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人間はもともと理性的で社会的な存在であり、馬鹿者に惑わされなければ自分自身と他人の最善の利益の何たるかを理解し、それを実現するための最良の法を見つけ出せる、あるいは見つけ出せなくとも次善の法によって、社会に安定した調和をもたらすことが可能である、このような考えは18世紀以来西ヨーロッパのほとんどすべての知識人(ヒュームやカントやペインやモンテスキュー等々)が共通して抱いていたものでした。彼らは自然科学の知識がめざましくも人間の知の領野を拡大し精密にしていったように、人間倫理や政治上の諸問題もいつかは解決可能であると信じていました。 ジョセフ・ド・メストル(1753~1821) はそのような考えの根底にはある傲慢さが潜んでいると指摘します。彼は社会を弱く罪深い人間、矛盾する要求に引き裂かれ、何らかの合理的な公式によって正当化するには余りに破壊的な諸力にあちこち引き回されるそういう人間たちが織
映画『ALWAYS続三丁目の夕日』がテレビ放映されたので夫婦で見ました。世代の違う妻にはあまりピンとくる時代風俗ではないのですが、私自身はその映画に出てくる小学生に在りし日の自分を重ね合わせ感慨深いものがありました。映画自体はとてもよく作ってあって、とくに自動車修理店を映画の中心においたことには感心しました。というのも、あの時代に一番勢いがあって羽振りがよかったのが自動車修理屋だったからです。たいていは、親父が自転車屋をやる傍ら息子が単車や車の修理を始め、折からの車の大衆化の波に乗って繁盛していったものです。また、堀北真希演じる東北から上京して住み込みで働く少女たちも、あの頃の風景には欠かせません。私の実家は、東京の下町、明治通りに面した商店街にあったのですが、近くには小さな縫製屋やメリヤス工場があって、そこで働く娘たちの部屋には、平凡や明星から切り抜いたスターの写真が貼ってあったりしまし
ブログが普及することで、誰もが簡単に自分の日記を公開することができるようになりました。かつては選ばれた人間にしか許されなかったことが万人のものとなったのです。とはいえ、毎日の生活は同じことの繰り返しが多いわけで、読者の興味をひくためにも必然的に趣味中心の記録になることは避けられないようです。ところが、その趣味にしても継続的に新しい話題を掘り出していくことは容易ではありません。疲労や倦怠などの理由でブログの更新は滞り、いつしか休載、あるいは閉鎖のやむなきに至りますが、不思議なことに充電の時期が終わると再びブログの再開に踏切る人が多いようです。自分の生活の一面を人に見せたいという感情には、何か根源的に人間特有の欲求のようなものがあるのかも知れません。 エリアス・カネッティ(1905-1994)は1928年ベルリンに滞在していましたが、その時に知り合った友人は毎晩のようにカネッティに自分のその日
「ゲランで働いていたころ、私は1929年の名作『リュ(Liu)』の復刻を担当したことがある」と、ロジャ・ダブは書いています。「わずか300本の限定復刻版だった。運よくその1本を手に入れたご婦人(東欧系の方だった)は、ひとこと『リュ』とつぶやいて目を閉じた。聞けばその昔、もらったばかりの『リュ』を結婚初夜につけようとしたとき、ボトルは震える彼女の指から滑り落ち、貴重な香水はじゅうたんに吸い込まれてしまった。以来50年、復刻版の『リュ』をスプレーした途端に、すべての記憶がよみがえったという。あのときの部屋のインテリアも、あのときの気温も。香りが記憶の扉を開き、素敵な思い出が彼女を包んだのである。」 「写真は冷たい二次元の紙で、時がたてば色褪せてゆく。しかし香りが呼び戻してくれる記憶は天然色で、いつまでも生き生きとよみがえる。わずか一滴で、香水は現実から離れ、めくるめく幻想の世界へ逃避させてくれ
「サミュエル・バトラーの名は多くのレゾナンス(反響)を呼び起こす」とアンリ・コルバンは書いています。19世紀後半の英国の自由主義思想家という全く興味を引きそうにない文脈で語られるからといって、その言葉を軽視してはいけない、と。 バトラー(1835~1902)はヴィクトリア女王の治世(1837~1901)とほぼ同時代を生きました。その代表作『エレホン』(岩波文庫・山本政喜訳)は英国がその国力の頂点に達した頃、1872年に出版されました。簡単にそのあらすじを追ってみましょう。 主人公(後の作品でヒッグズという名が明かされる)は、牧羊を目的として遠い植民地にやってきた22歳の英国人です。牧用地の遥か彼方の山を越えた地に何があるか興味を持ったヒッグズは、危険を冒して雪山を越え、激流を渡ってその地にたどり着きます。『エレホン』の最初の五章はこの旅の描写にあてられていますが、ひとつの旅行記として見ても
<なぜアメリカに敗れたか> 辻政信が大和を訪れたとき、山本五十六と井上成美が冷房の効いた部屋で寛いでいた、と先に書きましたが、山本も井上も海軍きっての戦艦不要論者でした。戦艦不要論が彼らの場合、戦艦を出撃せず「大和ホテル」として司令官たちの心地よい居住場所とする言い訳になっているのです。戦艦不要論、航空隊重視の論は当時もすでに声高に言われていた意見ですが、はたしてそれは正しかったのでしょうか。米太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督は作家児島襄の質問に次のように答えています。 児島「アメリカ海軍は、開戦当時、すでに海戦が空母を中心とするように思っていたか。いいかえれば制空権イコール制海権と見抜いていたか?」 ニミッツ「制空権イコール制海権? とんでもない。空と海とは別物だ。制空権は、制海権獲得の重要な要素にはなり得ても、それだけで制海権は確保できない」 児島「すると閣下は太平洋艦隊司令官となられ
『クローチェ注釈』『歴史主義』などで知られるイタリアの思想史家、カルロ・アントーニ(1896-1959)の名著『歴史主義から社会学へ』(1940刊・1959未来社・讃井鉄男訳)には、ディルタイ、トレルチュ、マイネッケ、マックス・ヴェーバーという四人のドイツ思想家と、オランダ人ホイジンハ、スイス人ヴェルフリンについての論考が収められています。特に理由は無いのですが、その中で、ディルタイとヴェーバーについて紹介しましょう。 ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)は,神秘家と狂信家の古い故郷、ライン川下流のナッサウに改革派教会牧師の息子として生まれました。祖父も曽祖父も、分家を合わせた一族全体も聖職者という家系でした。しかし、すでに曽祖父の代から、この一族にとって神学は我慢のならないものとなっていたのです。寛容の国、オランダからほど遠くないナッサウの聖職者たちには絶対自由の感情があって、
『啓蒙の弁証法』(2007岩波文庫・徳永恂訳)は、ドイツでの反ユダヤ主義とアメリカでの大衆娯楽と高度産業社会での経験を踏まえ、1941年~44年にかけてカリフォルニアで執筆され1947年にアムステルダムで刊行されました。著者の二人は「フランクフルト学派」として知られる「社会研究所」の最も主要なメンバーであるマックス・ホルクハイマーとテオドール・W・アドルノです。共著ではあるが、その関心の度合いによって各章をそれぞれ分担して書き、後に討議を通じて加筆訂正し、共通の合意のもとに仕上げられたといわれています。ここでは、あまりに内容豊かなこの哲学書を便宜的に二つに分け、まずホルクハイマーと彼が第一稿を書いたと思われる「啓蒙の概念」「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」「反ユダヤ主義の諸要素ー啓蒙の限界」の章について紹介しましょう。 歴史家であり、外交官でもあったハーバート・ノーマンは、かつて次のような
ブックオフのよいところは、本に対する思い入れがまったくないことです。本は外観と新しさのみで評価され、定価の半額の値札をつけられ、売れないと100円の棚にまわされます。こうして、書物に値しない本の山が効率的に流通していくのですが、100円にも値しない本はさらに安値で処分されています。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』(中央公論社)を私は50円で手に入れました。低俗さと凡庸さが来るべき時代の文化を支配するだろうと予見し、自分はその滅びさる側でいたいと語ったブルクハルトは、自分の著書が菓子パン一個も買えない値で処分されていることにむしろ誇りを持つのではないでしょうか。 さて、この書物は私には遠い青春の一冊です。ルネサンスやブルクハルト自身についてはその後わずかながら知見を深めましたが、この本の「個人の発展」や「古代の復活」の章は読み返してみてもやはり興奮します。ブルクハルトは「普遍的な人
1950年、パール・バックは長い間巧みに隠し続けていた自分のただ一人の実子キャロルについての告白を Ladies' Home Journal に掲載しました。The Child Who Never Grew (『母よ嘆くなかれ』1993法政大学出版局・伊藤隆二訳) と題されたその文章は、30年間愛と絶望の淵源であったものについての何飾ることのない記録だったのです。 パール・バックは28歳の「人生でもっとも健康で輝いていた時」にキャロルを出産しました。キャロルは桃色の李(すもも)のような美しい赤ん坊でした。中国人の若い看護婦はキャロルを抱きながら「この赤ちゃんには、きっと何か特別の目的がありますよ」と言いました。人々は皆この美しい赤ん坊をほめたたえ、母親のパールは自分の夢がどんどんふくらんでいくことを感じました。彼女の夢は、家が子どもたちでいっぱいになること、そしてその子たちを立派に育て上げ
『反解釈』(1971竹内書店、1996ちくま学芸文庫・高橋康也、由良君美、出淵博、海老名宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳)の意味するところは、要するに作品を様々に解釈することによって、解釈家は作品を変改してきたにすぎない、大事なのは作品をそのまま味わうこと、その外形から理解していくことである、ということです。形式から説き起こす優れた批評の例としては、パノフスキーの美術論、アウエルバッハの『ミメーシス』、バルトのロブ=グリエ論、ベンヤミンのレスコフ論などが挙げられています。むろん、これらは立派なもので、特にベンヤミンの『物語作家ーニコライ・レスコフ』はソンタグにとって理想の書評でしょう。しかし、人は自分と反対のものに魅かれると言われるように彼女の批評スタイルはこれらとはやや一線を画しています。 ソンタグの魅力は、批評とは実際、批評家の趣味以上には出ないことを教えてくれたことにあるのです。批評とは「
後漢の天文学者であり、剛直な行政官、そして詩人であった張衡(76~139)は祝婚歌として、花嫁がその夫にあてた詩を書いています。 あなたに運よくめぐり会うことを得て 私はここにあなたの閨房に入りました あなたは初めての交わりをしたがるけれど 私はまるで探湯(くがたち)をするようでこわいのです 不才ながらできるだけやってみましょう 妃の務めを果たすようにー 食事のお世話に心を配りましょう うやうやしく先祖の供養のお手伝いをいたしましょう あなたのお床の敷物になりたいのです 堅いベッドをおおうために 絹の衾(ふすま)と天蓋になりたいのです 乾燥と寒気からお守りするために 枕と敷物を掃き清め 爐には珍しい香をたきました さあ二重の扉に金のかけがねをおろしましょう 灯をともして私たちのへやを光で満たしましょう 私はきものを脱ぎ紅白粉をおとし 枕辺に絵巻物をのべます 素女(そじょ)を私の導き手とする
ブログの、いわば、本来の目的である日記を書いてみようという気持は以前からあったのですが、どうも毎日書く体力に自信がない。それで、週報という形で、1週間分まとめというか、要約というか、覚書に似たようなものを試験的に書いてみることにしました。週報といえば、会社や役所の週報が頭に浮かびますが、私の場合、気障ったらしいが、エドモン•ロスタンの戯曲『シラノ•ド•ベルジュラック』(1897)の第五幕「シラノ週報の場」しか思い出せません。若い時から思慕の対象であった従姉妹のロクサーヌは、恋人のクリスチャンを戦場で失って、今、修道院で余生を過ごしています。そこに、シラノは毎週土曜日、その週の出来事を報告しに来るのです。◯◯夫人が愛人を変えたとか、◯◯家の犬はついに浣腸が必要になったとか、修道院の無聊を慰めるためにシラノは色々情報を集めて来ます。ある土曜日、修道院に向かうシラノは、上から落とされた材木で頭を
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