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今年の「かわいい」
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このエントリーの言うとおりだと思った。 【自己責任系はてな村怪談】あるブロガーの末路 - さよならドルバッキー 振り返ると、私は、この2年間で1回しかブログエントリを書けていない。正確に言えば、なんどもここに書こうと思ったのだけど、どうしても書けなかった。 私にとって、はてなダイアリーは「第ニの青春」とでもいえるような、甘くてほろ苦い思い出だった。いつの間にか、思い入れが強くなりすぎて、一字も書き込めないようになっていた。 私は、いろんな夢を見た。多くの夢は果たされることなく、露と消えていったけれども、そんなことはありふれた話だ。フィクションの世界では、ヒーローやヒロインは必ず自分の目標を遂げていくけれども、現実はそうではない。それこそが、人々がフィクションに惹かれる理由であるのだから。 かつて、この場所で私はいろいろ恥ずかしいことも言った。有り体にいえば「黒歴史」というわけだが、別にそれ
私はいままで日本社会をさんざん批判してきた。確かに日本社会に問題点は数多く存在する。 だが、私はいま深く反省している。私がやってきたことは、結局、批判のための批判に終始していたのではないか、と。私は、この現実から逃げていたのではないか、と。 外国に行くことはよいと思う。特に若い日本人にはお勧めしたい。日本社会は、事実上の単一文化社会だから、異文化に触れることで、視野が広がり、人生が豊かになる。 だが私の場合は、結局のところ、単なる逃避にすぎなかったのかもしれない。この15年間いろんな外国に住んでみて、最終的にこう言わなければならないのは辛いけれども、認めなければ先に進めない。 外国に旅行に行くのは簡単だ。だがそこで仕事をしようとすれば、日本にいる時以上に面倒なことが多い。日本できちんとやれない人間が外国でうまくやるのは相当難しい。 私が将来、再び外国に出ていくにしても、いまは日本でなすべき
「そろそろブログを書こう」と思い続けて、3ヶ月経ってしまった。 私は、いま「中年の危機」とも言えるアイデンティティ・クライシスにある。もう少し、気持ちが整理されたら書こうと思いつつけてきたが、たぶんこの分だと永遠に気持ちは整理されまいと思い、日記を書くことにする。 私は、いま東京のとある粋なソフトウェア企業と契約して、あるソフトウェア開発のプロジェクトに従事している。こうやって働いている身分で、自分の人生の迷いを吐露すれば、顧客に不安を与えるに違いない。普通にまともなビジネスマンだったらやらないことだろう。 だが、いずれにしろ、迷いを抱えているのは否定しがたいし、それを表に表さず仕事をするのも、誠実な態度とは言えないのかもしれない。いろいろしがらみやらなんやらあることはあるが、一つ一つを計算に入れて戦略的に行動するなんていう器用なことが私はできないので、まあ、こういうのも悪くないのかもしれ
最近は、SourceTree を通じて git レポジトリを操作する人たちも多いようだ。私はふだん Ubuntu 上にいるので、残念ながら SourceTree は使用できない。コマンドベースで git を使わざるを得ない。 コマンドベースでもぜんぜん構わないのだが、どうも git show-branch や git log の出力が気に入らない。 たとえば、git show-branch -a とすると、次のような表示になる。 ! [b2] ci2 * [master] Revert "c5" YES!! -- * [master] Revert "c5" YES!! * [master^] c5 * [master~2] c4 * [master~3] ci2 + [b2] ci2 + [b2^] ci3 +* [master~4] ci1git show-branch の使い方につい
最近、ふたたび Ruby on Rails を使って仕事をしている。Rails 4 を使っているのだが、この数年での Rails 界隈の長足の進歩には驚かされることばかり。昔、不満だった点がことごとく改善されて、本当に良くなっている。IT は、この停滞した世界にあって、唯一、真に猛スピードで進歩を遂げている分野なのかもしれない(これが社会を大きく変えていくだろうことを妄想すると頭がクラクラしてくるわけだが)。 いまの仕事仲間は、git と GitHub を当たり前に使いこなしている。正直、個人的にちまちま git を使っていただけの私は大いにめんくらった。ブランチだのプルリクエストだのいろいろ言われても、わけわからん、というレベルであった(本当に仕事仲間には申し訳ない…)。 で、仕方ないので猛勉強した。 最初は、 サルでもわかるGit入門 〜バージョン管理を使いこなそう〜【プロジェクト管理
来年2014年1月から2〜3ヶ月の期間、参加できる IT プロジェクトを探しています。 私にとって最も得意で好きな言語は Ruby なので、Ruby 関係(Ruby on Rails 等)の技術を使うプロジェクトだと助かります。 Ruby の経験は15年、Ruby on Rails は7年以上の経験があります。 以前はこのブログで、Ruby や Ruby on Rails の記事を書いていました。 Ruby の記事 Ruby on Rails の記事 Ruby の次に得意なのは JavaScript です。その他、PHP, Java, C/C++, Perl などを使った実務経験があります。 Python の実務経験はありませんが、対応できると思います。 Linux 等 UNIX 系OSの基本的操作もできます。 プロジェクトの内容は問いません。新規開発でもよいですし、既存システムの改修でも
私は昨日、本気で今すぐベトナムに渡って仕事をするつもりだった。だが、そう決意をした数時間後、なんともいえない恐怖が襲ってきて、その決断を覆さざるをえなかった。 - 私は、子供のころから怖がりである。高所恐怖症だったし、他にもいろいろ怖いものがあった。優しい言い方をすれば「繊細」だった。自分のやりたいことの方向にどんどん突き進むタイプではなかった。 私はこの恐怖の源泉がどこにあるかは知らない。生まれつきの脳の仕組みに基づく器質的なものなのかもしれない。あるいは幼少期のいくつかの経験がトラウマとなって引き起こされたものなのかもしれない。 私が内省的な子供になったのは、言語の力によって、この恐怖に対抗し、言語で作り上げた幻想の世界に住むことで、かりそめの安定感・安心感を得るためであった。 だが、この精神安定の仕組みには大きな副作用が伴っていた。それは世界から溌剌とした躍動感を失わせ、生きる喜びを
さんざんソフトウェア開発をやりたくない、という後ろ向きの発言を繰り返している私であるが、逆にいえばどういう状況であればソフトウェア開発をやってもいい、あるいはやりたいか、ということを考えてみる。 私は別にソフトウェア開発そのものがめちゃくちゃ嫌いなわけではないのだが、それに伴うわずらわしいコミュニケーションという名の手戻りが嫌なのだ。理想をいえば、仕様書がきちんとあって、それをそのまま実装すれば仕事が終わり、というのが望ましい。本来プログラマの仕事はそうあるべきものだと思うのだが、日本の現場ではそういう理想的な状況はほとんどない。仕様書は常に不完全で、開発プロセスのほとんど終わりになって、仕様変更がかかる。それで納期を守ることが難しくなり、納期前の労働密度が強化される…という部分がほんとうに困る。 どうしてこういうことになるかといえば、日本人が仕事でやるべきことを文書にして表現する習慣がな
いろんなことを考えたが、結論としては次のとおりだ。 「ベトナムで働きたい」 ただここで問題がひとつある。 「いったいどういう形で働けばいいのか?」 ということである。 ここで年譜的に私の人生を振り返ってみる。 2006年 (株)ソフトカルチャー設立 Ruby on Rails を使ったウェブサイト開発に従事 2008年 ベトナムに渡る。当初の目的は、オフショア開発を行うソフトウェア企業を設立することだった。 2010年 ベトナムにて米国公認会計士資格を取得。 2011年 日本に戻る。Twitter 社受験。 2012年 「パブリックマン宣言」。Skype 相談。エルムラボ開始。 2013年 エルムラボ有料サービス終了。→いまここ。 私はソフトウェア技術者だった。だが、ソフトウェア開発における複雑なコミュニケーション・人間関係に疲れてしまい、ソフトウェア開発の仕事を脱出することを試みたのが、
みなさま、本当にお久しぶりです。 この半年間、私はどうしてもブログが書けなかった。 なんども書こうと思いつつ、どうしても書けなかった。 いろんな事情が複雑に絡み合って、どうにも書けない膠着状態に陥ってしまったのだ。 ただこの数週間で状況が大きく動き、再びなんとかブログが書けるかな、という心理状態になってきた。 これから少しずつ、この半年間で考えたこと、いま考えていること、これからやりたいと思っていることを書いていきたい。 みなさんよろしくお願いします。 (追記) 私はいま、自分ではどうにもできない問題を抱えていて、それを開示して、みなさんに応援をお願いすることになると思う。 自分にとって、本当に情けない姿をさらすことになるだろう。それによって私を非難したり嘲笑したりする人たちも出てくるだろう。それも仕方ないことだと思う。正直、本当に恥ずかしい。 私はいままでずっと一人で自分の問題を解決して
献本多謝。私自身、非常にあきっぽい人間なので、「私があきっぽいのも、いろんなものを極めてきたからなのか??」と思わず興味をそそられた。私自身、経済学・IT・英語・会計学等々の多様な分野で、普通にメシが食えるレベルまで激しく学んできたからだ(それでいて何でメシを食うべきかいまだに迷っているのは皮肉な話だが…(笑))。 極めるひとほどあきっぽい 作者: 窪田良出版社/メーカー: 日経BP社発売日: 2013/05/23メディア: 単行本この商品を含むブログ (2件) を見る著者の窪田良氏は、 1966年、兵庫県出身。慶応義塾大学医学部を卒業後、同大学大学院に進み、緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見する。その後、臨床医として虎の門病院や慶応病院に勤務するも2000年に渡米、2002年に米シアトルの自宅地下室でバイオベンチャー、アキュセラを設立した。現在は加齢黄斑変性やドライアイ、緑内障など様
例のボランティアグループで外国人の子供たちに日本語(国語)を教えた。子供たちは、一人ひとりはかわいいのだが、集団になるとなかなか凶暴である。昨日は私はもたもたしているうちに、子供たちに舐められてしまい、なかなか言うことを聞いてくれないで難渋した。学校の先生が、教室では非常に厳しく子供に接する理由がわかった。子供は、大人の事情を理解しないので、ある程度、決まりを作って強制的に守らせるようにしないと教室の秩序が維持できないのだ。 もちろん、これは大人側の落ち度でもあるとは思う。子供一人一人にあった教材で一人一人のペースで学習を進めさせることができれば、子供は自発的に楽しく学ぶだろう。だが、それを実現するためのリソースがいままで存在しなかった。大人一人に対して子供数十人という比率では、個別の指導は難しい。 将来の方向性は、「一斉授業的な部分は、ビデオを見て家で済まし、宿題的な作業は、教室でやる」
今日は、代官山にある Open Network Space で行われたイベントに参加した。 Disney、Xerox、Sony Music、Evernoteなど世界3万社が利用するカスタマーサポートサービスZendesk CEOランチミートアップ! ランチミートアップということでビザとソフトドリンク(一部のテーブルにはビールも)を飲食しながらのカジュアルな雰囲気での講演会だった。Open Network Space は通常 Open Network Lab(以下 Onlab という)に参加するスタートアップの人たちが利用するコワーキングスペースになっているらしい。 Onlab はスタートアップを支援するインキュベーター機関だ。この手の機関としては、ポール・グラハムがやっている Y Combinator が有名だが、メンタリング(開発中に困ったことの相談に乗る)と資金提供が主な機能だ。最近は
今日は、ある外国につながる(外国人の親をもつ)子供たちに日本語を教えるボランティアの打ち合わせに行ってきた。楽しい時間ではあったが、いろいろ問題点も多いなと感じさせられた。 主催者は長年地道に活動している団体で、いたってまじめで真剣だと思うのだが、いかんせんリーダーが高齢の方ということもあり、やり方が古臭く感じる。もっとソーシャルメディアやデジタル機器を活用すればいいのになと思いつつも、「授業で iPad を使いましょう」などと言ったら卒倒してしまいそうな雰囲気だ。しかし、話を聞いていると学校や行政側はそれに輪をかけて保守的な印象である。 この活動では、ボランティアが定着しないらしく、常に人手不足に悩んでいるようだが、それもむべなるかな、という感じではある。なんせボランティア側の負担が重すぎるのだ。日本の教育業界自体が、おそらく無限サービス残業のブラック産業であるがゆえでもあるせいだろうが
シリコンバレーで実際に起業して成長させた会社を、スティーブ・ジョブズとの直接交渉の後、Apple に売却した人が書いた起業入門。シリコンバレーでのベンチャー起業がどんなものであるか理解するには最適な本だ。 シリコンバレー流起業入門―投資を引き出すためのビジネスプラン作成ガイド 作者: 曽我弘,能登左知出版社/メーカー: 同友館発売日: 2011/12/01メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 5回この商品を含むブログ (2件) を見る曽我氏は東大の工学博士号を持つ技術者・経営者。新日鉄を経て、1996年に DVD オーサリングシステムを作る会社をシリコンバレーで設立。ディズニー等の大手企業に納品する。DVD 普及に貢献。そして2001年6月に Apple 社へ売却。 共著者の能登氏は、10代半ばに米国に渡り、現地の大学を卒業後、日本のインキュベーションセンターで起業のビジネスプランや
ふつう労働はカネをもらってするものだろう。しかし、今日「カネを払って労働する人たち」がいると聞き衝撃を受けた。 う米部 〜umai-bu〜 「う米部」と書いて「うまいぶ」と読む。「無肥料・無農薬で、本当に「美味しい」お米作りを目指す農集団」だ。千葉県館山市の休耕地を借りて、ほぼ人力で復活させ、無農薬・無肥料のごく自然に近い粗放的な稲作を行っているそうだ。 この「う米部」は定期的にイベントを行う。イベント参加者、がっつり農作業を行う。この手の企画では、通常、農業体験といっても短時間に終わらせることが多いらしいのだが、「う米部」は違う。実際に、コメの収穫を目指しているので、それに必要な作業をイベント参加者は行わなければならないのだ。だが、イベント参加者に言わせるとそういう本格的なところがいいのだという。 近日行われるのは、このイベント。 う米部 ー除草隊&蛍観察隊ー 6月15日・6月16日 1
昨日は横浜のコワーキングスペース・タネマキで、いまをときめくウェブサービスのDesignClueを運営する柴田社長を囲んで、開発の苦労話や今後の展望を聞くイベントがあった。 柴田さんは27歳と若いが、DeNA でのインターンやソフトバンクアカデミアでの経験を経て、起業に関する心構えはとてもしっかりしていた。礼儀正しく気さくな好青年であった。 DesignClue では、日本人の発注者が、海外に住むデザイナーにロゴを発注できる。面白いのは、選択肢と自動翻訳を活用して、日本人は日本語で発注ができ、外国のデザイナーは注文の内容を英語で確認できるようになっている点。日本人が外国人と取引するうえで一番抵抗を覚えるのは言語の違いであろうが、それを自然に乗り越えられる仕組みになっているのだ。また、外国の発注するからといってロゴの価格を大幅に下げるのではなく、一定の価格を維持することで高品質なロゴが供給さ
私はかつて受託開発のソフトウェア技術者だった。プロになったのは26歳のときだが、私は13歳のころからプログラムを書いていたので、最新の開発環境について独学するのはさほど苦にならず、瞬く間に平均以上の技能を持つ技術者になった。だが、正直に告白すると、ずっと技術者としての自分が好きではなかった。私にとって、ITをやるのは、ある種、人生からの逃避を意味していた。社会的な関係を結ばずに済むための方便だった。私はプログラムを書くのが嫌いだった。オープンソースプロジェクトに参加する人たちは、カネをもらわなくてもプログラムを書きたい人たちだが、私はまったくそんなタイプではなかった。 皮肉なことに、私のプログラム嫌いは、プログラム技能を向上するのに大いに役に立った。プログラミング言語 Perl の作者のラリー・ウォールによる「プログラマの三大美徳」に「怠慢(Laziness)・短気(Impatience)
私は、最近、タネマキというコワーキングスペースにはまっている。いまもタネマキにいてこれを書いている。 コワーキング&シェアオフィススペース コワーキングスペースは、簡単にいえば「パソコンさえあれば仕事ができる人たちが、電源とインターネット接続を得て、時間を気にすることなく落ち着いて作業できる、カフェとオフィスの中間的な空間」のことだ。 タネマキは横浜駅徒歩8分にある。こじんまりとした癒し系のスペース。オーナーの上津原氏考案の公式ゆるキャラ「モグ雄」君がやさしく出迎えてくれる。壁に描かれた空の絵がクリエイティブな雰囲気を演出している。8人掛けのテーブルが2つ、4人掛けのテーブルが1つあり、電源・Wi-Fi はもちろん完備。お茶・コーヒー・スポーツドリンクなどが無料で飲み放題だ。技術書・ビジネス書・漫画なども本棚にぎっしり詰まっており、これらを読みにくるのもアリだろう。 私は、最近、タネマキを
私は、子供のころ、他者とうまく関係を結ぶことができなかった。田舎ゆえに、同じような知的レベルの人たちと話をする機会に恵まれなかったのが一因であろう。自分の気持ちを素直に表現した言葉が周囲に理解されないばかりか、訳が分からないとバカにされ、孤立するにつれ、私は本心を見せなくなった。だから、自分から何かを提案して、率先して行動するということがほとんどなくなっていた。 社会的な関係において、私は常に受け身だった。すでに存在する社会的関係をそのまま受け入れるか、あるいは逃避するか、常に2つに1つであった。自分が能動的に状況を変えていくという可能性については思いつきもしなかった。 やがて学校を卒業し、紆余曲折の後に選んだ仕事は、ソフトウェアの受託開発だった。受託開発という名前の通り、基本的に客の言う通りにソフトウェアを作る仕事だ。それは「彼らのやりたいこと」であって「私のやりたいこと」ではなかった。
「うまい話なのに、怪しくない」という珍しくいい話のようだ。 大阪府緊急雇用創出基金事業 中小企業グローバル人材育成事業 「ビジネス経験や一定の素養をもつ若年者を対象に、大阪府とPASONA&JTB Inter-Asia Project共同企業体のサポートのもと、海外での語学研修や職場実習の機会を提供、実習後はグローバル展開 企業への就職をサポートします」という事業だ。 大阪府が資金を提供する雇用創出事業をパソナやJTBといった民間企業が受託してやっているのだろう。応募条件は「40歳未満で失業状態の人」(会社を辞めて参加、というのはアリらしい)。時給1000〜1500円程度をもらいながら、英語や中国語を学んで、海外で OJT しながら国際的なビジネスに必要なスキルを学べるとのこと。至れりつくせりだ。 私がこの事業について知ったのは、私の知人がこの事業に参加するという連絡をくれたからだ。お金を
今回は(も?)完全に自分語りエントリーである。ご興味のない方はここでページを閉じてほしい。 …と警告はした。ここより下は完全に私が自分のことだけを語るので何も得ることがなかったとしてもどうかあしからず。 私はいま仕事のことで本当に悩んでいる。 このブログで何度も書いているように、私は大学卒業して入った銀行をすぐ辞め、1年間のフリーター生活の後、ソフトウェアエンジニアになった。その後紆余曲折あったが数年前にフリーとなり、それなりに稼いだもののいやになって辞めてしまった。だがいまだにソフトウェアエンジニアに代わる仕事の軸を見つけることができないのである。 私はなぜソフトウェアエンジニアであることがそんなに嫌だったのか?私は、エンジニアとしての仕事に興味が持てなかった。その最大の理由は、自分の受け身の態度でなかったかと最近思うようになってきた。 ソフトウェアエンジニアの市場はいまも昔も基本的には
昨日、新横浜にある横浜ラポールという障害者向けのスポーツ施設に行ってきた。ときどき車いすの人や松葉つえをついている人たちは見かけたが、多くの人たちは外からみる限り、健常者とさほど変わらない。もちろん、介護者もおおぜいいるので、誰が健常者で誰が障害者かはよくわからない。 私は、障害を持つ方々たちとは大きなかかわりを持つこともなく暮らしてきた。私が子供のころ、母が福祉関係の仕事をしていたので、遠目に車いすに乗った脳性麻痺の重症心身障害者を見たことはあるが、そのときは、自分とは異質な怖い人たちという印象だった。そのころは、私は外国人に対しても似たような思いを持っていて、怖がりの小心者だったのかもしれない。 障害者と外国人は、社会参加する上にさまざまな障壁に直面しているという意味で似ている部分がある。私がそれを痛感したのは、29歳でカナダに渡ったときの経験だ。とにかく英語ができない。英語がしゃべれ
正直に告白すると私はこの1年間くらい極端なスランプが続いている。去年「パブリックマン宣言」をしたころはイケイケのノリだったのだが、その後、自分の中の矛盾の存在を無視できなくなり、放浪するように、ドイツ・ベトナムに滞在し、去年の年末、日本に戻ってきた。 日本に帰ってきても、気に食わないことばかり。外国に慣れてしまった身には、日本の事物の一つ一つの特異さにイラつかされた。ふたたび海外に脱出しようと画策した。米国の大学院で博士号でもとれば人生をやり直せるのではないか、とも思った。しかし、カネが足りない。八方塞がりだと思った。 私は、日本人が海外に出ることに関しては非常に肯定的だ。とくにいままで日本から離れたことがない若い人は、ぜひ海外に留学か就労という形で数年間住んでみることをおすすめする。日本と外国の違いを知り、日本を相対的な目で見られることになることを通じて、人格的な成長が得られると思う。
本当に久しぶりにブログを書く。この半年間、どうにもブログを書く気分になれなかった。いまもまだ本調子ではないのだが、そろそろいろいろぶっちゃけてもいいだろうと思い、再び書き始めている。 BLOGOS をやめた。BLOGOS は最初誘われた数年前は、なかなか面白いメディアだった。だが、最近は、単なる論争好きのマスコミみたいになってしまった。扇情的なタイトルが並ぶ夕刊スポーツ新聞みたい。こういうところに自分のブログエントリーが転載され、暇つぶしとして消費されるのには耐えがたさを感じるようになっていた。 そもそも英語圏の言論に慣れてしまうと、日本の「ネット論壇」はレベルが低すぎて、まともに相手をしたくなくなる。そもそも社会科学や政治批評の分野では、日本の言論は欧米に比べて格段に見劣りするのだが、それにましてネットでの議論は質が低いものが多い。これは、日本ではまともな人々が一向にネットに出てきて議論
前々回、前回 太陽光発電+合成石油の可能性(その1) 太陽光発電+合成石油の可能性(その2) で太陽光発電のコストが急速に化石燃料発電のコストに迫ってきつつある中、化石燃料の価格が上がり続けている現状をお伝えした。 今回は、太陽光発電(再生可能エネルギー)のエネルギー貯蔵方法としての炭化水素の可能性について考える。 合成石油の歴史 石油は、炭素と水素が結合した炭化水素と呼ばれる物質の一つである。他にも天然ガスが炭化水素である(石炭も炭化水素といえるが、炭素の成分が多い)。 石油を始めとする多くの炭化水素は、フィッシャー・トロプシュ法で、石炭や天然ガスから合成(改質)が可能である。第二次世界大戦中のドイツや、アパルトヘイト下の南アフリカで、石炭からこの手法を用いて、石油が盛んに製造された(この両者の共通点として、国際的に孤立して石油に輸入が難しかったという背景がある)。天然ガスからも石油が作
前回、太陽光発電+合成石油の可能性(その1)で、太陽光発電のコストが急速に化石燃料発電のコストに迫ってきている現状について述べた。 今回は、化石燃料の未来について考える。 ピークオイル ピークオイル説とは、石油の生産量がいったんピークを迎えるとその後、ふたたびピークを越えることができず、枯渇に至るまで急激に減っていくという説である。 (出典 Wikipedia) 生産量の推移は、ベルカーブ状のハバート曲線に従うとされる。 原油価格は、2000年代に入ってから急激に上昇して、2004年に40 USD/バレルを越え、2008年には約130USD/バレルの高値を付ける。その後、やや落ち着いたものの、現在も90USD/バレル程度の取引が続いている。1990年代には20USD/バレル程度で安定していたのと比べると非常に対照的である。 参考:原油価格の動向(グラフ) 原油の生産量はどうだろうか? 参考
私は、最近、エネルギー問題を調べることが楽しくてしょうがない。なぜかというと無数の技術が研究されているからだ。エネルギー源が変化すれば、経済構造も変わる。 未来は当然、誰にも分からない。どんな客観性を装った未来予測も、どこかしら「こうなってほしい」という希望を含んでいるものだ。従って、私がこれから述べることもそういう私の主観が含まれていることは理解してほしい。ただし、数字はなるべく信頼出来るものを集めたつもりだ。 この記事では、1)太陽光発電の可能性 2)化石燃料の未来 3)再生エネルギー貯蔵手段としての合成石油(炭化水素)という構成で、ありえるかもしれない一つの未来、を描き出していくつもりだ。 まず今回は太陽光発電の可能性について述べる。 太陽エネルギーの存在量 Wikipedia によると、地球に照射されている太陽光の全体が180PW(ペタワット)、そのうち人類が利用可能とおもわれる量
日本企業とつき合う問題点 自分のこれからの仕事の方向性について考えている。たぶん一番堅実な方向性は、自分が再びソフトウェアエンジニアに戻り、日本のお客さんから受託開発の仕事を請けて働くことだ。私にはこの点、実績があるし、大きな困難なくやれるであろう。 ただ、問題点もある。日本のお客さんの仕事を請けるというのは、なかなか難しい問題点を含んでいる。日本的な仕事の進め方は、仕様の策定までに時間がかかり、その後も仕様変更の手戻りが頻繁に発生する。そのコストの多くを受注側が負担するのが通例になっている。こういう働き方をするのは基本的に日本しかない。 シャープの経営が傾いている。その他も、パナソニック・ソニー・エルピーダ・ルネサスなど、日本企業の経営の行き詰まりが次々と明らかになっている。私は、非常に深いところで日本的な経営や働き方の持続可能性に疑問を持っている。何が正確な原因かは分からない。だが、「
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