サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
Switch 2
note.com/tanahashi
話を聞いたり、物事を見たりして、集めた情報からなんらかの共通点を抜きとって、その傾向を一般化する。 ようするに、抽象化する思考の働きなんだけど、これがあんまり得意じゃなかったり、やらなかったりする人が時々いる。 でも、抽象化を頭のなかでそれなりの頻度で日々やらないと、物事の理解ってなかなか進まないし、いろんな発想をするのにもきっかけがつかめなくて苦労するはずだ。 自分で自分が何の仕事をすればよいかを見つけられなくて、前にやったことがある仕事以外は、仕事の形を決めて用意してもらわないと、仕事ができない。 そして、自分で抽象化して、ああこれはこういうことなんだなというのがつかめないから、外から定義してほしくなる。 抽象化することができるかどうかってほんと大事なことだ。 抽象化なしだと個別対応なんて面倒なことになる抽象化をしないということは、極端な話、個々の事象にいちいちひとつひとつ向き合うだけ
自分用のメモ程度に簡単に。 プロジェクトが良い結果に終わるかどうかのポイントのひとつは、品質に対する想像力だろうなと思っている。 「品質」はプロジェクトマネジメントの知識体系であるPMBOKにおいても10の知識エリアのひとつだが、ここをどれだけ大事にできているか?で、プロジェクト全体の良し悪しは変わってくると感じている。 品質を起点とするプロジェクトを実施する上で、設計が大事だというのは、以前から繰り返し書いていることだし、先日も「設計が役に立つ理由」というnoteを書いたばかりだ。 そのプロジェクト設計を行う際、大事にするとよいと思うのが、品質だ。 プロジェクトにおいて生み出すべきものの品質をしっかりと想像すること。「生み出すべきもの」というのは、最終的な成果物はもちろん、プロジェクトの実施過程におけるコミュニケーションや中間的な成果物の品質も含めて、それぞれどういう状態の品質であれば、
未来への希望がゼロとなった状態を見通す、どこまでもダークでホラーな思想。 それなのに何故だろう。 暗い見通しを表現したものをとにかく好む傾向が僕にはある。 小説でも、音楽でも、映画でも、絵画でも、そして、こうした思想書でも。特にイギリス発のダークな作品はジャンルに関わらず、ずっーと以前から好きだ。 その意味で、この本もとても良かった。 木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義』。 ペイパル創業者にして、Youtubeをはじめ、LinkedIn、Airbnb、 Space X、 Tesla Motorsといった錚々たる企業への投資を行う投資家であり、トランプ支援者であるピーター・ティールのリバタリアン的思想、暗黒啓蒙という思想の源泉となる思想を展開したカーティス・ヤーヴィン、そして、タイトルにもなっている加速主義的思想の父ともされるニック・ランドという、未来にシンギュラリティ的な暗い特異点を
なにこのシンクロ感。 カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』。 一昨日の夜に読みはじめ昨夜読み終えた、量子重力理論を研究する理論物理学者の言うことが、1つ前に読んだ社会学者ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す』でのアクターネットワーク理論の主張とリンクしまくっていて、びっくりした。 この世界は、ただ1人の指揮官が刻むリズムに従って前進する小隊ではなく、互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークなのだ。このロヴェッリによる「世界を出来事のネットワーク」として捉えた記述などは、ラトゥールが以下のように「エージェンシー郡の結び目を紐解く」必要性について記述するのと重なるように思う。 行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。ネットワーク、そして、その結び目。 かたや社会科学者の言
まず循環がある。 循環があるからつながり、変化が起こり、生成が生じる。 社会があるのではない。社会という固定化された何ものかがあると仮定して、それを探そうとするから見つからない。そうではなく、社会が生成されてくる様に目を向けてみるといい。いや、目を向ける必要がある、その把握しきれないほど天文学的な数の生成の複数性に。 ブリュノ・ラトゥールが本書『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』で伝えてくれることを大まかに示せばそういうことになるだろうか。 むずかしい内容ではあるが、さまざまなところに応用可能な考え方が詰まった本だと思った。 アクターネットワーク理論の射程たとえば、「訳者あとがき」に、こうあるとおり、その考え方は、経営や組織を考えることにも有効だと思った。 アクターネットワーク理論は、その出自である科学論(科学社会学)の境界を越えて、さまざまな分野の社会学(都市社会学、
何をデザインするのでもそうかもしれない。 ウェブサイトだろうと、空間だろうと、組織だろうと、イベントだろうと、学校であろうと。 箱と中身の両方をいっしょにデザインすることがなければ、できたものは素晴らしいものにはならないだろう。 箱偏重になっていないか昔から「箱物行政」なんて言葉もあるとおり、箱をつくるのが得意な人は多い。 「日本人は……」とか、つい言いたくなるところだが、たぶん、そうではない。 多くの文化でおそらくそうであるはずで、とりわけ近代化した社会ほど、その傾向はあるはずだ。 つまり、世界は近代化以降、どんどん箱づくりが得意な人だらけになっていっているということになる。 箱をつくるのが得意な多くなる傾向があるのは、そのノウハウは、ある程度、パッケージ化しやすいからだ。 箱だけにパッケージしやすいという駄洒落のようなことを言っているのではない。 箱というのはおおよその場合、機能の組み
現実を記述すること。 自分が生きた現実を記述する。それには大きく分けて2つの方向性があるはずだ。 1つは、自分が見たこと、経験したことを既存の概念やシステム、文脈に合わせて当てはめながら記述すること。 もう1つは逆に、自分が見たこと、経験したことから、既存の概念やシステム、文脈を更新するような発見を見出すために記述をすることだ。 どうせ生きて、記述を行うなら、後者の方が断然いいと思うのだけど、どうだろう。 体験と記述正しいと思うものに沿って生きる。既存の正しさをなぞる。 もちろん、それも大事だと思う。 だが、正しさが足りていればそれでも良いが、不足しているなら、もうすこし正しさを発明した方が良い。 いや、正しさに限らず、人類の、そして、このさまざまな生物が生きる環境をもっと良くするための知は、まだまだ不足しているのだから、みんなで見つけた方が良い。 この世界はあいも変わらず、大きな実験場だ
僕は、どちらかというと海外の作者が書いた本の翻訳本を読む頻度が高い。 特にヨーロッパ系の作者の書いたものを読む機会が多い。 だから、かえって日本人の作者がヨーロッパのことについて書いたものをたまに読むと、違う視点でヨーロッパの特殊性にあらためて気づくことができて、普段と違った感動をおぼえる。 この八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』もまさに、そんな感動を何度もおぼえつつ読んだ。 人として「在る」ということ、他者の「在る」もまた認めるということ、そして、それを認めた上で、自分たち人間がどう生き、どう仕事をするのかということを考えるきっかけを与えてくれたという意味でも読んでよかった。 主題は、人格と三位一体というより、ソクラテスの無知の知良い本と思えたからこそ、このタイトルはこれで良かったのだろうか?という疑問はある。まあ、中身の面白さを損なうものではないのだけど、このタイトル通りの内
本を買うタイミングと本を読むタイミングは同じではない。 読みたいから買うが、いますぐ読むかは別であることがほとんどだ。家に届いたあと、しばらく積んでおいて、読もうかなと思ったときに読みはじめる。 そんな読み方をしてるからか、多くの本は本当に読みたいときに読みはじめられ、そして、たいていの場合、本当にドンピシャのタイミングで読めたと感じられる。 現代社会を相対化する今年の2月に買ったブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』も昨夜読みはじめた。500ページ超えの大著なので読むのに時間がかかりそうだが、80ページくらいは読み進められた。 うん。この本も実に良いタイミングで読みはじめられたようだ。すでにそう感じている。 ラトゥールの本を読むのはこれが3冊目だ。『近代の〈物神事実〉崇拝について』を昨年の11月に読み、『虚構の「近代」』を今年の2月に読んだ。2冊目
がんばってるのに…。 残念ながら、それだけでは足りない。 というより、そう思うならポイントがズレている。 必要なのは、努力そのものではない。 必要なのは、何ができたか、だ。求められるのは結果だということだ。 極端な話をすれば、努力しなくても結果さえでれば良いのだ。 がんばる必要があるところでがんばるもちろん、努力など無駄だとか言いたいわけではない。 努力しなくても結果が出ることだけやっていればいいという話でもない。 ここで言いたいのは、結果を求めていないなら努力することがもったいないということだ。 何のためにやっているかもわからないけど、とにかく、それに時間をかけてます、といったことを何故やるのか?ということだ。少なくともがんばりはじめる前に「何故」を確認する行為が大事だ。 とにかく、すこしも自分のためにならないし、他の誰かのためにもならないことを、努力してやっても報われない。 がんばって
僕が働くロフトワークという会社には、半期に一度、他の人に自分の良いところを褒めてもらう360°レビューという仕組みがある。 一度に3人から5人程度、レビュアーを指名し、指名された側は相手の良い点をちゃんと言語化して伝えてあげるというものだ。 他人への好評価を言葉にする楽しさいつもいっしょに仕事をしていてもなかなか日常的には言語化しないようなところにまで言及してもらえることが多いので、レビューしてもらった側はとにかくうれしくなる、がんばってきてよかったという気持ちになりやすい。 そんなところまでちゃんと見てくれていたんだと思えたり、僕のような歳になると若手がちゃんと努力して自ら成長しようとしてるんだということにもあらためて気づけて嬉しくなる。 レビューを書くこと自体も、僕は楽しい。 あらためて、いっしょに仕事をしている人の良いところを言語化することを通して、あらためて認識しなおしていくことに
質より量を重視すること。 それはブレストやワークショップなどでのアイデア出しの際のお作法としても言われるし、プロトタイピングを通じてユーザーニーズの有無やサービスの方向性等の仮説検証を行う場合においても基本となる方針だ。 細菌はいきなり人間に進化しない共通する考えは、複数の多様な人々が絡んでの価値創造的な場面においては、質の高いアウトプットをいきなり一発で出すことを狙うより、多様な方向性や視点をもった考え方をとにかく量を出してみて共有したり、テストしたりすることの繰り返しや積み上げを通じて、漸進的に質を上げて行くほうが結局は成功への近道だということだ。 生物進化においても、いきなり細菌のような単純な構造のものが人間を代表とする哺乳類のような複雑な構造を持つものには進化しない。 実際の進化が幾重にも段階を重ねて人間にたどり着いたように、標的になるものが遠くにあるほど、質より量を基本にした戦略
「絵画の誕生について知られていることはほとんど何もない」。 古代ローマの博物誌家・大プリニウスが『博物誌』で書いたのを引きながら、『影の歴史』の著者ヴィクトル・I・ストイキツァは、「しかし」といって、こう続ける。 ひとつだけ確かなのは、人間の影の輪郭を初めて線でなぞった時に絵画が誕生したということである。影。対象物によって光が遮られた部分を示す、ネガとしての図像だ。 「西洋の芸術表象の誕生が「陰画=否定(ネガティヴ)」にあるということは、きわめて重要だ」とストイキツァは書く。 その誕生からはるか時が流れた啓蒙主義(en•light•ment)の時代なら、蒙(くら)いものに光を当てて明らかにすることこそが絵画の役割と考えられた。しかし、その起源においては、むしろ真逆な形で光を閉ざしたところで絵画は始まったというわけだ。 この本は、これまで光の芸術として描かれてきた視覚芸術の歴史を、影という正
僕らはきっと実際の物事を見ているより、イメージを見ている方が多い。 そう思うのは、単にスマホやPC、テレビの画面に映し出された静止画や動画に目を向けている時間が長いからというだけではない。街にさまざまなグラフィック広告があふれかえっているというからというのでもない。 そもそも、実際目の前に人間やその他さまざまな物事があっても、果たして僕らは本当にそれらの実在のものに目を向けているのだろうか?と思うからだ。 もちろん、僕らは世界を見てはいる。 けれど、意識にのぼってくる視覚情報はそんなに多くはない。 考えごとなんかしてたら、頭のなかのイメージが優先されて目の前のものがほとんど見えなくなる経験は誰にだってあるはずだ。 本来は目に入っているのに、意識からは省略して消してしまっている部分が大部分なのだろう。 そして、残った部分がイメージであると言いたいが、実際はベルクソンが言っていたように、それは
「知覚を事物の中に置く」。 ベルクソンの、この常識的な感覚とは異なる知覚というものの捉え方が、より常識はずれながら、哲学がなかなかそこから抜け出せない精神と物の二元論の罠から逃れるきっかけとなる。 知覚を通常考えられているように人間の内面の側に置くのではなく、身体が運動の対象としようとする物の側に置く転倒は、ベルクソンの『物質と記憶』の数ある「目から鱗」な考えの1つだ。 そう1つ。この本には他にもたくさんの「目から鱗」な事柄がたくさんある。 そして、そのどれもが納得感のあるもので、僕はこの本で一気にベルクソンのことが好きになった。 『有限性の後で』より前に昔から、どうしても腑に落ちなかった。哲学が、物質と精神を執拗に分け隔ててしまうことが、だ。 ひどいもの(メイヤスーが「強い相関主義」と呼ぶもの)になると、カントの物自体への接近不可能性を超えて、認識できない存在(物自体)を考えること自体、
想像力が大事だ。 他人のことを想像する力、自分の言ったこと/書いたことがちゃんと相手に伝わるかを検討してみる力、自分が行うこと/行なおうとしていることが外にどんな影響をもたらすかを想像する力、自分の仕事がどういう結果につながるかを想像する力。 ようは自分の言動に責任をもつために、想像力は欠かせないということだ。 だから、「自分勝手ではない」というのは、こうした想像力を常に働かせているか?ということに他ならない。だけど、自分勝手じゃないと言いつつ、こうした想像がほとんどできてない人は山ほどいる。 残念ながら、「自分勝手をしてるつもりではない」ということだけでは、実際に自分勝手ではないということにはならない。自分勝手かどうかは、あくまで自分が行うことが他人に、外部にどう影響してしまうのかを想像した上で行動の選択を行なっているかどうかによって決まるのだから。 目の前にない像を想う想像力というのは
問題を適切に理解し、課題解決策へと転換する。 よりシンプルに言えば、問いと解の両方をつくりだすことだ。 状況を適切に理解するたとえば、関係者へのヒアリングや事前調査の資料の閲覧を通じて、あるクライアントの現市場環境における問題を洗い出し、適切に取り組むべき課題を設定し、力のある解決策を見つけだす。「力のある」とは、その解決策によって社会的環境に大きな変化を及ぼし、クライアントにとっても利点があるようなものだ。 また、たとえば、クライアント自身が具体的な問題を把握していない場合もあるだろう。 既存のビジネスの延長ではない新たな領域でのビジネス展開を考えているときなどだ。その場合、現状は把握のためのリサーチそのものの課題設定そのものからクリエイティブな作業となる。 しかし、それとて適切な情報収集に基づいて状況を理解し、課題解決へと転換する、同じ流れを踏めれば、そんなに大きな違いは本来はない。
昨日紹介した『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の番外編。 著者のエイドリアン・ベジャンによる知能と知識に関する、こんな区別についても紹介しておきたい。 もし物理学現象としての知識と知能を区別するとすれば、知能は知識を所有したり、創造したり、伝えたりする人間の能力ということになる。 まず「物理学現象としての知識と知能」っていうのがいいよね。知識や知恵まで物理学の現象として捉えようとする徹底した姿勢。 で、物理学現象としての知能がそんな風に知識を扱う能力だとすれば、知識のほうはどうか? 知識とは、アイデア(デザイン変更)と行動(デザイン変更の実行)という、同時に存在する、デザインの2つの特徴の名称なのだ。データや本のページは知識ではない。デザイン変更は自然に広まり、動きの拡がりを促進し、高める。 ここで、知識とは、アイデアだけではなく、それを実行に移す行動も含めたものだ
とてつもなく示唆に富んだ本だ。 これを読まずして何を読む? そう言ってよい一冊だと思う。 進化とは、単なる生物学的進化よりもはるかに幅の広い概念だ。それは物理の概念なのだ。と著者で、ルーマニア出身のデューク大学の物理学教授であるエイドリアン・ベジャンは書いている。 この本でベジャンは物理学視点によって生物の進化と、河川などの無機物の変化、さらには人間によるテクノロジーの進歩の流れを、統合的に予測可能なものにしている。 本書は、生命とは何かという問いの根源を探求しようという私の試みであり、そのために、動くもの、動きながら自由に変化するものすべての最も深い衝動や特性を吟味する。とベジャンがその目的を記した、この『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、あらゆる変化が時間の経過そのものだということを示している。ベジャンの、生命とは何か? 問うべき対象である生命そのものを従来と
いまの時代、物事をシステムとして捉え、思考する力が何より必要だと、強く感じる。 いま読んでいるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、そのタイトルにあるとおり、世の中のさまざまなことを「流れ」に着目する。「流れ」という観点で考えることで、生物に限らず、あらゆる進化が世の中の流れや動きをより良くするためのデザイン変更であることを提示する。 力の生成と消費と動きは、進化の統一的見解を提示する。この見解によって、動物のデザインと動き、河川流域、乱流、運動競技、テクノロジー、グローバルなデザインなど、進化の現象が科学的に観察され、記録され、研究されているすべての領域の説明がつく。進化とは、時の経過とともに起こるデザインの修正であり、生物の地表と無生地表の全体へそうした変化が拡がることを意味する。川の流れはより効率よく水が流れるようにその流域のデザインを
いっしょに創るための技術が足りない。 これだけ「共創」だとか「協創」なんてことが言われていながら、まだまだ世の中では、どうやったらうまく効果的に異なる文化や専門領域をもった他の人たちと仕事ができるかという観点での技術は、残念ながら未熟な段階にあるなと感じる。 個人においても、組織においても、共創技術が未熟それは個々人の考え方や仕事をする上でのスキルという面でも、共創のスタイルで仕事をするためのものに書き換えられていないし、それを学習、教育するための仕組みもまだまだ整備が圧倒的に不十分だ。 共創に参加しているはずの人が、どうしたら文化や専門性の異なる人たちと、議論し、共同作業し、それぞれの誰もがかたちにしえなかった新たな価値をその共同ワークから作り得るのかについての知識を持っていないケースは少なくない。具体的なワークにおける振る舞いにおいても、どうすれば共創のためのコミュニケーションが成り立
視野の広さって大事だと最近は繰り返し思う。 見えてないものは考えられないし、見えてないものには感情を動かされもしない。実際には、起こっている出来事でも見えてなければ、心配にもならないし、どうにかしなければとも思わないし、何か行動を起こそうとも思わない。 ようは視野が狭いと、行動や思考がかなり制限されているということだ。 危機も、チャンスも、目に入ってこなければ、何をしていいかもわからないし、そもそも何かしなくてはいけないと感じることもない。 視野が狭いと、冒険にも向かないし、実験的行動にも向かない。新たな発見や発明などはとんでもない。 昨日「保守的であること」について書いたけど、まさに視野狭窄が意志にかかわらず人を保守的にしてしまうということだ。 見ようとしなければ見えない空間的な視野の広さ、時間的な視野の広さ。 自分のまわりのこと以外がほとんど見えていなければ、過去も未来も視界に入ってい
むずかしい本を読んでるね、と言われることは少なくない。 まあ、そうだとは思う。 でも、一方で「むずかしい本」って何だろう?と思ったりもする。 むずかしい本とそうではない本があるような言い方だが、果たしてそうなのか? そんな風には到底思えない。だって、むずかしいと言われる本と、そうでない本に違いなんてないんだから。 むずかしさは本の側にはない、日常の側にある本そのものがむずかしいことなんて、そんなに滅多にない。 大抵の「むずかしさ」は、子供がはじめて自転車に乗るときのむずかしさと同じだ。 やったことないからむずかしい。 慣れないからむずかしいだけである。 ようは経験値の問題が大きく、本の場合に戻すと、そこに書かれている事象に馴染みがない場合、むずかしいと言ってるだけだ。 ビジネスマンだったら日常の言葉や論理展開に近いビジネス本を読むのがむずかしいと感じなかったり、小説などは日常的な会話や感情
実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十分その条件下においては論理的だし「正しい」。 そういう思考のオルタナティブを示してくれるからこそ、そうした過去の人類の信仰や文化に触れたりすることは楽しい。自分たちがいかに凝り固まった考えに囚われているかに気づかせてくれるから。 それに、現代の僕らの判断だって、状況をどう捉えるかによって、一見「正しい」と思えるものが「正
"わたしたちは実際にポストヒューマンになっている。あるいはわたしたちはポストヒューマンでしかない。" しばらく前から明確に、いまの時代にあったことをしたいし、いまの時代が必要とすることをするべきだと思うようになっている。そんななか、このロージ・ブライドッティの『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』は、いまの時代に何を考え、何をなすべきかを問うための1つの方向性を提示してくれる1冊だった。 「人間」という時代遅れの枠組みいまや「人間」というあり方がゆらいでいる。 技術によって高度化された義肢や、VRやARなどをはじめとする人間の感覚・認識を拡張するツールなどにより、従来の人間の身体的な限界は更新され続けている。AIやロボットの技術革新は人間と機械の境界をぼやかしつつあるし、彼らに人間の権利であった仕事も奪われつつある。人間と人間が作りだす機械の境界はますます曖昧になり、たがいに融合してい
いまの時代に必要な創造的なビジネススキルの1つがキュレーションする能力なのではないかと最近思っている。 さまざまな人々のさまざまな創造的な成果や活動を集合させ、それらを組み合わせたものを見せたり、語ったりする。そこから個々の要素それぞれからだけでは生まれない、ストーリーやメッセージを生みだすキュレーション的な創造。 そうした創造的行為が、このさまざまな問題が幾重にも複雑に重なりあった時代における問題解決やムーブメントの創出には必要なのではないかと思うからだ。共創なんて言葉がもてはやされているのだから、異なる分野の人が集った場で個々に異なる能力をうまく引きだすファシリテーションを行いつつ、それらの結合から新たな価値を編み上げていくようなキュレーションが大事になるのはある意味当然ではないか。 単に集めて並べただけでは何も起こらないキュレーションという言葉は、そもそも博物館や美術館、図書館などの
「誰でも知っているとおり、長く働いたからといって仕事がはかどるとはかぎらない」。 この科学技術全盛ともいえる21世紀に、僕らはいまだ科学的にみたら不合理だらけな仕事や生活をし、社会や環境のデザインをしてしまっている。 そんな考えが、最近僕自身のなかで徐々に否定しがたく明らかになってきて唖然としている。 自分たちがこれからも健やかに生きる環境というものを、最近の科学の研究結果を参照して考えてみた場合そう思うのだ。 僕らは健やかに生きる環境というものをもっと科学的にみてデザインし直さないといけないと。 サバンナに生まれた種にとってのブラックな労働環境例えば、この『サピエンス異変』。 この本では、腰痛や2型糖尿病のような現代人だけがかかる病気の要因を作っているのが、何百万年も前にサバンナに生まれ、狩猟のために歩き回る生活に適応するよう進化した人間の身体が、1日15時間を超える時間をじっと座ってい
「先進技術を発展させた文明は、平均してどの程度長く存続できるのか?」 この問いは、1961年にアメリカの天文学者フランク・ドレイクによって考案された、この銀河系に存在し、地球に生きる僕たち人類とコンタクトできる可能性をもった地球外文明の数を推定するための方程式における、7つあるパラメーターのうち、最後の1つだ。 他の6つは、 1.この銀河系で1年間に誕生する恒星の数 2. ひとつの恒星が惑星系を持つ割合 3. ひとつの恒星系がもつ惑星のうち、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数 4. 生命の存在が可能となる状態の惑星で、実際に生命が発生する割合 5. 発生した生命が知的レベルにまで進化する割合 6. 知的なレベルになった生命体が星間通信を行う割合 となっている。 この6つのパラメーターに、さらに、そうした生物が現在もなお存続している割合として、先の7項目を掛け合わせれば、自然と地球外生
「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』が、なかなか面白い。 「自分たちから見た異文化に対しては問題なく遂行できる研究でも、西洋文化(「自然-文化」と呼ぶべきか)に対してはなかなか遂行できない」というラトゥールは、自分たち西洋人が生み出した人類学という人間の文化・社会がどんな基盤の下に成立しているかを分析する方法が自分たちの外の異文化には適用できても、自分たち自身の文化にはうまく適用できずにいることを指摘する。 自然-文化その要因としてラトゥールがあげるのが、西洋近代が絶対的なルールのように囚われている決して交わることのない「自然-文化」という二元論的なものの存在だ。"文化人類学"として、そもそも文化の軸から異文化における自然と文化の混淆をみる既存の人類学では、以下の図の上半分に示されたように、人間の文化と異なるものとして
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『棚橋弘季 Hiroki Tanahashi|note』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く