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今年の「#文学」
shirokuro-044.hatenablog.jp
今日の無理 棚卸だけやって帰るつもりで休日出勤したら客からの問い合わせアラームが延々鳴ってて受付にもいっぱい客がいるのにスタッフの男の子(彼もまたワンオペの犠牲者)がいなくてどこでなにしてるんだと思って防犯カメラ見たら上の階でいろんな客にペコペコ頭下げてる姿が映ってて見てられなくて応援のためにシフト入りして働いてたらなんか客が通路に倒れてて慌てて声かけたら意識はあって立ち上がろうとするんだけどその後顔面から床に突っ込んで倒れて顔面血まみれになって白目剥いて痙攣しだしたから救急車呼びましたけどなんなんだこの労働環境 GWもうちょっと(1週間)だけ続くんじゃ 書き溜めてた記事がちょっとあるので明日には公開しますね
意識が遠のいたり戻ったりしろ エライさん「本日重要なお話がありまして」 わたし「はい」 エライさん「実はこちらの店舗来月から深夜は無人営業となる」 わたし「(意識が遠のく)」 エライさん「予定でしたがそれには私とマネージャーが断固反対したので無人営業はやらないことになり」 わたし「(意識が戻る)」 エライさん「その代わり深夜は1人でこちらの店舗と近隣店舗の2店舗同時に面倒見てもらうことになりました」 わたし「(意識が遠のく)」 人間動物園から飼育員がいなくなったらどうなるかって話よ 本社の人間は気が狂っているのか。周辺を飲み屋に囲まれた繁華街で深夜無人営業て。周辺の飲み屋はキャバクラや小さいスナックも含めれば優に100店舗を越すのではなかろうか。コロナ禍ですら酔っぱらいが絶えないような繁華街で一晩中無人営業て。受付で暴れたり突然叫び出したり通路で寝っ転がったりゲロ吐いたりウンコ漏らしたり他
2000円あったらカルディでおいしいコーヒー豆がいっぱい買える 出勤前に大通りのど真ん中で2000円拾ったので交番に届けました。本当なんです信じてください。足元に転がる2枚の1000円札を見たときはつい本能で拾ってしまったのだが、自分はこれから仕事だし、急いで5分くらいの場所に交番はあるけどどうすっかなあと逡巡し、一旦2000円を持ってバイト先に寄って大急ぎで制服に着替えて上からパーカーを羽織り、バイトくんに「お金拾ったんで交番行ってきます!ちょっと遅れるかも!」と言い残して駆け足で交番に行った。本当なんです信じてください。落とし主が見つからなかったら云々という権利は放棄しました。本当なんです信じてください。対応してくれた警察の人は20代前半くらいの若いお姉さんでした。本当なんです信じてください。小休憩中だったのか紙パックのカフェオレを飲んでらっしゃるところにお邪魔してしまったのでちょっと
ゆうき5倍(当社比) 近頃採用される新人バイトの「ゆうき」率がすごい。どのくらいすごいかというと、新人のうち3人に1人くらいの割合で「ゆうき」がいる。それくらいすごい。とはいえ、男にも女にも使えて漢字のバリエーションも豊かな名前ゆえに、同じ名前の人間がこうも短期間に大勢集まったとしても、一応驚きはするが不思議がるような話でもない。ちなみに現時点では3人、短期で辞めてしまったメンバーを含めると、先日まで5人いた。ゆうきいっぱい、カレイジャスな職場です! 悪人が悪事働くのにもゆうきは要るだろうし ゆうきいっぱいの職場くん、いいなあ。私にも少しくらいそのゆうきを分けてくれよ。ゆうきってどこで貰えるんだ?無料配布イベントとか、やってないんです?なんなら金を払って購入してもいいぞ。ゆうきがあれば、私にもきっと色々なことが出来るようになるはずだから。もしも私に職場くんと同じくらいのゆうきがあったなら、
ヒャッハー!残業手当だー! 11月分の給与明細をしげしげと眺める。残業時間3.32。残業手当3,981。これこれ、これだよ、これがあるから給料日はやめられねえんだ。先月の私が一体何のために3時間も・ 残業したのかまるで思い出せないが、残業の理由なんて、思い出せぬくらいがちょうどいいのだ。今の私は残業の理由を思い出せない。でも残業代は入っている。それでいいんだよ。宙に浮いた3時間が、浮かんだ先で翼を得て、お金として私の元へ舞い戻ってきた。所詮私はシフトで定められた時間に出勤し、シフトで定められた時間休憩をとり、シフトで定められた時間に退勤することしかできない時給労働者、毎月の給料にさしたる変化もなければ、ボーナスも出ないし、これといった福利厚生もない。そんな中で、思い出せない理由による残業とそれによる残業代は、翌月の自分へのささやかなご褒美みたいなモンだ。こちとら、そういうイレギュラーを当て
「お風呂で温まっていますか?」という問いに対する答え 5年前からガス止まってる(小声) ちょっと恥ずかしいので小声で喋りますね 私が人から入浴スタイルを訊かれて「面倒なのでシャワーだけ、基本湯船は使わないですね」と答えるのは、ひとえにガスが止まっているからだ。ガスが止まっているからお湯が出ない。お湯が出ないから湯船は使えない。じゃあお前どうやって毎日髪や身体を洗ってるのかって、電気ケトルで何度かお湯を沸かして、それをやかんいっぱいに溜めて、水を入れた洗面器にやかんからアツアツの熱湯を注いでいい具合の温度にしながら洗ってます。風呂場の横にコンセントがあって本当によかった。夏場はそこまで困らないが冬場はとにかく寒いのなんのって、お湯の消費スピードにケトルの湯沸しが追いつかず、「おい!やかんのお湯がなくなったぞ!お湯はまだか!おい!」ってな具合でガタガタ震えながらお湯が沸くのを待っているのが冬の
デッデッデデデデ\パーン/ 最近のちょっとした楽しみが、夜8時以降に近所のスーパー、その中の100円パン屋に行って、いちばんお気に入りのパンが50円になっているところをかっ攫うことである。いちばんお気に入りのパン、いつも売れ残っている。これが分からない。私個人としては大変ありがたいのだが、近隣住民にあのパンのおいしさがいまひとつ知られていないらしいところ、これが分からない。あのパンをひと目見て「これ絶対美味いやつじゃん!!」とならないところ、これが分からない。ひどい時には閉店15分前に駆け込んでもあのパンだけがまだ売れ残っている。これが分からない。それ以前に、「パンが50円!!買いやな!!」とならないところ、これが分からない。どんなパンであれパン屋のパンが50円だったら誰かしら買うでしょ。本当になんでなんだろう。商品名が耳馴染みのない横文字だからだろうか。それとも、他の100円パンがとても
今週のお題「好きなお茶」 コーヒー 今週のお題の中の人もひょっとしたら誰かにしばかれたのかもしれない やいやい。やいやいやいはてなブログやい。どうして今週のお題のキャッチコピーを「最近しばいてる?」から「ゆっくりいっぷく!」に変えたんだやい。やいやい。私が気づいていないとでも思ったのかやい。「最近しばいてる?」の方はさしずめ、インパクトやユーモアがあるという点では合格だが、当然「茶をしばく」が通じない人間も多いわけだし、そもそも「しばく」があまりお上品な意味じゃないってんで、当たり障りのないコピーに差し替えられたんだろう。 「しばく」とは「どこそこで遊んだり飲食する」とありますが、「暴力をふるう」という意味もあります。 個人的にですが「なにかをする=暴力」という式が成り立つその言葉は、あまり好きではありません。 ちなみに「茶をしばく=茶をたたく」というブラックジョークもあるみたいです…(汗
きっと何かとんでもないもの、もしくはとんでもなくないものを見たに違いない アラ還サラリーマンの口から出る「生まれて初めて」が重すぎてバスの中でえずきそうになった。夜勤を終えて帰るバスの中、毛髪がソーシャルディスタンスしているスーツのおっさん2人が何やら楽しそうに会話をしていた。大部分はバス内外の騒音にかき消されて何について話しているのか分からなかったが、バスが停まってたまたま聞こえたセリフが、こうだ。「いやァ、あんなん見たの、俺生まれて初めてだったわけ」。 おっさんの初めてって言い方なんかアレだな 「初めて」ではない。「生まれて初めて」と。私は半ば反射的に、頭の中で、生まれたばかりのおっさんを思い描いた。生まれたばかりのおっさんってなんだよ。それから、私の想像の中の生まれたばかりのおっさんが今のおっさんになるまでの過程、そのテープを超高速で早送りした。テープが終わろうかという頃になってよう
オーナーに一言 今夜納品されるおにぎりは2段使って展開するとか朝はおにぎりを3段に広げて弁当を1段縮めるとか朝に届く新商品は4×4列で並べるとかめちゃくちゃ細かい指示書きをくださるのは別にいいんですが、それよりもまずは全ての商品にきちんと値札をつけるとか終了したセールのPOPは速やかに剥がすとかそういうことの方に力を入れたほうがよろしいのではないでしょうか 守りたい、この値札 屁をこきながらでも避けられるリスクを、あえて屁をこきながら犯そうとするところ、白黒さんちょっとよくわからないです。値札がないのはまあ、客に聞かれたらその場で調べて答えればなんとでもなるのでいい(よくない)として、とっくに終了した値引きセールのPOPを何日も平気で放置するのは本当に止めた方がいいと思う。オーナーも店長も客のことを過信しすぎているのではなかろうか。客を見たら全員クレーマーだと思え。というかそもそも値札は一
数学を学んでおくと将来ブログを書くとき役に立つらしい 人生の進め方の基本はごく簡単である。「する」か「しない」か。人の生涯は「する」と「しない」で構成されている。なるほど自分で言っといてなんだが単純明快で実に分かりやすいと思う。ここでは便宜上、人生が全事象Ω、「する」が事象A、「しない」が事象Aの余事象、とでもしておこうか(図1)。よくよく考えればそうはならんやろという気がしないでもないが、要するにあの図を使いたいだけなので勘弁してほしい。全事象を表す長方形の中に事象Aを表す円がぷかぷか浮いているあの図を。もちろん、「する」という事象Aこそ人生であるとして、「しない」という余事象のことをきれいさっぱり切り捨てたっていいのだが(図2)、私はこの余事象にこそ味わいがあると思うのだ。余事象ってなんか聞いたことあるけどなんだっけと思った方のために置いておきます。 univ-juken.com つま
ダイエットについて考えない日はない ここ最近、健康に悪い記事ばかり書いている気がする。なので健康に良い記事を書こう。健康診断の正式な通知も来た。顔の肉は相変わらずだし脚も太い。さてどうしようか。懲りずにダイエットについて考えたとて毎度毎度堂々巡りで答えは出ない……いや考える前から分かりきっている一つの答えにしかありつけない。結局、食いさえしなけりゃいいのだから。書き上げてから気づいてカーソルをここまで戻したのだが、この記事は恐らく、以下の記事の延長である。 shirokuro-044.hatenablog.jp おいしいのかなあ 最近購読し始めたブログに、バターコーヒーに関する記事があった。以前勤めていたスーパーで突然外国産高級バターがバカ売れし始め、店長がその確保に躍起になっていたのは、おそらくそのバターコーヒーとやらのせいだったのだろう。そのバターコーヒーを流行らせるきっかけとなった(
この日を一生忘れないだろう 7月27日。魔の金曜日であった。魔の金曜日に魔を文字通り駆逐してから、心身がてんでダメになり、記事を書くことを諦めた。連続更新日数は惜しいので、今度適当なポエムでもしたためて7月27日指定で投稿しようかと思う。 日頃は穏健派です 私は何が何でも揉め事を起こしたくない――もっと正直に言えば面倒事に自分を介入させたくないタイプで、誰かが誰かの悪口を言っていてもその場では徹底的に中立を保つようにしていた。心の底では誰々が悪いと思っていても、ふにゃふにゃの苦笑いを武器に、どちらにも肩入れしないスタイルをとことん貫き通していた。その私が「あのゴミ女マジでいい加減にしろよブッXXぞ」と人前でぶちまけるくらいの「魔」、つまり金曜日の私が言うところの「ゴミ女」をバイト先から駆逐してきたのである。 これが最後の言及になると願いたい ちなみにその女については以前も記事にしている。こ
お……おじさん! 間寛平似の常連のおじさんの職業がネイリストだった。わりと最近になって資格を取ったようだ。おじさんの年齢は52、3歳くらい。見た目の印象を素直に言わせてもらうと、工事現場とか、交通整理とか、大工とか、とにかく外で汗を流している方が似合いそうな、小柄でおしゃべりでどこにでもいる田舎のおじさんという印象だ。最近髪を切って角刈りになった。その角刈りのおじさんの職業が、ネイリストだった。といっても皆が思い浮かべるような女性向けのキラキラした店ではなく、メンズネイル店という名目で、男性向けの簡単なネイルケアやハンドケアが中心の店舗に勤務しているそうだ。名刺を貰って、ネイリスト資格の証書の写真まで見せてもらった。バッグから専用の道具をいくつか取り出して説明してくれた。今度イベントもやるらしい。「人は見た目に依らない」という言葉に手足が生えたとしたら、きっとあのおじさんになるのだろう。
スマイル101兆4564億円(2019年度) 接客労働者には、愛想手当が必要なのではないだろうか。壊れたレコードのように繰り返す「いらっしゃいませ」、心にもない「ありがとうございました」「またお越しくださいませ」、歯を食いしばって絞り出す「申し訳ございません」。どう足掻いても日本人(クソデカ主語)がこれらの呪縛から抜け出せないというのなら、いっそのこと手当を用意するべきだ。ひと昔……いやふた昔かさん昔くらいに流行った「スマイル0円」というフレーズ。当時悪ノリして店員にスマイルを注文しまくった若者たちも大人になり、社会人になり、血を吐くような気持ちで顧客にスマイルを振りまきながら、かつての愚行を懺悔していることだろう。な~にがスマイル0円じゃ! 愛想は大切だけれども(結局何もかもごく一部のクソ客のせい) 先日、「XXという店員の愛想が悪かった」という名指しクレームが店に入った。個人的に最も貰
「承認欲求」のゲシュタルト崩壊 センチメンタルネットサーファーに問いたい。ネットの海を彷徨っていて、1日でも「承認欲求」という言葉を見かけない日があるだろうか。タイムラインを眺めていても、ブログを読んでいても、適当なサイトを転々としていても、あちこちから聞こえてくるは「承認欲求」。どこに行っても必ず誰かが承認欲求について考えていて、承認欲求について議論していて、時に承認欲求を殴ったり蹴ったりしたかと思えば、次の瞬間には承認欲求を抱きしめてわんわん泣いたりしてる。つまるところ……みんな承認欲求というものが気がかりで仕方ないのだろう。旅行当日の天気のことくらい、承認欲求のことを気にしているように見える。カレンダーを1枚めくって初めて今年のバレンタインデーが休日だと気づいた時の女子高生くらい、沈痛な面持ちが画面越しに透けて見える。 相手がいなくちゃ承認は成り立たない ここで私はふと気づいた。みん
それは本当に自分の非となり得るか 他人に対して怒りや苛立ちを覚えるのは、その相手に対して自分が期待しすぎていることが原因だ……とか、他人に不満を覚える時は、自分自身の内に至らぬ点があるからだ……とか。そういう「人の振り見て我が振り直せ」論について何パーセント同意出来るかと問われたら、そうですね。現時点では3パーセントくらいは同意できると思います。 私の期待しすぎなのだろうか これまでの人生、運の良いことに、「身内」と呼ばれるような人たちに対して怒りや苛立ちや不満を覚えることは殆どなかった。この場合の「身内」とは血の繋がった親族という意味ではなく、同級生とかバイト仲間とか、そういう意味での「身内」である。 しかし昼勤から夜勤にシフトしてからというものの、「身内」に対し青筋を立てる回数がヌ゛ゥワ゛ン゛と右肩上がりどころか真上に垂直急上昇し、その高低差で毎日毎日ゲロをぶちまけているのである。何も
「繊細」は最も縁遠い言葉です 自分はもっとガサツで図太い人間だと思っていた。スプラッタ映画を見ながらドロドロのトマトジュース片手に鉄板でジュージューと肉を焼けるような人間だと思っていた。ショッキングなものを見てもホエーッとか言いながら普通にメシが食える人間だと思っていた。昨日だか、一昨日だか、その辺りからずっと命について考えている。 人間、新しい顔よ やはり頭と体は物理的に別々であるべきなのでは。「体は木っ端微塵になりましたが頭部は綺麗に残っており本人の意識もはっきりしているため、新しい体の用意が急がれます」「頭部は完全に破損していますが体は綺麗に残っており心臓自体はきちんと動いているため、新しい頭部の用意が急務です」みたいな。脳みそと、心臓。超超大事な器官は上と下に1つずつあるのだから、生き残るチャンスもその分あって良いのではないか。でも……でも、人間がそれくらい強くても、勝てないものは
頑張っているか、頑張っていないか 自分が頑張っているとは思わないが、最近では頑張っていないとも思わない。他人から「頑張っているね」と言われたらピャッとして否定するだろうし、「頑張っていないね」と言われたらムッとして否定するだろう。人の性質や行為は「頑張っている」と「頑張っていない」に二分出来るのか否か。「頑張っている」と「頑張っていない」の中間には何かあるのだろう。そんな疑問を抱いて考え込む時点で、自分は「頑張っている」と「頑張っていない」の中間を知らないのだと分かる。世の中には「ほどほど」という言葉があるのだ。何事もほどほどに……ええと、ほどほどに「頑張っている」のですか?ほどほどに「頑張っていない」のですか?――だめだこりゃ。 どれくらいやれば/やらなければほどほどなのか 「ほどほど」を知らないくせに、両端のどちらかに属しているわけでもないと云う。私の性質や行為は一体どこに消えたのだろ
想像力が足りない 日記やエッセイもどきであれば比較的サラサラと量産出来るのだが、小説、詩、短歌、俳句、そういったものの創作はてんでお手上げだ。自分の頭のどこを絞れば架空のマチや架空のヒトが生まれてくるのかさっぱり分からない。自分の頭のどこを揺すればあの流れ星のような言葉たちが落ちてくるのかさっぱり分からない。もう無から有をひり出すとかいうレベルじゃない。むつかしい論文を読んでそれに対するお前の意見を何万字で書けとか言われた方がまだ筆が進むと思う。「物書き」という点では共通していても、それぞれの分野で大いに向き不向きがある。とにかく、私の頭は物語や詩歌を書くのに向いてない。 ぐだぐだ とはいえ、書いてみたいという意欲はあるのだ。意欲だけは。例えば短い物語を書くとして……まず舞台。私は家の中とコンビニとスーパーくらいしか知らないので、このうちのどこかになるだろう。次に登場人物。書くとしたらやっ
ブログあつめ 「購読中のブログ」を分類する機能が欲しい。はてなブログを開くたびにそればかり思う。 ジャンルごとに整理したり、特にお気に入りのブログを集めてフォルダ分けするのもいいが、私は是非とも「やばいブログ」「少しやばいブログ」「そんなにやばくないブログ」「やばくないブログ」「危険物」などに分類したい。同じ「日記」というスタイルを取っているのに、どうしてこうも雰囲気が違うのだろう。冒頭の挨拶ひとつ取っても安心と信頼の「みなさんこんにちは!」スタイルもあれば、一行目から「お前は一体何を言っているんだ!」と叫びたくなるようなブログもある。どちらが良いとか良くないとかではなく、その違いそのものが面白い。そんなわけで時間を見つけてはせっせせっせと様々なブログを集めている。 増殖するブログ論とそれについての考察 巷では「ブログ論」なる分野があるらしい。読まれるブログとは、読者が増えるコツとは、収益
答えは得た 確信した。私は確信した。これは確かなことだ。確からしいことではない。 休日鬱は確実に存在する! 地獄の36時間 降って湧いた休日であった。あまり気乗りしない休日であった。しかし休みになってしまったものは仕方がないので、なんとか休みを満喫しようとして……またもや失敗した。帰宅後から次の労働までの約36時間、終始グロッキーと形容するに相応しい状態であった。身体が動かなくて、頭も真っ白で、何も手につかなくて、洗顔入浴も出来ないし、掃除洗濯も出来ないし、本も読めないし、ブログも書けないし、実況動画も見れやしない。いつの間にか寝て、いつの間にか起きている。やれることといえば、ひたすら宙を眺めるか、Pixivでイケメン同士のチューを眺めるかの二択であった。辞めたソシャゲに超~~~ストライクな新キャラが2名も追加されていたのだけれど私は一体どうすれば良いのだろう。スマホ画面に映るスケベなイラ
8時間寝たら帰ってきた 死んでいた。もうなんか、とにかく、なにもかも、私を動かす何もかも、大元の動力さえ稼働停止に陥って、掃除どころではなく、洗濯どころではなく、部屋の片付けどころではなく、読書どころではなく、ましてブログ更新どころでもなく、数日は留守にする心持ちであった……のだが、電気を消して8時間ぐっすり寝たら再稼働した。昨晩私は日付が変わる前にきちんと記事を投稿したので継続日数は守られています。いいね? Twitterという思考の洗浄ノズル 生身の人間相手に思考を吐き出すことが叶わない場合、定期的にそれを文章に起こして排出しなければ、すぐに詰まりを起こして思考パイプが破裂してしまうと思っているのだけど、どうなのだろう。それを考えれば、Twitterは思考パイプが詰まりがちな人間にとっての救世主だったと言っても過言ではあるまい。思考に限らず、何気ない感情ひとつにしてみてもそうだ。自室で
猫が好き。飼ったことはないけどとにかく猫が好き。猫種にこだわりはないが、強いて言えば茶トラ猫と黒猫が好き。それと油断している野良猫が好き。以前道端でぼーっとしている野良猫にそろっと近づいていって、コイツなかなか気づかないなと思いながら距離を詰めていたら、やっと気づいたその猫があまりにもびっくりしすぎたのか後ろに飛んでいった。後ろに飛んでいった猫は塀の絶妙な角度により私の視界からそのまま消えた。驚かせてしまった猫には申し訳ないが、驚く猫はなかなか良いものだ。 会話の途中で突然しゃもじを取り出せる黒猫 なんだかよくわからないけどなんか入りそうな黒猫 とにかくいっぱい並べたら捗りそうな黒猫 ファンタジーやメルヘンではなく歴史の一部な黒猫 最近推してるブログ「ねこ部」様よりプリティーな黒猫 会話の途中で突然しゃもじを取り出せる黒猫 まず1点目は『ネコ型ケース付しゃもじ』。2019年のグッドデザイン
大人は辛さをどう処理するべきか 辛い時でも「辛い」とは言わずに我慢するのが大人で、すぐ「辛い」って言っちゃうのが子供だと思っていた。でも実際のところ、現実の世界では、辛いと感じたら適切なタイミングで「辛い」と申告出来るのが大人で、すぐ「わざとらしいアピール」に走ったり自己憐憫の世界に閉じこもったりするのが子供である、と言い表した方がぴったり合うだろう。これがきっと、大人の世界における大人と子供の違いなのだ。前者は子供の世界における大人と子供の違い。見よ子供たち、大人はそんなに強くない。 子供の延長 私ももう随分といい大人だが、未だに親の前だと最悪の形で子供に返ってしまう。心配を掛けたくない気持ちと心配してもらいたい気持ちがカフェオレみたいに混ざり合って、時々元気なさげに振る舞っては、気遣いの言葉をきっぱり元気に否定する。絵に描いたような「わざとらしいアピール」である。もう本当に、何をやって
まず結論――日々の積み重ねはいつか来るその日のために 数日前、遅刻しそうになった件についての記事と、遅刻した件についての記事を立て続けに執筆した時のことを思い出しながらキーボードを叩いている。結局、アウトプットするためにはその都度きっかけとなる外部刺激が必要なのだと。その刺激によって引き出されるものが日頃からの蓄えであって、我々が普段何かを見たり聞いたり本を読んだりして知見を蓄えるのは、いつか突然外部からやってくる刺激に備えるためであると。 「きっかけ」と気軽に言うけれど あまり胸を張って言う事ではないが、先の2件の記事は、驚くほど筆が乗った。いやキーボードが乗った。書きたいことがポンポンポンポン浮かんできて、それを整えるのに多少時間を食ったが、かなりスムーズな生みの作業であった。文章を書き連ねているうちに、頭のどこかからしょうもない(本当にしょうもない)小ネタがポン、と出てくるのを拾い上
限界夜勤フリーターの夜は早い 起床。徒歩で通勤(45分)。労働。退勤。徒歩で帰宅(50分)。洗顔及び入浴(ガスが使えないので電気ケトルでちまちまお湯を沸かす)。洗濯(洗濯機が無いので全て手洗い)。軽食。気絶。コーヒーで一服。洗い物(食器)。掃除。気絶。少々の読書。ブログを書く。就寝。昨日はこれに発熱という豪華オプションが付いた。結果、気絶から覚めたら既に家を出る時刻の15分後であった。10分で支度をしボロボロの身体に鞭打って普段45分かかる道のりを半分近く走った結果、間に合った。案外なんとかなるもんだ。 ベルフェゴールはそれを減らしたくて仕方がない 社会人が時間をきっちり守ったところで褒められやしないし大した徳の積立にもならない。時間を破って初めて積立分が目減りしていく。時間に対する誠実さとは、実質減るのを待つばかりの理不尽な資産である。例えば「いい子」は少し良い行いをしたところで大して褒
一体何様なんだと思われることを承知で申し上げるが、第二編「実在」から第三編「善」へ移行し、更に第五章「倫理学の諸説」が始まったあたりから、途端に文章の雰囲気が変わった。 それまでの内容といえば、直感、感覚、直覚、意識、意志……素人目には「一体何が違うんだ」と大声で叫びたくなるような言葉たちのオンパレード。第一編「純粋経験」及び第二編「実在」ではそれらの絶妙な差異を捉えた主張が緻密に構成され、展開されていた。ところが快楽や善に話題を移した途端、急にざっくりし始めた気がする。「他人にいいことをすると自分も気持ちいいから結局自己の快楽でもあるよね」「でも自己の快楽のために他人にいいことしてるわけでもないよね」といった、一般人にも感覚的に理解できるような倫理が顔を覗かせはじめ、前半のちんぷんかんぷんっぷりとの落差に少々驚いている次第である。 気を取り直して、言葉を見ていくことにする。前回分はこちら
みんなだいすき自己啓発本 自己啓発本なんてのは、購入した時点で既に役目の8割は果たしていると思う。自分に足りないものや伸ばしたい要素を自覚出来ていること。それらの対処に身銭を切れるほどの覚悟が仕上がっていること。そしてこういうのは大体、本を買ったその瞬間がモチベーションのピークであるということ。 他人に選ばれる自分を目指すか、自分に選ばれる自分を目指すか ところで、自己啓発本に書いてある内容を、「読んでいない人間には知りようのない実行しようのない特別なエッセンス」と考えるのか、「これまでの自分が持ち得なかった、しかしごく一般的な真理」と考えるかで随分変わってくる。我々はヴェルスタースオリジナルを与えられた子供なのか、それとも生まれて初めて砂糖の味を知った子供なのか。これは個々人の解釈の問題である。前者は横文字タイトルの全米ベストセラー翻訳書とか、そういう類の本を読んでいる時に味わえる感覚だ
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