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Alvin I. Goldman, "Experts: Which Ones Should You Trust?" pp. 14-38, in Evan Selinger and Robert P. Crease, eds., The Philosophy of ExpertiseNew York: Columbia University Press, 2006. 先日紹介した論文の著者の一人、Evan SelingerがRobert P. Creaseと編集した論文集にThe Philosophy of Expertiseというものがある。これは専門知の問題についての理論的な論文を集めたものである。その最初に収録されているのが上記のGoldmanの論文で、もともと2001年に出版されたもの。この論文は「探索型」論文で、問題の答えを与えるものではないが、概念を整理する上で役立ちそうなので、
次の本を院生と読みつつ、示唆的だったので、簡単にメモ。 この本は環境問題に関するSTSの理論的ないし教科書的な本で、環境問題についての考えるための様々な重要な考え方が極めて明晰に述べられている。他方で、empiricalな本ではなく、主張の実証的根拠に関しての出典の記述には不満がある。全体として、この人の主張にはかなり賛成なのだけれど。 このエントリーではここで述べられている技術的合理性と文化的合理性についてだけ紹介する。これはこの本の第二部のキーワードで、いろいろ最近起こっている事柄を考える上でも有用かもしれないと思いついたので。この本の133ページ以降を参照。まあ、言われてみれば、ごく当たり前のことかもしれない。 技術的合理性(technical rationality)とは、科学者や技術者等の専門家が言うところの合理性である。科学的な調査によって得られた実証的なデータに基づいて、妥当
前から読まなければと思っていたところ、訳書を御恵贈いただいたので、紹介する。原題はMerchants of Doubt。コンウェイはよく知らないが、オレスケスは、科学史家で、現在カリフォルニア大学サンディエゴ校のSTSプログラムのディレクターである。もともと、地球物理や海洋学の歴史を研究していたのだが、この本で一躍、やや違った方面で脚光を浴びるようになった。なお、オレスケスは私の指導教授のピーター・ギャリソンの(だいぶ前だが)大学院生の一人であり、さらになんどか私が共同研究をした友人のディビッド・カイザーの学部時代の指導教員でもある。というわけで、当然、私はこの本に対してかなり好意的なバイアスがかかっていることは認めなければならない。また、この紹介は長いわりにはあまり時間をかけずに書いたので、不備は色々あるかもしれない。ご批判を頂ければ幸いである。 この本は英語圏ではすでにかなり良く知られ
東日本大震災とそれに続いて起こった福島における東電の原発事故は、これまで当然視されていた前提をいくつも覆し、見過ごされていた様々な問題を改めて暴きだした。日本にいる大多数の人たちはそれらの問題に関心を持たざるを得ないし、それはおそらく自然であると同時に、必要でさえもあるだろう。科学技術社会論(以下、STSと書く)とよばれる分野の人たちも例外ではない。現在の状況に直面し、何かをしなければという衝動を強く感じているこの分野人たちは少なくはないはずである。だが、それは一方で、機会に乗じて研究のネタを得て、名前を売る行為になってしまうべきでないし、他方で、多大の犠牲を払って得られた経験から教訓を学ぶ機会を逸し、その結果将来同じ過ちを犯すようなことをすべきではない。STSの分野は、その特色の一つである反省性(relfexivity)を生かして、一体どのような問いを問うべきなのかを批判的に検討すべきだ
すこし前に読んで書評を書こうと思ったまま、しばらく時間がたってしまった。忘れないうちに、幾つか思いつく点を書いておく。 この本は日本の原子力の歴史に関しては最良の書だろうと思う。戦前からこの本が書かれた時期までを手際よく通観しているだけでなく、大量の情報を扱いつつ、冷静になされたその社会的・政治的分析はお見事としかいいようがない。日本の原子力の歴史に興味のある人は、とりあえずはこれから読むのが良いと思う。ただ問題は、第一に現在品切れ中で、かなり高値の古書としてしか入手できないこと。ただ、図書館で見ることはできるだろう。第二に、ドキュメンテーションがほとんどなく、出典が不明な論点が多いこと。これは学術書としては致命的だが、おそらく著者は、この後によりくわしい決定版を書く予定なのだろう。ぜひとも早く出ることを願う。 この後者の点を除けば、これは技術の社会史的な研究として、傑作であり、いろいろな
先週末、東京で開かれた研究会に二つほど出席した。どちらも、とても印象深く、かつ色々と考えさせられるものだった。その二つの研究会で共通したのは、今回の震災で、科学コミュニケーションに対する批判が向けられている、という話だった。あれだけ予算をつぎ込んでおいて、非常時にいったい何をしていたのか、という批判があるらしい。これはこれで気にかかる問題であるが、それとは直接関係なく、これらの研究会に参加して、思ったことを書いてみる。*1それは、組織と個人の関係、あるいは特殊利益と一般利益の関係の問題である。 組織と個人 私が考えている状況とは次のようなものである。日本社会における多くの個人は、何らかの組織に所属している。多くの場合、組織に雇用されるという関係にある。それは、高度な教育を受けた知的職業においてもそうで、一方で一部の医師や弁護士のように自営業的な独立性を持つ人たちもいる一方で、大部分の研究者
ここ数日、ツイッターで「カンニング」のことが話題になっている。早稲田大学の学生が東浩紀氏の授業の試験で、隣の人の答案を見せてもらったことを公然とツイートし、それを東氏自身が見つけて、それについてツイートし、さらにそれに対して様々な興味深い反応があった。*1中でも、東氏が問題の学生の不正行為を「晒し」たことを批判するツイートがあったらしい。*2、それはたとえば、たかがカンニングごときでさわぐなという批判であったり、*3あるいは大学の教師はカンニングのようなことがおこらないように試験を工夫すべきであって、それをしない、東氏のほうに責任があるというような批判*4まであったようだ。 東氏自身が書いているように、この一連の騒ぎでとくに注目に値するのは、カンニングのようなアカデミックな不正行為に対する、当人の罪悪感のなさ*5であり、他の人たちのおどろくべき寛容さ、というか、このような不正行為をとがめる
この前のエントリーを書いてから二週間間があいてしまった。先週は、4S(Society for Social Studies of Science)とその前のワークショップが2件あり、一週間の間に4つプレゼンをするというむちゃなことをやって、先々週の日曜日はその準備でいそがしく、先週は学会終了後の虚脱状態で、ブログを書くどころではなかったのである。 前のエントリーで、高等教育過剰論の次の5つの議論について書いてみた。 大学卒業生および他の知的職業の就職難 少子化による若年人口の減少 学生の質の低下 大学の果たしている役割に対する予算の過大さと非効率性 財政危機・税収の減少に対する財政的考慮 今回のエントリーでは、これらにすべてについて検討するつもりだったが、一つのエントリーで書ききれそうにないので、最初の一つだけ取り上げる。検討というのは、それらの議論を批判して、否定することを目指すのではな
日本は高等教育過剰か?この問い自体が様々な曖昧さを含んでいる。まず第一に、過剰かどうかは、何をもって適正な基準とするかに依存する。従って、日本に高等教育が過剰であるとする議論において、何をもって適正なな基準とするかが示されていないのであれば、迷走した議論にしかなりえない。そして、何が適正であるかは、論理的に導きだされるものではなく、主権者の政治的判断によって決定されるべきことであると思う。 第二に、過剰ということ自体にも、様々な意味がありうる。なされている教育の量や質 が過剰なのか、大学生数ないし大学数が過剰なのか、あるいは使われている予算が過剰なのか。 このエントリーは4つほど続けてエントリーを書くシリーズの最初のものである。ここではまず、日本は高等教育が過剰であるとする主張にどのようなものがあるのか考えてみる。そして、次のエントリーではそれを批判・検討する。三番目のエントリーで、逆に日
先々週のエントリーで、NHKで放映されたマイケル・サンデルのハーバードにおける授業について、それがハーバードの一般教養の授業として実際にどのように実施されているのかについて、放映された部分だけでは分からない、大学院生らのTAによるディスカッション・セクションや、きめ細かい指導があることについて書いた。*1先週のエントリーでは、そのような一般教養の授業のやり方をそのままハーバードから日本の大学に持ち込むことが極めて困難であろうということについて書いた。*2 このエントリーで考えたいのは、次の点だ。たとえ、ハーバードでの教育システムをそのまま日本に持ち込むことができないとしても、ハーバードで達成されている成果をある程度上げるような、日本における一般教養教育の仕組みを考えることは可能ではないか。そこで、もし可能であるとすれば、そのためには一体どのようなことができるだろうかについて考えてみたい。
先週書いたエントリー、「『ハーバード白熱教室』の裏側』*1で、テレビで放映されたマイケル・サンデルの授業は、実際のハーバードの授業のうわべにすぎず、あの授業を含むハーバードの一般教養の授業には、多くのリーディング・アサインメントが課され、多数のTF(日本でいうところのTA、ティーチング・アシスタント)が配置されて、少人数性のディスカッション・セクションが並行して行われ、ディスカッションや、ペ―パー、筆記試験によるきめ細かい指導と、成績評価がなされていることについて書いた。これに対する反響で多かったのは、日本の大学ではあのような授業は可能かどうか、という事に関するものだった。とくに、日本ではとても無理、という悲観的な反応が多かった。*2これに対して何らかのの形で答える必要があると思うので、日曜日の午後を利用して、一つエントリーを書いてみる。 『ハーバード白熱教室』は日本で可能か?結論から書く
ハーバード大学におけるマイケル・サンデル(Michael Sandel)の授業が、『ハーバード白熱教室』としてNHKで放映され*1、かなりの人気を集めて話題になっているようだ。これはすべて再放送を待つまでもなく、ウェブ上で観ることができる(ただし英語だが)。*2 ちょうどいいので、これを使って、ハーバードの学部向け一般教養の授業の作りを説明してみようと思う。色々誤解もあるようであるし、あの映像だけでは分からないこともある。 私自身は、サンデルの授業を履修したことはないのだが、大学院生のときに、一般教養の授業のTAやHead TAをかなりやったので(といってもサンデルの授業ではもちろんなく、私の専門の科学史やSTS関係の授業である)、ハーバードの一般教養の授業の仕組みはかなり分かっているほうだと思う。とくに、日本人のハーバードの学部生というのがほとんどいないわけであるし、私が説明するのもまっ
この点についてこのところ考えているのだが、次の2点が基本的な考え。 第一に、人文系大学院では、もはや自由放任型教育ではだめで、よく考えられたカリキュラムのもとにシステマティックなハード・トレーニングを行わなければならない。それは、教員のカリスマ性によるものではなく、グループとしてのカルチャーと同時に、明示的なノウハウを継承、発展させていくものでなければならない。 それによって、抜群に優れた教師が、抜群に優れた弟子を育てるのではなく、両者ともそこそこであっても、伝統の力によって、それなりに有意義な研究と教育を続けられる仕組みをつくることが必要だと思うのである。その前提は、人文系の学問にはもうあまり良い人材はこないかもしれない、ということが一方にあるが、たとえ優れた人が来るとしても、システマティックに伝統を継承していくことが長期的には大きな差になるのはないかとも思われるからである。 明示的なノ
http://www.hokudai.ac.jp/shinchaku.php?did=536 この提言、旧7帝大早慶が何の権限があって、リーダーシップをとるのか、という疑問もあるが*1、ここの提言自体は、ざっと見た限りでは、至極もっともだと思う。とくに若手研究者の育成・支援を最初に置いているのは評価できる。 いろいろ提言が上がっているが、とりあえず「人件費削減方針の撤廃」がかなり重要だと思う。毎年の人件費の一定率の削減は、国立大学の運営にかなり悪影響を与えており、当然、若手の雇用問題にも響いている。大量ポストをつくれ、とまでは言わないが、物品や設備よりも研究者の雇用と育成に充てる自由はせめて大学が持つべきだ。 あと「国・自治体が率先しての博士人材の採用」。企業に博士を雇わせようとする前に、まず国・自治体が範を示すのは当然のことだと思う。 そして、 「大学に対する国民からの直接支援を促進する
科学史関係のメーリングリストで、ときどきイギリスやヨーロッパの大学におけるPh. D. Studentshipの募集の広告を見かける。こういう制度はうらやましいと思う。アメリカではこういう言い方はしないけれど、大学院生の生活をサポートするのは当然なので、事実上、同じ制度があるといってよい。つまり、先進国で、大学院生のサポートが貧弱なのは、かなり日本独特の現象である。 Ph. D. Studentshipというのがおおよそ次のようなものだろうと思う。ようするに、大学が給与のついたポジションとして、ある分野、研究テーマの大学院生を受け入れる。つまり、大学院生、というのがポスドクと同様に給与がついた職になっているわけだ。応募者はこれに応募し、選考の結果採用されると、大学院生として入学して、勉強・研究しつつ、給与をもらう。なんらかの義務、teaching assistantやresearch as
この日は、オックスフォードに来たもう一つの目的である科学史博物館へ行く。ここは入場料は無料だが、オーディガイドが有料。地上2階建、地下一階の、もともとAshmolean Museumがあった建物で、地下室は実験室だったそうだ。初期の実験室をもった博物館として、建物・場所自体が、科学史的な意義をもつ。展示はやや節操がない気がするが、科学史に関心のある人間なら、相当長時間楽しむことができる。日時計やアストロラーベのコレクションが豊富、その他、天体測定器具の数々。地下には、アインシュタインが書いた黒板が消されずに保存さていたり、アラビアのロレンスや、チャールズ・ドジソン(つまり、ルイス・キャロル)のカメラなど。ドジソンは、カメラが趣味で、とくに子供の裸をこのんで写真に撮っていたというのをIan Hackingの論文で見たことがあるが、イギリスではそういうことはあまり大っぴらに言わないらしい。とく
「平成22年度分文教・科学技術予算のポイント」(http://www.mof.go.jp/seifuan22/yosan009.pdf)に基づく。 (政府案全体は次;http://www.mof.go.jp/seifuan22/yosan.htm) (Via『空飛ぶ教授のエコロジー日記』http://d.hatena.ne.jp/yahara/20091227/1261888837;『科学政策ニュースクリップ』http://d.hatena.ne.jp/scicom/20091225/p1) この文書はポイントだけ抜き出したものなので、基本的にいいとこどりなのだと思う。だから、それなりにバイアスがかかっている可能性が高い。いまのところは情報源がこれだけなので。 それでも、全体として文教・科学技術振興費は5.2パーセント増。ただし、増額分2756億に対して、高校無償化費用が3933億円なので
これは基礎科学の擁護に関する基本的な文献の一つと言っていいだろう。ちょっと読んでみたので軽く紹介する。私自身の関心は次のような点だ。基礎科学の成果はその性格からして、未知のものである以上、それが産業に応用可能か、どうか、ということは基本的に知りえないことである。第一に、この時点で、ブッシュはいったいどんな論理を用いて、基礎科学の有用性を主張したのか、ということ。第二に、その上で、彼はどういう論理を用いて、国家による基礎科学支援を正当化したのか、ということである。 ブッシュは、アメリカの電気工学者で、重要な科学技術行政家。科学技術における政治家みたいな役割を果たした人物である。1944年の11月にローズベルト大統領が当時、OSRD(Office of Scientific Research and Development)の長官だったブッシュに、戦争終結をにらんで、戦時中の科学研究の成果の普
基礎科学についての議論で、ひとつ話をややこしくしているのがこの点である。これはある意味わかりきったことかもしれないけれど、意外なほど無視されているようにも思われる。 基礎科学研究の動機と理想的な研究環境 第一に、基礎科学に関係するような研究者にとって研究という活動を行う動機は、基本的には、その研究が興味深いからである。興味深い、というのは実に主観的な表現だが、実際、主観的だからこそ、強力な動機になるのである。このことがテーマの選定や、研究成果の評価にも関係するし、何よりも研究者を研究に駆り立てて、知的興奮状態において、時間外労働をものともせずに仕事をさせるのは研究のこの側面なのだ。 もちろん、そうでない研究者がいないとはいわない。業績を上げることが単純に目標の研究者もいるだろう。研究がゲームのようなもので、競争相手と勝つことが目的の人もいるらろうし、研究成果にともなう名声や、金銭的な利得が
このところ基礎科学について、頭を整理するために思いついたことをちょっと書いている。そこでは、基礎科学を擁護するいくつかの議論のタイプについて書いているのだけれど、それはどちらかといえば科学史家の立場から、どの議論にもコミットせずにメタな立場からどのような議論があるかについて整理しようというものだ。それとは別に私自身が個人的にどう考えるか、ということについて、まず書いてみようと思う。これはいわゆる基礎「科学」だけではなく、実用的ではない学問一般についてのことで、人文系の分野のことも念頭にいれている。 これは何かのときにちょっと思いついたこばく然としたことがあったのだが、それが何であるのかが自分でもうまくつかめないでいる。微妙な考え、というだけに、極めて情緒的、感覚的なものであって、それが基礎科学の擁護として説得力を持つことはあまり期待していないし、とくにがんばって自然科学のほうの基礎科学を擁
いくつかマスメディアで報道されている。たとえば、 「橋下知事「日本一の理系大学に」 大阪府立大が改革案提示」(読売新聞) http://osaka.yomiuri.co.jp/university/topics/20091204-OYO8T00664.htm これに対して、卒業生が再考を求めている: 「大阪府立大再編案 卒業生が再考求め要望書提」(MBSニュース) http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE091211113100303687.shtml 大阪府立大学が、いかに改革したところで「日本一の理系大学」になることができると本当に思っているわけではまさかないだろう。もし本気だとしたら、東大、京大、東工大も舐められたものである。そもそも大阪には阪大という立派な「理系」大学があると思うのだけれど。もし本気でないとしたら、心にも思っていないことを目標にして
今日も東京出張。 まず午前は10時から東京ビッグサイトの国際ロボット展へ行く。あまり時間がないので、詳しく見れず。 つづいて、東大本郷キャンパスへ移動して、午後1時から、アルスの会の主催する研究会に出席する。 http://www.viva-ars.com/ まさに、上にあるような、学術会議の民間版を作る、ということが目標らしい。 研究者の自治的な組織が必要だというのはまったくその通りだと思うのだが、多分、困難だろう。 一つの問題は、現状で、分野間の対立を超えて合意形成を行うことが果たしてできるだろうか、ということである。たとえば、ポスドク問題に限っても、「ただし生命系に限る」とか「文系は分かっていたことだから自己責任」だとかいった論調の人もいる。色々なところで分野間の考え方の違いや、利害の違いが大きい上に、自分の分野の利益を最優先する傾向は根強い。パイが小さくなっているのではないかと思わ
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091126/plc0911262253029-n1.htm 野依良治氏が事業仕分けを「見識を欠く」と言ったことに対し、行政刷新会議の加藤秀樹事務局長が次のように言ったそうだ 仕分け人は)誰ひとりとして科学技術を否定していない。そういうことを見も聞きも知りもせず、『非見識』というのは非科学的だ これは色々な意味で興味深い。非科学者が科学者(それもノーベル賞受賞者)に対して、非科学的だというのはちょっと面白いことである。そこで、ちょと条件反射的に感想を書いてみる。もう少し調べてから書きたいこともあるのだが、今は時間がないので。 私は事業仕分けには基本的に賛成なのだが、科学技術関係事業への適用の仕方に大きな問題があると考えており、その意味で野依氏の「見識を欠く」というのはそれほど外れていないと思っている。その意味
このところ、時事的な問題に関しても、研究に関しても、大学関係の仕事にしても、あまりにも色々なことがあって、圧倒されている。アーカイブズ調査に出張している間は、アーカイブズが開いている以外の時間はのんびりできるかと思ったら大間違いで、大学関係の仕事の宿題もいくつかあるし、何よりも、「事業仕分け」という大事件が起こっているときに、それに無関心ではいられないのである。 前のエントリーにちょっと書いたけれど、これは専門性の問題に関係している。そして、現在STS(科学技術社会論)のかなりホットな問題の一事例になっているのだ。まだまだ日本では理論的な問題だとおもって、ゆったり構えていたところが、突然、現実の、かなり大きな問題として降ってきて、少しあわてている、というのが正直なところである。 Studies of Expertise and ExperienceとThird Wave これはつまりこうい
今週は、行政刷新会議のワーキンググループの会合が三回開かれ、いわゆる「事業仕分け」がなされた。日本にいたら、中継を見ていたところだが、出張中で見ることもできず、やむを得ないので、今日になって情報収集をしている。 三つのワーキンググループが並行して走るという興味深いやり方で、そのうちの第三ワーキンググループが学術行政にかかわるもので、とくに13日にいくつか気になる決定がなされた。スーパーコンピュータやSpring8については、それぞれ専門家が議論するのに任せよう。私はこれらの事業の予算縮減や、凍結は、それほど大きな問題ではないと考えている。それらはより時間をかけて、やっぱり実施が望ましいとなれば、後からやり直せるからだ。復活に成功すれば、研究が一定期間遅れるだけのダメージで済む。私が一番気になるのは、人材育成関係の事業の予算縮減である。人材育成・若手支援で道を誤れば、一世代の人材が欠落し、長
今日の入試説明会を聞きつつ、漠然と思ったこと。 うちの専攻ができたとき、タコつぼ型の大学院の組織をやめようというのが理念の一つだったそうだ。生命系の大学院では、研究室ごとに完全に独立して、分断されていて、隣の研究室では何をやっているのか分からない、という状況が普通であり、院生も、一つの研究室に所属すると、そのなかで全生活が完結するような大学院生生活を送ることもよくあるらしい。うちの専攻では、そういうことをすると非常に視野の狭い生命科学の研究者しかできないので、なんとか別の仕方を考えようということだったようである。たとえば、物理的なスペースにしても、研究室に割り当てることはせず、専攻全体で管理する、というのが建前だった。 ところが、今日の入試説明会で感じたのは、結局、「研究室」というものが出来てしまっていて、どうやら縦割り、タコつぼ化の方向に動いているらしい、ということである。というのも、研
今日の4Sはどれも大変よくできたセッションばかりだったが、中でも印象的だったのが、Naomi Oreskesの発表だった。Merchants of Doubtというのは、彼女の出版予定の本の題名になるそうだ。OreskesはPeter Galisonの最初の弟子で(あとDavid Kaiserがダートマスの学部生だったころの指導教授)、今はUC San DiegoのSTSプログラムのチェアだったと思う。ただ、物理学ではなく、地球科学、プレートテクトニクスや、海洋学の歴史についての専門家で、今回の発表は海洋学についての調査から発展したのだろう。 ここでいうMerchant of Doubtとは、もちろん、Merchants of Deathのもじりだけれど、疑いに疑いを投げかけることによって、世論を操作する知識人、とくに科学者たちである。具体的には次の3名だ: Frederic Seitz,
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