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miyuyuchang.hatenablog.com
介護施設に入所していたに母が老衰で亡くなる一ヶ月ほど前(2022年5月)に、母の弟(私達にとっては叔父さん)に会わせることができました。 母の兄弟はたくさんいましたが、長生きしていると皆 他の兄弟たちは次々と亡くなってしまいます。 唯一生き残った叔父さんは、母とはひと回り違う弟です。 その時点での母は、そろそろ看取りに入る直前だったので、会いに行ってもウトウトまどろんでいることが多く、呼びかけても全く目を開けてくれないこともありました。 ちなみに看取りというのは、無理な延命治療は行わず、自然に亡くなるまでの過程を見守ることです。 しかしこの日、母の弟である叔父さんが顔を見せると母は珍しく目を精一杯開けて、叔父さんの呼びかけに反応し始めました。 もう声を出す力はありません。それでも、叔父さんの呼びかけに時折「うんうん」と頷き、マスクの下の口をなにか言おうとモゴモゴ動かしていました。 かなり弱
2022年6月 介護施設にいた母は 96歳で天寿を全うしました。 お昼に少しだけゼリーなどを口にした後、ベッドに戻りウトウトしているそのちょっとの間に、母の呼吸は止まっていたようです。 認知症はありましたがその他には取り立てて持病はなく、要介護レベルは今年3月の最後の認定で要介護5でした。 そろそろ危ないかもしれません、と言われてから亡くなるまでの間、ずっと気持ちがざわめいていて、ブログの記事を書くこともできませんでした。 いろいろな事が片付いて、気持ちもだいぶ落ち着いてきたので、また少しずつ書き残していけたらと思います。 そろそろ危ないと言われた看取りの段階に入ってから 一ヶ月以上は生きていてくれたので、それなりに心の準備はでき、お別れの時間はたっぷり与えてもらえました。 母は4月までは とろみ食を介助されながら摂取できていたようですが、5月に入ると口に入れてもらったスプーンを舌で押し返
今回は変形性股関節症発症から7年目 2016年6月の記録をもとに書いています。 この時期には、通常の親の介護に加え、家の大掃除や長年倉庫にあった不用品の片付けなどをしていたこともあり、脚の痛みはいつも以上に強く出ていたようです。 整骨院には、月に一度くらいのペースでまだ通っています。 この当時の日記によると、このところすぐに疲れてしまうので、家事などの立ち仕事がつらい、と記されています。 ある日、何気なくホームセンターのチラシを見ていたら、ぶら下がり健康器が目にとまりました。 変形性股関節症により身体のゆがみを強く感じていることから、ぶら下がってみるとけっこう気持ちいいのではないかと思い、ぶら下がり健康器を買ってみようかと考えました。 でも、置けるようなスペースはあるだろうか? 高齢の両親が危なくないように、家の中をスッキリ片付けている最中だったので、物を増やすようなことはしたくなく、しば
2022年3月末 桜が満開の頃に親友のお母様が亡くなりました。 親友である彼女とは学生時代からの長い長い付き合いです。 お互いにずっと独身で実家で両親と一緒に暮らしていた、という、とても似た境遇であり、今となっては身内に近い存在になっています。 病院ではずっと面会できなかったようで、危篤状態となり約3ヶ月ぶりに、そこでやっと母親に会えたようです。 親の介護がスタートしたのは、私の方がだいぶ早かったのですが、彼女もここ4~5年前くらいからは、在宅での介護をすることになりました。 彼女のお母様は昨年の秋頃までは自宅にいられたようですが、徐々に食事がきちんと摂れなくなり入院。その後、12月頃から病院での点滴となり、結局点滴だけでも3ヶ月以上は生きられたことにはなりますね。 これは当然個人差はあるとは思いますが、ネットで調べてみたところ、老衰に向かう際の点滴になってからの余命は、平均3ヶ月程度のよ
変形性股関股節症発症から7年目 2016年3月~5月頃の様子と、2022年現在の様子も併せて書いておきたいと思います。 今回は、股関節痛とは直接関係のない症状についての記録となります。 2016年、この頃から、手の指にポツポツと湿疹が出るようになり、皮膚科に何度か通っています。 最初は手だけだったので、家事や水仕事などをする人によく現われる手湿疹と診断され、塗り薬を処方され、素手で洗い物はしないように言われました。 なので、洗い物をするときには中に綿の手袋をして、外側はゴム手袋といった完全防備状態に。 在宅介護をしていた時期だったので、なにかと洗い物は多く、そのつど二重手袋をするのはとても大変でしたが、湿疹が悪化するのも怖かったので、それでもなんとか頑張ってやっていましたね。 塗り薬にはわりと強めのステロイド剤が出たので、抵抗感はあったものの、塗ってみると、手の湿疹はすぐに治っていきました
今回は、2014年6月 母の在宅介護5年目の記録を振り返ります。 母がデイサービスに行っている間には、日頃できない箇所の掃除などをこなしておく。 母の洗濯物が多い。梅雨時は大変。アイロンも使って頑張って乾かす。 この頃にはまだ少しだけ余裕も作れたのか、図書館にもたまに行っていました。 6/16 母は一晩中右肩を痛がっていて、私も気になりよく眠れず。 一日前のデイサービスでなにかあったのだろうか? 送ってきた際に、ワーカーさんからは特に報告は受けていなかったけれど。 この日の夕方からは体の力も抜け、熱が8度2分ほど出る。 夜寝てからも、なかなかトイレに立つことができず。 翌6/17日 深夜0時過ぎ、リハパンもパジャマもビショビショにしてしまう! なんとか立たせてトイレに向かわせてみたものの、途中で転んでしまい断念。 やっとのことで移動させて布団に戻り、寝かせたままでリハパンもパジャマも交換。
今回は、認知症になった母の在宅介護5年目 2014年5月の記録と、2022年1月現在施設にいる母の様子について書いておきたいと思います。 5/3 初めてのデイサービスに行って帰ってきてからは、思ったより元気そうに見受けられました。しかし、夜間トイレに入ってから出るときに脚の力が入らなかったらしく、トイレの前で転んでしまいました。 突然慣れない環境に身を置いて、肉体的にも精神的にもかなり疲れていたのでしょう。 見た目だけでは なかなかわかりませんでした。 転んだことは本人 ショックだったようですが、特にケガをしている様子はなく、多少打ったところが痛い程度で済みました。 翌朝起きてからも、特にどこか痛がることもなく、いつも通りの生活が送れました。 5/7 とりあえずデイサービスは週1日だけ頼んでいたので、家でもお風呂に入ってもらわないとなりません。 最悪、またなかなか入ってもらえなかったり、
今回は、変形性股関節症になってよかったと、思えることについて書こうと思います。 えっ!? よかったことなんて、本当にあるの❔ と、ほとんどの方は当然思われるでしょう。 もちろん、心からよかった、なんて思えることはありません。 でも、私の人生において簡単には取り除けないこの障害は、私にとってなにか意味のあるものではないかと捉え、そのポジティブな意味についてずっと考えていました。 最初に思いついたよかったことは、障害のある人に対する緊張感がなくなった、という点です。 脚に問題がなかった頃には、障害を持った方が身近にいなかったこともあり、なんとなく抵抗感や緊張感がありました。また、必要があればサポートしたいという気持ちを起こす自分に対しても、偽善的なものを感じモヤモヤすることもありました。 今はそのようなモヤモヤは全くないです。認知症の方に対しても、同様です。 そして、2番目に思いついた良かっ
12月中旬、ドクターから家族にお話があるとのことで、母のいる介護施設から連絡があり、兄とふたりで行ってきました。 施設内の医務室に通され、施設長さんやケアマネさんも同席されました。 今現在の母は、食事が十分に摂れなくなり、体重の著しい減少が起こっています。 昼間でも眠っている時間が多くなっています。 ヘモグロビンの値が5.7と低く、かなりの貧血状態です。 体内出血などはないかの確認のため、簡易CTを撮ったらしいのですが、そこでは明らかな問題は見つからなかったようです。 ただし、入念な検査をしてみれば、重篤な病気は見つかるかもしれません。 今の段階でも、水腎症、腎臓に石、肺にも少し水は溜まっているようですが、年齢を考えると本人に負担のかかる、無理な治療の必要はないでしょうとのこと。 ドクターにしても施設側にしても、私たち家族の今後の意向を確認したかったようです。 それはこの先、母に老衰死へと
母が入所している施設では、制限時間は15分となっていますが、11月からはパーテーション越しではなく、直接会うことができるようになりました。 先週も会いに行ってきたのですが、今までにはなかった母の老衰変化を感じ、いつになく不安になりました。 いつものように車椅子で連れてこられた母は、ウトウトして半眠りの状態。 今までにも、会っている間に眠りそうになってしまうことは何度もあったし、そんな時はちょっと身体を揺すったり、呼びかけたりしてみればすぐに目を覚ましてくれたので、今回も同様に起きてもらおうと思いました。 ところが、今回はどんなに揺すったり呼びかけたりしてみても、深く眠り込んでいて一向に目を覚ましてはくれません。 こんなに深く眠り込んでしまっている母を見るのは初めてだし、人ってこんなにも起きないものなのかと驚きました。 結局、眠ったままの母と過ごす15分はあっという間に過ぎ、面会は終了。 せ
変形性股関節症発症から6年目 2015年9月~12月の記録 この年の9月頃からは 変形性股関節症に効くと言われていた、貧乏ゆすりも取り入れ、意識して脚を動かすようにしてみました。 この場合の貧乏ゆすりとは、股関節や膝関節を自分で意識して小刻みに動かす運動(ジグリング)のことです。 その細かい振動を起こすことにより、軟骨の再生を促し股関節がスムーズに動かせるようになり、股関節痛にも効果が高いとされています。 健康雑誌でも貧乏ゆすりは変形性股関節症に効果的!といったテーマのものが、今でも時折登場しています。 ちなみに、その貧乏ゆすりのやり方は、 ■ 足の裏がきちんと床に着く高さの椅子に座り。ひざの角度は90度か、それ以下になるようにします。 ■ 一方の足のつま先を床に着けたまま、かかとを小刻みに上下させます。 かかとは2㎝程度上がっていればよいので、できるだけ小刻みに回数を多くした方が効果的な
感染者数がだいぶ落ち着いていることから、母が入所している介護施設では、11月から面会の制限がだいぶ緩和されました。 要介護4で、介護施設に入所している母親(95) とは、今月1年と8ヶ月ぶりに直接会って触れ合える形での面会を果たすことが可能になったのです。 10月まではパーテーション越しに2m位の距離をあけて会うことしかできなかったので、触れることも会話もままならず、もどかしい思いをしてきたものです。 距離を置いて面会していた頃は、アクリルボードの先にいる母が、まるでバーチャル空間に存在するアバターのような、実体のないものに思えるように。。 ようやく直接会えて、1年8ヶ月ぶりに母の手を握った瞬間は、涙がこぼれるほどの感動でした。 触れ合うことで、ようやくリアルに母親を感じることができました。 母が生きている間には、もう触れることはできないかもしれない、という覚悟もしていました。 約2年ぶり
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」 今回は、募集テーマのひとつであった「10年で変わったこと・変わらなかったこと」について書いてみたいと思います。 2011年頃からの10年間は、私の人生の中でも、あらゆる意味で一番大きな変化を迎えた10年だったと思えます。 この10年間で、子供の頃からずっと一緒に暮らしてきた父は亡くなり、母は認知症になり次第に在宅介護も限界を迎え、介護施設に入りました。 生まれた時からずっと一緒に暮らしてきた4人家族が、兄と2人になってしまいました。 この10年間で、私の変形性股関節症は進行し、歩行が困難になり、日常生活にかなり支障が出るようになりました。 ここまでの変化を客観的に見てみると、なんだかとても辛いだけの10年といった感じに見えてしまいますね。 たしかに失ったものは多く、辛いことも多かったですが、その分得られたものも多く、
認知症になった母の介護5年目 2014年5月の記録 5/1 あさってからデイサービスを依頼している施設のセンター長さんが、ケアマネさんと共に午後からわが家へ訪問。 契約書などの説明を受け、多数の書類を預かりました。 母も一緒に話を聞いたのですが、何についての会合なのかは、わかってはいませんでしたね。 それでも、ケアマネさんやセンター長さんが母に向けてもいろいろ話して下さり、その都度母も、適当に返事したり調子よく相槌を打ったりしていました(笑) この当時の母は、耳が遠くなければもう少し状況は理解できたかもしれません。 この日も私に対しては、「お茶菓子とかあったでしょ?」「もっとなにか出したら」と指示を出し、来訪者に対しては「お茶、飲んでくださいよ」「疲れたでしょう」「ご苦労様です」といったような、気配り発言はできていました。 おもてなし好きだった母にしてみれば、お客さんが来ているのにお茶しか
変形性股関節症発症から6年目 2015年5月6月の記録 5/10 注文しておいたトレッキングポール届く。 5/13 少し遠出の外出をする際に、トレッキングポールで歩いてみる。 5/14 杖をやめてトレッキングポールに替えたせいか、ある程度歩いた翌日でも、筋肉痛の出方がたいぶ違う。 5/15 ステッパーを踏む。膝上げ筋トレ左右10回。テニスボールと結束ヒモを使ったいつもの脚の矯正をこなす。 5/25 夜間、脚が痛くて、楽股ちゃんで押すことが多くなってきた。 6月 蒸し暑くなってくるにつれ、頭痛、関節の痛み強く出るようになる。 脚の痛みと体調悪い中、細々と仕事も請け負い、介護もこなす。 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ この年の5月。トレッキングポールを使った歩行を始めています。 トレッキングポールとは、これですね。 👇 登山する人が両手に持って歩くものです
認知症になった母の介護5年目 2014年3月の記録 3/7 市役所へ介護申請の手続きに行く。 申請にあたって、調査員が後日訪問し、母の現状を調査するとのこと。 主治医の意見書も必要とのことで、依頼して下さいとのこと。 それから10日後の3/17 調査員の女性がひとり来ました。 母には、認知能力を判断するような簡単な質問や、身体能力を見る動きのチェックなどをしました。 介護者である家族には、母の日常の様子や介護で困っていることなど質問されました。 介護認定が受けられた後、利用したいサービスについても聞かれたと思います。 うちではとにかく、母の入浴問題が深刻化していたので、定期的にお風呂に入れてもらいたいことを伝えました。 また、認知症本人が証言していることと、現状が違っていることも多々あるので、その点の訂正点なども知りたいようでしたので、それはその都度伝えました。 「本人はああ言ってますが
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」 もしも一日だけ過去のどこかに戻してもらえる魔法があるとしたら、私は9歳の頃の、ごくごく平凡な日に戻してもらいたいと考えています。 時代的には1971年(昭和46年)です。 1971年 私は小学校2年~3年生でした。 その頃うちは、父がサラリーマンとして働き、母は専業主婦、兄は私とは7学年離れていたので、中3~高1でした。 両親と子供二人という、ごくごく平凡な4人家族でした。 私は毎日元気に小学校に通い、帰宅してからは友達と遊ぶか、家で本を読んだり母と過ごしていました。 習い事はまったくしていませんでした。 私自身なにかを習いたい気持ちはなかったし、親も特に何か習わせようと勧めることもありませんでした。 この当時であっても、何も習い事をしていない子供は、珍しかったように思います。 母の口から 「勉強しなさい!」 という言葉を聞いたことは
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」 今回はテーマ投稿に合わせた内容で書かせていただきます。 2019年9月26日木曜日 その日は生まれてからずっと一緒に暮らしてきた、両親と兄そして私という、家族4人での暮らしが最後になる日でした。 認知症で要介護4となった母は、翌日から介護施設の入所が決まっていました。 父は95歳、母は93歳、兄は63歳、私は57歳でした。 10年近く、兄と力を合わせ在宅での介護を頑張りましたが、とっくに限界を超えていました。 入所までにかなり待たされ、やっと順番が回ってきたのですが、ほっとする気持ちなどまったくなく、ギリギリまで母を手放したくない想いに駆られていました。 母の入所が決まってから、猛スピードで老衰へと向かってしまった父は、母が家を去ってから10日後に救急搬送され入院、そのたった1か月半後には亡くなってしまいました。 母がいなくなってから
変形性股関節症発症から5年目(2014年前半)の記録 この年のお正月頃の日記を見ると、脚の痛みはわりと安定している、と書かれてあったものの、1/10日頃にはまた 自転車に乗るために脚が上がらなくなったりしています。 わりと調子が良いときもあれば、悪いときもあるといった繰り返しです。 電車と歩きを使っての移動も、1時間以内の距離が限界となってきています。 ある程度歩いた日の翌日は、全身の筋肉痛に苦しめられました。 発症した最初の数年は、変形のある左股関節周辺の筋肉が痛いだけだったのに、右脚や腕なども含む全身の筋肉痛がひどく出るようになってきました。 この頃には、変形性股関節症の保存療法についての本や、雑誌などを、図書館も利用したくさん読み漁りました。 テニスボールを使った矯正法もわりと効いたので、積極的に取り入れ日課にもしていました。テニスボールを2個つなげたものを内ももの間に挟み、足首とひ
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