歴史研究家・乃至政彦氏がテーマにゆかりのある古典を紹介するシリーズ。第5回は、徳川家康が武田信玄に戦いを挑み、叩きのめされた「三方ヶ原合戦」を、吉川英治の小説『新書太閤記』や史料を元に検証します。なぜ家康は、ほぼ勝算のない合戦に挑んだのか。さらに恐怖のあまり、敗走中に脱糞してしまったとされる事件の真相にも迫ります。 「しかみ像」といわれる「徳川家康三方ヶ原戦役画像」。 (徳川美術館所蔵) 家康、三方ヶ原の「大失態」 元亀3年(1572)12月22日、遠江国敷知郡で武田軍と徳川軍の遭遇戦が発生した。三方ヶ原合戦である。 この合戦には3つの印象的なシーンがある。家康が「大失態」を起こし、「醜態」を晒し、それを深く「反省」したというものである。今日はこの3つを吉川英治の『新書太閤記』(巻四)を紐解きながら検証してみよう。まずは家康の「大失態」である。 吉川による三方ヶ原合戦直前の描写がこちら。