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今年の「かわいい」
fox-moon.hatenablog.com
本気で理解(わか)っていないのか、全部知ってて素っ惚(とぼ)けてやがるのか。 ちょっと判断に困る事例だ。 ホテル、マンション、アパートが「404」号室を忌み、欠番扱いとするように。 一九二〇年代、フランスの一部列車には「69」を座席番号に使用(つか)わぬという不文律が存在していた。 例の石川光春が確認したことである。「フランスの汽車の座席に打ってある番号に69が抜いてある、詰り68から飛んで70になって居る」のだと。それでいささか不審に思い、現地の伝手をたどっては色々訊ねてみたところ、「仏人は一般に69の文字を避ける習慣である事がわかった。何か御幣を担ぐのかと思ったら其んな神秘的な事では無く、6と9を男女に象れば二つ巴になって居るのが気になるからだと云ふ。何故二つ巴がそんなに気になるか人に聞いても笑って答へず」──そりゃあ笑って誤魔化すしかないだろう。私でもそうする。いい歳をした紳士が白昼
呪者がいた。 呪者がいた。 大英帝国、首都ロンドン。霧の都の一隅に、日本の偉大な文豪を──夏目漱石を怨んで呪う者がいた。 (世にも恐ろしい祟り神) 呪者はイギリス人である。 名前はイザベラ・ストロング(Isabella Strong) 。 テムズ川の流れの洗うチェルシー地区に今なおその姿をとどむ、トマス・カーライルの家の管理がすなわち彼女の仕事であった。 「夏目はまったくけしからぬ」 そういう立派な英国淑女が、訪客の姿(なり)を日本人と認めるや、怨嗟の焔をさっと瞳に宿らせて、低く、床を這わせるようにぶつくさ文句を垂れまくる厄介な性(サガ)を持ったのは、むろんのこと理由(ワケ)がある。 艶めいた要素はまったくないが、痛切骨を刺すような、実に深刻極まる理由が。 「夏目は私を『婆さん』扱いしくさったのだ。──今なら我慢もできようが、あの頃はまだ、五十そこそこだったのに」 勘働きの素晴らしい夏目漱
慶應義塾は頻繁に「初物食い」をやっている。 先鞭をつけるに堪能である印象だ。 鉄棒、シーソー、ブランコ等を設置して、以って学生の体育に資するべく、奨励したのも慶應義塾がいのいち(・・・・)だった。 明治四年の事である。 これからの時代、およそ文書の作成にタイプライターの活用が不可欠たろうと推察し、カリキュラムに組み込んだのも、最初はやはり慶應義塾商業学校こそだった。 明治三十六年の事である。 (Wikipediaより、タイプライター) なお、このタイプライター講座については特別に、「同校旧卒業生及び本塾大学生普通学部の志望者にも来学を許す」措置を取ったとの由だ。 前者については福澤諭吉の肝煎りなれど、後者についてはさにあらず。約二年前、明治三十四年を境に、福澤諭吉は黄泉の客となっている。校祖逝いても、彼の掲げた進取の気質は経営陣に脈々と受け継がれていたようだ。少なくとも、この時点では、なお
国家とマグロの生態は微妙なところで通い合う。どちらも前進を止(よ)せば死ぬ。 「足るを知るの教は一個人の私に適すべき場合もあらんかなれども、国としては千萬年も満足の日あるべからず、多慾多情ますます足るを知らずして一心不乱に前進するこそ立国の本色なれ」。――福澤諭吉の『百話』に於いて、私は特にこの一条が好きである。 およそ国家の発展に、「もうここらでよか」のセリフは大禁物だ。目指す地平を見失い、ただただ惰性の現状維持に腐心しだしてしまったら、その瞬間からはや既に、斜陽衰退の中に居る。そう心得て構うまい。 (『賭博破戒録カイジ』より) かつての日本は目的意識が鮮明だった。明治に於いては「富国強兵」、「文明開化」、「列強に追いつけ・追い越せ」が、昭和二十年以降にも「灰からの復活」、「工業立国」、「高度経済成長」が、誰の目にも分かり良い時代正義がそれぞれあって、国民の希望や情熱を容易くひとすじに纏
未来は過去の瓦礫の上に築かれる。 「時間」の支配は残酷にして絶対だ。「時間」は決して永久不変を許さない。時の流れはこの現世(うつしよ)に籍を置く、あらゆるすべてを侵食し、変化を強いるものである。 斯かる一連の作用を指して、「時間」なるものの正体を「万物の貪食者」と定義したのは誰あろう、高橋誠一郎だった。 (Wikipediaより、高橋誠一郎) 初見はずいぶん驚いた。 慶應義塾の誇る俊英、経済学者の上澄みが、なんたる詩的な表現を――と、目を洗われるの感だった。 年がら年中、無味乾燥な数字に埋れ、鵜の目鷹の目光らせて、富の動きを追っかける学問の徒の精神に、こんな潤いがあったとは、である。 「『時』は万物の貪食者である。無盡の創造力を有する『時』は亦無限の破壊力を有するものである。『時』の創造し復(ま)た破壊し行くものは独り有機無機の物体のみではない。社会生活上の必要から成立し発達した社会の制度
開拓作業の第一歩。――未開蛮地に文明人が勢力を新たに張るにつき、自然力を減殺するのは常道だ。 必須条件ですらある。原生林には火を放ち、人や家畜を害し得る猛獣類は殺戮するべきだろう。 (仏軍の火炎放射器攻撃) 日本人も北海道でやっている。明治の初期に、狼による損失が馬鹿にならなくなったとき。これ以上(・・・・)を防ぐため、あの四ツ脚に、いっそ破格と思えるほどの賞金を懸け、津々浦々から猟師の助力を募ったものだ。 いわんや西洋に於いてをや。 オランダ人らも十七世紀、南アフリカでそれ(・・)をした。水野廣徳の紀行文、『波のうねり』に記された、当時の模様左の如し。 「現今大廈高楼、甃(いらか)を連ね、車馬行人、織るが如き、壮麗繁華のケープタウンの町も、二百余年前までは、獅子躍り、豹戯れし地なるかを思へば、桑蒼淵瀬の感も啻(ただ)ならざるものあり。当時の規定に依れば、猛獣捕殺に対する報酬は、獅子一頭十
江見水蔭には妙な私有物がある。 土俵である。 彼は庭の一角に、手製の土俵を設(しつら)えていた。それも屋根付き、雨天でも取っ組み合えるよう、とある知人の船主から古帆をわざわざ貰い受け、そいつを改良、覆い代わりにひっ被せていたそうな。 仲間内では「江見部屋」の呼び名さえあった、そういう自家製土俵をむろん、江見水蔭はただ腐らせはしなかった。濫用といっていいほどに、常習的に使用した。相手は主に村上浪六、大町桂月、長谷川天渓、田村松魚、神谷鶴伴、他にも他にも――総じて謂わば明治文壇のお歴々。錚々たる面々と、力較べをやってやってやりまくったものだった。 知られざる名取組があったのである。 同業者が相手なら、江見水蔭の勝率は決して低い方でない、白星を重ねる側だった。 が、一度本職を向こうにまわせばどうだろう。鼻息だけで吹っ飛ばされる、セミプロの間に混じってさえ井蛙の己を発見せずにはいられない、そういう
人は米寿を超えてなお、――老いさらばえて皮膚は枯れ、頭に霜を戴くどころか不毛の曠野を晒す破目になってなお、野心に狂えるものなのか? むろん、是である。 是であることが証明された。姓は中本、名は栄作。数えで九十一歳になる、大じじいの手によって――。 (フリーゲーム『妖刀伝』より) いやむしろ、「脚によって」と書く方がより実相に近いのか。 北海道は函館市、大町に棲む栄作が、直線距離にて800㎞にも及ばんとする東京・大島警察署に収容保護されたのは、昭和九年も晩秋近く、木枯らしの吹く十一月十日前後のことだった。 名目は単純、「三原山投身自殺志願の廉(かど)にて」。なんと驚くべきことに、栄作じいさん、北海道から態々万里を踏破し来たる目的は、昨年以降すっかり自殺の名所と化した三原山の火口へと、朽ちかけの身を踊らせて、昇天キメるためだったのだ。 が、寸でのところで阻まれた。 ――九十一歳にもなって。 死
地獄の、悪夢の、絶望の、シベリア捕虜収容所でも朗らかさを失わぬ独軍兵士は以前に書いた。「我神と共にあり」と刻み込まれたバックルを身に着けお守り代わりとし、軍歌を高唱、整々として組織的統制をよく保ち、アカの邪悪な分断策にも決して毒されなかったと。 (ドイツ軍楽隊) 顧みるたび、げに清々しき眺めよと、感心せずにはいられない。 人間には、男には、たとえ生命(いのち)を奪われようと曲げない筋があるべきだ。 ドイツ人はそいつを持っていたらしい。 だからこそ獄中、転向し、ロシア人どもに媚びを売り、本来的な同胞兵士を叩き売る、腸(はらわた)の腐った人非人、裏切り者の下衆野郎に対する指弾は凄まじいまでのものだった。 浅原正基という奴がいる。 もとを糾せば一介の上等兵に過ぎないが、こいつがまた、典型的な人の皮を被っただけの畜生で、敗戦、抑留、シベリア送りにされるや否や大急ぎで真っ赤に染まり、しかも彼の動機と
一種の「リトマス試験紙」だ。 明治の書物を手に取る場合、著者が旧幕体制を、ひいては徳川家康を、どのように評価していたかにより買うか否かを決めている。後ろ足で砂をかける無礼を犯しちゃいまいな? と、立ち読みしながら常に気を遣うポイントである。 (フリーゲーム『芥花』より) 如何に維新の「負け組」に転落し去ったとは言えど、二百五十年の永きに亙り日ノ本を能く統治した、その実績まで葬り去られるべきでない。歴史には敬意を払わねば。江戸徳川の泰平を、暗黒時代と一蹴されてはかなわない。あまりに心が無さすぎる、人でなしの所業であろう――。 そうした点で植木枝盛は失格であり、陸羯南は合格だった。 左様、羯南、陸奥(みちのく)の産、本名実(みのる)。 例の『日本』新聞の創刊者であるこの人は、社説欄にて家康を「三河の老猾」云々と随分ひどい渾名で呼んで、ところがしかしその業績に至っては、 「…三百年驩虞の治は実に
唐土に飢餓は稀有でない。 ぜんぜんまったくこれっぽっちも珍しからぬ現象だ。 定期的に発生(おこ)っては山の様な餓死体と流民の群れを作り出し、王朝の足下をグラつかせ、野心家に垂涎の機会を恵む。恒例行事の一環と看做すも可ではあるのだが、しかし1920年に生起した、「華北大飢饉」の名で知られるそれ(・・)は、「いつもの」と軽く流すを許さない――規模の面にて、あまりに常軌を逸脱しきったモノだった。 なんといっても、罹災民は三千万だ。 (支那の田舎の市場の様子) どうせいつもの誇大広告、実数はだいぶ落ちるだろうが、たとえ十分の一だとしても三百万人、相当以上の数である。 どこからどう手を付ければ良いのか、想像するだに目が回る。おまけにこの罹災民の群れの中からコレラ患者が発生し、ために「防疫」を名目に列車の動きが停止され、彼らは飢餓のドン底帯から逃げることすら叶わなくなり、パニックにますます拍車をかけた
脳を灼かれた。 ボロボロの校舎、 止まった時計、 やけにアナログな備品一式、 何故か外に出たがらない主人公。 勘の鋭い方ならば、これらの要素だけではや、何事かを察すであろう。 一連の画像は「夕暮れ時、廃校にて。」なるフリーゲームのスクリーンショット。もうタイトルの段階からして郷愁の念を刺戟する、セピア色に染まった世界を探索するアドベンチャーだ。 古書を偏愛する筆者(わたし)だが、同じ感性に基いて廃墟巡りも大好きである。 ゆえ、嬉々としてダウンロードし、プレイした。その結果として、益体もない、案に違わず呼び起こされたノスタルジックな感動に情緒をめちゃくちゃに掻き乱されて、のたうち回っているわけだ。 だからこんなのを書きたくもなる。 ――時は昭和六年の、梅雨前線最盛期。 場所は皇居にほど近い、麹町高等女学校。 相手はおよそ百五十名、――来春「巣立ち」を迎えるはずの最上級生を対象に、アンケート調
偉人が語る偉人伝ほど興味深いモノはない。 「評するも人、評せらるるも人」の感慨をとっくり味わえるからだ。 福澤諭吉は『時事新報』の記事上で、伊藤博文を取り扱うに「国中稀に見る所の政治家」という、きらびやかな言を用いた。「政治上の技倆を云へば多年間政府の局に当りて自から内外の事情に通じ、或は失敗もし或は成功もしたる其間に、あらゆる政界の辛酸苦楽を嘗め盡して今日に至りしことなれば、事の経験熟練の点に於ては容易に匹敵するものを見ず。殊に日本の憲法制定に参して最も力あるの一事は内外人の共に認むる所にして、其功労は永久歴史上に滅すべからず」云々と。 べた褒めである。 満艦飾といっていい。 まるで鳴りやまぬ喝采だ。 明治十四年の政変で拗れたとされる両者の仲も、とどのつまりは「時」が癒したらしかった。少なくとも福澤諭吉の態度には、軟化というか、幾らかの歩み寄りが見て取れる。 民本主義の提唱者、大正デモク
デモクラシーの掛け声がさも勇ましく高潮する裏側で、人間世界の暗い業、望ましからぬ深淵も、密度を濃くしつつあった。 『読売新聞』の調査によれば、改元以来、日本に於ける離婚訴訟の件数は、年々増加するばかりとか。 大正四年時点では八百十三件を数えるばかりであったのが、 翌五年には九百五件に上昇し、 次の六年、九百五十一件にまで跳ねたなら、 七年、とうとう千百四十二件なり――と、四ケタの大台を突破して、 更に八年、千二百十八件を計上と、伸長にまるで翳りが見えぬ。 (タバコを吸う夏川静江) なお、一応附言しておくと、上はあくまで訴訟を経ねば別れ話が纏まらなかった事例のみの数であり、離婚そのものの総数は、更にこれから幾層倍するのは間違いないことだ。 現に二〇一九年のデータを参照してみても、二十万八千四百九十六件の離婚中、裁判手続きを経たものは五千四十八件と、ほんの一滴程度に過ぎない。 閑話休題(それは
文部大臣多しといえど、学校視察に向かう都度、便所の隅まで目を光らせて敢えて憚らなんだのは、およそ中橋徳五郎ぐらいのものであったろう。 話は尾籠に属するようで若干引け目を感じるが、これは至って真面目なことだ。 少なくとも中橋大臣本人は、猟奇趣味にも変態性欲を満たす為にもあらずして、己が職務を全うするのに不可欠なりと判断し、この上なく真剣に、信念を持ってやっていた。 (フリーゲーム『操』より) なんでも彼に言わせれば、便所の壁こそ学生が、もっとも赤裸に、明け透けに、言論戦を展開できる場所なのだとか。なるほど確かにSNSも、電子掲示板すらも未発生な彼の時代。心の澱を吐き出す場所は現代よりもずっと限定されていた。手段の面でもアナログたらざるを得ない。そのあたりを考慮に入れれば、中橋の弁にも一理ある。 だから便所のチェックほど、そこの校風を掴むのに手っ取り早い業はない。――そんな認識に立っていた。
震度七は何物をも逃さない。 東京帝国大学の象徴たる赤門も、大正十二年九月一日、大震災の衝撃に、無傷で耐えれはしなかった。 無傷どころの騒ぎではない。木ノ葉よろしく瓦は落ちるし、土台は東に傾くし。おまけにその状態のまま長くほっぽかれた所為で、草は生えるわ朱は剥がれるわ、目も当てられない悲況に堕ちた。 将軍家の姫君を、加賀百万石前田家に嫁入りさせた際に於いての「引き出物」、由緒正しき持参門とて、儚や幽霊屋敷も同じ、浮世の無常を物語る、格好の縁(よすが)たるばかり。 散々たるその落魄ぶりを、 「赤門と云へば東京帝国大学の名称よりずっと通りのいゝあこがれの的であったほど有名であったが、初めてこの門を見たものは、なあんだこれが赤門かと二度びっくりするほどうす汚いものである」――と、例の『読売新聞』なぞは、またぞろ手ひどく書いている。 (Wikipediaより、読売新聞東京本社ビル) そうした市井の風
銀幕で濡れ場が開始(はじ)まると、客席中にもつられて血を熱くして、みるみる脳まで茹であがり、一切の思慮を蕩けさせ、過去も未来もまるきり喪失、ただ現在(いま)だけの、現在確かに存在している衝動だけの塊と化し、そのままそこで自分等もおっぱじめ(・・・・・)ちまう(・・・)奴(バカ)がいる。 これは戦前、白黒映画、どころか声も入っていないサイレントキネマの時代から、屡々生起し、問題視された事態であった。 (Wikipediaより、ローヤル映写機) 福岡県庁保安課による調査記録に基けば、昭和四年に劇場内にてつまりその、暗がりにまぎれてみだらなことをしたというので、八幡市だけで女性六名、男性十六名が捕まり、こっぴどく説教されている。 検閲に引っかからないよう、直接的な描写を避けた匂わせるだけのラブシーン。あんな粗っぽい映像だけで人目を全然忘れ去るほど発情するのが可能とは、いっそ感心するべきか。 あり
遡ること九十四年、昭和五年のちょうど今日。 西紀に換算(なお)せば一九三〇年の、二月二十四日のことだ。 中央気象台は異例の記録に揺れていた。当日の最高気温として、寒暖計は24.9℃なる夏日寸前を示したからだ。 (中央気象台) 季節外れの高温は関東平野のみならず九州から奥羽まで、日本列島全域にて観測されたことであり、 「今まで生きてきて、こんな二月は経験したことがない」 「とても炬燵に足なんぞ突っ込んじゃあいられんなあ」 と、腰の曲がった老人たちまで涼風(かぜ)を求めて戸外に出てはさざめき合ったそうである。 地球はときどき、まるで思い出すように、こんな乱調をしでかすらしい。江戸期以来の小氷河期が未だ続いているはずの、昭和初期にあってさえこんな有り様なのである。気候はまったく複雑で、ときに怪奇ですらあった。 「全く狂ってゐるのだ、暖かいのではない、暑い」 中央気象台の顔、理学士藤原咲平(さくへ
明治十二年は囚人の取り扱い上に、色々と進展が見られた年だ。 たとえば皇居の草刈りである。 日本のあらゆる権威の根源、 皇国を皇国たらしめる御方、 すめらみことが坐する場所。 重要どころの騒ぎではない、そういう謂わば聖域を、美しいまま保つ作業は従来府庁の役目であった。 が、四月から、これが変わった。警視局が代わって任に就くことになり、移譲早々、彼らは皇居周辺の浮草並びに野草刈り取り作業に関し、すべて囚人の手によってこれを致す(・・)と決めたのだ。 罪を犯して裁かれた――懲役に在る身といえど、安易に「穢れ」扱いするな。そういう意図を迂遠に籠めていたのだろうか。でなくば「浄域」を管理するのに、態々彼らを宛がう理由が見当らぬ。 監獄は懲罰の為でなく、更生の為にあるという、欧米流の人権意識へ接近したいという意思も、少なからずあったろう。国際社会で文明国と認めてもらいたい故の、ひいてはそれにて不平等条
日本人とは、井戸掘り民族なのではないか? 妙な言い回しになるが、そうだとしか思えない。 海の向こうに巣立っていった同胞たちの美談といえば、十に七八、それ(・・)である。 (江戸東京たてもの園にて撮影) アフリカ、中東、東南アジア、煎じ詰めれば発展途上諸国に於いて、言語の壁にも、甚だ不良な治安にも、決してめげる(・・・)ことなしに、時間と熱意を代価に捧げ、ついに「水の手」を確保した――と、大概そんな筋だろう。 全地球的観点から眺めても、清冽かつ豊富なる日本国の水資源。ありあまるほどの恩恵を、大して意識することもなく――「日本人は水と安全はタダと思っている」――享受し育った身としては、黄土色の濁り水を無理矢理濾過して飲まざるを得ぬ第三世界の事情なぞ、ほとんど地獄と変わらないのに違いない。 なればこそ、その現実に直面した際、受けるショックは甚大で、 ――なんとかせねば。 ――こんな悲愴をどうして
書棚を飾る『蠅と蛍』。 佐藤惣之助の想痕、あるいは随筆集。神保町のワゴンから五百円(ワンコイン)にて回収してきた品である。 本書の見開き部分には、 必要最低限度といった、ごく控え目な書き込みが、これこの通り為されてる。 白楊 辰澤様 と読むのであろう。 白楊――。 佐藤惣之助の雅号ではない。 では誰だ。 画家である。 本書の絵画装幀を担当したる絵描きの名。それが井上白楊である。十中八九、この人からの贈り物であったろう。 受け手側たる「辰澤様」がいったい誰を指すものか、こちらはどうにもわからない。個人的に親交のあった者であろうか? とまれかくまれ、著者謹呈は屡々見たし持ってるが、こういうケースは初めてだ。 ちょっと新鮮な喜びと、また驚きを味わった。 その情動が醒めやらぬ間に、ここまで一気に書き上げた。 我ながら粗忽な文ではあるが、たまにはこういう試みも、さまで無為ではないだろう。 大手拓次/
大正九年十月の国勢調査に従えば、当時樺太――むろん南半、日本領――に居住していたロシア人の総数は、ギリギリ三桁に届かない、九十九人だったとか。 明治三十八年のポーツマス条約締結時、つまりこの地が「日本」になった直後では、およそ二百人ほどがあくまで居残ることを選んで引き揚げを拒絶したというのに。指折り数えて十五年、ずいぶん減ったものである。 (Wikipediaより、樺太の残留ロシア人) まあ、あと何年かしたならば、革命で祖国に居場所をなくした、いわゆる「白系ロシア人」らが東の果てのこの地にもはるばる流れ着いてきて、少しは人口恢復に寄与してくれる次第であるが。 とまれかくまれ、「丸太作りの小屋に棲み、中流以下の生活をする」残留ロシア人たちは、具体的にどんな暮らしを送っていたか。 彼らの日常風景につき、かなり詳細なスケッチを遺しておいてくれたのが、樺太庁の技士である、川崎勝という男。職務柄、彼
日本人が死亡した。 遠い異境の地に於いて、政変に巻き込まれた所為だ。 政変とは、すなわちロシア二月革命。ペトログラードで流された血に、大和民族の赤色も、いくらか混じっていたわけだ。 (Wikipediaより、二月革命) その死に様は陰鬱に彩られている。彼は駐在武官でも、大使館の職員にもあらずして、全然一個の商売人の身であった。 純然たる民間人にも拘らず、居てはならない空間に、あってはならない一刹那、身を置いてしまったばっかりに、頭を砕かれ、むごったらしい屍を晒す破目になってしまった。 不運としかいいようがない、その男の名は牧瀬豊彦。 現地に於ける高田商会の主任であった。 (Wikipediaより、高田商会本店) この件につき、『東京日日新聞』のペトログラード特派員、布施勝治記者報じて曰く、 「革命は三月八日に始まり十六日に終る、其間軍隊及市民の死傷僅に二千人内外に過ぎず誠に手軽き革命と可申
フグは身近な毒物だ。 入手が容易で、 高い致死性をもっていて、 おまけに日本人ならば、ほとんど誰もがその性質を知っている。 「喰えば死ぬ」という共通認識、この普遍性がミソなのだ。この特徴ゆえ、他人を揶揄う材料として、フグは非常に便利であった。 (Wikipediaより、クサフグ) 鯛なり鱈なり何なりと、別な魚類と偽って、こっそりフグを食べさせて。しばらくしてから――胃洗浄しても無駄な時分になってから、 「ありゃ実は……」 と、おどろおどろしくバラすのは、もはや定番のネタである。やられた方は蒼褪めて、瘧(おこり)のように慄えだす。そこを愉しむ寸法である。 人が悪いと言えばそう、毫も反論の余地がない。 だがしかし、遊びの愉快というものは、大なれ小なれ悪意を満足させてこそ、本意に叶うのではないか? 維新前には福澤諭吉もこれ(・・)をした。 『福翁自伝』にちゃんと収められている。大坂適塾時代の回顧
前回の記事に追記する。 明治十五年度に於けるオットセイの総捕獲量が判明(みえ)てきた。 その数、実に二万七百匹以上。剥がれた皮の枚数のみに限定してさえコレだから、実態としてはもう幾ばくか上乗せされることだろう。大漁、豊漁、「当たり年」とはよくも言ったり。冒険的な外国漁船の跳梁で、日本の北の海獣はまさに虐殺されたのだ。 (Wikipediaより、キタオットセイ) 「忌々しい毛唐めが。やつら、程度を弁えぬ」 「人の庭先で好き放題しおってからに。もはや一刻の猶予もならぬぞ」 加減を知らぬ根こそぎぶりに、政府も胆を潰したか。 法規制が急がれて、その翌々年、成立をみた。布告内容を以下に引く。 太政官第拾六號 自今以後北海道に於て猟虎幷膃肭臍を猟獲するを禁ず、犯す者は刑法第三百七十三条に照して処断し仍ほ其猟獲物を没収す、之を売捌きたる者は其代価を追徴す。 但農商務省の特許を得たる者は此限にあらず。 右
色違いは持て囃される。 みんな奇妙なのが好きだ。 明治十五年の晩夏、北海道増毛郡別苅村にて、ひとりの漁夫が白いナマコを引き揚げた。 白皮症とは独り哺乳類のみならず、棘皮動物に於いてさえ観測されるものらしい。たちまち大騒ぎになった。 抑々からして造化の神の悪ふざけにより誕生(うま)れたみたいな形状(かたち)をしているのがナマコ。 (Wikipediaより、ナマコ) ただでさえわけがわからないのに、かてて加えて雪をも欺く白さとあってはもう、もはや、一周まわって神々しさすら感ぜられるに違いない。 当時の相場からいって、干しナマコの一斤が、だいたい五十銭であった。 ところがたった一匹の白いナマコが出現するや、たちまちこれに「三十円」の値が付いたから堪らない。 普通のナマコ、千匹分を遥かに超える価値がある。そのように認められたのだ。好奇心に駆り立てられた人間は、ときにまったく手に負えないことをやる。
明治六年の発布以後、徴兵令は数次に亙って改訂され、補強され。より現実の事情に即した、洗練された形へと、段々進化していった。 初期のうちには結構あった「抜け道」、裏技の類にも、順次閉塞の目処がつき。 だが、なればこそ横着なる人心は、僅かに残った穴(・)めがけ、一か八かの吶喊を試みずにはいられない。 ――「戸主六十歳以上の嗣子は徴兵を猶予せらるゝ」。 穴(・)の中でもこの一条は、割合長く気息を保った方だった。 (Wikipediaより、徴兵検査通達書) 当局は何故こんな規定を態々設け、留めて置くに至ったか? 理由は、まあ、色々と、複雑多岐な事情とやらを勘案してのことだろう。 だがしかし、齎した結果は単純である。 ブローカーの跳梁だ。 「…此比(このころ)伊勢辺にては、六十歳以上の老人の名前を売買すること大に流行し、其の値段は大抵百円以上二百円位にて、其周旋人は多くは同地旧某会社の連中なりとか、
ここに一書あり。 大雑把に分類すれば嘆願状に含まれる。 さるハワイアン女性からアメリカ国民全体へ訴えかけた文である。 一八九三年二月十三日というのが、その書の提出(だ)された日付であった。 左様、一八九三年、ハワイ王国落日の秋(とき)――。 (ハワイアンたち) 書き手は尋常(ただ)の女ではない。 やがて国を継ぐべき者だ。 その大任に相応しい「自分」を形成するために、故郷を遥か、地球の反対側まで行って研鑽に励んでいたところ、当の祖国が亡んだと、かたじけなくも現王は叛臣どもに取り囲まれて玉座を棄てるの已むを得ざるに至ったと、そんな悲報の入電だ。 疑いもなく踏みしめていた足元が、いきなり海に変化したのも同然のショックだったろう。私はどうすればいいんだと、髪ふり乱して絶叫しても許される。切羽詰まった袋小路の局面で、しかし彼女はペンを執り、慄えんとする指先を意志の力で抑えつつ、一文字一文字、掘り込む
この世のどんな悪疫よりも性質(タチ)のわるい病患が、一次大戦終結後のヨーロッパに蔓延った。 共産主義のことである。 マルクス教と言い換えてもよい。 (Wikipediaより、カール・マルクス) イタリアでも、ポルトガルでもアカのカルトは跳梁し、社会を喰い荒らしていたが。とりわけ無惨であったのは、なんといってもハンガリーであったろう。 分類上、中欧となる彼の地では、革命により二重帝国を解消してからものの半年も経たないうちに再度革命が勃発し――どんな因果の間違いだろう、ふと気が付けば狂人が、国の牛耳を執っていた。 シベリアの丸太小屋にでも永遠に隔離しておかるべき、その男の名はベラ・クン若しくはクン・ベーラ。 三十代前半という若輩の身でありながら、乱世のみが許容する非常手段で独裁権を確保した、この人物がいの一番にやったのは、開催中の議会に向けて己が兵士を雪崩れ込ませることだった。 「…欧州大戦後
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