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旭日旗とナチスの鷹の紋章をモチーフに使用した、列車のラッピング広告が非難を浴びて撤去されることになった。ニューヨーク市地下鉄に掲出されたこのパブリシティは、アマゾン・ドット・コムが配信するSFドラマ『高い城の男』の世界をイメージしたものだった。 SFドラマの原作者は、かのフィリップ・K・ディック。以前、彼の手になる『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』をマスメディアの凋落と極左・リベラルの精神的錯乱と絡めて取り上げた(2013年7月19日のエントリー参照)。 今回、渦中に巻き込まれた彼の長篇小説『高い城の男』(初出1962年、邦訳1965年)の筋立ては、以下のとおり。 枢軸国が第2次大戦に勝利したIfの世界。 合衆国の東海岸は第三帝国の支配を受け、西海岸は同様に大日本帝国の支配下にあり、中部は緩衝地帯として辛うじて独立を保っていた。そして、大戦後の米ソのように日独は世界を二分割しながら、深
消費税増税の政局に、自民党の税調に続いて公明党の税調も参戦してきた。公明党の税調は、復興特別法人税の前倒し廃止に反対を表明した。党はテクノクラートが指導するものの、支持基盤は主に中間層以下の都市住民であり、所得再分配の恩恵を最後の最後に受ける階層の人々を代弁する以上、増税が続く所得税との不公平を主張し、現金給付を検討するのは、彼らの支持基盤に対する政策との整合性を如実に示している。 公明党は、主に創価学会の婦人部を集票マシーンに使うのは周知の通り。その集票の対象も上記の通り。ではなぜ、創価学会が中間層以下の都市住民を支持基盤とするのか。 それは彼らが戦後の村落共同体の崩壊に併せて、高度経済成長期の大企業を中心とした疑似共同体が形成される過程で、その共同体から疎外された人々の受け皿として勢力を拡大させてきたからだ。この疎外された人々とその家族を集金・集票(その対価として組織からの利権分配と政
以前、2013年5月30日のエントリーで、英国におけるジャマイカ人のレゲエとパキスタン人のバングラ・ビートというふたつのポピュラー音楽の受容を通して、移民の同化の相違を考察した。 今さらではあるが、同じように音楽面の受容からスウェーデン・ストックホルムの移民暴動を考察したい。 北欧はハードロック、ヘビーメタル好きで知られている。つとにフィンランドはヘビーメタルのバンドが多い。民族的にタテノリが得意で、R&Bが不得意なのかもしれない。 そのハードロック好きの流れかもしれないが、去年のサマソニに出ていたヴィジアル系バンドSeremedyのボーカリストYOHIOが今年の「ユーロビジョン」のスウェーデン決勝で準優勝という結果を残した。 「ユーロビジョン」は、アバやジンギスカンなどのアーティストを輩出している。 彼はともすれば我が国のヴィジアル系について、辛辣になりがちな質問、たとえばホモかヘテロか
映画『カリガリ博士』(1920年)は、ワイマール期のドイツにおける文化的爛熟(ナチスにとっては文化的退廃)を示すドイツ表現主義の傑作。 物語は、主人公の回想から始まる。 カリガリ博士を名乗る旅芸人が、予言を行うという“眠り男”ツェザーレを使って、自らの予言の成就のために、主人公の友人を殺し、主人公の恋人を拐かす。 主人公がカリガリ博士を追い詰めると、彼は精神病院に逃げ込んだ。謎解きすると、精神病院の院長だった彼は、自ら書物にあったカリガリ博士となるべく、夢遊病者の患者ツェザーレを使って同様の犯行を繰り返していたのだ。かくて院長は拘束衣を着せられ独房に入れられる。 しかし、最後のどんでん返しで、その話が主人公の妄想であったと明かされる。恋人も精神病院の患者のひとりに過ぎなかった。カリガリ博士とされた院長は拘束衣を着せられた主人公を観て治療の糸口が見つかった、と歓喜するところで終わる。 そこで
「この引き金を引くにはそこそこの理由(いいわけ)が要るんだよ」 冒頭に飾られるこの言葉が、右記題名のライトノベルの主題である。『あなたは虚人と星に舞う』(上遠野浩平・著 中澤一登・イラスト 12ページより抜粋) さて同じ引き金でも、いきなりCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)に関する引き金の話に飛ぶ。ギリシアのソブリン債がデフォルト格付けになったが、CDS決済の引き金を引くためには、ギリシアの国内法によって定められた集団行動条項(Collective Action Clauses)が発動されなければならない。 一方、ヘアカットのため債務スワップが行われるが、既発債に変わり発行される新発債が(コモン・ローの体系を有する)英国法に依拠する、という摩訶不思議なことが起きている。要はギリシアの国債にも関わらず、訴訟事案があれば英国の法廷で裁かれる。 ギリシアの財政主権は、明らかに制限され始め
ブリット・ポップの雄ブラーの4枚目のアルバム『ザ・グレート・エスケープ』(1995)は、大逃亡どころかどこにも逃げ場のない人間模様をこれでもかと表現していた。かつてのキンクスやザ・フーを思わせるその諧謔的なポップ精神はブリティッシュ以外の何ものでもなかった。 シングルカットされた「The Universal」のビデオクリップは、スタンリー・キューブリック監督の映画『時計じかけのオレンジ』(1971)をモチーフにしていた。 アート・スクール出身のブラーは「To The End」ではアラン・レネ監督の作品『去年マリエンバートで』(1960)をモチーフに使い映画に造詣深い、イカレタところを見せている。両作品とも難解かつアバンギャルドで有名だ。 『時計じかけのオレンジ』の主人公アレックスは、退屈な日常の憂さを暴力というコミュニケーションで晴らしていた。しかしアレックスが放埒に振う暴力も体制側から認
オックスフォード・エコノミクス社の調べでは、米国の単位労働コストと中国のそれの間ではわずか4%の差しかなくなった。生産コストと物流コストを考慮すれば、もはや中国で同等の製品を生産して輸入する意味は皆無となった。 2015年7月18日のエントリーにあるように、 もともと2018年に米中の生産コストが逆転するという予測があった。これは経済誌フォーチュンの報道による。この報道よりも、米中の生産コストの逆転が2年も早まったことになる。 しかし、米国へのリショアリングはそう簡単ではない。米国では長年、海外(特に中国)にアウトソーシングしてきたために、熟練工は高年齢化し、技術継承できる人材層が薄くなりすぎている。 また、技術力を有した企業よりも『ジョブ・ショップ』と呼ばれる製造請負業者が活況を呈しており、そこでも労働者のミスマッチが起きており、派遣業者ですら充分に人材を供給できていない。 そして、米国
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