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今年の「#文学」
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1959年東京都生まれ。1985年秋田大学医学部卒。在学中YMCAキャンプリーダーで初めて自閉症児に出会う。同年東京医科歯科大学小児科入局。 1987〜88年、瀬川小児神経学クリニックで自閉症と神経学を学び、栃木県県南健康福祉センターの発達相談で数々の発達障がい児と出会う。2011年、茨城県つくば市に筑波こどものこころクリニック開院。
1959年東京都生まれ。1985年秋田大学医学部卒。在学中YMCAキャンプリーダーで初めて自閉症児に出会う。同年東京医科歯科大学小児科入局。 1987〜88年、瀬川小児神経学クリニックで自閉症と神経学を学び、栃木県県南健康福祉センターの発達相談で数々の発達障がい児と出会う。2011年、茨城県つくば市に筑波こどものこころクリニック開院。 40代となった今、数は少ないですが理解者もでき、幸せに暮らしている私。それでも根底には常に、「私は絶対的なマイノリティだ」「自分が自分であるだけで周囲から排除されがちなのは事実だ」という思いがあります。 この思いは簡単な言葉で言えば悲しみです。しかし、「マジョリティとしての人生を喪(うしな)いつづける状態」に焦点をあてれば、私は長い人生にわたって喪失体験の中にあり、私はそうした喪失の「悲嘆」を感じているのだ、と言えるのかもしれません。 ※悲嘆とは、グリーフケ
ADHD(注意欠如多動症)には不注意・多動性・衝動性の3つの症状があり、これらの症状の出方によって大きく3つのタイプに分けられています。 1. 不注意優勢型 気が散りやすく、物事に集中することが苦手な傾向があります。ただし、やりたいこと、好きなことに対しては強く集中して取り組み、これを切り上げるのが難しい面があります。また、忘れ物やなくしものが多く、ぼーっとしているように見える傾向があります。 2. 多動性-衝動性優勢型 落ち着きがなく、授業中でも歩き回ったり、体を動かしてしまうなど、じっと座っていることが苦手な傾向があります。衝動が抑えられず、文脈を読まずに唐突な質問をしたり、うまくこたえてくれないと大声を出したり、乱暴になったりしてしまい、反抗的だととらえられやすい面もあります。衝動的に不適切な発言をしたり、自分の話ばかりをすることもあります。 3. 混合型 多動性-衝動性優勢型と不注
褒めて伸ばす育児がよいと分かっていても最初は全くできなかった、というか褒め方を知らなかった母ですが、 発達障害は悪いことじゃない!?社会で活躍する発達障害の先輩たちの話を伝えたり一日一回肯定的な声かけをするようにしていったら子どもが明るくなっていきました。
記念日反応による心身の不安定から半月ほどたったころのことです。最悪の心身状態からは脱したものの、まだどこか不安定で過敏になっていた私は、夫のちょっとした言動にピリピリしていました。 その日、疲れて帰ってきた夫にささいなことで喧嘩を吹っかけた私は、夫から「疲れている、今日はもう話したくない」と拒否されてしまいます。 それでも引き下がらなかった私は、自室に引っ込もうとする夫の背中に向かって一方的に言葉を投げつけました。まるで小学校の卒業式の呼びかけみたいな感じです。もちろん夫は苦しそうな顔でよりいっそう強く拒否の態度をとります。 そのときふと、奇妙な感覚が起こりました。「自分が母に憑依する」ような感覚です。自分が母の身体に入り込んで、母の感じる不安な身体感覚を感じながら、当時の私自身≒いまの夫の背中に向かって言葉を投げつけている。 私は31歳まで実家で母と暮らしていて、母からずっと精神的な加害
親子ともに発達障害がある私と息子のコウですが、幼少期から”発達障害あるある”な行動がよく見られたコウに対して、幼いころの私にはそのような行動は見られなかったそうです。 ところが、3歳児健診まで息子に発達障害があることに気がつかなかった私とは違い、母は私の幼少期にはすでに「娘には発達障害があるかもしれない」と感じていたそうです。
発達障害のある人は「本人の中での得意不得意の差が大きい」とよく言われますが、私もそうでした。小学校6年のときに塾の二教科テストで、国語学年トップ、算数学年でビリっけつ、二教科平均でちょうどまんなかという成績をとり、職員室がざわついて「伝説的成績」と言われたことがあります。 言葉を使い、理屈を突き詰める分野のことがとても得意で、逆に、単純に暗記したり、決まりごとにとりあえず従って計算したりすることがとても不得意でした。教科としては国語・英語が得意で、数学・歴史が苦手だし、とても苦痛。 30歳を過ぎて知能検査を受けたところ、私は言語理解能力が極端に高く、理屈や意義がわかるとモチベーションが上がるたちである一方、単純な作業をミスなく大量に進めていくことが極端に苦手なことがわかりました。 数学は、もし小学校のころに理屈を突き詰めて教えてくれる専門性の高い先生と出会えていたら、むしろ好きな科目になっ
筆者が吉川先生を知ったのは、2018年11月にNHK総合で放送された『発達障害って何だろうスペシャル』だった。千原ジュニアさんや南沢奈央さんらをMCに据え、スタジオには小島慶子さんのほか、筆者がテレビ取材もさせていただいた“トリプル発達障害”の漫画家・沖田×華さんも出演。そこでの吉川先生の発言に、思わず膝を打った。 「発達障害のある方に関して『何かができるかできないか』っていうことだけで見ると、見誤るんですね。『できる』と『できない』の間に『できるけど疲れる』ことがたくさんある」(吉川先生 番組内で) 誤解を恐れずに言えば、吉川先生はちょっと異質的な存在だ。元々教員になりたかったが、学校教員の文化が自分に合わないことに高校時代に気づき、子どもの精神科医という道を選んだ。大学教員などを経て「自分は研究者向きではない」と感じたといい、現在では多くの発達障害当事者や養育者に支持されている。 「“
――難波さんは幼い頃、どんな子どもでしたか? 難波: 家の中ではやんちゃでしたが、母と離れることへの不安が強かったですね。喘息の症状緩和のために、3歳ぐらいからスイミングに通っていたのですが、そこで母親から強制的に引き剥がされたのが嫌で、母子分離不安になってギャンギャン泣いていました。感覚過敏もあり、母親以外に抱きかかえられると、嫌で噛みついたりもしていましたね。4歳から入った保育園でも、母はいつ迎えに来てくれるのだろうかとずっと不安に感じていました。 ――お母さんから離れることへの不安は、小学生でも続いたのでしょうか。 難波:いえ、小学生からは、学校へ行くことの不安に変わっていったと思います。授業などの細かいスケジュールの変更や、何分後に何が起きるかわからない行事が苦痛でした。先の見通しが立たないので、トイレに行くタイミングがわからず、授業中に漏らしてしまうこともありました。 感覚過敏だ
――綾屋さんは、発達障害のある人を中心に当事者研究を行う会「おとえもじて」の発起人で、ご自身も大人になってからASDの診断を受けていますよね。幼少期はどのように過ごされていましたか? 綾屋紗月さん(以下、綾屋):3〜4歳の頃、家では、「なんでこんなに自分の思っていることが両親に伝わらないのだろう」「どうしてわたし、いつも泣いているのかな」と感じていました。 父に怒られたわたしは悔しくて泣くのですが、後から「あのとき、あなたはこういうつもりだったんだよね」と通訳のように言葉にしてきて。「わかってるんだったら、なんでさっきあんな風に怒ったんだよ」と腹が立って、余計に泣いてしまうようなこともありました(笑)。母はわたしが何を考えているのかが本当にわからなかったようで、「この子も大きくなれば、自分のことを自分で説明できるようになって、生きやすくなるだろう」と思いながら育てていたらしいです。 それで
ダウン症のある赤ちゃんが生まれるメカニズムとは?おなかの中にいるときからわかるの?そのような疑問を持つ人もいるかもしれません。近年、ダウン症などがあるかを調べる「新出生前診断」を行う医療機関の増加に伴い、さまざまな意見が交わされています。 このコラムでは、ダウン症発生のメカニズムや現在行われている検査、そのリスクや課題などについて紹介します。
Nintendo Switch(TM)にディスレクシアの子ども向けゲームが登場!やみくもに頑張るのではなく、楽しく学べる月額1980円の学習法――小児科医・平岩幹男先生が贈る『読むトレGO!』 Nintendo Switch(TM)にディスレクシアの子ども向けゲームが登場!やみくもに頑張るのではなく、楽しく学べる月額1980円の学習法――小児科医・平岩幹男先生が贈る『読むトレGO!』 日常生活や学習の中で大切な力のひとつに、「読む力」があります。一方で、「読むこと」自体を苦手としているディスレクシアや発達が気になるお子さんがいます。「読むこと」に困難を抱えているお子さんの「読む力」は、どのように伸ばしていくことが出来るでしょうか。今回は、その一つの大きな能性として、遊びながら楽しく「読む力」を伸ばすことが出来る学習教材をご紹介します。
誰かが「勉強ができる」ことは、その誰かが「たまたま勉強において好成績をとるのに向いた特性を持っている」ことを表すにすぎません。 仕事や生活では、体力やコミュニケーション能力、応用力や瞬発力、マルチタスク能力が要求されたり、ジェネラリストであることが求められることも多くあります。勉強がよくできても、仕事や生活管理がうまくできるとは限りません。勉強のできる発達障害者の場合、こうした本人内での凸凹が大きいので、「勉強はできても仕事はできない」ということが十分起こりえます。 しかし、大学時代、就活をしていた当時の私は、自分に発達障害があるとは気づいていませんでした。自分の中で能力の凸凹があるという自覚もありませんでした。新卒採用の面接で落ちまくったり仕事がことごとくうまくいかなくなったりするようになるまで、勉強ができる=仕事ができる=人生は順風満帆 だと思いこんでいたのです。 勉強の成績には、本人
3月になると、私はある大切な人の存在を思い出す。 保育園から小学校、中学校で学び舎を共にした、幼なじみでもある3月生まれの友人だ。名前を仮に「T」とする。 ADHD(注意欠如多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム障害)のような傾向があったTと、後にADHD傾向のあるASDとの診断を受ける私は、共に「扱いにくい、変わり者の生徒」との対応を、多くの教師から受けており、理不尽に煙たがられていた。当時は言語にできなかった「生きづらさ」を抱え、それを共有できることも、Tと私の距離を縮めたのかもしれない。気をつけていても失敗が絶えないこと、場の空気に合わせた言動を選んだつもりなのに、自分が周囲から浮いていると感じられて苦しい、変人扱いされるのが悲しい、などとよく話していた。しかし、「発達障害」という概念さえ知らなかった、田舎に住まう30年前の女子中学生が、解決手段を見つけ出すことなどできようか。「ど
ビバンセとは、リスデキサンフェタミンを成分とする薬の販売名で、不注意、多動-衝動性を改善させる効果があります。6~18歳の小児を対象に、2019年3月に販売承認され、2019年12月3日より販売が開始されました。 6歳未満の子どもへの安全性は確認されていません。また、現時点では、本邦における成人期の適応は取得されていません。これまでにADHD(注意欠如多動症)の治療薬として、中枢神経刺激薬のコンサータ、非中枢神経刺激薬のストラテラとインチュニブが販売されています。ビバンセはコンサータと同じ中枢神経刺激薬に属します。 かつてコンサータと同じ成分の「リタリン」について、不適切な流通や乱用者の存在が問題になりました。そのため、コンサータについては流通規制が行われています。具体的には、資格のある医師しか処方できず、調剤できる薬局も限られています。2019年12月よりコンサータの流通規制が強化され、
「20歳になったら障害年金の申請ができる」ということはうっすらと知ってはいましたが、それが現実味を帯びてきたのは娘が高校3年(18才)のときです。きっかけは学校主催の保護者向けの障害年金説明会でした。 講師の日本年金機構の担当の方の話によると、 申請に必要な主な書類は 1. 医師による『診断書』 2. 初診時の医療機関が書く『受診状況等証明書』(初診時の医療機関と診断書を作成した医療機関が異なる場合) 3. 請求者(本人や保護者)が作成する『病歴・就労状況等申立書』 で、その中で私が「一番大変そう」と感じたのは3.の『病歴・就労状況等申立書』(※1)でした。 ※1 発症から現在までの日常生活状況や就労状況を3~5年に分けて記載する。 『病歴・就労状況等申立書』の記入欄には「発病日」(※2)や、「障害認定日」(※3)などといった、聞きなれない用語もありました。また、「初診日」(※4)にも細か
僕は診察室で「子どもの発達の診立て」を行いながら、同時にわが子の育ちを心配する親や家族の思いも診立てていきます。 僕が向き合っているのは、「発達障害」ではなく、多彩な個性の持ち主である一人ひとりの子どもであり、家族です。このコラムでは、発達障害の診断名よりも「大事にしていること」についてお話ししていきます。 初回の診察場面で、親御さんから「診断はつきますか?」「なんの障害ですか?」と聞かれることがあります。そういうとき僕は、「何回か診ないとわからないですよね」「検査も必要でしょうし、第三者の方々の日常の評価も知りたいですよね」というふうに、時間をかけてその子を診ていけるように話をします。 一方で、「この段階で診断名はつけたくないんです」「そんなことで途方に暮れたくないし、落ち込みたくないし、傷つきたくありません」と訴えるお母さんもいます。そんなとき僕は、「わかりました。急いで診断名をつけて
『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルとなった立石美津子です。 療育仲間のママ友達とのお喋りで、躾についてのある悩みについて話すことがありました。それは、わが子の行動が自閉症の特性である「こだわり」なのか、単なる「わがまま」なのかわかりにくい、ということです。 自閉症のある子は想像力の障害があるので、変化に対して強い不安感を持ちます。このことにより同じものに固執して安心を求め、パターン化して“こだわり”として表れるのだといわれています。 例えば、同じ道順に固執したり、急な予定変更に対してパニックを起こしたりするといったことです。 人生をスタートしてまだ間もない幼児期は「この世は安心、安全な場所である。親はそれを与えてくれる」という体験をさせることが大切なので、こだわりから来る行動については、可能な限り親はこれに応じてやらなくてはならないと思っています。親
ADHD(注意欠如多動症)は不注意、多動性、衝動性の3つの症状がみられる発達障害の一つです。最近の研究では、ADHD(注意欠如多動症)の症状がある人は成人の2.5%といわれています。周りに理解されづらく、仕事や学業、日常のコミュニケーションに支障をきたすことがあります。この記事では年齢別に見たADHD(注意欠如多動症)の症状の現れ方について解説します。
「障害を持っている子は天使だよね」「ピュアだよね」とよく耳にしますが、「障害=イコール個性」とざっくり言われると違和感がありました。 息子は19歳になります。昔よりは随分と落ち着いています。けれども幼児期は手が付けられないほど大変でした。暴れる、脱走する、奇声を発する、何かというとすぐにパニックを起こし自分の腕を引きちぎらんばかりに噛みつく。そんな毎日に疲れ果て、お世辞にも「天使」だなんて思えませんでした。あるとき、息子が渋谷で迷子になりました。心の中で「見つからなければいいのに」と思ってしまう自分がいました。 そんなとき、「障害がある子は天使よ」と他人から言われると「私の苦しみなんかわかっていないのに!」と思わずにいられませんでした。 そもそも、障害は障害で生まれもったもの、脳の機能障害だったり染色体異常だったりが原因です。性格だとか個性と言うものは、そうした素質の上に、育った家庭環境や
保護者会では、子どもの成長したところや現在悩んでいることを、各家庭一言ずつ話していきます。どのお家でも悩みごとはたいてい「わかる~」というものなので、お互い共有しあって解決策を探っていこうという趣旨もあるのかなと思います。 そのとき、あるお母さんが話をされました。 「うちの息子はとても人懐っこい子です。ただ困っているのは、知り合いのお母さんに会ったとき、抱きついてしまうことです。やめようね、と慌てて引き離すのですが、また会ったときも同じようにしてしまいます。」
息子がADHDと広汎性発達障害の診断を受けたのは小4の春でした。発達障害の検査や医師との面談に何度もクリニックに通いました。 その度に息子は「ぼく何で病院に行くの?」と謎に感じていたようでした。 「発達障害の検査をするからだよ」と言っても理解できないかもしれないな~と思って、その頃人間関係からくるストレスで胃痛があった息子だったので、とっさに「お腹の検査だよ」と言って誤魔化しました。 子どもに発達障害について伝えるときって、どう言えばいいんだろう? …というか、伝えていいんだろうか?その頃はまだ何も分からない発達障害の子の母1年生の私でした。 診断を受けたクリニックの先生や心理士さんに「子どもには発達障害のことを話した方がいいですか?」と聞いたところ、 「子どもにカミングアウトをする時期は物事の道理が理解できるようになってきた中学~高校生頃が良いです。また受験のシーズンと重なって気持ちが揺
こんにちは。「発達障害&グレーゾーンの3兄妹を育てる母の毎日ラクラク笑顔になる108の子育て法」著者・楽々かあさんこと、大場美鈴です。 私は、発達障害の「障害」とは、その子の「個性」と「環境」の間にある…と考えています。 ですから、本人側から環境に合わせる努力や工夫も大事ですが、自分が適応しやすい環境を選ぶことでも、「みんなと違う」が気にならなくなる場合もあると思います。 現在中学2年生の長男は、私立中高一貫校を受験し、第一志望校に無事合格。自分の個性に合った環境で充実して過ごせるようになり、私はそこに「障害」を感じなくなりました。 中学受験は、あくまで「環境選び」の1つの選択肢に過ぎませんが、独自の校風や教育方針などの「環境」が、その子の「個性」とぴったり合っていれば、少々個性的でも学校生活を楽しく過ごせるお子さんは結構いるように思います。 ただし、私立中学の場合、特別支援学級設置校は現
ADHDと軽い自閉スペクトラム症がある息子・リュウ太には、脳内に映し出されている映像のほうが今目の前で起きているできごとよりも優位になってしまい、やらなきゃいけないことができなくなるという特性があります。この特性は「指示をナゼ忘れてしまうの?」「なんですぐにとりかかれないの?」ということを、18歳になった息子と話したときに明らかになりました。 母から「宿題をやろうね」と何度か言われて渋々取り掛かるけれど、宿題を目の前にしてもなかなかできない。 宿題嫌いな息子は母に促されても気持ちが向かず、「宿題をやらないとな~」と考えている間に頭の中で想像した楽しいことの映像が目の前に浮かんできて、その映像をぼーっとずっと見てしまう。 ここまでは誰にでもあることかもしれませんが、息子の場合はこの映像がどんどん濃く、ハッキリしたものとなり、浮かんできた映像の世界に浸ってしまうようです。 宿題をやらなきゃいけ
1年ほど前、発達障害の娘が特例子会社に就職して半年たったころのことです。当時、娘は、心身ともに弱り、会社も休みがちでした。そして私もどうしたらいいのだろうと悩んでいました。 壁にぶち当たり、私は明石洋子さんの著書『思いを育てる、自立を助ける』を読みました。そして、大きな気づきを得たのです。 私たちに、この本が教えてくれたこととは――。
『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルとなった立石美津子です。 あるとき、息子がパニックを起こし自傷しました。腕にはひどい歯型がついていました。原因は私の対応の仕方でした。 息子はとても耳がいいです。よく電車の走る音を聞いて「○○電車の○○系、各駅停車だ」とあてられる子がいますが、息子はトイレに流れる水の音を聞いて、型番を言いあてることができます。 ただ、耳がよすぎるためか聴覚の過敏があり、耐えられない音は徹底的にダメなのです。ちなみに、今NGな音は“食器洗い洗浄機”と“人の咳”です。 私が風邪をひくと、当然咳が出ます。そんなとき「お母さん、大丈夫?」という私の体調を思いやった態度をとることはありません。なぜなら、咳の音が息子にとっては耐え難いものだからです。だから、ものすご~く嫌な顔をします。 そして、インフルエンザに罹ったときも、病気の私に向かって…
登校渋りを幾度も繰り返し、8歳の誕生日を迎えたその日に「もう学校には行かない」と宣言した息子は、この4月で小学4年生になった。 不登校開始1週間の時点で、「行かない気持ちに変わりはない。万が一気が変わったら申告するから、そちらからは一切聞いてくれるな」との旨の申し出があったので、私から働きかけることは避けていた。根性論にて復学を強く勧める学校側に辟易しつつ、息子の意思を尊重すると決めた私。それが2年生後期までの話である。 それが1年前、3年生に進級したとき、風向きが一気に変わった。息子たちのクラスを受け持つことになった担任の先生、そして新しく着任した校長先生と教頭先生は、息子の自宅学習に協力的だったのだ。 月に一度、担任の先生が課題を持ってきてくれ(もしくは私が受け取りに行き)、息子が1ヶ月かけてこなす。翌月に終了した課題と新しい課題を交換、さらに翌月には先生が添削した課題をまた持ってきて
わが家には、発達障害のある娘がいます。この4月で社会人2年目となり、仕事に励んでいます。そんな娘が小学5年生の時のこと。主治医から「中学校のことを考えているか?」と問われたことをきっかけに、娘の進路について考えるようになりました。そして少し気が早いかもしれないと思いつつも、中学だけでなく、高校の情報収集をスタート。すると想像以上に多様な学校が沢山あって…。わが家の進路選びについて、数回にわたり書いていこうと思います。
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