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shoyamamoto.hatenablog.com
フィロソフィーのダンス2nd album『ザ・ファウンダー』の発売が近づいてきた。今日0時からはSoundcloudでも全曲の完全版がフルコーラス試聴できるというニュースも出て、いよいよ、という状況で、1stのときはできなかった楽曲の解説を少ししてみたい。 soundcloud.com 理屈なんか抜きで、いい音楽はいいと思うし、ダメなものはダメでいいと思うのだけれど、逆に考えれば楽しみ方は色々あるので、 アイドルグループで「哲学」という根本テーマと作詞家が固定されているという珍しい体制であることもあって、作詞家視点でのこのアルバムの1つの楽しみ方をかいてみたい。 『ザ・ファウンダー』 まずアルバムタイトルは、今年夏にプロデューサーである加茂啓太郎氏との話の中ででてきた。全体のコンセプトを司る加茂さんがタイトルをきめるというのはごく自然なことではあるが、「創立者」「創業者」を意味する「ファウ
JASRACが話題になることがとても多い。本当のところはどうあれ、一般的にはその活動と理念のギャップ、あるいは著作権管理に対するイメージの色々など、実態と世間のイメージが必ずしもあっていないのだろう。 そのような企業は多くあるようには思うが、「音楽」というJASRACが扱っている商品、そして権利そのものは身近なものなので、消費者、使用者側の拒否反応が大きくなっている。 と、このようにさも社会問題を扱うかのような書き出しをしておいてなんなのだが、いや、実はそれを扱わないというわけでもないのだが、以下では音楽作品(楽曲、歌詞など)とはいったい「どんな感じ」のものなのかということを扱いたい。どんな感じ、というのもかなりどんな感じかわからないのだが、そうとしか現状言いようがないのだ。哲学的な用語の使い方になれた人なら「存在論」という言葉がある程度ぴったりくるかもしれない。 どうして、音楽作品が「ど
先日、お仕事関連の方(といいつついまだ仕事はしたことがない方)に誘われて、はじめて「リアル脱出ゲーム」に参加した。正確なところでは、僕が参加したのはリアル脱出ゲームとはちょっと違っていて、「リアルタイムループゲーム」というらしい。リアル脱出ゲームも参加したことがないのに最初から派生作品をとも思ったが、かなり楽しめた。 リアル脱出ゲームというのは、ある会場にあつまった参加者が色々なゲームをクリアしていくことでその場所から脱出する、という行程を楽しむものだが、今回参加した 「アイドルは100万回死ぬ」 というゲームの内容は、十回のタイムループ(ある一定時間で時間が巻き戻る)の中で毎回死んでしまうとあるアイドルを助けることができればクリアというものだった。内容にあまり触れすぎるとネタバレになるので、ひとまずは以下で概要を確認してもらいたい。 realdgame.jp さて、このブログでも何度か、
浦島太郎というおとぎ話は、日本人なら大抵の人が知っているし、その話自体もそうだが、他の多くの話でも引用されることから物語のひとつの典型として認知されているように思う。一文で言えば、助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島太郎がしばらくそこで楽しく滞在して地上に戻ったら数百年が経っておりさらに玉手箱をあけたら年寄りの姿になってしまった、という話である。一文にまとめようと思って、まとめたわけでもなく実際にこれ以上ディテールを語るのは難しいようにも思う。 そしておそらくかなり多くの人が思うこととして、なぜ浦島太郎は不幸にならなければならなかったのか、という問題がある。(数百年後の未来にきて、さらに老齢になってしまったことは不幸ではない、という人もいるだろうがそれはひとまず置いておこう)。 浦島太郎は亀を助けるという「善いこと」をした。しかしその結果、最終的には「不幸」になってしまった。これはなにか
アイドルがたとえばライブハウスで数組共演する時、普通はカラオケ音源を流して、歌うことになる(歌も流している人たちもいるけれど)。バンドなどでも「同期」といわれる音源をつかって、演奏している人間だけでは足りない楽器の音を流すことはあるけれど、基本的にすべてをカラオケにすることはほとんどないから、これもバンドとアイドルのライブハウスでの大きな違いになっている。(機材の問題がないから、アイドルのライブでは各出演者のステージとステージの間の転換時間がほとんどなく、良くも悪くもかなりスピーディな感じがする、など)。まあつまりアイドルにせよシンガーソングライターにせよバンドにせよ、ライブハウスでの演奏の仕方はおおきくわけてこのカラオケか生演奏(生バンド)バンドがあるわけである。 ところで、カラオケと生バンドどちらがライブが音楽的によくなる可能性があるかといえば、それは生バンドだろう。音楽的に、という表
1:動機と構成 1.1時間を通じて存在する対象の存在論、または認識に関する問題が元々の研究課題であったが、音楽の知覚はその中でも興味深いものであると考えた。例えばそれが単なる物理的な音であるとして、我々が知覚するのはただ波の一部であってそれは持続しているとはいえないかもしれない。しかし我々はある音を聴いている、ないしはある音楽を聴いているということを直観的に認めている。またそれら音楽作品の同一性についても問題になるといえるだろう。 1.2上記の存在論的な議論が、実際の音楽の理解と、たとえば現在の音楽の市場におけるルールや考え方とどのようにリンクしているのかについて、当事者として関心があった。音楽作品の存在論を理解しないままで、例えば音楽の著作権のようなものは考えることができないだろう。現行の著作権法と、業界の慣例も含めて考えてみたい。 1.3 よって本稿ではまず音楽作品の存在論についてのい
自己同一性の問題は、思想史的にも重要な問いの一つである。 例えば、以下のような寓話を考えよう。 --- あるところに、王様と農民がいた、農民は王様のような裕福な生活を望んでいる、王様は農民のことはよく知らないが普段の生活に退屈している。 ある朝、農民が目を覚ますと周りの様子がおかしい。どうやら、記憶はそのままで王様の髭面の顔と肥満体になって、豪華な王宮にいるようだ。かたや、王様は粗末な小屋で目を覚ました。体もずいぶんやせ細って顔も変わっている、農民というものになってしまったらしい。それぞれの生活に不満を持っていた2人はこれ幸いとそのまま生活を続けた。 しかし、贅沢な暮らしができるようになった農民は良かったが、貧乏暮らしをすることになった王様はすぐに耐えられなくなった。王宮にいき、自分こそが王様である、と訴えた。その姿を見た農民は、訴えてきたのが元々の自分の体をもった人間であると気づいた。つ
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