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インタビュー
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1. 「弱さ」を晒せないという「弱さ」とは? 「女性」の友人と話していて驚かされることのひとつは、彼女たちが自らのプライベートの詳細を、たとえば、お付き合いしている男性とのあれやこれやの出来事や悩み事などの情報を、親しい友人たちの間でかなり共有しているということだ。もちろんグラデーションがあることだが、少なくとも「男性」の私が、悩みなどを友人などに打ち明けないこととはとても対照的で、分かってはいてもなかなかの衝撃を受けてしまう。 その違いは当然、歴史・社会的に構築されているものだけれども、「女性」の他者とのコミュニケーションのあり方のようなものが、「男性」の私とは異なることは、他人と築いている人間関係の生態系の違いからもみてとることができる。そして現在の日本社会のなかで、おそらく「生きやすい」のは、「女性」たちのコミュニケーションのありかたなのだろう。 「男性」たちのなかは、急激な社会の変
「メタフィクション」から「パラフィクション」へ。なんて言い方をすると、もしかしたら読者は、新しい時代の萌芽のようなものを言い当てることが、本書の趣旨のように思うかもしれない。「〜から〜へ」という表現は、新しい時代の到来とその特徴を記述する際の煽り文句として使用されることが多いからだ。 確かに著者は、本書の目的を「メタ」と「パラ」の境界を画定することだと述べているし、近年の特徴的なテクストを解読することに多くの紙面を割いてもいる。けれども、ここで探り当てようとされているのは、新旧をシャープに切り分けるような時系列に基づいた単純な物差しではない。 2つのフィクションのジャンル、「メタ」と「パラ」は、いつの時代においても、あらかじめテクストの内部に、ともに存在しているものなのである。この2つは同根なのであり、テクストの発生と同時に生まれた「読者」と「作者」との関係のあり方のことなのだ。だから、本
今回は、珍しく商業誌でない作品について書いてみたいと思います。 この場所は、インディーズとかメジャーとか、特に隔てなく並べてみることも目的のひとつだったので、その意味では、原点回帰とも言えるかもしれません。って、今思い付きました。 『パラ人』は、京都で2015年に開催される国際現代芸術祭「parasophia(パラソフィア)」をきっかけに誕生したフリーペーパーです。「parasophia」の「magazine」だから、「parazine」。その発音に「パラ人」という日本語の表記を与えたのは、そこでは「人」が中心にいるから、と編集長(パラ集長?)の吉岡洋さんはおっしゃっています。 このフリーペーパーで多くの誌面が割り振られているのは、『パラ人』とはそもそもどういう媒体なのか、「parasophia」という言葉をどのように理解するか、という自己言及的な「雑談」です。その内容は、一見すると
「別の価値を持つ場所を繋ぎ合わせて、豊かな生活をつくる。」、『フルサトをつくる』(伊藤洋志 × pha 著) 当たり前のことであるが、「故郷」(ふるさと)という言葉は「生まれ育った土地」のことを指す。けれども、本書では「フルサト」とカタカナ表示にすることで、その「故郷」の中にある機能を指す言葉として使用しているのだ。 つまり、「フルサト」は必ずしも「生まれ育った土地」である必要はないということなのだ。その機能こそが「フルサト」なのである。それはどのような機能なのか。それは本書を読み進むことで確認することができるだろう。 近年、田舎暮らしと都会暮らしを組み合わせるライフスタイルの流れは徐々に強まっている。それはどのような潮流として位置付けることが可能だろうか。その位置付けをここでは2つの観点から行ってみよう。 1つは、歴史的な観点。 近代化は、田舎から都市に、ヒト・モノ・カネが移動させつつ、
「グローバル化と民主主義の両立不可能に抗うために」、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(宮台真司 著) 私たちはどこから来たのか 「私たちはどこへ行けるのか/行くべきなのか」。この問いに答えることが本書執筆の目的である、と著者は言う。そして、そのために「私たちはどこから来たのか」を主題とし、過去と現在、そして未来を一つのコンテクストにして繋いでいく。 日本の近代化はその過程において、それまでの地域共同体を解体していくベクトルを含んでいた。明治時代の始まりから第二次世界大戦に至るまで、その共同体の空白は天皇制ファシズムが機能する場所となる。そこに「想像の共同体」が生成されたのだ。そして戦後、日本における共同体の場所は、年功序列と終身雇用を基本とした会社社会とその経済力に支えられた家族にあった、というのが一般的な見解だろう。 しかし、グローバル化の流れに伴い、格差や貧困の度合いが増し始め
「身体は着実に年を取り衰えていくのに、人生の老成の仕方がわからない。」 本書は、そのような苦悩のあり方を「若作りうつ」と名付け、その原因となっている社会的背景を分析し、そのひとつの処方箋を提示している。 このような問題を抱えている社会的階層は、いわゆる「自分探し」の時代を生きたかつての若者たちだ。著者自身もその時代を若者として生きた当事者でもある。当時、「自分探し」的な生き方は肯定的に語られていたが、その着地点はいまだに上手く示されていない。 アメリカの心理学者、ロバート・リフトンは、「自分探し」的なライフスタイルの人びとを「プロテウス的人間」と呼び、新時代の強者のライフスタイルとして紹介した。プロテウスとは、ギリシア神話に登場する「自分の姿を自由自在に変えられるけれども、真の姿をあらわすことができない」神様のことだ。 それから約30年以上を経て、日本において「プロテウス的人間」のような人
「マイルドヤンキー」の経済活動 著者の原田曜平さんは博報堂ブランドデザイン若者研究所のリーダーで、若者の消費行動やライフスタイルの研究とマーケティングを行っている方。本書はその若者研究の成果のひとつだ。 本書では、これからの日本経済において重要になると予想されるある層のライフスタイルや消費傾向が紹介されている。それは「マイルドヤンキー」と呼ばれる層である。 「マイルドヤンキー」とは、「上京志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」のこと。この層は、地縁を大切にする保守的な意識を持っており、「新保守層」と呼ぶこともできるとされる。 「マイルドヤンキー」の上昇志向のなさと、「いま、ここで築いている生活に対する高い満足度」は、密接に結びついている。そのため、彼らが望む消費は、かつてのヤンキーたちのように「今の自分を変革し、高いステージに上るための消費」では
「環境管理型社会における想像力と民主主義の探求」、『福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2』(東浩紀 編) 本書の根底には、「人間は忘れやすい動物であり、また驚くほど軽薄な存在である」という人間観が流れている。このことは巻頭言で責任編集の東浩紀氏が明言しているが、本書で提示されている観光地化プロジェクトがネット上などで多くの人たちに拒否反応を引き起こしている理由のひとつは、おそらくこの人間観にあるのだろう。 しかしここで重要なのは、この人間観が東氏個人の人生訓のようなものではないということだ。人間は忘れる。そして、自分とは関係のないとみなした他人を景色のように見ている。いや、多くの場合、景色にすらならない。多くの人々にとって世界というものは、関心よりも無関心に溢れている。 そのような現状を前提にして強い批評的機能を発揮するためには、人びとが暮らす環境の設計に介入することが必要
「『ネオセカイ系』の物語類型が示すもの、日本のサブカルチャーにおける『実存系フェイズ』からの離脱」、『魔法少女まどか☆マギカ』 本エントリでは、アニメ「まどか☆マギカ」(以下、「まどマギ」)の物語類型を「ネオセカイ系」とし、それをきっかけに「セカイ」の問題への向き合い方の変化について述べていく。 もちろん、ここに述べらるのはアカデミズムのような精確さを持ってしてなされるものではない。そうではなく、これはある種の精神分析のようなものであり物語なのであると言う方が適切であろう。 「まどマギ」において越えるべき最大の壁として「ワルプルギスの夜」という災難がある。この「ワルプルギスの夜」と「3.11」、両者のイメージが起こすシンクロニシティについては、リアルタイムでこの作品を観た人たちにとっては説明の必要がないことであろう。普段は可視化さないけれども、「セカイ」の仕組みによって着々と準備され続けた
1.「パブリッシャー」とは誰か 本書でも述べられているが、一般的に「パブリッシュ(publish)というと、日本では「出版」と訳され、紙に印刷して発行することを意味する。しかし元々、それは「パブリック(public)にすること」を意味し、紙に印刷することは必ずしもマストではないのだ。 つまり、「パブリッシャー」(publisher)とはメディアの担い手のことである、とも言うことができるだろう。紙媒体か電子媒体に関わらず、発信者は「パブリッシャー」なのである。 あまりビジネス書の類というのは好きではないのだが、本書は面白く読めた。なぜなら、自己啓発とは違う仕方で「パブリッシャー≒メディアの担い手」の原理・原則を示しているからだ。 2.メディア環境の全体像と存在理由 本書では、一見バラバラのようにも見える今のメディア環境を3つの軸で位置付けすることにより、その全体像を浮かび上がらせている。その
0.3つのレイヤーを貫く変化の軸 ついに2012年が終わりますねー。 私自身は、将来のこととか色々な絵を描きながらもその準備くらいで、具体的な動きみたいなのをあまりできなかった1年だったように思います。来年は、計画をサクサク実行していけるようになりたいですね。 さて、今年から始めたこの「未来回路.com」ですが、まだまだかたちが定まらない感じです。来年からはイベントレビューとかもしたり、書籍以外のレビューも増やしていきたいと思っています。文章を書くスピードもちょこっと上がった気もするし、もっとスピーディに書いてアップしていきたいと思っています。なのでこのエントリもササッと書いてみます。 あとやはり、色々な人に書いてもらいたい。たぶん、来年はTwitterとかでの頻繁に募集とか緩い感じでしていくと思うので、もし宜しければ遊んでいただける幸いです。若干の広告効果もあると思いますし。若干ですけど
1.人間の脳とコンピュータの違い この『バグる脳 脳はけっこう頭が悪い』という本は、2011年にアメリカで刊行された『Brain Bugs:How the Brain’s Flaws Shape Our Lives』の全訳である。著者のディーン・ブオノマーノさんは、神経ネットワーク内での計算や、学習と記憶の神経基盤、脳による時間の把握と処理などの研究者。 本書では、「バグ」というコンピューター用語を用いて、人間の脳における限界や欠点、弱点やバイアスを明らかにしていく。 ただ、便宜上「バグ」という言葉を用いて説明はしているが、人間の脳とコンピュータには、情報処理装置ということ以外にはほとんど共通点がない。両者では、得意とする種類の計算が全く異なるのだ。 脳は数値の処理という点ではコンピュータには圧倒的に勝てない。そのかわりに、脳が得意としているのはパターン認識である。 人間の脳は、まわりの世
タイトルを一読すると、この本自体が「ダメ出し」であるかのような内容を想像してしまうかもしれない。けれども、本書ではちゃんと建設的な提案がされている。もっと言えば、建設的な議論をするための基盤についてが語られているのだ。また、「ダメ出し」を終わらせるための「ダメ出し」ともいうことが出来るだろう。 現在の日本は人口減少や少子高齢化といった状況に伴い、労働人口の減少や社会福祉費の増大が予測されている。最近の政治を取り巻く状況はその「縮退モデル」を前提とした予算の削り合いが大きな関心事としてあった。いうなれば、足の引っ張り合いのような政局が展開されていたのだ。本書では、そのようなどちらかと言うと後ろ向きな議論ではなく、もっとポジティブな提案をしていくことをすすめている。「クレクレ型」ではなく「コレヤレ型」へ。ポティブな提案をすること、それをここでは〈ポジ出し〉と名付けている。〈ダメ出し〉に対して〈
劇評「届かない声と向き合うためのレッスン」、『光のないⅡ』(作/エルフリーデ・イェリネク、構成・演出/高山明) 2012年11月25日、東京・新橋で行われたPortB『光のないⅡ』を観てきた。福島と東京との距離を図り直すツアーパフォーマンス。ポストカードに描かれた場所を巡り、そこで流れる声に耳を傾ける。 本作品の原作者・エルフリーデ・イェリネクは、オーストリア出身の劇作家。1983年に書かれた小説『ピアニスト』が2001年に映画化され、同年、カンヌ映画祭で三冠受賞。2004年には、ノーベル文学賞を受賞した。そのイェリネクは2011年9月、自らのウェブサイトで3.11に応答する戯曲『光のない。』を発表した。そして、2012年3月12日、続編『光のないⅡ』を公開。それが本作品の戯曲となっている。 PortBの演出家・高山明は、演劇を専門としない人たちとの共同作業によって、既存の演劇の枠組を超え
0.本書のテーマ設定 本書は、おそらくソーシャルメディア界隈で最も大きな影響力を持つ人のひとりであろう、ジャーナリストでメディア・アクティビストの津田大介さんの著作だ。 本書を手にする前まで、私は紙の本で出すことはネットだけだと届きにくい層に届けるという目的もあるだろうから、津田さんの発行しているメルマガ『メディアの現場』やTwitterでのつぶやきをフォローしている人からすれば、ほぼ既視感のある内容なのかなーと思っていた。 けれども通読してみると、意外に結構新しい発見のある本だった。 しかし、テーマはまったくブレてはいない。 「情報技術を利用して政治を日常化し政策ベースの政治を実現する」こと。 それが本書のテーマである。 1.「政治」の持つ2つの側面、「政局」と「政策」 一般的に多くの人たちにとって「政治」という言葉からイメージされるのは、泥臭いおっさんたちの押し合いへし合いである。 何
1.ウェブとDIY、2つの文化の融合 本書では、製造業における「これからの10年」についてが語られている。 製造業は、様々な産業の中でも大きなシェアを持つ領域だ。例えば、アメリカ経済の4分の1はモノを作ることで成り立っており、そこに流通や小売の売り上げを加えれば、経済全体の75%にもなるという。 その巨大な産業が大きく変わろうとしているのだ。その変化の源には、ウェブの中で培われてきた文化が存在する。 新しいメイカームーブメントの特徴は、以下の3つだ。 ①デスクトップとデジタル工作機械を使って、モノをデザインし、試作すること(デジタルDIY)。 ②それらのデザインをオンラインのコミュニティで当たり前に共有し、仲間も協力すること。 ③デザインファイルが標準化されたこと。おかげで誰でも自分のデザインを製造業者に送り、欲しい数だけ作ってもらうことごできる。また自宅でも、家庭用のツールで手軽に製造で
1.「どうして私達は、こんな風になってしまったのか?」 ロスジェネ世代とは、1970~80年代前半生まれの世代のことだ。 子ども時代に様々なものが、子ども専用アイテムとして普及していく過渡期を身をもって体感した世代。 そのような豊かさの中で育った人たちは、どのような大人になり、どのぐらい幸福に生きているのだろうか。 本書は、ロスジェネ世代へのある種の断念とリハビリのすすめでもある。 2.終わりなき思春期モラトリアム 著者の熊代亨さんは、1975年生まれの現役精神科医。本人もロスジェネ世代ど真ん中の当事者だ。 それゆえに、説得力と重みを感じ取ることができる著作となっている。ところどころ、その記述の行間に涙が出そうになった。「痛み」と「愛情」、それに尽きる。 ロスジェネ世代の心理を特徴付けている「病理」とは何か。本書ではそれを、“終わりなき思春期モラトリアム”的なメンタリティ、としている。 こ
1.誰の、何のための、建築なのか 「あの日」とはもちろん、東日本大震災の起きた2011年3月11日のことだ。その日以来、建築家の伊東豊雄さんは、幾度も被災地へ通ったという。そして、通えば通うほど、自分がつくってきた建築は何だったのだろう、それは誰に向けて、何のためにつくってきたのだろうと、考えるようになる。 建築家ならば、世のため、人のために、人の集まる場所に新しいかたちを与えたいと考えるもの。 けれども、グローバル経済下では、建築家の倫理観や善意をはるかに超える力によって建築は作られ、破壊されている。そこには公共空間やコミュニティの場が成立する余地はほとんどない。それどころか、経済を効率よく循環させるためには、共同体は徹底して個に解体されたほうが都合が良い。 「あの日」以来、そのような状態とどのように向き合っていくのか。本書では、その方向性のひとつが示されている。 2.現代における建築業
「ポストモダニズムを現状の中で咀嚼する」、『私とは何か 「個人」から「分人」へ 』(平野 啓一郎 著) 小説家・平野啓一郎さんの「私」論である。 本書の目的は、人間の基本単位である「私」を考え直すことにある。具体的には、「個人」から「分人」へと人間の基本単位の概念の更新を志向すること、となる。 現代英語で「個人」を意味するのは「individual」という言葉だが、これは「in」と「divide」から構成されており、日本語にすると、「不可分」、「(もうこれ以上)分けられない」と翻訳される。 この語源からすると「私」はただひとつの分けることの出来ない人格となる。けれども実際には、1人の人間は複数のリンクやネットワークの総体であり、そこには「本当の自分」という中心は実在しない。「私」という存在は、対人関係ごとのいくつかの「分人」によって構成され、その人らしさというものは、その複数の「分人」の構
1、「新しい自然」の中での狩猟採集生活 本書での「ニート」の定義は結構ゆるい。 必要最小限しか働かない、しかも働くにしても自分の嫌なことはしないというライフスタイルの人、くらいな感じで使われている。そこには、特に上昇志向もなく周囲に急き立てられるように生きることもなく、漠然とした将来への不安はありながらも、それなりに楽しく暮らす生活がある。 現在、大体の土地は誰かのものだし、ただ生きるだけでもお金を稼ぐ必要がある。それゆえただ生きるために働き、まるで生きることが働くこと自体のようにもなってしまうこともあるだろう。もちろんそれも一つのライフスタイルとしてありだ。しかし、やはりそのライフスタイルと根本的に身体に合わない人たちも存在する。 近代化以前であれば自然が豊富な場所に住んで、山や海などで食べられるものを探して生きてくことも容易だったかもしれない(知らんけど)。けれども、日々の生活を現代の
日本の消費社会におけるパラダイムシフトについて論じている。 通読すると、近年見かけることが多くなった「ノマド」や「シェアハウス」、「コワーキング」といったキーワードも違って見えてくるかもしれない。何故なら、それらが歴史的な必然性の中でクローズアップされている、ということを確認することができるからだ。 本書では、産業革命以後から現在に至るまで、日本の消費社会が4つの段階を経ているとしている。第一から第四の消費社会までの特徴を概観すると、以下のようになるだろう。 ・第一の消費社会「national」(国家重視) ①都市部が中心。 ②国民全体の一割か二割しかいなかったと言われる中産階級が消費を楽しむ時代。 ・第二の消費社会「family」(家族重視、家族と一体の会社重視) ①家電製品に代表される大量生産品の全国への普及と拡大。 ②全国のより多くの国民に消費を享受。 ・第三「individual」
この記事の所要時間: 約 2分17秒 本書の著者は、情緒豊かな言葉のセンスで有名なYouTuberのにゃんたこさん。孤独の輪郭をなぞるようなその文体には、そこかしこに映画や音楽、小説などのさまざまな痕跡がみてとれるのだが…
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