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今年の「#文学」
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しばらく電話の向こうから音が聞こえなかった。沈黙だけが続いた。そのうち、猫の声のような音が少しずつ携帯電話から聞こえていることに気付いた。裕子が泣いていた。だんだんと鳴き声は大きくなり、数分続いた。田嶋は裕子が何を考えているか分からなかった。しかし、待つしかないことは分かっていた。永遠に続くような時間が過ぎ、裕子の声が人間の声となった。 「ありがとう。電話でのプロポーズになるなんて想像もしていなかったし、本当は直接会った時に聞きたかったけど、嬉しい」裕子は、か細い声で言った。 「結婚しましょう。しばらくは単身赴任頑張って。でも私は結婚しても一人暮らしは嫌。だから、会社に掛け合って、私も大阪に転勤させてもらうわ。それまで浮気をしちゃ許さないよ。大丈夫。私は営業成績も良いし、うちの会社の役員とも飲み友達だから、お願いすればきっと聞いてくれるわ」裕子は、最後には涙ながらに笑っていた。 その後、田
結婚したのは31歳の時だ。お互いに結婚を意識してはいたが、具体的な話はしていなかった。 しかし、田嶋は銀行員で、銀行員には転勤が付きものだ。付き合ってから1年も経たないある日、突然、支店長から呼ばれ、大阪の支店への異動を言い渡された。1週間後には着任していなければならない。 支店長室から出て、自席に戻った瞬間に田嶋は裕子にメールをした。銀行では異動の発令を受けた日は最初の送別会がある。その後、顧客引き継ぎや内部の引き継ぎがあり、新場所での引き継ぎもある。そして毎日のように飲み会が続くのだ。田嶋は裕子に会って直接伝えたかったが、まずはメールで伝えざるを得なかった。 大阪への転勤を伝えたメールに対しての裕子の返信メールは「私はどうすれば良いの?」だった。 裕子が総合職としてバリバリと働いていたのを知っていた田嶋は悩んだ。本音では会社を辞めて自分に付いて来て欲しかった。田嶋は裕子と結婚したいとい
地区を統括する部長の目にかない、入社4年目で賃貸アパートの営業となった。賃貸アパートの女性営業職は他社にもほとんどおらず、裕子はアパートのオーナー達からかなり可愛がられたようだ。複数棟の建築を依頼してくれ、さらに友人を紹介してくれたオーナー達とは未だに連絡を取り合っている。 戸建の住宅は高くても1億円を超える案件はほとんどない。しかし、賃貸アパートは1棟で2億円程度の物件もある。満水ハウスは固定給は低かったが、営業成績に応じて支給される歩合給の割合は高かった。多い時には年収が2,000万円を超え、確定申告をしたこともあったそうだ。 しかし、昼夜問わない猛烈な業務の影響で29歳の時、業務時間中に倒れた。2日入院し、その後3日間会社を休んだ時に、自分の人生や仕事について初めて真剣に考えたそうだ。 そんな時に、ちょうど同じ支店の一般職の女性から誘われて、裕子は田嶋の銀行の同期が主催した「お食事会
田嶋の妻は裕子(ゆうこ)という。大手ハウスメーカーの満水ハウスに勤めている。満水ハウスはプレハブ住宅の最大手で、主に戸建と賃貸アパートの建築請負が主な業務だ。二人の間に子供はいない。 裕子とは、社会人になってから知り合った。同じ年齢で恋愛結婚だ。裕子は岩手の出身で、大学から東京に出てきた。私立大学で経済学部だったが、大学時代は生活費と学費を稼ぐためにほとんどアルバイトをしていた。サークルはテニスで、まあ普通に大学生活を送ったのだろう。 しかし、就職活動では苦戦した。ちょうど金融機関の破綻が続いた時期が就職活動の時期に重なった、いわゆる就職氷河期世代だ。当時は企業への応募もインターネットよりは紙でエントリーシートを出していた時代だ。就職活動はエントリーシートの作成に時間もかかり、作成のたびに写真を添付しなければならず、証明写真は伊勢丹で撮影するのが定番だった。就職活動にはかなりのお金がかかっ
銀行員は『人事が全て』と言われることもある。つらく、つまらない仕事が多いが耐え偲べば役職で報われるのだ。そして、偉くならなければ自分の意見は通せない。突然の転居を伴う異動を命ぜられることもしばしばだ。転勤一つでも家族には大きな影響かあるのだ。 そんな銀行員の悲喜こもごもを左右するのが人事部だった。 「それで、お呼びした用件なんですが」伊東が話し始めた。田嶋はあわてて伊東の言葉に意識を集中した。伊東がいつもの敬語に戻っている。仕事モードだ。 「田嶋さんが担当する店舗を変更しようと考えています。これからは、神奈川県内の店舗を担当してもらうことになると思います。旧Yの店が多い大事な地域です。現在担当している宮崎さんは、恐らく異動になる予定です。その後任として、重責を担って下さい」伊東はさらっと伝達してきた。 「ご期待ありがとうございます。しっかり役目を果たします」田嶋は深々と頭を下げた。 旧Y出
田嶋は副部長の伊東から個室の会議室に呼ばれていた。 時刻は20時30分。そろそろ帰りたい時間だったが、急に呼ばれたのだった。今日は自宅でご飯を食べると伝えたので、妻が何かしらの準備をしてくれているはずだ。もし、食べられなくなってしまったら申し訳ない。 田嶋の思いなど知らず、会議室に入るや否や、伊東が話し始める。 「中野坂上の岩井君のことは大変だったな」 「はい。怪文書の件も含めて、皆様にご迷惑とご心配をお掛けしました。伊東さんにも諸々ご指導頂きました。何も無いとはいえ、火のない所に煙は立たないと言われかねません。今以上に身を引き締め、業務に邁進します」 「君は相変わらず固いね」笑いながら伊東が言う。しかし、目だけは笑っていない。伊東の顔には笑い皺が刻まれている。少し表情を動かすだけで笑っているような表情が作られる。話し方も穏やかで、一見すると理解のある素晴らしい上司と見えるだろう。 「私達
「他に質問はあるか。何でも良いぞ。伊東君が珍しく興奮しているようだが、それだけの問題なんだ」山中がハリのある太い声で話しながら、周囲を見渡す。田嶋と目が合った。何か聞け、と山中が促しているようだった。田嶋と山中は比較的仲が良い。旧行は異なるが、波長が合うのだ。田嶋が挙手する。 「質問させて頂きます。今後のスケジュールはどのようになっているのでしょうか。一般職の廃止と店舗閉鎖の行内発表の時期は重なるのでしょうか。また、店舗閉鎖についてはお客様へご不便をおかけすることもありますので対外公表の時期も重要かと思います。ご教示頂けましたら幸いです」田嶋は出来るだけ当たり障りの無い質問をした。 「うむ。一般職の廃止という人事制度変更と可能な限り同時に店舗閉鎖の全体感は行内で発表する。但し、具体的な閉鎖対象店舗についてはまだ固まっていない。決まった店舗から順次発表していくことになる。特に地方店舗閉鎖の場
田嶋の視界の隅で手が上がった。あれは、四国担当の橋本だ。 「すみません。質問宜しいでしょうか」 「どうぞ」伊東が短く答える。 「廃店される店舗の総合職は異動させてしまえば良いので問題はないのですが、総合職が少なくほとんど一般職だけで運営している店舗もあります。一般職の処遇はどのようにするおつもりでしょうか。また契約社員もいますが、こちらはどのように対応するのですか」橋本はつらそうに言葉を絞り出した。 「一般論として聞いて下さい。個別の店舗毎に事情は異なるので。原則としては、所属店が廃店となり近隣に通勤可能な店舗がない一般職には、首都圏もしくは関西圏への転勤のオプションを提示します。その場合は社宅もしくは寮を当行負担で提供します。すなわち、働き続けたい行員には、職を保証するということです。しかし、家庭の事情で遠隔地への転勤が叶わない行員もいるでしょう。その方については、親密な地方銀行さんに雇
『入社して配属されないと、どのような仕事が出来るか分からないこと』『自分の意思に関係なく違う職種に異動させられたり、転居を伴う異動をさせられること』は時代遅れと言われてきた。学生は就職時にこの観点で企業を選ぶことも多いだろう。このような働き方は、今の時代の社会人の生き方に合わなくなってきているとされている。だから、総合職とか一般職という職種を残している企業はダメだとされる論調もあるが、これには田嶋は違和感を覚えてきた。店舗や事務所は全国に点在し、大量の事務処理への対応も必要という観点で現実に合わないからだ。 しかし、RPAの登場はこの現実を変える力を秘めている。日本で長らく続いてきた総合職と一般職という職種を無くす動きをRPAが果たすかもしれない。 田嶋は驚きながらも、自分がRPAの登場とそれに続く一般職の廃止まで見通せなかった人事担当としての自身の知見の浅さを残念に思った。 その中で山中
一般職を無くした他の銀行も結局は何らかの形で一般職を復活させている。理由は、大量の事務だ。例えば、転居を伴う異動がある総合職と転居を伴わない総合職の2職種に人事制度を整理したとしても、実質的には転居を伴わない総合職がいわゆる一般職的な業務を行うことになってきたのが他行の実例だ。事務は誰かがやらねばならない仕事なのだ。 銀行はマニュアル文化であり、定型的な事務作業が大量に存在する。この業務はマニュアルに基づくだけあって、前例踏襲の業務が多く、本当の意味での創造性や新たな判断は必要とされない。間違いさえなければ良いので総合職が行わなくても良いとされてきた業務だ。転勤のない総合職は一つの営業店や部署への在籍が長くなることが多く、そうすると前例踏襲の業務における「前例」に精通することになる。そのため、自然なのか、管理職の意図的なのかは置いておいて、実質的に一般職の業務を行うことになるのだ。 『しか
総合職という職種が生まれた背景は、一言で言えば高度成長時代という時代にある。企業が規模も事業も急激に拡大させていく時代であり、新しい営業店、事業所、部署が次々と生まれていった。その企業の拡大に合わせて柔軟に従業員を移し、配置する必要があった。日本では就職と言うが、実際には「就社」であることが今でも一般的だ。この就業感覚は高度成長時代の働き方が影響している。『自分はこの仕事をしたい』という人よりも『会社の言う通り何処へでも、何でもやる』という人が貴重な人材として扱われてきた。会社は、仕事内容や勤務場所について文句を言わせない代わりに、従業員に相応の処遇、特に終身雇用を提供してきたのだ。そのため、特に新卒者は、仕事内容ではなく、会社名で就職先を選んできた。そして入社してからは、会社への忠誠心を求められた。その最たる例が銀行と言えるだろう。これが総合職の生まれた背景だ。 一方で、企業の根幹として
田嶋のみならず、他の人事部メンバーも息をのんでいた。とうとうここまで来たのだ。田嶋の世代は銀行が倒産する時代を知っている。不良債権処理で厳しい環境を過ごしてきた。しかし、若い世代は銀行が潰れるとは思っていないだろう。何と言っても就職人気ランキングの上位を維持してきた業種なのだ。 田嶋は聞きながら背筋が寒くなっていた。銀行にとって一般職の廃止は鬼門だ。今までも何度か「一般職の高度化」や「一般職の総合職化」が叫ばれ、人事制度を変えたり、給与制度を変えたりと様々な手を打ってきた。しかし、既存の中高年層からの反発と、金融庁の指導により大幅に増加したコンプライアンスに関する事務量の前に効果を上げられたとは言えない。 銀行における一般職と総合職を理解するには、まず総合職を理解し、その対比として一般職を考えてみると分かりやすい。 総合職とは「企業において総合的な業務に取り組む職」と定義される。これだけだ
ここまで一気に山中は説明した。原稿は見ていない。本気だ。会議室の雰囲気が急激に変わる。山中の声以外に一切音がしない。山中の発言が止まった瞬間に耳が痛くなるほどの沈黙が会議室を包んだ。 「分かるか。私は本気だ。そして頭取含め役員は本気になった。我々は銀行を変えるんだ」山中が執行役員人事部長として檄を飛ばす。 「では、まず皆へ大事な方針を伝える。当行は一般職を総合職と統合し、職種を一本化する。支店では顧客への提案営業やコンサルティング業務が増え、一般職も働きが総合職に近づいている。来年4月をめどに従業員組合へ申し入れ、労使協議を経て来年10月には職種一本化への移行をめざす。職種の垣根をなくすんだ。やる気がある行員には幅広く活躍できる環境を提供する。逆にやる気の無い行員にはツライ目にあってもらう。変われなければ当行を去ってもらう人も出てくるだろう。それでもこの改革はやり切る。当行が生き残るためだ
田嶋がそのように考えていると、すぐに山中部長が話を始めた。 「お疲れさんです」山中は人事部長ではあるが、いわゆる官僚的な人物ではない。国内の法人営業畑で、幅広い人脈とシンパを持つ。身体は大きく、首は無い。いわゆるアメフト体型だ。自身は大学4年間でアメフトしかやっていないと豪語している。目は一重で細く強面だが、笑うと八重歯が出て愛嬌があった。人事部の女性陣からは「カワイイ」と言われており、本人もそれに気付いている。影のあだ名は「やまぽん」だ。 山中が話を続ける。 「期初のお忙しい中、皆さんにこのように集まってもらったのは、当行の今後を左右する人事施策をこれから実行していくことを伝えたいからだ。しっかりと人事部一丸となって、スクラムを組んで実行してもらいたい」 田嶋はスクラムはラグビーじゃないかと場違いな感想を持った。もちろん顔にそんなことは出さない。田嶋は前から4列目の席であり、端の方だった
10月上旬、下期の戦略会議が帝國銀行人事部の管理職を集めて行われた。単独の部であるにもかかわらず、合計すると100名は下らない。 9時から開始だった。10年前の人事部ならば8時や19時スタートというのもあり得た。しかし、今は人事部が率先して働き方改革を行わなければならない時代だ。外の部署からの見え方もあるため、会議は業務時間中に開催されるようになった。 100名規模の会議では、人事部のフロアにある会議室を使う訳にいかない。秘密主義の人事部といえども、他の部署も利用する会議室を使用していた。 最初に司会進行役の伊東副部長が本日の流れを説明する。 席の配置はスクール形式だ。前の席には、山中執行役員人事部長、そして伊東副部長の2名のみが座っている。両名の後ろには大きなスクリーンがあり、プロジェクターから映像が投影されていた。 スクリーンにはパワーポイントで作成された資料が映っており、愛想の無いタ
山内が泣いたような目で田嶋を見つめる。 「田嶋君の手を私が握った写真を撮ったのは岩井支店長なの」 ふいに田嶋は現実の世界に引き戻されたような衝撃を受けた。 「え?」 「そう。私は裏切り者なの」 「山内さんは何を言っているの」 「聞いて。岩井支店長から頼まれていたの。田嶋君を追い落とすようなネタを作ったら、営業から事務に係替えするって」 「それって」 「そう。私も40歳を過ぎて、渉外担当として営業するのはつらいの。銀行の営業に終わりなんてない。毎年、業績はリセットされて、目標という数字に追いまくられるだけ。もう疲れたの。だから事務に変わりたかった。もちろん、私は岩井支店長が嫌いよ。生理的にも受け付けない。若い男に媚びを売って、でも銀行内では出世間違いなしと言われて。私とは何もかも違う。だけど、あの人には人事権はある」 「だから」 「そう。だから岩井支店長を飛ばしたいと動きながら、岩井支店長が
翌日、岩井の人事異動が発表された。銀行の人事異動では理由は明かされない。その後、しばらくしてから岩井はパワハラで飛ばされたとの噂が流れた。それだけだ。尚、中野坂上支店から仙台支店に異動した稲垣は、しばらくしてから真島と結婚した。真島はその直前に帝國銀行を退職していた。 田嶋は一連の動きが終わった後に山内に会いに行った。 「色々あったし、人事部の動きについては現場の皆さんには言えないことが多い。でも一応一件落着だよ。協力してくれてありがとう」そう言いながら田嶋は山内に途中で買ってきたお菓子を渡した。大丸東京店で買ったピエール・エルメのマカロンの詰め合わせだ。6個しか入っていないのに税込2,808円。すなわち、1個当たり468円。マカロンたった1個が、帝國銀行本店の食堂利用時の昼食代を超える。田嶋のお気に入りのお菓子は昔から森永のハイチュウ・グリーンアップル味だが、通常は108円程度だ。ハイチ
出勤すると伊東がすぐに会議室に来るように指示を出してきた。机からノートだけを取り出して、伊東の後を追う。いつもの殺風景な会議室に山中がいた。伊東が自然な形で山中の横に座る。田嶋は山中の目の前にテーブルを挟んで座った。今日の山中のネクタイはいつもよりも明るいオレンジに近い赤だった。 「中野坂上支店の岩井君の件なんだがね。この度、関西の事務センターに異動してもらうことになった。君が入手した不倫の証拠写真が決定打だ」 山中は真面目な表情だったが、口調は少しラフだった。いつもの冗談が多い山中の雰囲気だ。 「完璧に、ホテルと、銀行の業務用車、そして腕を組みながらホテルに入っていく岩井君と部下が写っていたね。しかもデータは業務時間中であることも示していた。完璧にアウトだ」苦笑いしながら山中は伊東を見た。伊東は肩をすくめただけだった。 「岩井君は降格の上、関西へ単身赴任。相手の男性部下は仙台へ転勤だ。こ
その後、山中からの音沙汰はしばらくなかった。 伊東も田嶋には何一つ話をしてこない。田嶋は焦燥感に駆られながら、業務を行うしかなかった。夕方になると暇になってしまうため、調べたかった様々な情報をネットで収集している。例えば、世の中の企業において変形労働時間制を採用している企業の割合や、テレワークを導入している企業数の割合は政府の統計で調査されているはずだった。 帝國銀行では現時点で導入されていないが、導入を検討すべき施策の一つが勤務間インターバル制度だ。 日本では、以前から問題になっている長時間労働の是正や各労働者の健康確保などの観点から、労働時間等設定改善法という法律の中に「始業から就業までの間に一定の間隔を置く」という努力義務規定の法律が制定されている。これを完全に制度化したのが勤務間インターバル制度だ。欧州では古くから導入されていて、終業から始業まで11時間を開けるというのがEUの決ま
翌日、田嶋は6時にオフィスに入った。いつも通り山中は6時20分頃来るはずだ。既にセブンーイレブンで必要な書類は印刷してきてある。田嶋の自宅にはプリンターがない。代わりにセブンーイレブンのアプリを使っている。このアプリはアプリ内に印刷したい書類をアップロードしておけば、全国のどのセブンーイレブンでも書類の印刷が出来るものだ。仕事関係であれば自身のスマホや自宅のパソコンから銀行の業務用メールにデータで送ることを認めてほしいところだが、帝國銀行では情報管理の観点もあり、外部から私用メールを自身の業務用メールアドレスに送ることを禁止していた。システム部が各人の業務用メールを監視ソフトを使って監視しているのは公然の秘密だ。恐らく、すぐに禁止行為をしたら呼び出されるだろう。 山中がオフィスに現れた瞬間に田嶋は反射的に立ち上り、自然な風を装いながら山中の席にゆっくりと歩き出した。山中が自席に付いた瞬間に
翌日、田嶋は人事部に異動してきてから一番早く退行した。18時30分にオフィスを出たのは初めてだ。昨日の怪文書が気になり、どうしても仕事に身が入らなかったのだ。 田嶋は、浅草にある行きつけのバーに足を向けた。 神谷バーは、1880年に創業した日本で最初のバーだ。浅草寺の雷門から東に1ブロック歩いたところにあり、隅田川がすぐそばにある。 神谷バーの名物は、デンキブランというブランデーをベースとしたカクテルだ。電気がめずらしい明治の頃、目新しいものというと『電気〇〇〇』などと呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていたそうだ。デンキブランは強いお酒で、当時はアルコール45度だった。これが『電気』とイメージが被り、デンキブランは有名になった。 デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブランを表している。そのほかジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされているが、その
「証拠はありませんが、中野坂上支店の岩井支店長と少々問題を抱えております」 「山中部長からも、簡単な経緯は聞きました。では、岩井さんがやったということですかね」 「私には分かりません。しかし、今回の岩井支店長への対応の端緒は山内さんからの連絡です」 「そうですか。この文書が事実ではないことを、田嶋さんのために祈ります。しばらくは中野坂上支店には関わらないようにしてください」 「しかし、現状で問題が起きています」 「対処は山中部長がなされます。田嶋さんが動かなければならない事象が他に発生した場合には、代わりに私が対応します」 「それでも」田嶋が食い下がると、伊東が苛立ちを隠しきれずに声を張り上げた。 「あなたは山内さんと何も無いと言っていますが、問題があった時に責任を問われるのは私です。田嶋さんは信じられる人かもしれない。でも、なぜあなたのために私がリスクを取らなければならないのですか」 驚
山中に相談して二日が過ぎたころ、人事部宛に差出人不明の書面が届いた。宛先は山中人事部長殿となっていた。 午後一番に田嶋は副部長の伊東から会議室に呼ばれた。入室するなり、伊東が話し始める。 「田嶋さん。困ったことになりましたよ。」 そう言って、書面のコピーを田嶋に見せた。 『御行の人事部に所属する田嶋は、同期である中野坂上支店の山内と不倫関係にある』 書面にはそのように書いてあった。 田嶋は最初、この文面の内容が頭に入ってこなかった。理解出来なかったのだ。 しばらくして意味を理解した田嶋は伊東に聞いた。 「これは何でしょうか」 「それを聞きたいのはこちらです。まず事実確認しましょう。後で嘘を言っていたことが分かったら厳しく対処しますからね。田嶋さんと山内さんは、この書面にあるような関係ですか」伊東の目がメガネの奥で光ったように感じた。鷹が獲物を狙う目というのは、このようなものなのだろうか。
「田嶋君。岩井支店長の件はどうなっているの」そう尋ねた山内の目は真剣だった。 「このままだと、中野坂上支店は崩壊しちゃうよ。スタッフさんたちは次々と辞めたいって言うし、真島さんは今日も病欠。もしかしたら、病院で鬱になったと診断書を書いてもらっているんじゃないかって皆が心配しているよ。ここ数日は話の内容がおかしかったもん」 田嶋は突然の話題転換に驚きながらも、冷静を装って口を開く 「岩井さんの件は任せておいてくれ。必ず、中野坂上支店を働くことが出来るお店に戻すから」 「そうなの?」 「ああ。今、人事部として対応している。銀行は人が全てだ。信じてくれて良い」 「分かった。それで、ちょっとLINEの登録ができるQRコードを開いてくれない?」 「え? 何で」 「いいから」そう言いながら、山内は田嶋の手をつかんで田嶋のスマホを取り上げた。田嶋は急に山内に手を握られたようになり固まってしまった。山内は
「部長。岩井支店長は暴走しかけています。これは私の行動が裏目に出たものです。私へのお叱りはあるかと思いますが、まずは中野坂上支店への対処です。私としては岩井支店長の異動を諮って頂きたいと考えています。もちろん、部長から一旦は注意をして頂くという方法もあるかと思いますが、支店メンバーとの信頼関係が完全に毀損してしまっています。銀行は人が全てです。岩井支店長を異動させるべきです」 山中は田嶋の説明中、スマホをいじりながら聞いていた。山中が悩んでいる時の癖だ。1分は沈黙が流れただろうか。山中が顔を上げた。 「分かった。リテール部門の常務とまずは相談する。山内さんのメールだけではなく、他の支店メンバーからの裏を取って明日の17時までにA4一枚の資料に纏めておいてくれ」 そう言って、山中は会議室を退出した。 岩井の異動については、山中が役員と相談したようだったが、田嶋にはそのフィードバックはなかった
二週間後、田嶋は山内にスマホからメッセージを送った。 『岩井さんの様子はどう?』 1時間ほどして返信された山内のメッセージは長い文書が記載されていた。 『岩井支店長のパワハラは加速しています。恐らく人事部から注意を受けたから、周りの部下全てが告げ口をした敵だと認識しているみたい。毎日当たり散らしています。自分は頭取のお気に入りで将来の役員だから、誰がどのような陰口を叩こうが人事部に私は止められないと大声で言っていました。そして、来週、スタッフさんが二名も急遽退職することになりました。職場の雰囲気が耐えられないから辞めると言っています。支店長の近くにいる事務課の課長は、支店長の席側の耳が聞こえなくなって病院に通っています。私も体調が悪くて。真島さんは、様子がおかしくなってきていて、稲垣さんが銀行を辞めさせたいと言っていました。中野坂上支店は地獄です』 田嶋は山内のメールを見て、自分が岩井を買
「田嶋、ちょっと来てくれ」 人事部長の山中に田嶋が呼び出されたのは翌日の朝7時30分だった。働き方改革が進んだといっても銀行の中で人事部は聖域だ。他部署には業務時間中にしか会議をやらないように指導していても、人事部内のミーティングは業務時間外が一般的だった。そもそも山中は毎朝7時00分までに出勤している。部長が早いので他の管理職も7時30分までには勢揃いしていた。 「岩井に何を言った?」 山中はストレートな性格だ。田嶋も常に直接的かつ短く回答するようにしている。 「パワハラの訴えが続いているので、行動を改めるようにお願いしました。但し、法律上のパワハラとして認定されているような行動は確認できていないことも伝えてあります」 「岩井は、頭取とリテール担当役員のお気に入りだ。当行初の女性取締役となる可能性があることは理解しているだろう。俺も昔からの知り合いだ。岩井からは『やまぽん、あの堅い子をど
「はい。認識しています。岩井さんの言動は業務に関しての指導であり、パワハラで問題になるような行動には該当していません。ただ、指導時間が長過ぎるというのは気をつけて頂いた方が良いかもしれません」 「分かったわ。でも、これじゃあ、人事部から責められる必要はないわよね。最近は、人事部もナイーブ過ぎるのよ。何でもパワハラになってしまうから、指導も出来ないわ」 「確かに人事部が弱腰であるというご指摘は受け止めます。しかし、世間基準のパワハラは法律上のパワハラとは異なります。SNSで情報が拡散する時代には、当行も一気にパワハラ企業、ブラック企業と世間から認定される可能性があります。銀行は信用、イメージが大事ですので、人事部としては最大限の注意を払っています。どうかご理解をお願いします」 「それは分かったわよ。でも、もしかしてパワハラで釘を刺すためだけに私を人事部に呼んだの? あなたのところの部長のやま
「アンケートでは、貴店でパワハラがあると回答した割合が95%です。そして自由記入欄には、次のような回答がなされていました」 ・当店にはパワハラがある。人事部は行員を守れ。 ・岩井支店長のパワハラを止めて欲しい。渉外課の若手女子が壊れてしまう。 ・支店長の指導が長すぎて、外訪に回れない渉外担当がいる。 ・岩井さんが真島さんに長時間の叱責をしているが、自分が怒られているようで気持ちが沈む。せめて皆が聞こえないところでやって欲しい。 ・岩井支店長の真島さんへの指導が長すぎる。立たせたまま2時間に及んだこともあった。 ・支店長が自分にパワハラしている訳ではないが、支店長のパワハラを毎日見聞きし自身のメンタルが不調になっている。 このような意見を読み上げている最中、岩井の表情は変わらなかった。反応が読めないのは田嶋としてもやりづらい。どのように次の発言をしようか迷いだした頃、岩井が口を開いた。岩井の
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