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大そうじへの備え
sean97.hatenablog.com
この本。 ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇 作者: 東浩紀,濱野智史出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2010/05/25メディア: 単行本購入: 7人 クリック: 204回この商品を含むブログ (27件) を見る 読んでたら、後書き(の座談会)で、あずまんとかあとtwitter評論家とかいう人たちが「ブログは終わった、これからはtwitterだ」「今までブログやっていた人たちが続々とtwitterに乗り換えている」とか口々にいうのを見てなんだか腹が立ってきました。そりゃあんたたちみたいな「評論家」は、「××はもう古い、これからは○○だ」と書き続けることでオマンマ食ってる人たちだしね。 とはいうものの、ブログ界に、以前のような活気がなくなってきているのも、また事実ではあるでしょう。 一番活気があったのはいつぐらいですかねえ。オレが始めて1年後、2006年ぐらいかな。あの頃は本
こちらを読んで。 日本だけじゃない年金がらみの「不祥事」−すなふきんの雑感日記 いろんな解釈が可能かもしれませんが、僕なんかが思うのは、日本というのはまだまだ(変な意味で)信頼社会なのかなあ、と。「職員が心を入れ替えまじめに働けば解決」というのはつまり「やればできるはずだ」ということですよね。「やる気になれば夢は何でも叶う」の別バージョンというか。この手の、他人に対する無邪気・過度な信頼が、「ミスが起こるのはやる気がないからだ」みたいに、結局は精神論に落とし込む議論になっちゃうんでしょうか。 これからは、「人間は不完全なものなので」「「それを前提に」システム構築」すること、あるいは(自分の/他人の)少々のミスにも動じないラテン系気質(中国人気質といってもよし)を導入することが、必要なんじゃないでしょうか。じゃないと、自分が作った蜘蛛の巣にがんじがらめにされかねませんよ、最近の風潮を見ている
案の定左派系メディアは沈黙してるなあと思ったら、やっと出ました。 現代思想2008年7月臨時増刊号 総特集=チベット騒乱 中国の衝撃 出版社/メーカー: 青土社発売日: 2008/07/15メディア: ムック クリック: 40回この商品を含むブログ (4件) を見る 『現代思想』のチベット特集です。 さっき買ったばかりでさらっと読んだだけですが、あ〜あ、という感じですね。ダメなものはダメ、というのはナシなんでしょうか。 一点だけ。 ラサ暴動の後にサンフランシスコやロンドンで起こった反北京オリンピック示威行動では、「フリーチベット」「セーブダルフール」(時には「フリービルマ」)の旗が立ち並び、「人権」という文句の連呼とともに反中国キャンペーンが繰り広げられた。その俗悪で劇画的な中国バッシングのあり方はさておき、……」 (p.103) という言い方はさすがにヒドイんじゃないでしょうか。俗悪なデ
引用していただきました。 http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20080403/p2 う〜ん、僕には、サポーターとファンとを厳密に区別し、かつ前者により高い価値を置くような思考に、あんまり意味があるようには思えないのですよね。例えばファミレスサポーター/ファンがいたとして、かたやジョ○サンの熱狂的なファンであり、かたやすかい○ーくだろうがコ○スだろうがなんでも美味しいものを食べる、というスタンスだったとして、じゃあどっちかが消費者でどっちかが消費者ではない、とか、どっちが偉い?とかいうことを議論するのはナンセンスでしょう。どっちも消費者であることには変わりなし。 ……下手な比喩ですね。でも僕には、「スポーツ観戦=消費行動」「サポーター=消費者」でなぜいけないのかがよくわからない。いや、仮に「サポーター≠消費者」という図式を認めるとして、ではなぜ、それが「ファン=消
最近、いろんなところで、消費者の暴走が起こっている、みたいにいわれます。 教育なんかでもね。やや眉唾ながらも、「モンスター・ペアレンツ」なんかはその類でしょう。「オレや子どもは金を払ってサービスを受けている消費者なんだから、学校や教師はオレの言うとおりにするのが当たり前」みたいな意識。 最近思うのが、スポーツの世界。 こんな出来事とか。 浦和の惨敗にサポーター“抗議デモ” これのニュースをテレビで見てましたが、外国では、まず有り得ないシーンだなあと思ったものでした。 僕はアメスポ好きですが、もちろんアメリカにもダメチームはあるし、それに腹を立てるファンもいます。 しかし、だからといって、「責任者出てこい!」ということにはならないし、仮にいわれたとしてもノコノコ出ていってファンの前で頭を垂れて謝罪する社長やGMがいるなんて考えられない(あるとすれば裁判でしょう。他都市に移転したチームを訴える
『大航海』65号(ちなみに網野善彦特集)に川北稔先生の「歴史学は回復するか」という論考が載っておりました。 最初のほうで「人文学が、今後、生き残っていける道はあるのか。そのためには何が必要なのか。最も深刻な問題は、人文学が社会との接点を失い、独善的な価値観におちいったことである。」と述べていて、おっと思ったのですが、その後の議論の展開は、ちょっとげんなり。 つまりは、「日本の(特にイギリス史)研究は全然ダメだった、歪んでいた」という議論に終始しているわけです。これは、いわゆる「学問の現状に対するお説教」としてはもちろん有効だしごもっともなお話ではありますが、こと「人文学と社会との接点」に関する議論ということでは、おそらく何の解決の道も示せないと思われます。 じつは、わが研究分野の超大物・大御所の先生も、最近同じようなことを、同じような論理展開で書いておられました。これまた、学問的なお説教と
ちらほらと話題に上っているこの本。 日中戦争下の日本 (講談社選書メチエ) 作者: 井上寿一出版社/メーカー: 講談社発売日: 2007/07/11メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 46回この商品を含むブログ (30件) を見る レビューでは「国民は軍部にイヤイヤ戦争に参加させられたのではなく、むしろ積極的に参加した、ということを明らかにした」のが賞賛されたりしておりますが、それだけだったら、今までにも、数は多くはないとしても、研究はあります。むしろ近年の戦時期メディア研究は、その方面での研究が花盛り、といってもいい。 僕が興味深かったのは、戦争が始まっても、まったく無関心の国民が多かった、というところ。 僕的にヒット(という言い方が妥当かはともかく)だったのは、慰問袋のエピソード。蘆溝橋事件勃発直後こそ多くの慰問袋や恤兵献金(戦地の兵士への慰問金)が集まるものの、その後は右肩下
http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070424/p1 いろいろ考えさせられたです。ただ…… セックスワーカー差別はしない。でも、自分や自分の家族がセックスワーカーになるのはいやだ、とか。 資本主義批判・市場批判の舌鋒鋭い。でも、自分は良い服着て良い車に乗って美味しいものを食べるのが大好き、とか。 首相や公権力にある者が靖国に参拝してはダメ。でも、一般市民は、もちろん自由にどうぞ。と論陣を張る新聞とか。 ぼくには、やっぱ、どうしてもそのへんが、ダブスタに思えてしまうのですよ。普段はいい加減なのに、変なとこだけ潔癖性で。 もちろん、「資本主義社会で生きている限り資本主義社会批判はできない」とかいったら、世の中に資本主義批判をできる人はほとんどいなくなっちゃうので(そして、資本主義を批判することは絶対に必要なことだとも思うので)、こういう潔癖さを突き詰めること
前も同じような反省をしたことがあったような…… 僕は自分の思想信条を、真ん中よりやや左側に位置していると思っています。しかし、ここんとこのエントリは、こりゃ完全に右派ブログでしたね。 いろいろ思いつく理由はあるのですが、まず、「左派叩き」の方が、どうやら受ける、ということ。まあご覧の通りの過疎ブログですし、普段そんなにカウンターなど気にしていないんですが、たま〜に数字が伸びるのは、左派叩きエントリなのですよ。まあ僕も人の子、せっかくブログをやっているからには、みんなに見られないよりは見られた方が嬉しいですから、ついついそっちのエントリが多くなってしまうのですね。 これが普遍的な現象なのか、つまり、右派叩きより左派叩きの方が全体的に人気があるのか。もちろん右派叩きでも人気ブログはありますから、たまたまなのでしょうが。 あとはやっぱり、左派に見られる「優等生臭」が、おちょくりたくなるツボなんで
たびたびのTBで申し訳ないですが。 kmizusawaの日記−「差別」を指摘されることについて考えてみた おっしゃるとおり「差別(主義者)」というのは「魔法の言葉」で、これを言われると、本当に凄まじいダメージを食らいます。必死になって弁明して、なんとかそのレッテルを剥がさないと、と思ってしまう。 例えば、今、左派界隈では、「おれ、やっぱ日本や日本人が好きなんだ」というのすら、はばかられるような現状です。そういったとたん、「お前はナショナリストだ」「人種主義者だ」「外国人排斥だ」とかなんとか、「差別主義者認定」されてしまうんじゃないか、あるいはそこまでいかなくても、そういうエントリを例えばブログで書いたら、間違いなく茶化されそうな……いや、されたことはないですが、されてもおかしくないなあ、ぐらいの雰囲気。 差別判定のすべてがおかしいとか間違っている、といいたいわけではもちろんないにしろ、「差
しかし都知事選ではなぜか左派に対するザマミロという感情のほうが「また閣下が通っちゃったよ」というガッカリ感に勝ったのですが、やっぱどうもオレ、昔から、「みんなで何かに一生懸命取り組む」という姿(←これ、実際はともかく、左派の専売特許、みたいなイメージがありますよね)に、嫌悪感を抱いてしまう悪いクセがあるんですよね。 サークルにしろ市民運動にしろなんにしろ、集団行動、「ある一つの目標に向けて一丸となって……」みたいなのが本当に嫌い。「俺には関係ねーよ」とスルーする、ことができればいいんでしょうが、どうもムカムカしてしまうのです。 で、なぜかというと、これはもう分かっています。僕自身が、そういうのに入りたいでも混ぜてもらえない、あるいは「僕入りたい」という一言が言えない、あるいは入ってもなんの役にも立てずお荷物扱いされるのが怖い、等々の「被害妄想」あるいはルサンチマンから来ているのです。 昔か
ちょっと前(といっても1週間ぐらい前?)、「風俗で働く女性、あるいは売春婦」への差別、について議論がありました。 僕個人は、そういう「職業の差別」はいけないと思うし、自分もそういう差別はしたくない、と強く思います。 ただ、議論において、とくに「先鋭的」(あるいは進歩的?)な方々が、「オレは、自分の母親や妻や恋人や娘が体を売りに行っても、全然気にしない」「オレもオレも」という流れになったのを読んで、「う〜む」と考え込んでしまったのでした。 今のところ、僕は、「自分の母親や妻や恋人や娘が体を売りに行っ」たら、ものすご〜くいやです。「妻や恋人」だったら「別れる」ぐらいまでいきそうだし、娘だったら全力で止めるだろうし、母親だったら……どうするだろう、とにかくいやです。 これって、やっぱり、「言行不一致」なんでしょうか。おれって、差別主義者なんでしょうか。保守的なんでしょうか。 この手のことは他にも
最近、うちの大学でも、「課題探求型」といわれる、学生が自由にテーマを選んで卒論を書く、みたいなのにシフトしつつあります。 僕のいる学科では、まだ「日本史」「西洋史」「ドイツ文学」「フランス文学」みたいな枠で学生を抱え込んでおりますが、それが崩壊するのも時間の問題でしょう。 こういう情勢下、一番(かな?)分が悪いのは、外国文学系です。なにせ、ここには「外国語」という壁がある。 僕の頃は、外国語をマスターした上で、アホほど時間をかけながら、原文で作品を読み、卒論を書く、という作業が当たり前でした。 ところが今、とくにいわゆる「一流大学」でないとこでは、そう悠長なことはしてられません。まあ基本的には、ほとんど翻訳で、となる。 しかしそうなると、こちらも外国文学のゼミでは一般的であろう「原書講読」の意味が薄らいでくる。どうせ翻訳でやるんだから、外国語やってもあんま意味ない、というわけで。 で、その
今日は中間テスト。 で、いつも「終わった人から帰っていい」という風にしているのですが、ある学生が、書き終えて帰る時、机の上の「消しゴムのカス」をなにやら手に集めている模様。 「どうせ床にばらまくのに、なんでそんなことするんだろう」と思いながら眺めていると、その学生は、カスを手に集めると、それを握ったまま教室を出ていきました。 へーーーっと吃驚。それを外のゴミ箱か、あるいは外に出てからばらまくのか。いずれにせよびっくり。 その後も注意して眺めていると、そうですねえ全学生の15%ぐらいはそうしておりました。今まではまったく気づかなかった。 僕からすると、机の上のカスを床にばらまくだけでまあ上等(僕だってそこまでしかやりません)、そのまま机の上に放置しておくとさすがに「なんじゃこの学生は」となりますが、それを外に持っていって捨てるとは、いやはや久しぶりに感心しました。 しかも、「いかにもそういう
昨日家に帰ってテレビをつけると「エアフォース・ワン」をやっておりました。 今さら解説するまでもないですが、まあ、「ひどい」映画です。 で、ムカムカしてすぐにチャンネルを変え……たかとおもいきや、最後まで見てしまいました。だって面白いんだもん。日本の「愛国モノ」よりずっと。 面白いのはもちろんそれだけカネをかけているから、というのもあるし、また「他国の愛国心」だからこそノンキに眺めていられる、というのもあるんでしょうが、でも、なんか、感動するんですよね、この手のハリウッドモノには。 これも今さら言うまでもないですが、ハリウッド「愛国モノ」にはパターンがあって、 問題発生 ↓ アメリカの暗部をかいま見せる ↓ ヒーローが現れて、問題解決 ↓ オレたちやっぱり、そんなアメリカが好きだぜ、WE LOVE AMERICA!! という順序を辿ります。このうち「暗部をかいま見せる」のがポイント。「エアフ
ちょっと前のエントリですが。そして元々のエントリとはさほど関係はないのですが。 http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060904 の、とくにコメント欄。こういった問題については完全に門外漢なので興味深く見ていただけですが、コメント欄の、山形氏のコメント。「で、とりあえずどうしてほしいの」。ここでの山形氏のこのセリフが妥当かどうかは措いておいて、これって、さまざまな問題において、「捨てぜりふ」的・「逆ギレ」的に使われることが多い(あるいは「捨てぜりふ」「逆ギレ」だとみなされることが多い)ように思います。つまり、なんとなく、イヤな言葉です。 例えば、戦争責任、あるいは慰安婦問題などでの中国側・韓国側からのさまざまな言動に対し、日本側が、「で、とりあえずどうしてほしいの」というセリフを吐いたとする。このセリフの裏には、「どうせカネが欲しいんだろ?」という「揶揄」が暗示され
ううむ。 子どもの暴力 学校だけの問題ではない http://www.asahi.com/paper/editorial20060915.html#syasetu2 いわゆる左派・リベラルとされる朝日にしては、だいぶ「保守的」な印象を受けます。「荒れた小学生は、中学校でさらにひどくなる恐れがある。いまのうちに芽を摘んでおく必要がある。」なんて、とくに。 真のリベラルだったら、「学校など行かなくてもよい」というイリイチ的な「脱学校の社会」(あるいは「学校のない社会」)を目指すのが筋なんじゃないのかなあという気がしています。この「脱学校」、かな〜り前に流行って、それっきり、という印象です。しかし学校というのは、どんなに教師が「良心的」であっても、それが「義務」である以上は、必然的に権力関係の温床になってしまうものです。「いまのうちに芽を摘んでおく必要がある」なんて、なんだか「割れ窓理論」を聞い
これねえ。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060904-00000211-yom-soci 僕は荒れた中学にいたので、この程度は日常茶飯事だった気がするのですが。いや、「別にナイフでちょっと刺すぐらいいいじゃん」というわけではないんですけどね。 どうも最近、「1回でもアウトになったらおしまい」な風潮が気になります。大人なら仕方ないにしても、まだ子供。やり直すチャンスは本来いくらでもあるはずです。なのに、こうやって大問題化することによって、この子供の心に、たぶん致命的な傷をつけてしまう。 以前「いじめ問題」のテレビ討論をやっていて、出演者のほとんどが「いじめた子供への厳罰化(強制的に転校させるとか)」を主張しているのに対し、現役教師一人が、「そうやって“いじめっ子”を排除しても問題は解決しない。我々教師にとっては“いじめられた子”も“いじめた子”も、
ついでに言えば、「彼ら」が嫌いなのは、「自由な人」、これにつきます。 旧聞ですが、イラクの3人の捕虜。あれが典型だと思います。高遠・今井の両氏がこれ以上ないほど叩かれた反面、もう一人の郡山氏は、他の二人に比べれば、かなりマシでした。 これは、二人が、ロクに学校にも行かず、ドラッグやったりして(でしたよね?)、ヒョイッとイラクに行ったりして、自由に、好きなことやっている(ように見える)、それが気に入らなかったんでしょう(税金泥棒云々は、明らかに後付けの理由です)。 その点、郡山氏は、一応「仕事」で行っていた。こういうのは、「自由度」が低い分、まだ許せるわけです。 日頃行きたくもない学校や会社に渋々通っている恨み辛みなのか、「彼ら」は他人の自由が無条件で気に入らない。 学校に行きたくないのに渋々行っている人は、学校に行かないヤツが許せない。 日本のこと別に好きでもないけど、かといって外国にも行
僕は研究では、脱構築系のことをやってます。 作り上げられた権威とか常識とか、そういうのをなで切りにするのって、けっこう気持ちがいいのです。 で、こっちの大学に来て、専門を教えることになりました。 さて、脱構築を教えよう。 あれ…… 学生さんたちは、まだなんにも構築されていない…… これは盲点でした。脱構築するには、当然ながら、構築されていることが前提条件です。 構築されていないものを脱構築するって、まるで、まだ建てられてもいない建築物を破壊する、みたいなもんです。 しかしながら、僕の元で勉強する学生さんは、ほとんどが、中国文学に関する知識ゼロでやってきます。いや、ゼロは言い過ぎか、「三国志好きなんです〜」とか「漢文好きなんです〜」とか、まあそのくらい。 なので、とりあえずは、中国文学についてのスタンダードを構築することにしております。 しかしこの調子では、脱構築までたどり着ける学生は、ほと
この前も書いたように、僕の周りには「ネットウヨやってます」という人が(多分)いないので、彼らがどういう人たちなのか、どうにも顔が見えないものがあります。 「ネットウヨ」というくらいですから、常時ネットを見れる環境にある人たちであるのは確かでしょうが、しかしこれって、一般に思われているよりも少ない。各種調査だと、20代以下、特に大学生ではほとんどがネットしているという回答が出るでしょうが、これはたぶん、「学校のメディアセンターで見る」ということであり、家にネットを引いているかというと、その率はガクンと下がると思います。 とくに人文系。僕自身人文系なのでよく分かりますが、「メルアドを教えて」というと、そうですねえ8〜9割は携帯メールです。で、「あれ、パソコンのメールはないの?」と聞くと、「いや、使ってません」とか「家には引いていません」と答える。うちの大学では、1年生に強制的にパソコンを買わせ
今日の『高知新聞』には(多分共同通信配信の)佐藤俊樹さんの論考が載っていて、なかなか頷けました。テーマは、まあ、「ネタ化する社会」とでも名付けられましょうか。 僕も昔から疑問だったんですが、いわゆるネットウヨの方々、彼らはどう考えても、いわゆる「愛国心」を持っているようには見えない。「つくる会」的な方々とは、明らかに異質なのです。たんに楽しんでいるだけ。 彼らには、ちょっと過激ですが、しばらく前に2chで流れたこのコピペが、図星なんじゃないでしょうか。僕はこれを見て、思わず笑ってしまいました。 ニートや引篭もり達は、なぜ最近はやりの「ネットウヨク」になりやすいのか? 第一に、右寄りの言動により、自分を強く見せることができるからだ。 ニート・引篭もりは、言うまでもなく社会的経済的弱者である。 だが、右寄りの言動を採ることにより、いかにも現実的で、強い考え方の 持ち主であると周囲に思わせること
「歴史」が問題として取り上げられる時、その多くが歴史「教育」の問題として語られます。 それはもちろん、歴史研究者の多くが、いわゆるアカデミズムに籍を置いているからです。やっぱ教育抜きで歴史は語れない、という思いは、ほとんどの研究者に共通していることです。 もちろん、世の中には、在野の研究者、というのもいます。あるいは、ブロガーにも、プロ研究者顔負けの分析を行う方もたくさんいます。 で、いわゆる「在野」の方々の場合、「教育」についてはあまり考えず、とにかく「事実」を追うのが大事、みたいな傾向が読みとれます。逆に言うと、アカデミズムや教員系の方々は、何かを研究する時、常に、同時に、「これをどう教育するか」という「差し出し方」(なんか内田チックな言い回しですが)が、なかなか頭から離れません。 プロと在野、どっちが上、というわけではもちろんありません。「在野は、教育を考えなくていいから、気楽でいい
ブログをやっている人(やっていない人も?)には、その人なりの「ここまで明かしてOK」レベルがあるように思います。 そもそもブログなどやらない。 ブログをやっているが素性は明かさない。 素性は明かすが自分の顔写真は載せない。←僕はコレ。 素性も顔写真も全部晒す。 で、こういう個人的な「OKレベル」には、根拠なんて何にもないですよね。そりゃ個人的な、僕的な理由はあります。「別に身分がバレても困らないから明かす。でも自分はイケメンでもなんでもないので、顔を出すのは恥ずかしい」という。でも、これを他人に押しつけるのは困難というか無理。素性を明かさない人に「明かすべきだよ!その方がいいよ!」と説き伏せる、なんていうのはナンセンスです。 ブロガーの中には「実名を出している」というのでやたらに威張る、「オレは自分の言説に責任を持っているんだ」的な優越感を勝手に持っている人がいますが(こないだ祭りになった
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