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今年の「#文学」
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あ、結婚ですか? してません。子どもたちの父親とはパートナーとして一緒に暮らしてますが、籍は別です。同性婚は一刻も早く認められるといいですが、国家が私的な領域に法的に介入する婚姻制度とはなんなのかは問いたい。天皇制と家父長制を温存する戸籍システムも、なくすべきです。 ……と、いまでこそ、フェミニスト出版社の代表然とした態度で生きているが、ほんの6年前に離婚届を出すまで、わたしは思いっきり法的に「結婚」していたし、戸籍上は相手の姓でもあった。素敵な白いドレスを着るために二の腕を鍛えあげて結婚式も挙げたし、当時勤めていた会社からはお祝い金が支給され、パーティまでしてもらった。せっかくならとやってみた一連のあれこれは、実際とても楽しかった。 名字の選択も、わたしは三姉妹の長女、相手は三兄弟の長男、うちの九州の両親が菓子折りもって頭下げに行けばこちらの名字にならんこともないが、もういいや、そっちの
「私はフェミニストだからさ」 18歳になったばかりの娘がそう言った。そのひと言はありふれた会話の中で唐突に、それでいてあまりにも自然にあらわれ、溶け込み、流れていった。今日は風が強いね、アイスクリーム食べたいな、やっぱ猫ってかわいいよね、私ってフェミニストだからさ、あの新曲いいよね、そんな感じで。 そうか、この子はフェミニストなんだ。 そして自分がフェミニストであることは彼女にとって自明で、かつそれを表明することに抵抗も気負いもないんだ。 私の中にじんわり広がった感覚は羨望であり、よろこびであり、また疑問だった。彼女はなぜフェミニストになったのか。彼女をフェミニストにしたものはなにか。 それは幼い頃に田舎の封建的な暮らしの中で経験した家父長制の抑圧であり、「よのなか」から女の子の身体に向けられる視線であり、それらによる個人的な傷つき体験の数々かもしれない。 あるいは不自由極まりない、毎月の
スポーツにライバルはつきものである。しかしライバルのキャラクターが印象的な作品といえば、なんといっても、70年代、『ベルサイユのばら』と並んで『マーガレット』の2大柱として一世を風靡した、山本鈴美香『エースをねらえ!』であろう。 『エースをねらえ!』には、のちに登場する海外のライバルたちをのぞいても、お蝶夫人、緑川蘭子、宝力冴子……と、たくさんのライバルたちが登場する。なかでもお蝶夫人は有名で、作品を読んだことがない人でも、一度くらいは名前を耳にしたことがあるだろう。 ◆美人でお金持ちのライバル:お蝶夫人 美人で財閥令嬢で、日本庭球協会理事の娘で、ゴージャスな縦ロールの髪に圧倒的なテニスの実力。そのプレイスタイルは、まさに蝶のように優雅で華やかで、他の追随を許さない。まさに「完璧」を絵に描いたような「お蝶夫人」。主人公の岡ひろみも、お蝶夫人に憧れてテニス部に入部する。 だが読み返してみると
先回取り上げた大和和紀『ヨコハマ物語』よりも少し後の時代、大正から終戦までの時代の女性の生き方を、万里子と卯野と同じく、性格は対照的だが仲のよい咲久子と卯乃という二人の少女の成長と絆を通じて描いたのが、市川ジュン『陽ひの末裔』である。 ◆『女工哀史』の時代 咲久子と卯乃の故郷は、東北の貧しい村。咲久子の家である陸りく中ちゅうの南なん部ぶ家は、旧家といわれる大地主だったが、4人の姉の嫁入り支度と株投資の失敗で身代が傾き、今ではほとんどの土地が失われてしまった。そのため、南部家の末娘の咲久子も、仲よしの卯乃とともに、東京の紡績会社の女工募集に応じることにする。 「いいとこ」に嫁いでいった姉たちも、しょせんは何の稼ぎもない“嫁ご”。それに対して「工場女おな子ごは、自分の腕でお金貯められるんだ」が咲久子の動機である。自分の力でお金を稼いで、かつての南部の土地をすべて買い戻す、というのが咲久子の野望
この連載が公開される頃には3月8日の「国際女性デー」は過ぎているが、ここ数年、日本でも国際女性デーに行われるイベントが増えてきている。 ためしにGoogleで「国際女性デー 2023」で検索をかけると、上位に「国際女性デー|HAPPY WOMAN」というウェブサイトが登場する。クリックすると「3月8日は国際女性デー|女性の生き方を考える日 女性のエンパワーメントとジェンダー平等社会実現を」「日本最大級の国際女性デーイベント【7年目】全国14都道府県33会場で開催」、さらに下に行くと「パートナーシップで、人を社会をハッピーに。」というハイテンションな見出しが掲げられている。この「パートナーシップ」とは個人の話ではなく企業とのパートナシップであることもお伝えしたい。「インタビュー」ページを見ると『HAPPY WOMAN FESTA 2023』のテーマソング“WE ARE HAPPY WOMEN
「私は、賃金が高いとは言えないけれど、自分の働き方も、内容も、労働時間も自分には合っていると思うんです。……でも自分の働き方はいつでも『非正規雇用』『非正規労働』『非正社員』って言われてきました。自分の働き方はどこか正しくない、一人前じゃない、例外……そんな風に言われているようで、複雑な気持ちにさせられてきたのも事実です」 女性の労働問題に関する集会で、ある参加者がこのように語ってくれたことがある。 正規・・ 雇用、 非正規・・・ 雇用などとあまり深く考えずこの言葉が使われている向きがあるが、いったいぜんたいこの「正」とは何を意味しているのだろう? 誰が、どこから、どんな目的で、なんのために労働のあり方を「正」と「正に非ず」に分けているのだろうか。 今の日本社会でとかく胡散臭く思われているのが「正」という概念である。正義などという言葉を使おうものならTwitter等のSNSでは「自分が正義
小学校1年生の頃の授業参観日のことだ。親たちが教室の後ろに並び、私の母もその中の一人として並んでいる。科目は国語だった。 教科書にはロシア民話をA・トルストイ(注1)が再話したと言われる「おおきなかぶ」が掲載されていた。それを先生が読んだか、みんながかわるがわる音読したかははっきり覚えてはいないのだが、とにかく授業の中で「おおきなかぶ」を順々に読み進めていった。 「おおきなかぶ」を知らない人に説明すると、あるおじいさんの家の庭にとってもおおきなかぶが生えたというのがストーリーの始まりである。そのかぶをおじいさんが引っ張っても抜けない。おばあさんが一緒に引っ張ってもかぶは抜けない。犬や猫などの引っ張る手伝いをどんどん増やしてかぶを抜こうとする。 「うんとこしょ どっこいしょ」 とみんなで掛け声を出しながらおおきなかぶを抜こうとするシーンが何度も出てくる。 そこまで読んで、先生は私たちにこう指
時代が追いついた、後退した、足踏みした……。 うーん、どれもしっくりきそうでこない。 こんなふうに書き出したそのわけはと言えば。 「働かない/働けない」というテーマで、しかも「働かない/働けない 女性・・ (独身女性・・・・)」の視点から書いてほしいという原稿依頼が、運動団体や同人誌からではなく、商業媒体の出版社から届いたからだ。 私は1973年生まれ。就職難であったことから氷河期世代、ロスジェネ世代とも呼ばれるが、それ以前からは団塊Jr.世代とも呼ばれていた(それにしてもこのジュニアという言葉にも女性の存在が感じられない)。この時代の家族形態は核家族が最も多く、結婚している女性の中の専業主婦率も1980年までは増加していた(注1)。それゆえ幼稚園に入ることですらすでに競争だった。私は幼稚園にも落ちたと親から聞かされた。 1980年代。80年代後半はバブルの時代を迎えるが、電電公社や国鉄は
先日、この連載を読んでくれている他社の担当編集と打ち合わせという名のZoom雑談をした折に趣味の話になり、「じゃあ結局履歴書ウケのいい趣味ってなんなんですかね?」と訊かれたので、私は「そりゃ、スポーツに決まってますよ」と自信をもって答えた(ちなみにその担当氏の考える履歴書ウケのいい趣味は「バス釣り」だそうです)。賭けてもいいが、一年に百冊本を読むやつより、月に一回家の周りを走って「趣味・ジョギング」と書くやつのほうが履歴書の上では強い。なぜならこの世は筋肉と汗と根性が文化や知性やセンスよりも尊ばれる体育会系の世界だからだ。お前らも私も一日中インターネットに浸かって休日も漫画を読んだりエルデンリングをやって家から一歩も出ないからピンと来ないだろうが、この世で一番えらいのはスポーツをするやつなのだ。この世は体育会系が筋肉で回している。運動を嗜まない我々は二級市民である。 私は運動ができない。自
恥の多い人生をおくってまいりました。というか、そうじゃない人はいないだろう。みんな大なり小なり恥にまみれた人生を送っているはずだ。そうだよね。そうであってほしい。 42年間ぶん、後悔することはもちろん売るほどある。時を経てもはやどうでもよくなったものもあれば、思い出すたびに新鮮に胃が痛くなるようなものもある。自分の選択の誤りだったとはっきり分かるものもあれば、自分にはどうしようもできなかったものもある。 いつまでも生傷のように痛み続けるものは、やっぱり自分のせいだと分かっているものだ。あのときもう少しちゃんと考えていたら、もうちょっと早く行動していたら、言葉をひとつ変えていたら。何かを違えていたら結果が確実に変わっていたと分かっているものほど、深く後悔する。でも当然、いくら悔やんでももうどうしようもない。何をどうしても時間だけは巻き戻せない。分かっているのに、ときどき無駄に思い出しては悶絶
ここにきて、奇妙な逆転現象が生じている。 現在、写植の書体をいちばん身近に感じているのは、ひょっとすると、文字の読み書きを覚えて間もない子どもたちかもしれない。 どうしてかというと、他のジャンルに比べてロングセラーが多い子どもの本には、いまでも写植の文字がのこっているから。 その理由を、絵本の編集者の方に訊ねてみたことがある。 話によると、同じロングセラーでも、実用書、文庫の場合は、改訂や新装版にあわせてDTPに変えることが多い。でも、新刊書店で児童書の棚にずっと置かれているような絵本は、つくりなおすタイミングがむずかしいという事情らしい。 世代を超えて長年愛されている『ぐりとぐら』も、そうした「タイミング」が訪れていない名作絵本の一冊だ。 野ねずみの「ぐり」と「ぐら」は、森のなかで大きなたまごを見つけ、カステラをつくることにする。 ふんわりと焼きあがった黄色いカステラに、子どものころ心奪
モリサワのゴシック体〈中ゴシックBBB〉は、1960年代に写植文字盤として発売された。 現在は国内でデジタルフォントのトップシェアをほこるモリサワだが、もともとは写研と同様の写植メーカーである。 独自の組版システムにこだわって、DTPに参入しなかった写研とは対照的に、モリサワは自社書体のデジタル化を推進した。1989年、他に先駆けMacintosh用フォントとして公開された2書体のうちのひとつが〈中ゴシックBBB〉である。 デジタルフォントのなかでも特に歴史の長い、オーソドックスな書体。 でも高く評価されているとは思えない。DTPの発展に寄与した大きな功績のわりに、なぜか語られることの少ない、陰日向の存在なのである。 「リラックス」(マガジンハウス、2001年7月号)「小西康陽、フリー・ソウル 2001」 「リラックス」(マガジンハウス、2001年7月号)〈中ゴシックBBB〉 私自身は、こ
今年は佐々木倫子原作コミックの実写化が続いた年だった。 まず3月に放映された北海道テレビ放送(HTB)開局50周年ドラマ『チャンネルはそのまま!』、そして夏の連続ドラマ『Heaven? ~ご苦楽レストラン~』(TBS)である。 ごらんになった方も多いかと思うが、私が興味をもったのは単純に原作が好きというだけではない、ある別の理由からだった。 私にとって、佐々木倫子のマンガといえば風格のある描き文字。 フキダシの外に書かれた驚くほど丁寧な文字の、思わず笑ってしまう心のつぶやきや、あの絶妙なツッコミを、映像ではどのように再現するのか。 そんな一ファンの不安と期待に応えるように、どちらのドラマも文字にこだわった演出がユニークだった。 本来なら役者のセリフや表情で伝えるべき登場人物の心情が、映像のなかに文字スーパーであらわれる。 その点は共通しているのだが、しかし、選ばれた書体や文字づかいはそれぞ
翌日昼に葬儀が行われ、その日の夜にはまたラジオの収録があって私はいつもどおりの仕事をこなした。翌々日にはいつもどおりの原稿を書き、午後には毎月国会図書館でやっている調べもの、兼、打ち合わせをこなし、しかし、その後、恐ろしいことに予定がなかった。この2日は朝から泣いて、夜は泣きながら寝ていた。空白の時間が来ると自動的に噴出する汚らしい涙を予定で堰き止めていたので、困った。 国会図書館からの帰り、ふだんは編集者さんといっしょに有楽町線に乗るのに、永田町の駅の入り口で雑な言い訳をして別れ、どこかに歩いて行きたくなった。薄暗くなった人の少ない千代田区の道を歩いて歩いて、文藝春秋のビルを通りすぎ、ひとけのない方を目指してさらに進むと暗がりの中に華やかな光が現れ、それはホテルニューオータニだった。そこからお濠の土手にのぼり、足下も見えない真っ暗な土の道を歩いてゆくと四ツ谷の交差点にたどりついた。四ツ谷
何人かの人とつきあってみたり別れてみたりしながら、私はなりゆきでフリーランスになって文章を書く仕事を得、イベントなどで人前にも出るようになり、似たような仕事の人とごくわずかながら知り合うようになりました。 女性でエッセイのようなものを書いている人にももちろんいろいろなタイプがいます。私よりも少し上の世代には、「女は世間からの抑圧を打破しなければならない」あるいは「女であることを楽しまなければならない」とゆるぎなく思い、多少世間的なモラルを逸脱していようが、どこかで煙たがられたり嘲笑われたりしようが、そんな非難も軽々と撥ねのけ、コンプレックスも認めながらまるごと自らの女としての在り方に自信を持っている人が多いイメージでした。強く、前向きに励ましてくることが魅力として受け入れられているタイプです。 私はそういう諸先輩たちを尊敬はしつつも、まったく相容れないものを感じていました。私くらいの世代で
〈リュウミン〉という書体のストーリーは、この約30年に日本の本づくりが歩んできたDTP化の歴史と重なる。 モリサワから写植文字盤として登場したのが1982年。そして1993年に、パソコン用の「フォント」として発売された。 私にとって最初の記憶は、小学生のころ、夏休みの読書感想文で読んだ新潮文庫の『火垂るの墓』(野坂昭如)だ。 正直にいって、当時はこの文字でかかれた本があまり好きになれなかった。学校の課題図書に選ばれるような文芸作品や、社会派の小説や、ノンフィクションに使われる、まじめな書体のイメージが強かったように思う。 それがいまや日本で最も有名な印刷用書体といっても過言ではない。 小説も、ノンフィクションも、専門書も参考書も問題集も〈リュウミン〉。 直木賞受賞作も、塾や学校のパンフレットも、マンションの広告にも〈リュウミン〉。 まるで安全・安心のシンボルのように、いたるところ〈リュウミ
本を買うか、雑誌を買うかで悩んだら、雑誌を買え。あとで欲しくなっても雑誌は手に入らない。 そんな家訓のもとで育てられた私だけれど、手元に残すのを怠って、ずっと悔やんでいる「雑誌」がある。 その名は「モスモス」。 1991年から1996年まで、モスバーガーの店舗で配布されていた無料のPR誌だ。 A5判、全32ページ。今でいうところのZINEみたいな小冊子で、約5年のあいだに計19冊が発行された。 「モスモス」創刊号~19号 当時はかなり人気があったという。 お店で眺めるだけではなく、家に持ち帰るひとが多かったのだろう。ふつうの雑誌とちがって売上が記録に残っているわけではないけれど、最盛期の発行部数は80万部にも達したのではないかという。 それが現在では手に入らない。 時々思いだしては探してみるものの、古本屋にも、ヤフオクにもメルカリにもない。 せめて見るだけでも......と思ったが、この「
しばらく、フェミニズムとの快適な距離感がわからなくなっていた。パッと言葉にできるほど簡単じゃないこの気持ちは、学校に行かなきゃと思うのに布団から出られない、もしくは遅刻しそうで焦っているのに戸締りや忘れものを確認しに家に戻ってしまう、あの感じに似ている。 きっかけは幾つか思いつく。わたしを苛つかせ、戦慄させ、疑問でいっぱいにしたのは例えば、アートの企画で常に「フェミニズム担当」を担わされる違和感。あるいは、男ばかりの審査会や講評で、発言が「女性の」意見と受け取られること。期待に応えるつもりはないのに、「わたしがやらなきゃ」みたいな自負がどこからか現れ、結局は優等生っぽい(「女性ならでは」の)リアクションをしてる自分に呆れ、惨めな気持ちになる。フェミニストだからっていつも連帯できるわけじゃないけど、ネットで激しくやりあう人たちには心が折れる。いや、きっと議論や批判自体は大いに交わされるべきだ
雨宮さんとは何度会ったか分かりません。 と書くと、ものすごく頻繁に会っていたような意味合いになってしまうけれど、文字通りの意味で、分かりません。 2か月に一度くらいは会っていたような気もするけれど、いっしょに何をしたかを具体的に思い出して、その回数を知り合ってからの期間で割ると、年に一、二度くらいしか会っていないような気もします。かなりジャンルが違うとはいえ、お互いにもともとはブログで活動していたネットジャンキーなので、直接会話するLINEはもちろん、フェイスブックやツイッターも含めればネット上ではかなりの頻度でやりとりをしていて、よく会っていたように錯覚してしまうのかもしれません。 覚えているのは、久保ミツロウさんと、雨宮さんの家に遊びに行ったこと。手土産も手料理も用意しようとすら考えず、手ぶらで雨宮さんのマンションの最寄駅に着き、たまたま目に入った餃子店でいろんな餃子をテイクアウトし、
スピリチュアル系の友人何人かで食事会をして「アセンションプリーズ!」とか言ってふざけていたのはもう8年ほど前。アセンションはいったいどうなったのでしょう? 10年ほど前からスピリチュアル業界で広まった「アセンション」は「次元上昇」という意味で、地球や人類がより高い次元(3次元から5次元など)に移行するということを表しています。マヤ暦とも関連づけられ、2012年頃にアセンションが起こるという説がありました。スマホやPCのOSのアップグレードみたいなものでしょうか。気付いたら高次元人間になっていた、というのが理想です。 アセンションの話題が盛り上がっていた2009年のスピリチュアル雑誌を見ると「アセンション・カウントダウン」という大特集で、サイキックやヒーラーの方々が提言されていました。 「アセンションとはサナギから蝶になること」と語っているのは作家のエハン・デラヴィさん。太陽風の影響や、個々
平凡な恋愛と結婚をして早く埋没したい、などと強く思い込んでいた裏には、堀内をはじめとした世間への復讐心に、悔しさもないまぜになっていました。というのは、もちろん「モテないから悔しい」などということではなく、恋愛というものを何の疑問もなく受け入れて楽しんでいる人たちに対する悔しさです。 考えてみれば私は小学生の頃から、世間にあふれるヒットソングはなぜことごとく恋愛の歌なのか、という疑問を持っていました。世界には恋愛以外にも果てしなくモチーフが存在するのに、なぜ猫も杓子も恋の歌ばっかり歌って売れているのか、と。当時は自分が子供だからこういうテーマが分からないのかもしれない、と思っていたのですが、恐ろしいことにこの疑問は長じるにつれ絶望のようなものに変わっていきました。つまり、恋愛ソングなんて興味ない、と思っているのは私くらいのもので、世の中のほとんどの人間は本気で恋愛ソングが好きで、だから恋愛
〈タイポス〉というフォントがある。 「日本のタイポグラフィデザインの歴史をたどるうえで避けては通れない」といわれる書体だ。 誕生のきっかけは、1959年、美術大学の学生だった桑山弥三郎が、同級生の伊藤勝一、林隆男、長田克巳らと「グループ・タイポ」を結成し、卒業制作のために始めた新書体の研究だった。 それまで職人の専門領域であった「活字書体設計」に、いわば「素人」のデザイナーがはじめて参入したのだ。 ハネなどのアクセントを極力省いた直線と、垂直、水平に近づけた曲線。まるで文字をプログラミングするかのように、モジュール化された幾何学的なエレメント(要素)の組み合わせから成る〈タイポス〉は、従来のゴシック体や明朝体とはまったく異なるデザイン性を備えていた。 その登場は鮮烈で、1969年に写植書体として商品化されるや雑誌「an・an」や「non-no」の創刊号で全面的につかわれ、70年代の新書体開
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パーティーは夜更けまでつづくのだろう。 酒とジャンクフード、床に転がったアナログのレコード。 カラフルでにぎやかなわりに、どこか気だるさも感じられる空間で、身体をゆらし、リズムに身をまかせる若者たち。その小さな一室の、天井や壁や、床に響くような存在感で文字がおどっている。 「今夜はブギー・バック」というこの一枚のシングルCDジャケットに、これらの文字が選ばれたのはきっと偶然ではない。 曲のタイトルは〈見出ミンMA31〉。 アーティスト名は〈新ゴ〉。 いまとなっては、わざわざ目をとめる理由のない、ごくありふれた書体だけれど、この8cmCDが世にでたのがDTP黎明期の1994年だということを考えると感慨深い。 〈見出ミンMA31〉はフォントメーカーのモリサワを代表する伝統的な写植書体のひとつで、1992年にMacintosh用のデジタルフォントとして発売された。 そして〈新ゴ〉のほうは、199
夫(仮)の持ち家についに引っ越した日の夜中、私は水状のウンコを漏らした。 いくらなんでもそりゃないだろう、同居初日で。 午前三時。尻の穴からなんか出たぞ! と思った瞬間にハッと目が覚めてそれがウンコだと気づく、この三つの連続する動作は横綱白鵬の立ち合いのスピードくらい早かった。それからその量がそれなりに絶望的なものであると気づくまでのスピードも、並みの幕内力士の立ち合いのスピードくらいは早かった。 ショックとやりきれなさとしっとりした不愉快さを尻の間にはさんで螺旋階段を下りる。築年不明、三階建て、屋上付きの狭小住宅の隅に据えつけられた階段は夫(仮)が購入後に丁寧にぬりかえて、モロッコ調のタイルシートが蹴込みの部分に貼られており、非常にかわゆい。いま私が穿いているパジャマのズボンも、三か月前の誕生日にジェラートピケで購入して夫(仮)にプレゼントした、しましまでけばけばのもの。今日はとりあえず
23区をはじめ、東京をくまなく歩き、 多くの著作を著すコラムニスト・泉麻人。 今回のテーマは、「市町村」。 意外と知らない30の市町村を、 気ままに歩いていきます。 拝島から八高線で北上していくと、横田基地の景色が途切れた先に箱根ケ崎という駅がある。いまも西多摩郡に所属する瑞穂町唯一の駅だ。駅の東口に出ると、ロータリーの一角に柱から馬の首が突き出したようなオブジェが置かれていた。下に水桶が設置されたこれは、往年の"馬の水飲み場"をイメージしたものらしい。箱根ヶ崎は古くから多摩の交通要所の一つで、人馬継立(人足や荷馬の引き継ぎ)が行われる場所でもあった。 日光街道と青梅街道の交差点の角に、歴史を感じさせる漢方薬屋が建っているが、この辺が往時の宿場の中心地なのだろう。ひと昔前の時代を思わせるオモチャ屋や洋品店、竹カゴを並べた道具屋なんかが軒を並べる青梅街道から北方の町役場の裏の方へ入っていくと
沈黙の底辺料理記がついに更新されました。 無言を貫きすぎた8ヶ月。 夏が終わり秋が訪れ、 いつしか2020年を迎えましたが、 特段のスキルアップは見られぬまま、 地道な自炊活動を続けております。 新年初料理といたしましては、 餅とチーズをトースターで焼きました。 ただ焦げ目をつけたかっただけなのに、ドロドロになった。 何が起きてる〜(可食なのが救い)。 さ、幸先がよいとは言えませんが 今年も楽しく頑張ります!(前向きな性格) さて、今更ながら2019年を振り返ってみると、 最も作ったお料理はそうめんのオリーブオイル和えでした。 こんなの。 揖保乃糸を1分20秒お湯で茹で、 水で締め皿に盛り、塩とオリーブオイルをかけるだけです。 これほど簡単でこれほど満足度の高い料理を私は他に知りません。 失敗する隙を与えないシンプルな工程と圧倒的スピード感。 底辺料理パーマネントコレクションの ファースト
ときどき、宇宙人を自称する人に遭遇します。「実は僕、人間という設定で地球に来ていません」などと突然真顔で言われると、どうリアクションしていいか困ります。でも、心の奥では羨ましさを感じているのを否定できません。 「実は銀河連合の一員なんです」「宇宙連合に入っています」といった話もたまに聞きます。地球のアセンション(次元上昇)を助けるため、高次元の階層や他の星から来た魂たちのことらしいです(その真逆の存在が関東連合なのかもしれません......)。そのへんの協会のように推薦者2名いれば入れるというようなものではなく、銀河連合の一員という知人男性に「どうやったら入れるんでしょう? 推薦状とか......」と聞いたら「生まれる前から決まっています」とのことで、魂の格で選ばれた人しかメンバーになれないようです。「もう一員なんじゃないですか?」と社交辞令を言ってくれる人もいましたが......。 地
23区をはじめ、東京をくまなく歩き、 多くの著作を著すコラムニスト・泉麻人。 今回のテーマは、「市町村」。 意外と知らない30の市町村を、 気ままに歩いていきます。 いまどきの青梅線は、ほぼ青梅の駅まで都心からの市街地が続いているが、ここを過ぎると車窓が一段と緑化して山岳鉄道の雰囲気を帯びてくる。奥多摩方面へ行く場合、多くの電車は青梅で乗り換えになるけれど、平日の朝方、乗客は登山スタイルの年輩と若者ばかりになった。 今回の最終目的地は御岳山のつもりだが、まずは青梅から2つ目の日向和田で降りた。日向はヒュウガではなく、ヒナタと読む。ちなみに、この駅の名は開通時(明治28年)から日向和田といったようだが、多摩川の向こう側はかつて日影和田と呼ばれていたらしい。地図を見ると、確かに駅の場所は北側の山の南斜面で日当りが良さそうだが、多摩川の向こうは南方の山の北側に当たっている。 さて、日向和田で降り
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