サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
2024年ランキング
fxmc.hatenadiary.org
「最近のラノベ」は学園ラブコメでハーレムばかりだ! という話を聞きます。 「最近のラノベ」は異世界ファンタジーでハーレムばかりだ! という話も聞きます。 どっちやねんw いっそ両者でとことん論争していただけないでしょうか。ハーレム属性のとくめー的にはどっちが正しくても万々歳です。 この認識のズレは、単なる時間軸のずれで。00年代後半から現在まで、ラノベのメインストリームは、美少女ゲームベースの学園モノのラブコメor現代伝奇路線で、それに取って代わりつつあるのが、ネット小説ベースのゲーム的な異世界ファンタジーである……という現状の反映ですな。 もちろんラノベの中には、学園も、異世界も、それ以外の傍流路線もあるわけですが。今年、2015年の時点では、最大勢力は"まだ"学園だと思います。アニメを見ても、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』の2期も『ハイスクールD×D』の3期もありました。俺
さて。歴史的背景はそんなところにしておいて。作品の内容を語ることにしましょうか。 とりあえず、主人公パーティーの話から。 PTは6人編成、多いですね。Wizardryが標準6人であるように、古いRPGのパーティー。ラノベだと、この規模のPTで思いつくのは、同様に古いRPGの流れを汲むフォーチュンクエストくらい。後の漫画やラノベでは、PT人数は4人程度で落ち着きます。それより多くなると色々理由をつけてふるい落としを。 主人公の名はパーン。後に自由騎士として名を馳せる彼も、物語開始時点では血気盛んな一介の剣士でしかありません。友人のエト(神官)を巻き込んで、ゴブリンの棲家に突貫し、半死半生になるくらい。若さを持て余す青年が、己の使命を見出すまで…というのが、この小説のひとつの筋です。 対になるのが、盗賊のウッド・チャック。青年期を獄中で棒に振った彼は焦っています。盗賊という職業からも正当な評価
『ロードス島戦記』は、言わずと知れたライトノベルの古典です。 のちにライトノベルと呼ばれることになる「視覚要素を重視した青少年向け文庫書き下ろし小説」が、独自の読者層とプロパー作家*1の抜擢・育成システムを確立し、ジャンルとして自立し始めたのが80年代末から90年代初頭のこと。*2 その過程において重要な作家としては、まず、水野良・神坂一・あかほりさとるの3人を挙げるのが妥当でしょう。 水野良は、日本へのRPGの導入を牽引した団体のひとつ――グループSNEの主要メンバーです。ただし、彼らが広めたRPGは、ドラゴンクエストのようなコンピュータゲームではありません。ドラクエの原型になったウィザードリィやウルティマのそのまた起源、シナリオをGM(ゲームマスター)という主催者が語り、戦闘判定をサイコロ(ダイスと呼ぶ)で行う、実にアナログなテーブルトークRPGというゲームです。 テーブルトークRPG
本当は「ハーレム系作品史」でやるべき内容なんですが、時系列順でやってくといつ出せるのかわからないので、小出しで掲載しちゃいます。富士見書房のハーレムラノベについて。 ええ、たぶん、(だいぶ先に)ハーレム系作品史の企画でリライトすることになると思うので、その時の参考にご意見あったらお願いします。 ライトノベルレーベルで、ハーレム系一押しなのがMF文庫Jであることは確定でしょう。05年頃から、レーベル全体として統一的に美少女要素を前面に押し出し、型落ち作家の再生、新人作家の早期戦力化に成功。看板級では『ゼロの使い魔』が単独で突出する状況に、ようよう『僕は友達が少ない』を加えただけという非力さが残るものの、中堅級の陣容は非常に分厚く、続々とアニメ化作を輩出しています。もともとコバルト文庫と人脈的に近くラブコメの素養を持つ集英社スーパーダッシュ文庫や、“萌え”文化で先行した18禁方面の人材を使うこ
このエントリは、 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (1)』 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (2)』 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (3)』 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (4)』 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (5)』の続きです。 まずはそちらからお読みください。 『サクラ大戦』の特長と限界 セガVSソニーのゲーム機戦争において、セガ陣営でゲーセン系ゲーマー以外の支持を集められる数少ないコンテンツ、それが『サクラ大戦』シリーズでした。そのことはセガの側でも強く意識していたようで、テレビCM(ああ懐かしのせがた三四郎)など、美少女ゲームではありえないほどの宣伝体制が組まれていました。そして、シリーズ1作目から4作目まで順に、35万、50万、30万
このエントリは、 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (1)』 『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (2)』 の続きです。 まずはそちらからお読みください。 キャラクターデザイン:藤島康介 with 松原秀典 現役作家をこう評するのもどうかと思いますが、藤島康介は「'90年頃の代表的な美少女漫画家のひとり」です*1。 ササキバラゴウ『〈美少女〉の現代史』によると、80年頃に支持された美少女像は「かわいい」「まんがっぽい」「少女らしい」絵で描かれる傾向があったそうで、それが80年代を通じて、だんだんボディの質感が強調されるように。その背景には、大友タッチの普及、美少女フィギュアの流行といった「立体志向」があるんだそうな。ササキバラがそういう美少女漫画家の代表例として挙げているのが、士郎正宗、桂正和、遊人、八神ひろき。 藤島康介もこの系統に属する
このエントリは、『ハーレム系作品史1996 サクラ大戦/語られない90年代 (1)』の続きです。 まずはそちらからお読みください。 プロデューサー(ゲームマスター):広井王子 現代オタク論の基本文献として、私が真っ先に思い浮かべるのは大塚英志の『物語消費論』と『キャラクター小説の作り方』です。岡田斗司夫や唐沢俊一など古参オタクの本も歴史史料としては重要ですが、情報を集めること自体が目的になってしまう第一世代オタクの視点では「現代」は読み解けない。集めた情報に対して、独自の解釈・考察を加え、さらに再構成まで行う、いまの消費者の有り様を本格的に論じたのは大塚が嚆矢。 大塚の初期の物語論をまとめた『定本・物語消費論』の中で、最も多く触れられている80年代の「作品」は、『ガンダム』や『キャプテン翼』ではなく、なんと「ビックリマンチョコ」。最近またコンビニで見かけるようになった、例のシール付ウェハー
2010年です。ゼロ年代が終わりました。やったーっ!! にも関わらず、とくめーはいまだ90年代に引っかかってます。90年代のオタク文化に関しては、「ちゃんと語られていないこと」「忘れられてしまっていること」があまりに多いんですよ。ハガレン以前の少年ガンガンについてもそうですし、そのガンガン作品やランスシリーズ、スレイヤーズなどのラノベといった“90年代RPGパロディブーム”などについても、ゼロ年代FTパロ(ゼロ魔・ネ実組)と合わせて、いつかちゃんと語りたいところです。 ゼロ年代の十年間で、80年代サブカル文化に関する記録や研究がいろいろ出てるんで、90年代については10年代の十年間で回顧されると思うのですが、「90年代はエヴァとセカイ系の時代だった」みたいな語られ方はいい加減勘弁してほしいものです。 近年のオタク文化をエヴァを起点に語るとき、エヴァ以前――90年代前半のことは視点から抜け落
2010年も8月になりました。保管庫の仕事はやっとこさスレッドに追いつきました。 既に当雑記で何度も述べているように、とくめーにとって決してよい時代とはいえなかったゼロ年代は終わりました。そろそろゼロ年代を、そして90年代を総括しなければいけない時期です。 「ゼロ年代」の作品群の特徴を、宇野常寛は「決断主義」だとか「サヴァイブ」だとかいう単語でまとめています。決断を回避して引きこもる90年代の「セカイ系」に対して、ゼロ年代は他者を傷つけてでも行動する「決断主義」の時代だった、と。 「セカイ系」だとか「決断主義」だとかいったカテゴライズができる作品群や流れの存在は、私も認めてます。けれど、それ以上に、そういう極端な作品ばかりを取り立てて重要視するのは、評論家やブロガーの偏見だとも思っています。 オタク文化における男の子と女の子の関係の本流は、セカイ系の「女の子を守れない男の子の話」でも、決断
前島賢『セカイ系とはなにか』、もう少し落ち着いて再読。 所感は変わらず。私は前島さんと同じ「オタク第三世代」なんだけど、「私たち」の話でなく「彼ら」の話としか読めなかった。 『セカイ系とは何か』で語られていたのは、『エヴァ』に始まる、自意識を持て余す製作者と読者の話。その持て余した自意識が、悩める非力な主人公とか、メタ言及的な作品とか、作品に過剰に自己投影した評論になってあらわれてくるっていう。 流れとしてはよくできていた。「彼らの歴史」としてはよくまとまっていたと思う。 でもさ、私はそれを「オタクの歴史」とは認めたくない。何度もいってるように『Fate』と同じくらい『ToHeart2』だって売れた。『ToHeart2』や他の学園モノエロゲの名と、それを買っていたオタクの姿が、この「オタク史」には存在しない。 わかりやすく、おねかのえあの例を挙げてみましょう。この3作でいちばんの人気作は『
前島さんの『セカイ系とはなにか』を入手。パラパラと流し読み。 なんていうか、こういう90年代観が「正史」になったらいやだなあと常々危惧していた歴史認識。「90年代はエヴァの時代だった」的な。よくまとまってるから、なおさらイヤ。 たしかにこういう流れはあるんだけど、それはオタクの本流ではなくてあくまで評論界隈の狭い世界の話。前島さんを含めた「自意識を語る少数人」をベースに「オタク」を論じるという典型的な「立脚点の誤り」が見られる。『ポスト・エヴァのオタク史』というサブタイがついてるけど、実態は『ポスト・エヴァのオタク評論史』程度のものだと思う。 前島さんも、その前提となる論者たちも、最終兵器彼女―イリヤ―ほしのこえ的な「女の子を守れない/女の子に守られる」フィクションの存在を過大評価してるけど、オタク文化における美少女と主人公(キミとボク)の関係性の本流は、『天地』から『ゼロ魔』『禁書』まで
が:少年ガンガン<名> 現スクウェア・エニックス(合併以前はエニックス)から発売されている少年誌。 驚異的というべき漫画家の育成能力を活かした、「鈍器」とすら呼称される分厚い誌面で知られている。 ゲーム部門が伝統的に集英社と縁が深いことからくる王道少年漫画路線と、90年代中頃に独自の地位を築いたサンデー的/少女漫画的なほのぼの路線の二つの路線を内包していて、両者の対立は、編集者及び漫画家の独立闘争にまで到った。ほか、ドラクエ4コマ劇場以来の「反逆の伝統」も特筆すべき作品傾向である。 代表的な連載作は『魔法陣グルグル』『鋼の錬金術師』。その歴史はこの2作を基準点として、グルグル以前のロト紋・パプワ時代、グルグル時代、両作品の中間期である月天時代、ハガレン時代、ハガレン以降の5期に分けられる。 ロト紋・パプワ時代 創刊時のガンガンの看板作は『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』(91-97)。(
に:人間が書/描けていない(にんげんがかけていない)<慣用表現> ある種の創作物に対して投げかけられる定型的な否定の表現。 とくに槍玉に挙げられるのは、(ハード)SFや(本格)推理小説である。 「小説」という単語自体が、天下国家を論じる「大説」に対して、人間描写を重視したもの(→坪内逍遥・魯迅など)として成立したという歴史的経緯からすれば、「人間を書く」というのは小説の存在意義そのものであり、小説に対して「人間が書けていない」と否定するのは単純に「小説として出来が悪い」と言っているに等しい。つまり、これは批評の用語というより、罵倒か呪詛と認識した方が実態に近い。 にも関わらず、このフレーズがまるで呪いのようにSFや推理小説を責め苛むのは、これらのジャンルには、そう評するほかない「人間描写の希薄かつ稚拙な作品」が、実際に珍しくないからである。 理由としては、(ハード)SF・(本格)推理小説と
中国のとっても古い兵法書――『六韜』を読んでいる。周の太公望が書いた(ということになっている)数千年モノの兵法書だ。 中国の古典にありがちな対話形式で、文王が「こういう時にはどうしたらいいんですか」と訊ねて、太公望が「こうしなさい」と応える。『六韜』の名の通り全6巻60章からなり、そこには60の問答が書かれているということになる。 内容は、はじめの「文韜」「武韜」が国防の前提となる富国強兵政策、3巻目の「竜韜」が指揮官の任命や用兵の気構え、あと戦機のつかみ方みたいな一般的な戦争・戦闘論、4巻目以降「虎韜」「犬韜」「豹韜」が指揮官レベルの戦術論ってな具合。 なんといっても面白いのは、戦術論の「虎韜」「豹韜」。 文王が状況を設定し、太公望がそれに対する回答を述べる。こういう問答は、士官教育によく用いられます(教官が状況を設定し、生徒が回答するって形式だけど。森博嗣ならきっと生徒が質問する『六韜
♪ぴーんぽーんぱーんぽーん この文章は、『魔法少女りりかるなのはStrikers』というアニメが好きな人に不快な感情を誘発する可能性があります。そういう人こそ読むべき文章ではないか、とも思うのですが。 正史(おお、なんと不快な言葉だろう) 「ドラえもんはタイムパトロールのエージェントである」という説があります。 大長編『竜の騎士』において、ドラえもんは恐竜を絶滅前に地下世界へ運び込むというとんでもない規模の「歴史改変」を行いました。にもかかわらず、タイムパトロールはこれに対して一切の介入を行っていません。 また、『恐竜』や『日本誕生』において、タイムパトロールはドラえもんたちの行動に乗じる形で恐竜ハンターやギガゾンビの逮捕を行いました。 これゆえにドラえもんエージェント説というのが出てくるのですが――むしろ、私は、これを、ドラえもん世界のタイムパトロールが「歴史改変を阻止する組織ではない」
【灼熱の巨竜】架空戦記総合スレ40【テメレア戦記】(http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1198325777/)より抽出、分類、説明文付与。 “陸” 『フルメタル・パニック』 人型兵器が発達した仮想現代で軍事諜報系B級アクション 『Ring of Red』 日本分裂世界で0083をやった人型兵器モノ。 『榊ガンパレ』 異世界から来た化け物相手に人型兵器で本土決戦。 『天槍の下のバシレイス』 異世界から来た化け物相手に西宮市で戦車戦 『猫耳戦車隊』 熱核戦争後の世界で小柄な猫耳亜人種が敵性機械文明の無人戦車と戦車戦。 “海” 『北海の堕天使』 北欧の架空国家を舞台にした戦前冒険小説風の艦隊戦小説。 “空” 『天翔けるバカ』 第一次世界大戦複葉機モノ 『撃墜魔女ヒミカ』 箒から複葉機に乗り換えた魔女が空中戦を―― 『イリヤの空 UFOの夏』 対異
新城カズマの『15×24』がライトノベル読者に受け入れられないたった一つの理由。 「ライトノベル」ではなく「ジュブナイル」だから。 「ジュブナイル。最近聞かない言葉ですね。ライトノベルとどう違うんですか? とくめーさんの定義だと」 「ジュブナイルってのは、80年代に流行った中高生向けの娯楽小説兼教育小説みたいなジャンルだ(追記:対象年齢は小学校高学年くらいからと言った方が正確かなあ)。眉村卓や新井素子といったSF畑の作家が手がけたもの(主に中心はハヤカワ)(訂正:むしろSFジュブナイルならむしろソノラマあたりをあげるべきか)と、赤川次郎や宗田理といった筆の早い一般小説作家が手がけたもの(主に中心は角川)の二系列がある。どっちも最近は、児童文学として再版されたりしてる。ハヤカワソノラマあたりの派手なガジェットに、角川のメディアミックス大好きな編集方針が合わさると、今のライトノベル業界に繋がる
ジャンル小説というのもいろいろあるけれど、「ファンタジー」ほどつかみどころのない“ジャンル”はそうそうないと思う。 境界線論争始めるとキリがないジャンルとしては「ミステリ」なんてのが目立つけれど、ミステリとその周辺ジャンルなんて、たどっていけばだいたい乱歩か清張にたどり着く。外の境界線は定かではないが、中の核は明確だ。「SF」なら70年代頃の翻訳・同人関係者が作っていたコミュニティ。「歴史小説」なら、まあ吉川・司馬。「時代小説」なら捕物帖まで遡らずとも、池波・藤沢あたりの名前を挙げておけば、とりあえず問題ないだろう。 「ファンタジー」の共通の祖は? というと、これはもうJ・R・R・トールキンまで遡らないといけない。 日本国内で「ファンタジー」という看板をつけられている作品は、だいたい4つの系統に分けられてしまう。 ハードカバーやハヤカワ・創元の“海外文学”系 図書館の児童コーナーでよくお目
少し、エロ小説における技術的で構成的な問題について話してみたいと思う。 もともと美少女文庫には、わかつき女史やみかづきさんがよく書いているように、“隠れM属性持ちのヒロイン”が珍しくもないんだけれど、最近になって美少女に参入した新人・転入組が、今作の静佳さん、『妹ペット』の絵夢、『ツンマゾ!』の真子と、次々と突き抜けたMヒロインを投入してきてる。 正直いって、この突き抜けっぷりは半ばネタの域ですらある。ヒロインの隠れM属性を一歩一歩引き出していくわかつき女史の話のようなものと比較するとなおさら。 なんでMヒロインがネタ化してしまうかというと、そこには非常にテクニカルな問題が潜んでいるのだ。 男責め・女受けのSMチックなシチュと、(二次元文庫のテンプレや青橋・橘・上原のような)女責め・男受けのSMチックなシチュなら、後者の方が書きやすい……というか商業作として安全だったりする。 なんでかって
21日付エントリで、私は、90年代的「萌えオタのルール」「セカイ系のルール」と00年代的「中二病のルール」を、図表化して対比してみました。 どういう「意味」を持つのか整理できてない、と21日には書いたけれど、こうやって図にしてみると、多少いろいろなものが見えてきます。それをちょろっと書いてみましょう。 『ゼロ年代の想像力』のテーマに対する、とくめーの回答みたいなエントリになってしまいました。 90年代的なものとゼロ年代的なものを比較する(09,06/22版) 90年代的作品の傾向 ゼロ年代的作品の傾向 ムーヴメント 90年代葉鍵系ブーム 90年代セカイ系ブーム 00年代異能バトル系諸作品 原風景 能天気な80年代 バカ騒ぎのバブル バカ騒ぎのバブル 暗い90年代 暗い90年代 空虚な00年代 ベースとなった文化 サンデー・少女漫画 アニメ・ブンガク ジャンプ・新本格 ファンの世代 オタク第
前回書いた、90年代とゼロ年代の主人公像の話をもっと普遍化して―― 葉鍵系に代表される90年代美少女ゲームブームから派生した「90年代的な作品群」と、新本格ブームを原点とすると思われる「ゼロ年代の作品群」の全般的な傾向を図表化して比較対象してみました。 ここでは仮に「90年代的」「ゼロ年代的」という表現を使っていますが、これはあくまでほかに言いようがないゆえの便宜上の表現であって、2008年〜09年においても、電撃の『とらドラ』、ジャンプの『To Loveる』など、「90年代的傾向」を持つ作品は十分な成功を収めています。 その一方で、たとえば『ラブひな』と『ネギま!』の差異を鑑みるに、「普通の主人公から特異な主人公へ」「情報量の抑制から情報量の過剰へ」「ご都合主義から厨設定へ」などといった傾向は確かに存在していると思います(人命軽視の流れまで受け入れなかったのは良識でしょう)。 こういう傾
90年代とゼロ年代の違いはなにか、と一言で言うならば、そこは「主人公」におくべきなのではないかととくめーは考えています。 「90年代の主人公」といった場合、なんか評論畑では碇シンジをイメージするらしいのだけど、むしろ私がイメージするもっとも典型的な「90年代的主人公」は、ハーレム系作品史の企画で取り上げてきた、柾木天地―柏木耕一―藤田浩之―相沢祐一といった、ちょっと鈍くて底抜けに善良な普通の少年(少女)。その言動の元になる思想を一言でいうならば『ヒューマニズム』といったところで、このスタイルをもっともよくあらわしたキャラクターはエヴァ・葉鍵から始まる90年代の一連のブームの系譜の最後の終着点である「福沢祐巳」となる(もう一つの終着点はキョン君)。こういう凡人語り部キャラというのは、読者が受け入れやすいように、平凡で善良なキャラクター設定が為され、結果的に特異な属性を持つヒーローキャラよりも
今月中に書く(絶対書くぞ!)ハーレム系作品史・葉鍵系時代の準備稿みたいなもの。その2。 「ハーレム系作品史」を書くために「葉鍵系時代」の意義を考えている。 アレが変えたのはなんなのか、というあたりだ。事実認識(ルビ:である)を三段跳びで跳び越えて理念(ルビ:べき)を語っちゃう本田さんみたいにならずに、葉鍵系とはなんだったのか、その前後でなにが変わったのか、という「である」の部分をきっちりまとめなければならないと思う。 それとは別に、ジュブナイルポルノの中で「竹内けん」という作家の特殊な位置づけについても考えている。あの人、ハーレム関連のスレとかでの評判があまりよろしくない。編集の反対を押し切って『ハーレムキャッスル』をヒットさせ、二次元ドリーム文庫をハーレム路線に引きずり込んだ大恩人なのに。 おそらく、この二つの問題は強く関連しているように思う。 前史としての『同級生』シリーズから、リーフ
http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=426 あかほりさとるいわく「ライトノベル業界そのものが危ない」 かねてから私が心配しているライトノベルのSF化というか上下分離の話、あかほりが言い出しましたか。 ライトノベルはSF化して新本格化している、と。ライトノベル全体がそうだとは思わないけど、ライトノベルサイト界隈だとか評論畑だとかでは、そっちに傾いた作品ばかりがもてはやされてるという傾向は明らかにあると思う。間口になるべきアニメが深夜に飛ばされたり出来が残念だったり、という懸念もごもっともだ。 でもさ、なんだかんだいってあかほりの路線(美少女いっぱい・明るくご都合・読みやすさ重視)を発展させたMFだって頑張ってるじゃん。 いまのライトノベルレーベルは、女性向けを除くと、大雑把にいって、3つのグループに分けられる。 古典的なストーリー重視のCノベ・スニーカー(ハ
近年のライトノベルってかオタク文化全体の状況として、本当にヤバいのはコンテンツの消費速度の加速だと思うのですよ。 ゴジラは50年保つコンテンツだったわけじゃないですか。ウルトラマンやライダーもこのままいけば50年くらいもちますよね。ガンダムは既に30年オタクの共通認識であり続けてる。 そういう神話世界の人たちを挙げなくても、第三世代オタクの一部はエヴァで10年以上遊んでいます。Kanonが今年で10年ですか。あかほりが関わったものでいえば、サクラ大戦が「10年戦えるコンテンツ」ですな。 ……いまの作品に、それだけの力があるのがいくつあるかな。あるいは、今の世代のオタク、第四世代の人たちが、一つの作品の記憶を10年も大事に抱えていられるかな。萌えキャラは量産されてますが、10年はちと厳しいにしても、5年付き合える娘さんはどんだけいます? 10年どころか、1年、半年で(つまりコミケごとに)、業
月刊のはずが隔月になりつつあるハーレム系作品史。 前回(1月)・前々回(11月)のテーマは『天地無用』、「テレ東6時台角川アニメ」です。95年第2・第3クールの『天地無用』『スレイヤーズ』に続く、角川の第二次攻勢は、95年第4クールからの『爆れつハンター』及び『新世紀エヴァンゲリオン』。あえて『爆れつ』という肩透かしも魅力的ですが、あかほりさとるのことはいずれ『サクラ大戦』で触れるはずなので、素直に『エヴァ』について語ります。 エヴァ自体は直接的にハーレム系作品とはいえない(でもハーレム的な読み方もできちゃうのは無視できない要素だったり)のですが、これを踏まえないと95年以降のオタク系文化が語れないので。いまさらエヴァについて語る以上、ハーレム系作品史という観点と絡めて、ちょっと切り口の違ったアプローチをするつもりです。……また「補章」だ。 まず、皆さん誤解されているようなのですが。 エヴ
ライトノベルサイト杯とやらの新しい結果が出たということを、以前の記事へのトラバの通知で知った。 ご新規様部門は、まず、トップがロミオ(笑。2位がなんかラノベサイトをネタにしたとかいう『俺の妹が(ry』で4位が『ラノベ部』で6位が『ばけらの』と内輪受け。 既存はライトノベル論壇の方々がモーレツプッシュしてる(らしい。よく知らない)『ピアノソナタ』と『文学少女』の一位二位。 まあ、そんなもんでしょう。ライトノベルサイト杯ってのは、つまるところ【ライトノベル論壇杯】なわけで。彼らはもともと中二病と内輪受けじみたネタが好きな人たちの集まりで、大手サイトの影響力がそれを加速したというだけのこと。 私のように「論壇外」のサイト主や、サイト持ちでない一般読者、さらにラノベ原作アニメだけ見てる人たちなんてのはまったく参加してない、論壇の方々による論壇のための賞で、これを一般化することは論壇の方々が主催して
本エントリは、 『ハーレム系作品史補章 1992『天地無用』は誰のもの? (1/3)』 『ハーレム系作品史補章 1992『天地無用』は誰のもの? (2/3)』 の続きの話です。 まずはそちらからお読みください。 TV版『新・天地無用!』(97年。いわゆる関島版天地 清音刑事登場) ここまで、毛色の違いこそあれ、全てそこそこ以上の実績を残してきた『天地』のメディアミックスの、初めての失敗作が、このTV版『新・天地無用』。 シリーズ構成をつとめた関島眞頼は、『てやんでえ』『テッカマンブレード』『セイバーJ』などの構成をやった、ねぎし同様「あかほりさとるの盟友」というべき人物なんだけど、『新・天地』『ロスユニ』『オーフェン』『ヤマモトヨーコ』と、富士見ファンタジアの主力〜中堅上位作品のメディアミックスを次々コカしたという恐るべき実績を持っている。『ロスユニ』は作画側問題とはいえ、残り3作は「なに
これから行う記述は、92年スタートの「世間的には10年も前に終わっている企画」である『天地無用!』について、OVA版・小説版・漫画版・テレビアニメ版など各シリーズ各媒体の、長所や短所や感想を語ろうという、はっきり言って不毛な試みです。ぶっちゃけ、「10年越しのおもいで語り」。 ハーレム系作品史という観点で言うべきことは、前のエントリ(ハーレム系作品史 1992 天地無用!の必"要"性)で既に言ってしまってて、繰り返しという面も強いので、あまり重要なエントリではないです。普遍的な価値を無理にでも挙げるなら、現行の角川商法・アニメ商法の原型のひとつを確認しておく、といったところでしょうか。 OVA版『天地無用! 魎皇鬼』第1期(92-93年。梶島設定・長谷川脚本。清音刑事未登場) 1990年前後というか、昭和の終わりから平成初頭の数年間、集英社一極支配下にあった漫画界と地上波アニメの裏側で、勃
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『fxmc.hatenadiary.org』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く