が考えていることをお伝えしたいと思います。 スカルパは1906年にベネチアに生まれ、1978年に仙台で亡くなりました。20世紀を生きた建築家の中で、実は最も示唆的な建築家のひとりではないかと思います。スカルパは装飾的なディテールや技巧、古い工法を復興させた、職人的・工芸的な建築家と見られています。そういう側面において確かに優れた建築家ですが、それ以上に私が彼の手法に強く惹かれるのは、単に細部の技巧や工芸品的なものを大切にする眼差しとは違う、もっと非常に新しい考え方の持ち主だと思うからです。 スカルパはたくさんの作品を残していますが、その大半が既存の建物の改修であったり、展覧会の会場構成であったり、いわばリノベーションの作家です。スカルパのリノベーションは単に古い建物を修復するのではなく、もっと創造的であったと思います。イタリア
物質性もサイバースペースも、どちらも僕にとっては、とても魅力的です。コンピュータだけが表現できる空間の世界、というのも魅力的だし、それからもう一方で、物質だけで表現し得る素材の世界というのもたいへんに魅力的だなと感じています。そのふたつともが魅力的なのはなぜだろうか。これが解けたら、おそらく二十一世紀がどういう世紀になるか、二十一世紀の建築がどのような建築になるかという大きな間題も解けるのではないか。それをなんとか解きたいのですが、そのヒントのひとつになるのが、もはや「かたちの時代」ではない、ということだと思います。 建築はかたちである、とは、昔からいわれてきたことですし、建築家というのは形態をデザインする人だと思われてきた。しかし、それは本当かなと、最近つくづく思います。形態はある意味でどうでもいいのではないか、むしろ形態以外に建築のいちばん面白いところがあるのではないかと。ただ一般の社
これは最近できた「ふじようちえん」です。 佐藤可士和さんというアートディレクターが私のところへ電話をしてきて、「幼稚園を建て替えたいっていう人がいるんだけど、手塚さんきてくれないか」と誘われたんです。佐藤さんとは昔、番組で会ったことがきっかけで、それ以来の知り合いだったんです。行ってみたらすごく大きな幼稚園なんですよ。今どき600人近く園児のいる幼稚園ってないと思うんです。日本で3番目の規模だそうです。単体の建物としては最大だと思います。その幼稚園の雰囲気がなかなかよくて、「千と千尋の神隠し」に出てきそうなボロボロの木造の園舎だけどバカでかいんです。全部外廊下で懐かしい雰囲気がありました。園長先生に「これいいから、壊すのやめましょう」といいましたら、「実は雨漏りがいっぱいしていまして」と。「ここの園児は雨漏りの水を受けるのがものすごく上手いんですよ」なんていうんですよ。とはいえ、このままで
1970年というのは、日本の建築の世界においてひとつの区切りになっています。それはまた世界的にもひとつの区切りになっています。いわゆる私どもが教わってきました近代建築と、今日の建築−−それをポストモダンといってもいいでしょうし、さしあたり私はそれを現代建築と呼んでいるのですが、それは後日、歴史家の手に名称区分は委ねるということになると思います−−との間で1970年にそのひとつの区切りがあったわけです。いまから思い返しますと、いろいろな問題が社会的にも出てきまして、世界的にも文化の革新に対する運動が盛んに起こったわけです。 その中でどういう趣旨のことがいわれてきたのかということを、2〜3の例をとって説明してみます。ひとつは、公害とか自然破壊という言葉が出てきたのが、その時点でのことです。西欧合理主義というか、合理主義が公害そのものを生み出したり、自然破壊をもたらしたというのは妥当な判断かどう
最後は橋です。右と左をつなぐとか、土木であって建築であるものとか、いろいろな意味があるものです。 芸能プロダクションの田辺工ージェンシーの建物です。サングラスをかけて街を歩いている若者をスターにする。その橋渡しの役目をするプロダクションの建物ということで、橋をイメージしてつくっています。橋桁部分を内部から見ると、まるでくもの巣みたいに見えますが、これは田辺さんがもとスパイダースのメンバーであったので、これも田辺さんを表しているわけです。この建物はいままた話がありまして、隣の土地を手に入れて、そこにも建てて、巨大な橋にしたいという構想が生まれつつあります。 アメリカの非常に大きな魅力のひとつは、橋が街の中に入ってきていることだと思います。たとえばニューョークのクイーンズボロブリッジは塔の部分が十数階分の高さがあるんです。西海岸ではゴールデンゲートブリッジが圧倒的に有名です。このふたつの橋をつ
植物を現代建築へ取り込むというと、コルビュジエの初期の代表作の「サヴオア邸」です。ここで彼は屋上庭園を主張したわけです。彼は二十世紀の建築の条件として五つ提案していますが、その二番目に出したのが屋上庭園です。にも関わらず現実には申しわけ程度にしかやっていません。こういうものは普通、屋上庭園ではなくプラントボックスと日本では呼びます。コルビュジエもきっと、本気で屋上庭園をつくったらどうなるか、あるときわかったんです。彼の建築はめちゃくちゃになるわけです。つまり、彼流につくった建築、その上にモシャモシャ草が生えると建築は植木鉢のような状態になるわけです。明らかに建築は人工的なものです。それから植物は人工的ではありません。しかも植物は石と違って成長します。美学が違うんです。植物は生きものの美学です。植物が結果的に生み出している美と、人間がつくっている美とは、決定的に、この世の実の中で最も遠いもの
1995年3月に行われた「せんだいメディアテーク」のコンペで二等になった案です。ご存知のように一等を獲得したのは伊東豊雄さんの案です。建物が竣工したのが2000年で、雑誌掲載は2001年3月でした。ということはコンペからちょうど五年経って、建物が竣工して、その半年後にメディアに出たということです。ここに先はどのマスタープランと実現したものとのギャップを考えるひとつのヒントがあります。 このコンペでは、図書館、メディアセンター、ギャラリーなどの異なる用途を、ひとつの場所の、ひとつの建物に組み込む意味を考えることが求められました。もともと別々のものとして建てられる予定だったのを、仙台市が調整してひとつの敷地にまとめて建てるという条件を整え、審査委員長の磯崎新さんがその意味を問うたのです。これから発達していくメディアテクノロジーを使ってこそできる新しい図書館像を模索してほしいと要項でうたわれてい
このレクチャーの前半は、初期の外装や内装の設計を説明します。そして、少しずつ、建築の設計へと内容をシフトさせます。外装や内装などの設計を通して得たものを、どのように建築にフィードバックさせたのか、そのあたりを説明できればよいなと思っています。 ■略歴 1969大阪府生まれ 1992東京芸術大学美術学部建築科卒業 1996イエール大学大学院建築学部修了 1996-2000青木淳建築計画事務所 2000乾久美子建築事務所設立 現在昭和女子大学非常勤講師 ■主な受賞 2008第24回 新建築賞「アパートメント I 」 ■主な作品 「片岡台幼稚園の改装」「LOUIS VUITTON KOUCHI」「ヨーガンレール丸の内」「LOUIS VUITTON OSAKA HILTON PLAZA」「Dior GINZA」「新八代駅前のモニュメント」「ヨーガンレール心斎橋」「LOUIS VUITTON TAI
今日は「新しいリアル」というテーマでお話したいと思います。2006年10月7日から12月24日まで東京オペラシティアートギャラリーで行われた「伊東豊雄 建築|新しいリアル」展に出展したプロジェクトを中心にご紹介します。10年ほど前から、特に「せんだいメディアテーク」が完成してから、それ以前に私が思考していたような透明で軽くて存在感のない建物ではなくて、何か力強い建築、生命力に溢れた建築をつくりたいと思うようになりました。それを、どのように展開していったらよいのか、ここ数年考えています。その意味合いをタイトルに込めました。 ■略歴 1941京城(現在のソウル市)生まれ。父の郷里の長野県で育つ 1965東京大学工学部建築学科卒業 菊竹清訓建築設計事務所入社 1971アーバンロボット設立 1979伊東豊雄建築設計事務所に改称 1981東京工業大学工学都建築学科非常勤講師 1984早稲田大学埋工学
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