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4.『水界園丁』の方法の新しさ 金子(兜太) 僕は俳句、短歌っていう短定型詩は、もじり、本歌取りの集積を基本に置いてできてると思う。 宗(左近) だから本歌取り、やめてほしいんです。 金子 いや、駄目です。これは日本短詩形の興味尽きない伝統なんです(…)本歌取りを、どううまく定型に使って、今後やっていくかというところに、一つの宿題があると思ってるわけです。 宗 引用の織物になってくると、何が失われてくるかというと、本歌を作った人の、僕の言葉を使うと、宇宙とか神様との付き合いの瑞々しい厳しさが、薄れちゃうわけですよ(…) 金子 ええ。よくわかります。わかりますがね、違う言い方をすると、本歌取りをすることによって、いまの魂のカケラみたいなものを受け継ぎながら、カケラですよ、自分の魂が生かせる場合があるんですよ。 (鼎談「21世紀の俳句を考える」(出席|金子兜太・三橋敏雄・宗左近 単行本『21世
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 奥村晃作同好会 後篇 太田うさぎ×西原天気 ≫承前〔前篇〕 「賀春」「賀正」数々あれど結局常に決する「謹賀新年」 天気●これ、私もそう。この何十年か、「謹賀新年」で押し通してます。「オクムラさん、私も、一緒!一緒!」と嬉しくなる。「賀正」とは目上の人には使えないらしくて、それもあるんでのですが、「謹賀新年」の四文字が坐りがいいんですよね。 うさぎ●「決する」が可笑しい。一大事なんだ。オクムラさんの場合は毎年悩むんですね。心の揺れは案外オクムラさんのポイントであるような…。 一般に犬はワンワン叫ぶから普通名詞でワンちゃんと呼ぶ うさぎ●「ワンちゃん」は普通名詞か? 天気●固有名詞でもないから普通名詞なんでしょうね。 うさぎ●「普通名詞」の認識がフツーじゃありません。 天気●はい、フツー
《朝ぐもり》という言葉で、ある活字のまとまりが始められたとき、それは言語的な主体にはなりえないものとしてまずは身をあらわすだろうが、続いて《開封の前よく振って》と来たとき、誰がその行為を担っているのかという以上に、何を開封しようとしているのかということの抜け落ちによって、《朝ぐもり》と《開封の前》のあいだに、単なる区切りとは別の隔絶が見える。《朝ぐもり開封の前よく振って》。《朝ぐもり》を、《開封の前よく振って》という言葉が示している行為にとっての、単なる書割とするのを妨げているその隔絶は、《開封》する対象として《朝ぐもり》をもたらすのはもちろん、《朝ぐもり》こそが《開封》する主体として機能する回路を、僅かながら開くことになる。 一般的には主体とはなりえないようなものの、言語表現を介した主体化の可能性の提示。同様に、《プールから人引き上げるひつじ雲》《金魚鉢ガーゼ包帯取り換える》《海の底見て
特集・三年目の3・11 斉藤斎藤インタビュー 「なにをやってるんだろうなーおれは(笑)と、思いますね」 聞き手:上田信治 ● ——歌人である斉藤斎藤さんの「証言、わたし」(「短歌研究」2011/7)は、自分にとって、3.11の震災を扱った作品でもっとも強い衝撃を受けたもので、そのインパクトはいまだに変わっていません。 三階を流されてゆく足首をつかみそこねてわたしを責める 撮ってたらそこまで来てあっという間で死ぬかと思ってほんとうに死ぬ ——「週刊俳句」の自分の記事のコメント欄に、作者は「怪物」になることによって倫理的優位性を得ている、と書きました。ただ、さらにその後の作品を拝見して、斉藤さんが、ずっと「その場所」を離れずに書いているということを知り、これはそういう「位置取り」とかスタンスの問題じゃない、この人はもっともシリアスに3.11とその後の事態に向かい合っている作家かもしれないと、考
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Shino MURATA 再説「俳句の文語」(後編) 文語・口語の混用は、歴史的に正当である 大野秋田 【承前】346号 再説「俳句の文語」(前編)完了「し」再説 ≫読む 237号「助動詞『し』の完了の用法」(以下「A稿」) 283号「文法外の文法」(以下「B稿」) 284号「俳句の文語」以下「C稿」) Ⅱ. 文語俳句にまじる口語 現代短歌の口語化はめざましく、老巧新鋭を問わず口語の歌、文語口語を混用した歌を詠んでいる。「私は文語で歌を詠むが、文語に口語を融合させることが、積年の課題となっている」(『短歌』平成20年8月号「特集 文語で詠むか口語で詠むか」中の日置俊次「文語と口語の融合について」)という歌人さえいる。 短歌においては口語の使用に何も制約はない。俳句で文語と口語を混用すると、短歌の世界では考えら
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 少し氣になる事があるので、書き留めておくことにする。 九月十九日は近代に俳句の扉を開いた正岡子規の命日だつた。子規の死に際しては、高濱虚子が、 子規逝くや十七日の月明に と詠んでゐることは、多く知られてゐるだらう。子規が亡くなつた直後に詠まれてゐる。虚子の句は子規が月齡十七日の月明かりの中に逝つたことを傳へてゐる。立待である。 この年は九月十六日が陰暦八月十五日、十五夜に当たつてゐた。陰暦八月十七日の立待は九月十八日だったのだけれど、子規の死亡は十九日未明の一時、即ち空には十八日の夕方に東に昇った立待月があり、南南西へと傾き始める頃だったのだ。 少し調べてみたのだが、九月十九日は陰暦八月十七日だつたと記してゐるものが多いやうだ。どうもこれは間達ひで、九月十九日は陰暦八月十八日であった
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 古書店にも傾向というのがあって、まるでかつての自分の本棚のような店に巡り会うこともある。昨夏、実家にそのままにしてあった本の大量処分をそんな店にお願いした。換金されたいくばくかを財布に入れて店頭を眺めていたら、この本が目に飛び込んだ。ソムトウ・スチャリトクル/冬川亘訳『スターシップと俳句』(ハヤカワ文庫、昭和五十九年刊、絶版)。私が俳句の実作を始める十年前に出た本に、こんなふうに巡り会うのも何かの縁なのだろう。 変な本である。時代は一九九七年から二〇二五年まで行き来するが、二十一世紀の初めに「千年期大戦」で壊滅的に荒廃した地球が舞台で、いかにもSFらしく、ある種のテレパシーにより主人公らが危機を克服する話である。とまあ、基本は実にオーソドックスなのだが、そこに欧米人の日本文化理解への
文法外の文法と俳句の文語(後編) 大野秋田 本論考は、『澤』平成24年8月号「文法外の文法と俳句の文語」を、加筆の上、前後編の形で再掲載するものです。 ≫(前編) 二. 俳句の文語 教科書の文法 昔の人は文法に対して存外柔軟な考えを持っていたのではないかと思われる。文法は従うべきものだが場合によっては破格も許されるくらいに思っていたのではないか。 正岡子規は『俳人蕪村』において「更衣母なん藤原氏なりけり」「我宿にいかに引くべき清水かな」、「大文字近江の空もたゞならね」の三句について「此等の俳句を尽く文法に違へりとて排斥する説には反対する者なり」と述べている。 外山正一が自作の詩の注に「繋り結び、テニヲハ等は、旧来の法則に拘泥せず」と記したこと、佐佐木信綱が「文法も変遷する」といい「文法の法則を破つてもよい自由」を説いたことは「已然形終止」(前編)に述べた。 宮地伸一『歌ことば雑記』によれば
文法外の文法と俳句の文語(前編) 大野秋田 本論考は、『澤』平成24年8月号「文法外の文法と俳句の文語」を、加筆の上、前後編の形で再掲載するものです。 「前編」は、俳句において近年「誤用」として論じられることが多い用法を歴史的に検証し、その正当性を論じます。 「後編」(次号掲載)は、俳句(俳諧)が、なぜ文法規範をはみだしていくかを、蕉門の俳言意識にさかのぼって検証します。 (編集部) 一. 文法外の文法 『澤』平成23年10月号(『週刊俳句』第237号に転載)の拙稿「助動詞『し』の完了の用法」(以下「前稿」とする)で完了「し」の誤用説を批判した。 「已然形終止」、「カリ終止」、「まじ」の未然形接続にも広く誤用説がある。 已然形終止 已然形終止というのは、牧水「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」、中村苑子「黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ」、佐藤鬼房「陰に生る麦尊けれ青山
■引用の自由 「コピペ・レポート」が問題化しているというニュースが一時期さかんに流れていました。学生がインターネット上の文章をコピーして、そのまま自分のレポートや論文の材料にするものです。けれども、昔も「まるうつしレポート」はありました。盗用そのものが新しい問題として持ち上がったわけではありません。 ただ、手順の点が劇的に変化しました。引き写す元ネタを見つけるのに、昔なら例えば図書館や書店に出かけ足で探すという手間がありました。ところが、インターネットには「検索」という便利な機能があります。欲しいデータを見つけるのに大した手間も時間もかかりません。引き写しにしても、コピー&ペーストで、ほんの数秒。手軽さの点で、インターネットからの盗用は画期的です。 しかしながら、考えてみれば、レポート・論文に「引用」は必須です。ものを書くとき、参考・参照を抜きにはできません。さらにいえば、私たちの言説はい
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 島田牙城 七月二十八日から二十九日にかけて、本井英さんの肝煎になる第四回「こもろ・日盛俳句祭」に行つてきた。虚子が明治時代に行なつた日盛会なる俳三昧を現代に復活させ、三日間俳句漬にならうといふ句会形式の催しである。 句会のあと、初日に講演会、二日目にシンポジウムが行はれるのだが、今年のシンポジウムの主眼が、二十四節気の見直しを宣言してをられる日本気象協会から、このプロジェクト担当の金丸努さんにわざわざ来て頂いて二十四節気を考へようとするものだつたので、期待して会場へ向かつた。 十一年前に遡るのだが、現代俳句協会が立春や立夏などを冬や春へ追ひやるといふ無謀な俳句歳時記を編纂刊行したことに「俳句」誌上の「時評」で抗議したことがあり、その俳句歳時記の編集委員を務められた筑紫磐井さんもパネリ
藤後左右の初期作品以外の句をほとんど知らないので 全句集を勉強会に持ち込んで読んでみた 関悦史 藤後左右(とうご・さゆう)といえば広く知られているのは、以下の句あたりだろう。 夏山と熔岩(ラバ)の色とはわかれけり 萩の野は集まつてゆき山となる 噴火口近くて霧が霧雨が 曼珠沙華どこそこに咲き畦に咲き 大波のどんと打つなり松露掻き 舞ひの手や浪花をどりは前へ出る 滝を見るしまひに巌があがるなり 蟇(がま)の貌(かほ)チブス患者の夢にくる 横町をふさいで来るよ外套(オーバ)着て 外套や館の出口は横町に 室内を煖炉煙突大まがり 口々に都をどりはヨーイヤサー どれも大胆率直でこの上なく印象鮮明。物や景色が、物理的な量塊やパターンに瞬時に還元されてしまったような即物的な力強さがある。 ところがこれらは皆、初期の作品であって、その後藤後左右がいかなる句を詠んでいったのかとなると、途端に何も思い浮かばなく
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 金原まさ子さん 101歳お誕生日 インタビュー 聞き手:「週刊俳句」上田信治 金原まさ子さん(句集『遊戯の家』)が、この2月4日に101歳のお誕生日を迎えられるということで、「週刊俳句」がお話をうかがいに参上しました。 駅まで、金原さんのお嬢さん・植田さんに迎えに来ていただき、小久保佳世子さん、柴田千晶さんとともに会場となる和食店に到着したとき、金原さんは、新聞に載った「ハッテン場」の記事と「田中慎弥」さんの記事の切り抜きを眺めていらっしゃいました。 そして、上田にと、坂本龍一出演のラジオ番組のカセットテープ、「音楽専科増刊 8ビートギャグ」(懐かしい!!)などなどを、お譲り下さいました。 ● 上田 坂本龍一さんのファンでいらっしゃるとうかがったんですけど、それは、やっぱりYMOのこ
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 週刊俳句時評・第45回 総合誌の時代の終焉? これからの俳句とメディア 神野紗希 1 日曜日の夕方、久々に「笑点」を見た。落語家たちが大喜利をするテレビ番組なのだが、驚いたのは、答えの半分以上が、互いのキャラクターを前提にした上でのものだったことだ。たとえば、圓楽さんは腹黒キャラ、昇太さんは独身でお嫁さんがほしいキャラといったように、それぞれの落語家のキャラクターが共有されていて、それを知らない私には、答えの意味がわからないものも少なくなかった。 以前にそういう内輪ネタの答えがなかったかといえばそうではなく、林家菊扇さんの経営するラーメン店を「不味い」と揶揄する言いぐさなどは、当時からのテッパンである。しかしながら、あの頃は、もっと開かれた答えが多かった。落語家のキャラクターを知らな
傘[karakasa] presents 佐藤雄一ロングインタビュー10,000字 佐藤雄一、詩人。この現代詩手帖賞作家は、ゼロ年代の詩壇に登場した若手詩人のなかでも、ひときわ異彩を放つ活動を行っています。特にそれを示すのが、昨年4月からスタートした、詩歌の朗読パフォーマンスイベントBottle/ Exercise/ Cypher。HIP HOPにヒントを得たというこの詩歌の朗読イベントは、詩歌を詩の世界の外部にひらく試みであり、詩人・歌人・俳人はもちろんそれ以外のジャンルからも多くの著名人が参加。回を追うごとにその開催地域も広がりを見せ、昨年末には世界11都市同時開催するイベントにまで発展しました。今回、傘[karakasa]は、話題のサイファーの仕掛人としての佐藤雄一さんに、現代詩との出会いから今後の展望まで、たっぷりとインタビュー。もしかしたら10年代は、「詩歌の時代」になるかもしれ
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 『俳句界』2007年11月号を読む ……五十嵐秀彦 相変わらず散文中心に読んでみましょう。 今回は、なぜか「です・ます」体で書くことにしました。 ●錦秋特集 現代の「いろ」と「かたち」 秋を特集するに当たって、「いろ」と「かたち」にしぼりこんだところがポイントで、私は面白く読みました。 デザイン批評家・柏木博の「経年変化する色を味わう」は、大半の俳人が普段気にとめない都市の色彩についての論考で、大都市の中心部がモニタ化しているという指摘や、住宅街ではメンテナンスをあまり必要としない建材の使用によって家並の印象が明るくなったことなどを挙げ、経年変化する風景というものを都市が失ってしまったことを語っています。時とともに変化する色彩を美しいと味わう感覚というものが確かに危機的な状況に置かれ
毎週日曜日更新のウェブマガジン。 俳句にまつわる諸々の事柄。 photo by Tenki SAIBARA 高浜虚子小論 〈季語〉の幽霊性について ……佐藤雄一 一般的に、高浜虚子(1874-1959)は河東碧梧桐(1873-1937)らによる新傾向俳句に反発し、有季定型を固守したいわゆる「旧守派」の俳人とされている。 もちろん虚子の膨大な句作を概観しただけでも、そのようなイメージに回収されえない例外を見出すことは容易だ。とはいえ、子規の月並批判をおおむね受け継ぎつつ、あえて季語の温存を決意した虚子を、たとえば「季語にとり憑かれた俳人」とみなすことは、さほど不当ではないように思われる。 しかしなぜ季語だったのか。 仁平勝(1949-)は『虚子の近代』において、虚子における季語の使用について〈箒木に影といふものありにけり〉の句を引用しつつ、言及している。 「箒木」は夏の季語であると同時に、『
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