サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
今年の「#文学」
drfridge.hatenablog.jp
八月六日は言うまでもなく広島へ原爆が投下された日である。既に何度も書いたことであるが、私の命も残り少なくなって来たし、もう原爆を実際に見た人も少なくなってしまったので、くどいようだがもう一度書いておきたい。 当時私は海軍兵学校の生徒で、広島から南へ約20キロ離れた学校の生徒館にいた。その日は朝から雲ひとつない晴天であった。午前8時からは自習時間で、各分隊の自習室で本を読んいた。自習時間が始まって間もなく、8時15分に全く突然に部屋の窓ガラスにピカッと白い閃光が走った。 何だろうと不思議に思っていたら、やがてドカンと言う地響きがして部屋が揺れた。咄嗟にこれは空襲だと思って、皆で部屋を飛び出し、外へ出た。そこで目にしたのがあの原子雲であった。ムクムクと空高く伸びていった原子雲は生涯忘れることが出来ないものとなった。 これこそ原子爆弾であった。 その時にはまだ広島であのような壮絶な地獄が展開され
このBlogもいつしか、もう10年続いたことになりました。 もう今はなくなってしまいましたが、毎年7月には、長らく続いてきた私たちの写真のグループ ”SUN77"の例年の発表会のある月でしたので、誰や彼やが見に来てくれて賑わいましたが、その機会に作品をSNSに載せていましたので、2014年の丁度その頃にこのhatena-blogを知ったので、そこへも載せてみたらと思ったのが始まりのようです。 以来今日まで、いつしか10年も経ってしまいましたが、初めの2014年7月はこの写真展の出展作品と、「徴兵検査」という文章の2編だけでした。その年はこの後、8月に13編、9、10月が9編づつ、11月14編、12月13編と、計60編だけでしたが、次の年2015年からは、年間140~150編、さらに2019年からは、略一日置きに書くようになり、年間で176〜182編ということになりました。これまでに総計では
ダグウッドとはハナミズキのことである。昔、日本からポトマックリバーの桜の苗木を送った返礼として、アメリカから送られて来たのが日本での始まりで、アメリカ原産でアメリカヤマボウシともいうらしい。 最近では日本でも、あちこちで、街路樹であったり、庭木であったりして、普通に見られるようになったが、私の若い頃には、ダグウッドといえば、戦後に新聞に連載されていたアメリカの漫画が有名であっったが、木については日本ではあまり知られていなかった。 私がダグウッドを初めて見たのは、1961年アメリカへ行った時のことであった。桜と見間違うようなピンクの花が満開の大きな木がボスの家の庭の真ん中にドント立っており、周囲に枝を伸ばした姿が衆目を集めていた。 桜とよく似た感じがして思わず何という木なのかと興味が湧き、ダグウッドという名を教えてもらったのが初めであった。漫画のダグウッドをよく知っていたので、名前はすぐに覚
最近の日本の軍墓増強は恐ろしいほどである。どう見てもこれが戦争を放棄した平和国家の姿とは思えない。戦争をするために平和憲法を変えようとする動きさえある。 沖縄や先島諸島には広範囲に自衛隊の基地が作られ、ミサイル基地が各地に建設され、どこからでも敵基地に対する先制攻撃も可能と言われている。当然、弾薬庫や、反撃に備えての シェルターなども完備されるようだが、住民用のものはなく、住民に対しては島からの退避、脱出が考えられているようだが、それは後回しのようである。 場所が先の大戦で過酷な犠牲を払わされた沖縄であるだけに、住民の反対を知りながらの政府の強行姿勢が問題となるが、民意などは全く無視され、アメリカに言われるままに、国会での議論もないままに、事が進められている。 これらは今のところ、台湾有事に備えてと言われているが、そのために、日米韓、日米比、日米豪などの共同軍事訓練なども整備して、中国包囲
私はこの7月が来れば、もう満年齢で96歳になる。以前に仲の良かった友人達はもう皆先に逝ってしまって誰も残っていない。五人兄弟だったが、今では白寿を迎えた姉と私だけになってしまい、姉は施設で死にかけているといっても良い状態である。父親が94歳で死んで長生きだったと思っていたが、もうその歳も超えてしまった。 最近は百歳を超える老人も多くなったが、96歳といえばもういつ死んでも老衰とされておかしくない年齢である。これまで87歳で軽い心筋梗塞を起こした他は、これといった病気もせずに、普通に暮らせてこれた方がおかしいと言われても反論できない様な年齢である。 そんなところに突然血小板減少性紫斑病が起こり、病院に入院させられた。自分では紫斑や点状出血斑などはあるものの、年並みの体の衰えは当然だが、普通に生活出来ているので、あまり問題にしたくなかったが、検査を受けた医師が血小板数が2千しかないことに驚いて
我が家では娘が二人ともアメリカに行き、アメリカ人と結婚して、ずっとアメリカで生活し、孫たちも皆アメリカ育ちなので、家族間の会話は日本語か英語になる。孫は3人いるが、下に行くほど日本語は通じ難くなる。 先日来ていた2番目の孫は最近日本語に興味を持っているようで、新しく出くわした日本語を丹念にメモしていた。日本語も結構喋れるようで、美容院で美容師さんとも結構日本語で話し込んでいたことを女房が聞いて来たようである。 3人の孫たちはずっとロスアンゼルス育ちなので、ラテン系の友人も多く、スペイン語も喋れるので皆自然と3ヶ国語のスピーカーである。当然、母親である下の娘も同様ということになる。 上の娘はニュヨークに住んでいるが、大学時代にスペイン語の専攻だったし、メキシコに留学していたこともあるし、仕事でスペイン語を使っていたこともあるので、日、英、スペイン語は達者だが、その他にも趣味?で中国語、ドイツ
先日メディア一斉に鳥山明氏の死を報じた。まだ68歳で急性硬膜外血腫による突然の死亡だったということである。 その名を見て一体どういう人だろうか分からなかった。説明に「ドラゴンボール」の漫画で一世を風靡したとあったので、「ドラゴンボール」という名は聞いたことがあり、漫画かアニメでかなり有名な人だったのであろうことが分かった。どうも世間ではあまりにも有名な漫画家ようである。 私も漫画は子供の頃から親しんできた方で、「のらくろ」や「タンクタンクロウ」、「冒険ダン吉」などの漫画を読んだし、手塚治虫は中学校のクラスメートだったので、戦争中から自作の漫画を見せてもらったりしていた。戦後も手塚や長谷川町子、赤塚不二雄その他の漫画は結構見ていた方であった。 それでも鳥山明と言われても分からなかった。「ドラゴンボール」と聞いてそんな漫画もあったなあと思い出したが、名前だけで実際に見たことはなかった。「ドラゴ
既にこのブログでも述べたように、私は3月末に特発性血小板減少症で急に近くの病院に入院した。わずか5日間の入院であったが、連日長時間かけてのガンマーグロブリンの大量点滴注射を受けていたので、まるで鎖に繋がれた囚人の如くに行動を制限されていた。 早朝病院の廊下を散策した以外には、殆どベッドしかない病室に閉じこもっているだけの生活であったが、そこで受けた現在の市中病院の印象は、昔医師として活躍していた頃の病院とはかなり違ったものになっているように感じた。 病院の建物自体が昔より合理的に出来ているし、ITが取り入れられているので、外来の受付も検査室、採血室など全てがより有効に組織化されて造られ、運用されている。従って、全く初めての人はまごつくだろうが、慣れれば全てが快適に流れるように考えられている。もちろん、まだ発展途上なので万事OKというわけにはいかないが、昔の病院に比べれば、全てが効率良く、し
今日は7月31日。今年もまた8月がやってきた。以前にも8月は特別の月だということを書いたことがあるが、毎年同じことの繰り返しにしても、私にとっては、8月はやはり特別な月である。 もともと子供の時から、8月は夏休みで学校を離れ、海水浴やお祭り、花火、旅行など多彩な行事が続く上にお盆があり、一年の中でも特別な月であったが、それらを超えて強烈な印象を作ってしまったのは「あの戦争」である。 もう78年も昔のことになってしまったが、今もつい昨年のことのようにさえ思われる。私の九十五年の生涯を振り返ってみても、あの敗戦の衝撃は今も鮮明で、その前後で私の人生の歴史はプッツリと断絶しているようなものである。 1945年、昭和20年の8月初めは、江田島の海軍兵学校生徒だった。7月25日の呉の大空襲で帝国海軍の全滅を見たのに続いて、8月6日の広島の原爆を体験し、9日には長崎の原爆投下を知り、いよいよ”最後の決
蝉の世界も変わった。私が子供の頃は夏休みには決まって蝉取りをして遊んだものだが、蝉にも色々種類がある。毎年六月頃から先ず鳴き始めるのが「にいにい蝉」で、羽が鼠色の模様で覆われ、木の下の方の幹にもよく止まるので、よく手でも捕まえることが出来たが、少し小型で、見かけもあまりよくなく、あまり鳴かないので、よく捕まえたが、もう一つ人気がなかった。 ところが、夏休みの頃になると蝉の世界も油蝉の世界となり、何処へ行ってもミーンミーンと鳴き声でうるさく、ちょうど夏休みの時期にもなるので、子供から、もの好きな大人まで蝉取りに夢中になる人も多くなる。 虫取り網で狙うことが多かったが、木の高い所にとまることが多いので、網では届かず、もちの木の樹皮から取った「とりもち」を長い棒の先に塗りたくって、それで捕まえようとする人も多かった。 その頃の夏休みの蝉といえば殆どと言って良いぐらい油蝉であったが、中にクマゼミも
96歳ともなると、これまでに色々な景色に遭遇してきている。思い出してみると、多くは色々な場面での家族の姿、仕事上で出会した色々な場面、国内、国外の旅行で遭遇した様々な景色など、無数の光景が思い出される。しかし、そんな中で奇景としか言えないような、特別変わった、忘れることの出来ない景色を三つ挙げるとすれば、下記の三つということになるのではなかろうか。 1)1945年3月13日の大阪大空襲 2)同年8月6日の広島の原爆投下 3)血小板数低下による自らの両脚全体の点状出血 これらそれぞれについては、すでに書いているので委細は省略するが、先ずは、空襲の時には大阪市内の天王寺駅近くに住んでいたので、見渡す限りの黒い夜空から、一面に火が落ちてくる景色である。無数の焼夷弾が燃えながら、まるで花火のように、光り輝きながら落ちて来たのであった。見上げて、思わず一瞬、綺麗だなと感じたものである。 それがその後
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『drfridge’s blog 老生常談』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く