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PS2の発売日は2000年3月4日だった。2000年年明け前後だったろうか、エミュレータはほとんど完成していた。だが、それでもまだ一部動きがおかしくなるタイトルがあった。数タイトルがどうしてもちゃんと動かない。最終的に僕らはそれらをブラックリストとして公表しリリースすることとなった。 その後、アメリカ、ヨーロッパでもPS2が発売された。もちろん海外のPS1タイトルも動く。発売直前にはアメリカ、ヨーロッパを回ってデバッグもした。それが初めての海外だった。
1999年3月2日未明、僕は東京国際フォーラムの舞台袖にいた。その日は次世代PlayStation(PS2)の発表の日だった。僕の担当は現行PlayStation(PS1)との互換性があることを発表する時に実機で動くPS1ゲームを実演して見せることだった。 前の晩からスタンバっていたのには理由があった。初めてリッジレーサーが動いてから数ヶ月、GPUエミュレータは格段に進歩していた。たくさんのPS1ゲームが動くようになり、その中でも一番良く動くクラッシュ・バンディクー3をデモ用のゲームとすることになった。しかし、たまに止まるのだ。 デモ中に止まったら大変なことだ。結局当日までそのバグはとれなかった。だが、ずっと動かし続けていれば止まらないということがわかっていた。そこで夜を徹してクラッシュ・バンディクー3を実機で動かし続ける…ということになったのだ。
僕達が作ろうとしていたSPUエミュレータは不要のものとなってしまった。しかし、PS2のサウンドプロセッサがなくなるわけではない。先輩と「これからの仕事は何になるんですかね?」「新しいチップのテストベクタでも作るんですかね?」などと話ながら帰ってきた僕に告げられた次の仕事は予想外のものだった。 「え?」という感じだった。GPUエミュレータは別の先輩が担当していた。聞けば、その先輩は会社をお辞めになるというのでその引き継ぎをしろということだった。GPUはグラフィックのプロセッサだ。サウンドからグラフィックへの大転換である。しかし、僕に選択肢などあるわけないのでわけも分からぬまま引き受ける。 僕にとってエミュレータは一種のコンバータだ。古いプロセッサ用の命令を新しいプロセッサ用の命令に変換するのがメインのお仕事だ。実際のところ、サウンドだろうがグラフィックだろうが、変換後の命令の動きが違うだけで
僕が次世代PlayStation(PS2)のチームに配属されて言い渡された仕事は現行PlayStation(PS1)のゲームをPS2の上でも動かすというものだった。 その頃は新しいゲーム機が出ると古いゲーム機のゲームはその上では動かないというのが普通だった。そんな中SCEではPS2でPS1のゲームも動かしちゃおうというのだ。それはとても画期的なことだと思った。そして、入社して数年目にそんな仕事に関われることがとても嬉しかった。
私は世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)という宗教の2世です。 2世というのは、信仰を持つ両親のもとに生まれた子供のことを指します。 2世の子供達は、生まれながらにしてその宗教の信仰を課せられます。何も分からない小さな頃から宗教の教育を受け、人付き合いや私生活にも縛りが生じます。 私の家庭は両親共働きで決して裕福とはいえず(それも今思えば宗教団体への寄付などが家計を圧迫していたのだなと思います)、教会も少し遠かったので、一般的な2世よりも信仰は薄い家庭だったと思います。両親も信仰を無理強いすることに罪悪感があったのか、現在の私はほぼフェードアウト状態で、教会に行ったり活動に参加することはしていません。
こんにちは、喜屋武ちあきです。 私は今回、16年間一度も公表したことがない、芸能界に入った本当の理由について書こうと思います。 なぜ書こうと思ったのかっていうと、まずは自分の中でずっと整理がついていなかった母親との関係に決着をつけるため。 それから、自分が本当にやりたいことはなんなのかなってずっと悩んでいて、自分を振り返ることで、そういった気持ちにも気づけるんじゃないかな、と思ったからです。 長くはなりますが、よかったらぜひ読んでください。 2018年末、一つやり残したことがあり、実家のある埼玉に行ってきました。 目的は、母親のお墓参りに行くこと。 母が亡くなってから丸16年。 墓参りはおろか、法事にも一度も参加してきませんでした。20代のころは仕事も忙しくて時間が取れなかったし、東京から1時間程度とはいえ実家に行くこと自体が年に1、2回だったから。 ……というのは言い訳で、本当は母親の話
・「とりあえず会社作ろうぜ。社名はスダックスでいいじゃん」でアエリア会長、社長と3人で100万ずつ出し合って、2ヶ月後有限会社スダックス設立
25歳のある日… 僕は大阪にある本社ビルで 「起業セミナー」を受けていました。 この当時、 僕はサラリーマンとして会社に勤めていて 毎日仕事に追われる生活。 そんな平凡な日々の中、 あるキッカケから輸入ビジネスの メンター(指導者)と繋がることができ そのビジネスコミュニティに属することになりました。 そして、そのコミュニティの 最初のセミナーを受けることになったのですが、 なんと偶然にもセミナー会場は 僕が勤めている会社の本社が入っているビル。 これはただの偶然なのか…。 そのセミナーから僕の人生は激動するなんて 思ってもいませんでした。 僕の過去も含めて、 現在までの人生をお話ししたいと思います。 【安定な企業への就職】 僕は専門学校を卒業後 21歳から企業に勤めることになりました。 就職した会社は東証一部上場企業で 世間的にも「ザ・安定」だと認識されている企業です。 就職した頃はやる
【第1話】1.4tの砂利を積んだ2tトラックのハンドルを握る。 2008年1月 東京では新幹線のぞみの喫煙車両廃止に続いて、タクシーでも全国で全面禁煙が実施され、愛煙家には一段と肩身の狭い時代に入りつつあった。この頃、当時の僕と言えば、今では信じられないくらいの超が付くヘビースモーカー。そんな世間の風潮など、どこ吹く風とばかりに、ポケットの数だけタバコを洋服に詰め込んで、禁煙ブームなど我関せずといった態度で、盛大にタバコをふかしながら毎日、忙しく仕事をしていた。 「え、オンデーズの増資を田中社長が、自分個人で引き受けるって言うんですか?」 六本木の交差点にある有名な喫茶店「アマンド」の2階の窓際の席で、奥野さんは「まるで信じられない」という顔で目を丸くしながら、目の前でタバコをふかしながら話す僕を見て飛び上がるようにして驚いた。 「そう。結局、誰に話しても反対ばかりされるし、否定もされるし
社会に出てからのこの約20年、一体ボクは何をしてきたのだろう? 「誰かを幸せに出来たか?」 「誰かの役に立つことが出来たか?」 「自分がこの世に生まれてきた証をなにかひとつでも残せたか?」 平成25年7月10日、ボクの親父は睡眠薬を飲み川に飛び込んで自殺した 63才で、自分の人生を終わらせる決断をしたのだった 死ぬ前に、母親の携帯に電話があったそうだが、母親は冗談だと思い、取り合おうとはしなかった 父親と母親は、ボクが17才のときに離婚している 離婚してからも、ときどき二人は合っていたらしく、子供達が自立してからは、お互いの家を行き来していたらしい 東日本大震災のときは、一週間連絡が取れず心配したが、結局2人避難所で寄り添っていた ボクが小さい頃、親父と母親で飲食店を経営していたが、ボクが8才のときに経営が苦しくなり店を閉めて借金だけが残った それからというものの、昼ドラにありがちな、親父
「上京」 19才になった僕は故郷を捨て、彼女を連れて、横浜の地下鉄弘明寺駅のホームに降り立った 滴り落ちる汗を拭いながら、僕らはこれから始まる新生活を想像していた 給料がよくて住み込みで働けるところ 求人雑誌を買ってきては、仕事の内容もろくに見ないで、片っ端から電話をかけて履歴書を送った 仲間とつるんで悪さばかりしていた僕は、なんとなく時間ばかりが過ぎて、このまま小さくまとまってしまうことが怖くて、彼女を連れて逃げるように田舎を飛び出した 住み込みで働けるところが決まり、金も頼れるような人も何もなかったが、2人で始める新しい生活に不安はなく、若い僕らは希望に満ちあふれていた どこか僕らは似ていて、彼女も今の現実から連れ出してくれる人を待っていたのかもしれない そして、2人とも両親が離婚していて、何か普通の家庭に憧れがあったような気がする いつも僕らは何をするときも一緒で、お互いがお互いを必
こんにちは。 美容室経営をしている北原といいます。 僕は小学生の頃からずっと落ちこぼれで、友達は一人もおらず、学校の勉強にもついていけませんでした。 そんな僕は社会人になっても落ちこぼれつづけ、先の見えない将来に強い不安を感じていました。 ところが、たった1つの魔法の習慣で人生がガラリと変わり、3年で当時働いていたお店の店長に就任するまでになりました。 ここでは、その時の話をお伝えさせていただこうと思います。 何かに行き詰ったり、将来に漠然とした不安を抱えたりしている人たちの力になれれば幸いです。 学生時代の僕は 絵に描いたような落ちこぼれだった ・成績は下の下 ・友達ゼロ ・コミュ障 ・ネクラ 父親の都合で小学生から転校を繰り返し、「どうせすぐ転校するから」と友達をつくらず、勉強もついていけなくなっていた。 「どうでもいい」 当時の僕の口癖だった。そして、自分の殻に閉じこもっていった。
僕がSCEに入社したのは1996年。新卒社員の2期生としてだった。その頃のSCE開発部は50人くらいだったかな?久夛良木さんが部長で一番下っ端が僕達だ。 僕が入社した頃はちょうどスクウェアがPS陣営に参加表明した直後くらいだったと思う。発売前後のFF7のムービーを見せてもらう機会があったんだけど、エアリスが…のシーンを見させられて衝撃だったのを覚えている。
その場は華麗にスルーした。しかし、帰りの駅の改札で再びそのスカウトと鉢合わせた。どうしたもんかと思いながら、帰る方向も同じだったので、不本意ながら一緒に帰ることになった。 というそのスカウトのしつこさに負け、僕はホストに体入する約束をしてしまった。しかも体入の日はその日の夜だ。 ホストクラブの営業時間は一部と二部に分けられている。一部は19時~0時、二部は日の出~10時というとことがほとんどだ。たまに三部といって昼間に営業しているお店もある。 僕がスカウトされたのは二部のお店だった。結局その日の終電でお店に行き、初めてホストクラブというものを体験した。確かその時思ったことは 「女の子とお酒飲んでお金貰えるなんて最高だな!」 こんな感じだったと思う。今思えばなんて安易な考えだと思う。 後から嫌というほど思い知らされるのだが、ホストの世界はこの時の自分が思っているほど楽でもないし、華やかでもな
このお客さんに聞かれて初めて考えた。 「なんの為に働いているのか!?」 ※これを読んでいるあなたも一緒に考えてみてください。 毎日、毎日考えた。 でも答えは一つしか出てこなかった! それは... 「生活の為」 ・家賃を払う為 ・携帯料金を払う為 ・ご飯を食べる為 ・遊びに行く為 ・家族を養う為 多分みんな同じ意見だと思う。 だって働かなくても毎月50万円入ってくる生活だったらどうでしょう!? 今の仕事辞めませんか!? もちろん僕なら辞めますね! でも、そんな話は夢のまた夢。 「じゃー世の中にはどんな仕事があるんだろう!?」 お金持ちって一体どんな仕事をしているんだろうか!? 気になり始めて、天下のGoogleさんに質問! 「お金持ち 仕事」 1位:医者 2位:政治家 3位:スポーツ選手 「いやいや!無理でしょ!」 だって高卒だし、野球も中学校で辞めたし! だったら副業で調べてみよう。 「副
僕の職場は「戦場」でした。 毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていました。 その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものですが、現場としてはそんなに美しいものではなく、朝から晩まで全く息が休まることはなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「労働者たちの”人熱”の集合」みたいなものでした。 現場は常にギリギリの戦いを強いられて疲労困憊していました。 「おい、この件、どうなってる?担当の●●はどこいった?」 「(連日の徹夜で)さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです。携帯も繋がりません!!」 「ふむ、そうか」(しょうがない、かまってられない、進むしか無い) みたいな会話が日常に行われていて、労働問題が叫ばれる昨今(2017年現在)ではあり得ないセカイでした。 =========== 2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めよう
プロローグ 毎日残業なんてしたくない・・・。 嫌いな職場の人たちと一緒にいたくない・・・。 本当の自分を押し殺して働くのはもう限界・・・。 私は今、26歳の会社経営者。 新卒1年目22歳の時はブラックな職場で医療事務として勤務しており、 毎日がとにかくストレス、ストレスストレス・・・。 そんな生活に限界がきて 丸1年勤めた後に退職しました。 その後、23歳でサイトアフィリエイトを始めて 約2年後には医療事務の基本給と ほぼ同額の家賃がかかるマンションに住める収入になりました。 今は「時間的・金銭的に自由な人生」を謳歌しています。 さて、こんな私は何を考えて 人生をおくってきたのでしょうか? ~暗黒の新卒1年目~ 「今日は22時まで仕事だからね」 えーっ?! 入職2日目にして、いきなり22時まで残業?! 予告もなしにそう言われて、耳を疑った。 通勤時間は「自宅から徒歩8分」という一見、 楽そ
20代の頃、僕には付き合って2年の彼女が居た。 僕がすごく惚れててそろそろ結婚を切り出そうと思ってた。 それがある日、頭をハンマーで殴られるほどのことが起きる。 それは僕の友人と彼女がセックスしてるところを見たのだ。 あとでわかったのはお互いすごく酔ってたからだったけど、酒の飲めない僕は 「うん、あることだよね」と納得することもできなかった。 結果は友人とも彼女とも縁を切った、 周りはもっと怒ってよかったんじゃないの?と言われたけど感情的には何にもなかった。怒るどころかなんの喜怒哀楽も自分の中に無くなっているんじゃないかと思うほど何にも思わなかった。 ただ、粛々と身の回りの二人の思い出を片づけてた。 2週間くらい経って、ちょっと気持ちが落ち着いてきてた。 出会い系の女とのセックスで嫌なことを忘れる 僕の中には彼女が欲しいって気持ちは1mmもなかったけど、なぜか性欲だけは以前よりも増してた。
私の状態は ICU(集中治療室)で10年働く看護師も見たことがないほど 奇跡的な生還だった。 そして脳出血の原因は、日本人の5~10万人の確率で 先天的に存在するAVM(脳動静脈奇形)であった。 緊急手術して何とか一命を取り留めたが脳出血後、 約1か月間のことは今でも何も覚えておらず、 周囲の人曰く「自分の状況をわかっていない様子」だったとのこと。 ↓集中治療室(ICU)にいた時の写真 頭部に穴を開けて管を通し、血を抜いている光景 ↓数回手術したあとの写真 脳内の血は除去され、管を外した。 ↓脳から抜いた血液(ずい液なども混ざっている) こんな大病をしたらほとんどの人は 「自分は不幸だ。 なんで自分だけこんな目にあわないといけないの?」と 嘆くだろう。 でもそうやって自ら悲しい思考になって、何か好転するだろうか? 決してしないと思う。 私は「脳出血して不幸」ではなく 「致死率99.9%の脳
ジェットコースターのような乱高下する人生は、友達のユウくんに誘われて、キャンプに参加したところから始まった。季節は秋。1泊2日のキャンプに、私は「暇だし」という理由で、特に期待する事なく参加した。私も含め男女8人が東京郊外のキャンプ場に集まったのだけど、私の知り合いは誘ってくれたユウくんだけ。私の他に女子が1人いて、残った5人の男の中に「彼」は居た。 やや小柄でモンベルの緑のアウトドアウェアを着ていた彼は、天然パーマのくせ毛で、ちょっとだけ前歯が出ていた。 「サッカー日本代表の遠藤に似てるね」 そう言ったのを今でも覚えている。その時の彼の返事は、 「前歯だけだろ」 というものだった。嬉しそうでも悲しそうでも恥ずかしそうでもない、それが私達のファーストコンタクトだった。 午前中に都心を車で出発して、東京郊外のキャンプ場についたのは午後3時頃。一番最初にしたのは、みんなでテントを建てる事だった
●4年前から本気で引き寄せを始めてみたけれど・・・。 はじめまして。こんにちわ。 Nanaoと申します。4年前、彼氏も、男性経験も、お金も、就職先も何もなかった私ですが、今では満ち足りて幸せ、と言えるまでの生活ができるようになりました。 引き寄せの法則を本気で始めようと思ったのは「お金」「彼氏」「結婚」という願望があったからです。けれど、本当に最初は失敗続きでした。 ◎3つの失敗 ①彼氏はできたけれど、付き合っていてものすごくしんどかった。遠距離恋愛で、お金と時間をものすごく使い、私も彼も、私の家族も全然幸せではなかった。 ②就職はできて、自分で使えるお金は手に入ったけれど、仕事の過度のストレスと人間関係で体調を壊して退職した。 ③結婚できるに足りる彼氏ができず、優柔不断で、相手も結婚を望んでおらず、自然消滅したりした。 ◎2014年9月12日 どうして引き寄せられるものと引き寄せられなか
最初に言っておきますが、これは僕の勝手な見解です。 ちなみに、僕はカナダに住んでいた時期もありましたし、現地で留学エージェントとして働いた経験もあります。今はフィリピン留学のエージェントをしています。そんな僕のストーリーというか意見なので少しはみなさんの役に立てれば嬉しいです。 まず、題名にある通り日本人は正直英語を勉強しなくてもいいと思っています。 その理由は「別に英語なんて使えなくても日本語だけで生きていける」から。 僕は日本で生活していて英語が使えないから困ったという経験がほとんどない。 みなさんも考えてみてください。 あまりそういう経験はないはずです。 あるとしたら、あなたが意識的に必要な環境に身をおいているから。もしくは、観光で来ている外国人に道を聞かれた時ぐらい。。。。でしょうか?いやいや、もっとあるかもしれませんね。いずれにしろあなたにとってそんなにたいした事ではなかったはず
「ブレイクアウト」を“崩し”にかかる ① 戦略の決定 さっそく西角は戦略を思案。 ブレイクアウトを超えるためには、 ブレイクアウトの面白さを取り入れた上に、オリジナル性を出すことが重要だと考えた。 ブレイクアウトの面白さは、やはりターゲットを一つずつ消していき、最後の一つを消した時のあの爽快感だ。 次に、ブレイクアウトには無いオリジナル性の部分だが、 これは「CPUを駆使した撃ち合い」だと考えた。 ブレイクアウトでは、プレイヤーが一方的にブロックを崩すだけ。たまに跳ね返ってくるものの、それは自分が放った玉であって、受けても問題はない。 これを”当たってはいけない”相手からの攻撃にしようと考えた。 さらに、これまでのゲームでは敵から攻撃されることはあっても、 敵から「狙われる」ことはなかった。 「プレイヤーの位置をコンピューターが認識して選択的に攻撃をしかけてくる」 今では、当たり前となった
そう言って、オフィスに居座った会社があったのをご存知だろうか? 社名は「アタリ」、ビデオゲーム*の開発会社だ。アタリ全盛期の企業成長スピードは、Apple、Google、Facebookをも凌ぎ、アメリカ史上最速だったと言われている。 (*ビデオゲーム: モニター画面に表示される内容に従って進めるタイプのゲーム。ゲームセンターなどのアミューズメント施設でプレイするゲームから、テレビに接続して家庭でプレイするゲームまでを指す。) 1970年代前半、この「アタリ」社のビデオゲームが世界を席巻していた。その頃の日本はかなりのゲーム後進国。今でこそ、プレイステーションやWiiなど、日本は世界一のビデオゲーム立国と言っても過言ではないが、当時はアメリカにずいぶんと劣り、ビデオゲームにおける開発技術力は、ほぼ皆無だった。アメリカが開発したものを輸入し、外観だけを差し替えるというローカライズ販売をしてい
ひとり結婚式から1年余り経った頃。 なんと、ふたりで結婚することになった。 本当にちゃんと結婚しました 「ふたりで結婚する」という言葉は「頭痛が痛い」のように間違った日本語なはずだけれども、ひとり結婚式を知る周囲の人々に結婚の報告をすると必ず「またひとりで?」と訊かれるので「ふたりで」と付け加えなければならない羽目になった。 あるいは「こいつなに言い出すんだ」「またろくでもないことをやるつもりだろう」と苦い顔をされたり「もうしたでしょ」と認知症のご老人に諭すような口調でからかわれたりなど、なかなかまともに取り合ってもらえなかった。 心配の声も多かった。「旦那さんになる人は同棲失敗をネットに書いていることやひとり結婚式を知っているのか」 ちゃんと知っているのでご安心ください。面白がってくれており、同棲に関しては「ゴミ屋敷に住んでる人ってたまにいるよね」ひとり結婚式に関しては「特にケーキ入刀が
普通の人が一番だ。 これが私の行き着いた結論だった。 ワンルームマンション一杯にゴミを溜める男はダメだし、チリひとつない部屋に住み私のファンデーションのヨレやマスカラの滲みを即座に指摘するような細やかな人は疲れるし、「いつかビッグになる」が口癖でスタジオ代をせびり、浮気をした挙句に家財道具一式を持ち逃げするようなバンドマンは最悪だし、道をまっすぐ歩くことができず、電柱やガードレールに登りながら移動するような宇宙人とは相性が合わなかった。 とにかく奇人変人はもうまぴらごめんだ。 もっと早く気がつけばよかったのだが、いかんせん私はどうしようもない阿呆なのであった。 私、普通の人と付き合いたい 「普通の人が良い」と鼻息を荒くしていたちょうどその頃合いに、大学で知り合った普通の好青年が私にアプローチしてくれた。同じ大学に通う学生同士の交際。その普通さになんだか感動した。鴨がネギをしょってきた、とい
まえがき 28歳大学生受験編から32歳新卒内定までの体験談を読んで頂いて、 誠に感謝です!沢山のお声を頂戴して書いてよかったなあとしみじみ思います。 今回は新卒就活ノウハウ編を書かせて頂きます。 それにあたり、正直なところ僕の場合は特殊なケースで、 32歳から新卒就活で10社中6社内定を頂きました。 そのため、22歳で就活をされる多くの方の参考になるか分かりません、 僕ぐらいの年齢で大学入られた方の参考には少しだけなるかもしれません。 ただ、一つだけ言えるのは、僕の考え方は非常識だということです。 それでも良いという方は読んで頂ければ幸いです! それでは、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このたびSTORYS書かせて頂いたご縁で出版いたしました。 2017年4月15日八重洲ブックセンターさんで14時からトークショーを行います! ご興味があれば是非!お話しましょう!
いくら情弱全盛の時代とはいえ、大阪人の勘が「市場価値的におかしい!」と訴えていたのですが、「洗脳」に負けてしまいました。
前編をおさらい 前編 28歳大学生サラーリマンからの受験挑戦を読んで頂いて誠にありがとうございます。 簡単におさらいすると、フツーの高卒サラリーマン営業職が葛藤の末に偏差値40からの大学受験を決意し、半年で国公立大学に受かるという体験記でした。 今編では、実際にあった体験記を描きます。 ノウハウ等は読みたい方がいらっしゃたら書こうと思いますので、 宜しくお願いします。 おかげさまで、全国書籍化決定致しました。 作こすげまさゆき 画よこたちさ かんよう出版 2016年12月発売予定 現在は、アマゾンで先行予約をしております。 もしご興味があれば。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大学の洗礼 大学に受かった3月、ぼくは腑抜けになっていた。 気力を果たして、10キロ痩せていた。 ジャストサイズのパーカーがよれよれと動く。 とにかく受かった。 10日程、家に引きこもって眠りた
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