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平瀬徹斉著、長谷川光信挿画の『日本山海名物図会』が初めて刊行されたのは、宝暦4年(1754年)で5冊であった。 ここに掲載したのは、九州大学附属図書館が所蔵している文政12年(1829年)に再刊された5冊(縦25.5㎝×横18.2㎝、番号663-ニ-4)の書物である。 本書の内容の区分は巻数とはかならず一致していないが、1巻には鉱山、2・3・4巻には市場、物産、栽培、工業などの紹介、5巻には漁業に関する情報が記 述されている。 参考文献:平瀬徹斉著、長谷川光信画『日本山海名産図会』名著刊行会、2004年 本ページに掲載する画像の無断使用は禁止します。 九州大学デジタルアーカイブ 〈作成者:九州大学総合研究博物館協力研究員・西南学院大学 宮崎克則、庾 炳富(ユ ビョンブ)〉2005年10月作成
『和漢三才図会』は、江戸時代中期、正徳3(1713)年頃出版された挿絵入り百科事典です。中国、明の『三才図会』(王圻編)にならい、30余年の歳月をかけ大坂の医師寺島良安によって編纂されました。所収項目は「天」「人」「地」の三才の大部に分類され、天文部から醸造部までの105部からなっています。各項目には図を示し、漢名・和名をかかげ、本文は漢文で解説されています。和漢古今の事象が考証されており、全体で105巻81冊に及ぶ壮大なものです。 ここで公開している『和漢三才図会』は、福岡藩の家老を務めた三奈木黒田家伝来したものです。 ※所蔵:九州大学記録資料館九州文化史資料部門 「三奈木黒田家文書」NO.1377 ※「天」「人」「地」のリンク先が表示されない場合は、文字コードを「Unicode」に変更して下さい。
ここで取り上げる「からくり」とは、精巧に作られた仕掛けにより動く人形や模型、機械装置を指す。からくりは、糸で操られる「糸からくり」と、バネ・ゼンマイ・歯車などによって独自に動く「離れからくり」とに大別される。文楽人形とは異なり、人を驚かす「遊び物」としての要素が強いといえる。 国内でからくりが作られるようになったのは室町時代で、社寺などで見せ物として披露されていた仕掛人形がそれである。その後、安土桃山時代には貴人の玩賞品あるいは献上品としてからくり仕掛けの飾台や盃台が作られるようになる。 鎖国と前後し、舶来の機械時計がもたらされ「大名時計」「和時計」といった国産時計がつくられるようになると、これらの技術が導入され、からくりは大きな発展を遂げる。江戸時代には、からくり人形芝居が大流行し、「竹田からくり」に代表される興行が盛んに行われた。 江戸時代を通じて多くのからくり師が輩出し、からくりが
江戸時代、鉱物・化石など石の研究者である木内石亭は、全国から集めた標本をその形態や由来などによって 「霊異類」「采用類」「変化類」「奇怪類」「愛玩類」などに分類し、それぞれに挿絵を加えて解説しています。 安永2(1773)年『雲根志』前編を発行、7年後の安永8(1779)年に後編を、更に補遺として享和1(1801)年に三編を発行しました。 寸法は縦21.7�p、横15.5�pである。 『雲根志』の雲根とは、中国の古語で、「雲は石間より生ずる」、つまり 空気中の水蒸気が冷たい石に触れることで水滴となることから雲の基(根)であると考えられた「石」を意味しました。 文書名:「鉱山関連文書」12(九州大学総合研究博物館所蔵) 本ページの画像の無断転載は禁止します。 九州大学デジタルアーカイブ (作成者:九州大学総合研究博物館 宮崎克則、人文科学府修士課程 守崎百合 2
ここには、1867年にイギリスにおいて出版された、J.M.シルバー『日本 のマナーと習慣のスケッチ』(原題“SKETCHES OF JAPANESE MANNERS AND CUSTOMS”)に収録されている挿 絵(27点)のうち、イギリスのセインズベリー日本藝術研究所に所蔵されている15点を、所蔵者の許可を得て掲載 しています。『日本のマナーと習慣のスケッチ』の巻頭に掲載されているシルバーの手紙によれば、この 挿絵は、シルバーが軍務で日本に滞在していた1864−5年(元治1−慶応1)に、日本のマナーと習 慣を紹介するために収集したものです。 *本ページに掲載する画像の無断使用は禁止します。 (所蔵;セインズベリー日本藝術研究所 イギリス・ノーリッチ) 九州大学デジタルアーカイブ (作成者:九州大学総合研究博物
仙�豪`梵(せんがいぎぼん)(寛延3年(1750)〜天保8年(1837))は、江戸時代後期の臨済宗妙心寺派の禅僧です。美濃国武儀郡の井藤甚八の子として生まれ、11歳で美濃清泰寺の僧侶となり、19歳の時、武蔵東輝庵の月船禅慧に師事しました。32歳の時に月船が亡くなったため、東輝庵を辞して諸国を行脚し、38歳の時に妙心寺塔頭雲祥院、大珠院の推挙で、博多聖福寺第122世住持盤谷紹適の弟子となることを承諾、翌年博多へ招かれ、40歳から62歳に至る23年間を聖福寺の第123世住持としてすごしました。本格的な作画は住職を退任した以降で、禅の教えをユーモアをもって描いています。その画が仙�腰a尚の人柄とともに博多の人々に親しまれ、求められていたことは、「うらめしや わがかくれ家は雪隠(便所)か 来る人ごとに 紙おいていく」という狂歌からもうかがえるでしょう。また子どもたちへの愛情は深く、子どもに与えたと
日本人は古くから鯨肉を食べており、 鯨骨は縄文遺跡からも出土しています。 江戸時代の初め、紀州の太地で突取方式捕鯨法による組織的な操業が開始され、ついで日本独特の網取方式捕鯨法も開発されました。この漁法は急速に西日本の各地に普及し、江戸時代中期に捕鯨業は各地で繁栄しました。主な捕鯨場は、紀州(和歌山県)の太地・古座、 土佐(高知県)の津呂・久保津、肥前(長崎・佐賀県)の生月・小川島、壱岐(長崎県)の勝本、五島(長崎県)の魚目、 対馬(長崎県)、長門(山口県)の見島などでした。 ここでは、国文学研究資料館(<旧>史料館)が所蔵する「祭魚洞文庫」と、長崎県立図書館・ライデン大学図書館が所蔵する鯨絵・捕鯨関係史料を許可を得て、あるいは許可申請中にて掲載しています。「祭魚洞文庫」は、渋沢敬三氏が昭和7年以降に収集した水産史料であり、時期的には江戸時代から昭和期にかけて、地域的には樺太や台湾も含ん
鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長(たけざき・すえなが)が作成した『蒙古襲来絵詞』(もうこしゅうらいえことば)を見ることができます。『蒙古襲来絵詞』には文永・弘安の役(元寇)の様子が絵と詞書によって克明に記録されています。 エンゲルベルト・ケンペル(1651ー1716 ドイツ)は、1690(元禄3)年に長崎オランダ商館医として来日し、2年間滞在しました。ケンペルが収集した膨大な日本関係史料をもとに、1727年に英語版『日本誌』が刊行され、29年にはフランス語版・オランダ版も出ます。 ロシアで最初に世界周航(1803〜1806年)を行ったクルーゼンシュテルン『世界周航誌』の図版を掲載している。日本との貿易交渉は不調となったが、当時の武士や町人、アイヌなどの姿を精緻に描いており、学術的にも芸術的にも貴重な資料。 シーボルト『NIPPON』を見ることができます。『NIPPON』はシーボルト(在日期間
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