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1949年9月、高高度偵察機が収集した大気サンプルの分析で ごく近い過去にアジア大陸で核爆発があったことが確認されます。 これがソ連の核兵器開発成功をアメリカが察知した瞬間です。 ここのあたりは市販の本にもちゃんと書いてありますからどうでもいいんですが、 ソ連が原爆を持ったことが判明した瞬間に アメリカは対ソ開戦を検討しています。 ソ連軍の核武装が完結しないうちに全てを破壊してしまう予防戦争の検討です。 この戦争は開戦初日の先制攻撃でソ連空軍基地にある戦略爆撃機部隊を壊滅させ 核兵器の運搬手段を完全に失わせることが最大の課題と考えられます。 核戦力を無力化した後はどうにでもなる、と考えているのは その研究を急いでまとめているのが空軍大学だからですね。 せっかく思い立ったのですから 男らしく即座に実行すれば良かったのかもしれません。 けれどもアメリカは結局諦めてしまいます。 その理由 ・ソ連
夏休み特番からサボりにサボって再開したとたんに大晦日になってしまいました。けれども、本編で続いている核戦略下の地上戦についてよりイメージを深められるかも、と思い、アメリカ空軍の邀撃機とその戦術についてご紹介したく思います。1950年代のアメリカがまだまだ実力が伴わず、ミサイルさえろくに無い揺籃期にあったソ連の核軍備によって、どうして対ソ先制核攻撃を「抑止」されてしまったのか、現場の様子がわからないと腑に落ちないと思うからです。 人間が肉眼で空を見上げて敵機の侵入を発見通報する防空監視哨といえば我が国の専売特許のような気持になりますが、民間の力を借りた肉眼に頼る旧式な哨戒システムを太平洋戦争が終わってからも大規模に存続させた国があります。それはアメリカです。 広大な国土を持つアメリカは全土をカバーするどころか要地を守る防空レーダーシステムさえ、なかなか完成しません。導入案はあっても膨大な数の
昔の夜間戦闘機と同じような戦い方をする、F94A/BとF89のD以前を全天候戦闘機の最初の世代とすると、地上レーダーと連携してロケットを撃つようになるのが第二世代と言えます。レーダーとFCSと機体設計を一新した新世代はYF95A、YF97Aとして発注されますが、そんな型番は誰も知りません。 結局、YF95AはF86Dに、YF97AはF94Cに呼び換えられたからです。 F86はDで機体設計を一新したのではなくて、別の機体を86に混ぜたんですね。あんまり変わらないF89Dも含めて第二世代にまとめられる理由は F86D、F89D、F94Cは基本的に同じFCSを搭載したロケット弾戦闘機だからです。 さて、セイバードッグことF86Dです。 この戦闘機は速いし、上昇力があります。 しかもF86F大量生産の余勢をかって、あんまり共通部分が無いのに量産も進みます。そのために配備も進み、装備した飛行隊はF8
ベルリン危機の翌年、1962年10月に発生したキューバのミサイル基地建設をめぐる米ソ対立はキューバ危機として知られ「核戦争一歩手前」まで迫った重大事件として扱われています。「核戦争」「ミサイル」という言葉は刺激的ですが、現実には「危機」はあっさりと回避され、米ソ両軍が戦闘を交えることもなくソ連軍のミサイル基地は撤去されてしまいました。常識的に眺めるとこの結末のあまりの淡白さ加減が腑に落ちないため「裏ではこうだった」「真実はどうだった」といった憶測が生まれ、結局のところ「よくわからない」のが結論ではないかと思います。確かに「キューバ危機」は冷戦中期の焦点の一つではありますが、今回はそれが実際にどれだけ「危機」だったかを考えてみます。 ミサイル基地を突きつけられたアメリカは別として、もう一方の当事者であるソ連にとって戦争勃発に一番近かったのは言うまでも無く「ベルリン危機」でした。西側社会の入り
1960年の攻勢戦略への転換によってワルシャワ条約機構統一軍は全面核戦争下で高速機動戦える東側諸国による巨大な連合軍として再出発します。けれども戦後に供与されたソ連製の兵器を装備した東側諸国軍の装備は第二次世界大戦当時のソ連軍と大差なく、新しい戦略に適合した軍備を改めて整えなければなりません。こうした装備更新は必ずしも豊かとはいえない東側の国々にとって大変な負担です。そして何よりも攻勢戦略に必須とされながらもまだ装備されていない核兵器をどうするかはソ連にとっても大きな問題で、東側各国にとってもそれぞれの国が抱えた事情により悩みの種でもありました。 フルシチョフにとって、ワルシャワ条約機構統一軍を攻勢戦略に対応できるだけの大軍に改編することは、自国の軍備負担を軽減し、フルシチョフ自身が目指していたソ連軍兵力120万人の削減を補うために必ず実現しなければならない大目標でした。フルシチョフはその
1950年代を通じてソ連の核兵器開発は試行錯誤を繰り返しつつ促進されていましたが、その核兵器を実際の戦争でどう使うか、という研究も同じように試行錯誤を繰り返しています。原子爆弾を手に入れたけれども、それを実際に使うためのドクトリンが確立されないまま兵器の開発が進んで行くのがこの時代のソ連軍備の特徴でした。 核爆弾は第一次世界大戦以来、脈々と受け継がれて来た空軍の理想を実現する大規模破壊兵器でしたが、西側に包囲されているソ連には爆弾を敵国の頭上に届ける運搬手段がありません。なりふり構わずB29をコピーしたり、ジェット爆撃機の開発を急いだり、ロケットの研究を進めているのは存在しない運搬手段を手に入れるための必死の努力でもありますが、そこへ突進できたのは戦略爆撃の理想はどんなものなのかという点では疑念が無かったからでもあります。理想的な空軍はどんな戦争をする軍隊なのかは1920年代以降、世界各国
ソ連空軍にとって悪夢のような6月22日の戦いの翌日も航空戦は続きます。 それまでと異なるのは航空基地がドイツ空軍の攻撃を十分に警戒するようになったために地上撃破される機体が激減したことです。空に上がる前に撃破するという作戦が成功したのはバルバロッサの初日だけのことなのです。ソ連空軍は総数の20%を第一日目で失っていますが、残る80%の航空部隊は猛然と反撃に出ます。しかしソ連空軍の攻撃は主に崩壊しつつある野戦軍の支援に向けられ、敵基地に対する航空撃滅戦は実施されません。野戦軍の要求を最優先にしなければならないソ連空軍にとって、もしそれがその時点で非常に有効な作戦であったとしても航空撃滅戦に転ずることは不可能でした。 第二日目からの航空戦は主に突破を試みるドイツ地上軍と崩壊しつつあるソ連軍防衛線の上空で戦われています。突破軍の先端はセオリー通り、手あつい航空支援を伴いますからそこでは独ソ空軍が
「嵐」演習で検証された西ヨーロッパ侵攻作戦とはひと言で言えば核攻撃の成果を最大限に利用した電撃戦でした。パリまで10日で到達するという破天荒なシナリオに現実味を与える従来にはない要素とは核兵器のみが達成できる一瞬の大規模破壊が生み出すショック効果そのものでした。通常爆弾を用いた戦略爆撃が何ヶ月もかけて達成する仕事を一日で仕上げ、野戦重砲兵が何日かを費やして成し遂げる破壊を一瞬で実現することで生み出された衝撃を利用して無人の野を行くように進撃すること、またはそのような戦いが可能か否かを確かめることが「嵐」演習の目的でした。 最初の核攻撃はアメリカ軍から行われます。ただアメリカ軍の攻撃は既に警戒態勢にあった在東ドイツソ連空軍の偵察機によって即時に察知され、戦闘態勢にあったソ連軍はアメリカ軍の攻撃とほぼ同時に核攻撃を実施します。ただ「嵐」演習の「全面核戦争」とはあくまでもヨーロッパ戦域での全面核
スターリン時代のソ連が防衛戦略を強いられた最大の理由はいうまでもなくアメリカの核戦力です。ソ連は1949年に原爆実験に成功し、重ねて1953年には水爆実験まで行い、直ちに核戦力を手に入れたような印象がありますが、ソ連側の宣伝とは異なり、その実態は1960年代を迎えるまで核戦力としてはほぼ丸腰に近い状況でした。「スプートニクショック」や「ミサイルギャップ」と呼ばれる騒動を迎えた時期でさえ、アメリカを相手に全面核戦争を戦う力はまったくありません。 1960年になってもソ連にはアメリカ本土を狙える強力な核戦力(射程距離7000kmを誇るも誘導装置を目標から500km以内に設置しなければならず、実質的に米本土を狙うことができないSS-6とアメリカ本土向けの前進基地を欠いた少数の長距離爆撃機部隊のみ)がないどころか、戦場で使用する小型核兵器の部隊配備はアメリカに大きく遅れ、203mm核砲弾の開発は行
第二次世界大戦で疲弊し切った西欧諸国が殆ど紙の上だけの同盟を組んだものの実力が伴わず、大戦中に動員した大軍を復員させて軍備を縮小したアメリカもヨーロッパの地上戦への介入に消極的な態度をとった結果として、第二次大戦で敵国だった西ドイツが西欧防衛の矢面に立つまでの紆余曲折の10年余りの間、「幻の東部戦線」の向こう側、すなわちソビエト連邦ではどのような戦争計画が立てられていたのでしょう。 175個の第一線装備師団を擁し、各方面で同時に侵攻作戦を実施する能力があると見積もられていたソ連軍ですが、少なくともスターリン時代に西欧への具体的な侵攻作戦が構想されたことは一度もないと考えられています。ソ連崩壊後の情報公開でもこの時代の戦争計画については殆ど史料が表に出ず、主に東欧諸国の軍事関係史料によって判断する以外にありませんが、少なくとも1950年代までの戦争計画および軍事演習はすべて西側からの社会主義
二足歩行戦車は男の夢よのぉ~ぉ ガサラキいいですなあ。やっぱあのTAすよTA。 なんといっても、あの稼動音がイカス。それと、「戦車に替わる陸上戦力の花」としてのデザインが、ミリタリー野郎的にはいいカンジ。 やっぱ結局はロボットって、戦車に勝てないんですよね。戦車より背が高いし、可動肢があるから、その分ウェイトを落とすために、装甲は薄くしなければならないし、おのずと武装も戦車よりはランクが落ちる。でも、たいがいの人型兵器は戦車と同ランクの120mm砲なんぞを装備していたりしますが。 で、ロボットに兵器としてのアリバイを持たせる場合、もっとも有力なアドヴァンテージになりうるのは「不整地踏破能力」なんですが、それを付け加えた分のコスト上昇をペイすることは出来ないだろうというのが現実の厳しいところで。 架空世界の人型兵器として、一番イイ線を行っているのは、ガングリフォンのHi-MACSです
今回は西ドイツが戦後、軽戦車を1万数千輌もまとめて発注しようとした、というお話です。 戦車や大砲はアメリカからの供与を受けた新生ドイツ連邦軍ですが、新しい機械化軍の足となる装甲車については当初から独自の方針を堅持しています。最前線までの輸送を主体に考えられたアメリカ製の兵員輸送車はドイツ軍にとって魅力に乏しかったのです。かつての東部戦線で体験したソ連軍相手の機動戦では装甲擲弾兵はできる限り下車せず戦車と共に機動し続けることが最上の策でした。ドイツ軍はそうやって日に日に乏しくなってゆく歩兵戦力の維持に努めた経験がありますから、歩兵を乗せる装甲車には乗車戦闘という要素が不可欠でした。トラックの荷台を低い装甲で囲っただけのM3シリーズや、装甲で覆われているけれども乗ったら何もできないM113では火力に優るソ連軍相手の機動戦に不向きだと考えられていたからです。 完全装甲、乗車戦闘という要件の他にも
西側諸国の負担軽減への期待とドイツの軍事力復活への疑念に取り囲まれながらの再軍備は国内的にも国民の反発を押し切って進める困難な作業でした。敗戦後の非ナチ化政策と非武装化政策に後押しされた再軍備への反感は日本とは比べ物にならない程に強力で、新生ドイツ連邦軍を歓迎する雰囲気はまったくありません。そんな空気の中で一旦は完全に解体した軍隊をごく短期間で再建するのは大変な仕事でした。 新しい軍隊の基幹となる士官クラスの募集は最初に着手されましたが、候補者はそれなりにあっても全てを採用する訳には行きません。ナチスとの関係が薄いもの、戦争犯罪と縁の無い者、思想的に民主主義を受け容れる者といった数々のフィルターが設けられ、人材選抜委員会が一人ずつ審査していったのです。選抜委員会は国内の主要政党から代表者が数名ずつ選ばれ、一部に旧国防軍の将軍達が参加しています。この審査を通過すれば再軍備に批判的な社会民主党
アメリカが大量報復戦略を採用するのと平行して、ようやく再軍備が決定した西ドイツ軍の編成が始まります。国民感情に逆らっての兵員募集も大変でしたが、新しい国軍の名前もひと揉めしています。すでに「Bundeswehr(連邦軍)」はマントイフェルが名付け親だと紹介していますが、この名称も素直に決まった訳ではありません。 まず、新しい軍の名称について「Reiciswehr(ワイマール体制下と1934年までのドイツ国軍)」と「Wehrmacht(いわゆるドイツ国防軍)」を避けるという方針で検討が始まりますが、元将軍達だけではなくキリスト教民主同盟の中からも「Wehrmacht」支持や、12個の新設師団に「失われたドイツ都市の名を冠する」(ダンチヒ師団、ケニーヒスベルク師団、ブレスラウ師団など)といった西ドイツの本音が垣間見える過激な提案まで出て来る始末で、再軍備を進めるブランク事務局のテオドール ブラ
1955年6月、NATO軍最大の航空戦演習「カルト ブランシュ(Carte Blanche)」が実施されています。この演習は1週間にわたってデンマークからイタリアに至る広範囲な作戦空域で行われ、3000機以上のNATO軍機が参加し、出撃は約12000ソーティに及ぶ大規模なものでした。イギリス軍を主体とする第2戦術空軍が「北軍」(ソ連空軍)、アメリカ軍を主体とする第4戦術空軍が「南軍」(NATO軍)を演じ、ソ連軍侵攻に伴う空襲の第一波からNATO空軍が立ち直り、反撃に移行するシナリオで、飛行部隊だけでなく警戒、管制、防空火器などの支援部隊も含めて総合的に行われた第三次世界大戦のシミュレーションでした。 演習の成績は満足できるものとされ、現有戦力に加えて再建途上にある西ドイツ空軍がNATO陣営に加われば、寒々しいばかりの地上兵力に比べて航空戦力では相当な充実が見込めると判定されていますが、この
核兵器とは戦略核兵器だろうと戦術核兵器だろうと大した違いは無く、とにかく使うべき時にグズグズ考えずにポンポン撃つもので、通常兵器の延長線上にある理想的な代替物である以上、その使用において通常兵器と明確な境界が無いのが本来の姿だということを紹介しました。これは物の喩えや批評ではなく公文書に残されたアメリカの考え方がそうだ、ということです。 アメリカが核兵器の戦術使用について具体的な研究を開始したのは朝鮮戦争の勃発とほぼ同時でしたが、実際にその使用方針を策定したのは1953年です。「ニュールック」として知られる方針や核の大量使用を前提としたNSC(国家安全保障会議)162/2「BASIC NATIONAL SECURITY POLICY」に見られるように、アメリカはこのときから、ヨーロッパで戦術用途に核兵器を使用する決意を固めます。 ここで決意した、ということは、それ以前は違う、ということです
第二次世界大戦の砲兵は大規模集中による火力で敵防御陣地を縦深にわたり破壊、無力化することが究極の任務で、火力で敵の防御陣を無力化して友軍に機動の自由を与えるのが砲兵の大切な仕事でした。事実、1942年のエルアラメインから1944年のノルマンディ、アルデンヌの戦いまで戦争はこの原則に従って戦われていました。 しかし、第一次世界大戦であっても第二次世界大戦であっても、実際に火力主義で戦争をやってみるとけっこう大変でした。確かに最も深刻に不足していた資源である人命は失われずに済みましたが、何といっても大規模火力集中は機材と弾薬の膨大な集積を必要とします。国家存亡の危機でもない限り、できれば避けたい種類の軍備です。第二次世界大戦で連合軍最大の火力戦を展開したイギリス軍でさえ、その砲兵戦力を縮小せざるを得ませんでしたし、アメリカ軍もまた軍団レベルの砲兵を大幅に縮小しています。 こうした大幅な軍備縮小
朝鮮戦争が西欧諸国に与えた衝撃は翌1951年後半頃にはすっかり醒めてしまいます。極東の戦争がヨーロッパには飛び火してこないとほぼ確信されたからですが、ドイツ国内の再軍備気運も同時に落ち着いてしまいます。こうした隙を突くようにして提示されたのがソ連からのドイツ中立化提案でした。 西ドイツの再軍備はNATOの傘下に入る前提がある限り西欧諸国にとっては非常に有望な計画でしたが、東側、すなわちソ連にとっては今まで通常兵力で話にならない程に弱体だったNATO軍に西ドイツ軍が加わることは無視できない問題でした。核戦力での劣勢を通常戦力での優勢で補っていたソ連にとって新しい西ドイツ軍の誕生は絶対値として12個師団以上の地上兵力増強と新たな海空軍部隊の出現を意味していますから冷戦の行く末を変える一大事です。 そこで病床にあった晩年のスターリンは最後の取引を持ち掛けます。その切り札は「ドイツの再統一」でした
爵位を持った将軍でありながら民間企業で働いた経験を持ち、国外での生活が長く、ナチスドイツ陸軍の情報参謀でありながらリベラル派かつ親イギリス派で開戦反対論者、和平工作を睨まれて前線に出されても装甲擲弾兵師団、戦車師団を率いて剣柏葉付騎士十字章の受章者となる戦場の英雄でもあった文武両道のシュヴェーリンですが、他の将軍達とは来るべき対ソ戦に対するイメージが全く異なっています。 「ソ連軍侵攻時には西欧同盟軍の戦線は維持できない」 「現在のドイツ国民には対ソ戦を再び闘う意思がない」 「戦時には西に逃れる大量の難民が奔流となって防衛戦もままならない」 シュヴェーリンの対ソ戦イメージはこのようなものです。戦車師団の英雄でありながらも「最新鋭装備の戦車師団でいま一度ソ連軍と機動戦を戦う」夢を見なかったという点だけでドイツ陸軍の将軍達の中で異彩を放っています。ファーレーズの包囲戦から血路を開いて撤退した時に
1950年4月にアデナウアーの安全保障問題アドバイザーが任命されます。この職名はあくまでもアドバイザーですが、その下に組織を持っている事実上の国防大臣のようなものでした。アデナウアーは首相に就任するとまもなく国防軍の将軍達を組織化して再軍備についての研究を開始していましたから、ハルダーやシュパイデル、ガイル、ホイジンガーといった「非ナチス的」将軍グループから安全保障アドバイザーが選ばれるものとアデナウアー自身も将軍達も考えていましたが、現実にはそうなりません。 ドイツの再軍備について米英仏には明確な温度差があります。ドイツから最も遠く大西洋を隔て、何といっても核爆弾を持つ戦略空軍を擁するアメリカにとってはドイツの再軍備はほとんど脅威と看做されていません。アメリカ占領軍が水面下でドイツの元将軍グループを援助したのはこうしたアメリカ側の基本的な認識があります。これに対してドイツと国境を接するフ
ドイツ再軍備支持者として、そして元将軍達との密接なつながりからバジル リデルハートに登場してもらいましたが、せっかく名前が上がったので、ちょっと寄り道してリデルハートについて紹介します。 リデルハートは戦車機動戦論のパイオニアとして、それ以上に「間接アプローチ」戦略の提唱者として有名です。こうした業績は評価されることも批判されることもありますが、何にせよそれが生まれた背景は第一次世界大戦にあります。 1895年に牧師の息子として生まれたリデルハートは少年時代から兵器や誕生したばかりの飛行機に大変な興味を持っていました。あまり体が丈夫でない上に甘やかされて育ったひ弱な子供でしたが、チェスは言うに及ばず、ナポレオン戦争時代のミニチュアを並べて遊ぶ戦争シミュレーションゲームが大好きで、やがて航空雑誌などに自分の見解を投稿する立派な軍事マニアでした。その上、創作も得意で自作の冒険小説を書き、歴史
ヨーロッパ正面でソ連に対して通常兵力が圧倒的に劣勢である以上、西ドイツの再軍備は西欧同盟諸国にとってもアメリカにとっても必須の課題でした。 けれども旧敵国の再武装に対する警戒感もまた根深いものがあり、フランスが打ち出したEDC構想も、再建ドイツ軍の兵力を連隊規模の要素としてのみ利用する共同防衛軍計画も共同防衛の理想よりもドイツ軍に参謀本部を再建させず、戦略単位に集結させないという本音によって生まれたものです。 かつての侵略者であるドイツに対する警戒感を隠さないフランスでしたが、1950年代になると、それでも背に腹を代えられない事情が生まれます。 フランス軍はイギリスと並んで西欧同盟の二大国であり、兵力的にもNATOの要となる存在ですが、ただでさえ装備と編成が遅れている地上兵力を植民地に対して割かねばならない窮地に追い込まれます。ベトナムと北アフリカのことです。しかもアメリカがヨーロッパ正面
ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF) ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF) がめさんのツイートで知ってから一年、ついに待ちわびたねじまき少女が和訳されました。 どういう本かについては勝手にググって。 舞台は化石燃料が枯渇し、作物は遺伝子病で軒並み全滅し、一部カロリー企業が食物を取り仕切る世紀末世界のバンコク 西洋人起業家アンダースン・レイク、没落した華僑ホク・セン、日本人に捨てられたねじまき少女エミコ、断固たる態度で国内への不正な遺伝子の流入を防ぐ環境省の隊長ジェイディー、その副官カニヤ、以上五人による群像劇というか、各章はそれぞれの人物の視点で描かれていく。 で、ストーリーテリングとしては、まあ出来ている話だとは思うけどあまりに陰惨なので個人的には好きになれないというか。 やはり本作品の最大の魅力は圧倒的な世界観の提示だと思うわけで。そしてこの作者は終末の景色を描くのが目的で小説書い
ドイツの将軍達が戦史を書くのは歴史を重視するプロシア陸軍以来の伝統とも言われます。けれども敗戦後に書かれた回想録は必ずしも事実に根ざしたものとは限りません。ハルダーの下で戦史編纂作業の統括をつとめたホイジンガーなどはどう考えても立ち会っていないだろう場所や部署での会話や状況をまるで自身がその場にいたかの如く書き上げたことで批判されていますが、トップに立つ人物の回想がこの有り様ですから他の将軍達の叙述にもルールに従って大幅に脚色された部分が含まれることになります。 そして1948年頃になるとヒトラーだけでなく、国防軍総司令部のカイテル、ヨードルといったOKWの将軍達も批判の的になり、「諸悪の根源はヒトラーと国防軍総司令部であって陸軍参謀本部は純粋に軍事的な組織である」と明確に主張されるようになってきます。「武装親衛隊は戦闘部隊であって一般のヒトラー親衛隊とは区別しなければならない」という武装
敗戦後、捕虜となったドイツの将官には連合軍からの尋問と戦犯としての裁判が待っていました。ニュールンベルク国際軍事法廷です。この裁判の結果は紹介するまでもありませんが、開廷までの間に被告となった将軍達の弁護資料として大規模な供述書が作られています。 これが「将軍供述書」と呼ばれる文書ですが、この文書は連合軍側からの一方的な尋問によるものではなく、ドイツの将軍達の自主的な主張が将軍達の手でまとめられているところに特徴があります。 序言 ブラウヒッチュ(元陸軍総司令官) 1920年~1933年までのドイツ軍 マンシュタイン及びヴェストファル(元西部軍参謀長) 1933年~1938年3月31日まで ( 同上 ) 1938年春~1942年秋まで ブラウヒッチュ及びハルダー(元陸軍参謀総長) 1942年秋~1944年春まで マンシュタイン及びヴェストファル 戦争最終年 ( 同上 )
ドイツの再軍備と簡単に言っても、それを実現するには大きな課題がいくつもありました。まずは連合国、中でもフランスの反発があります。旧敵国の再軍備をまともな形では許してくれそうもない強敵です。そして世界中を相手に戦った大戦争に敗北して疲れ切ってしまった国民の感情があります。戦後の日本がそうであったように、ドイツ国民も、もう戦争なんて懲り懲りなのです。非武装で良いではないか、という世論は再軍備直前まで根強く多数派の位置を占め続けています。 その上、さらに厄介なのは再建される国軍を担う基幹要員をどこから集めるか、という問題です。なにしろ旧ドイツ軍とはナチスドイツ軍なのですから主要な高級将校は総じてナチスの同調者でヨーロッパ中の憎悪の的である侵略戦争の担い手で、その中の多数が戦犯として訴追されています。そしてたとえ無罪で放免されたとしても、ナチスの将軍達を新しい国軍の中枢に置くことを国民は認めません
通常兵力の圧倒的な少なさから、即時の反撃を諦め、ピレネー山脈に防衛線を築き、そこを収容陣地として大陸から撤退することを前提とした戦争計画を立てていたアメリカに対して、西欧同盟諸国はできる限り東に防衛線を置くという強い意志を持っていました。 では、西欧諸国はいったいどれだけの兵力をもってそのような前進防御を行うつもりだったのでしょう。 モントゴメリーは持論であるライン川防衛案に必要となる兵力を61個師団と見積もっていました。その内訳は50個の機械化歩兵師団、9個の戦車師団、2個の空挺師団です。 1949年4月にNATOが結成され、西欧同盟の集団自衛機能はNATOの中に実質的に吸収されますが、NATO軍として見積もられた所要兵力も同じような水準です。 侵攻時に迎え撃つ初期兵力として34個師団、1ヵ月以内に投入される増援兵力として22個師団の合計56個師団でライン川防衛線を守り、続いて段階的に投
第二次世界大戦の戦いは多くの出版物のお蔭でその概要が誰にでもつかみやすく、しかも実際に戦われた最後の大戦争ですから読んで面白く考えて楽しく、しかも害が少なく趣味の対象として絶好の存在です。 一方で枢軸国の無条件降伏によって戦争が終わり、その直後から始まった米ソの対立=冷戦は正面切った戦争が戦われなかったこともあって「いったいどんな戦争をしようと考えていたのか」具体的にイメージしづらい傾向にあります。 しかも冷戦期は核兵器開発の全盛期とも重なりますから何につけても核兵器、核戦争の強烈な印象が先に立ち、戦争をすれば核戦争になり全ては終わりで考える価値もないように思えますし、核兵器のお蔭で戦争というものがまったく姿を変えてしまい、戦術理論も何もかも昔の理屈は通用しないような気もします。そして個々の兵器もまたそれまでとは機能も存在意義も変わってしまったような感覚があります。例えば三号戦車と現代のM
かなり間隔が開いてしまいましたので、ここで第二次世界大戦中のお話をいったんまとめてみます。もう一年近くも砲兵の話ばかり続けていますので読む方も書く方もいい加減くたびれて来たような気がしますが、どうかお付き合いください。 第二次世界大戦開戦前とその末期では陸戦に対する考え方が大きく変わっています。 開戦前と開戦からしばらくの間は戦間期に発展した機動戦理論によって機動力の優越は火力の優越よりも重視されていました。そこには機械化部隊の迅速な突破とその衝撃力は敵の火力発揮を妨げ指揮統制を麻痺させることができると、あまり根拠の無い考え方が背景として存在しました。そして「二度と第一次世界大戦のような膠着状態を出現させたくない」という願望がそれを支えていました。 ところが敵の機動戦を押し止め、押し返すには火力の集中が最も効果的であることがじきに判明します。エルアラメインやモスクワ前面でそれが立証されると
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