サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
Switch 2
d.hatena.ne.jp/elegantlycruel
書くといふことみんな好きね、ケータイ小説。ワスもニヤニヤしながらヲチしてるひとりなんだけど。なんてゆうんですかーそのー「彼氏がセックスを求めてこない=アタシって本命扱い♥」という10〜20代女子特有の言説にむひょーっとヌラヌラきちゃう。女も30すぎると逆に求められないことに不安感じちゃったりするんだよな。わしの周囲の三十路負け犬どもはそのように申しておりますが。『あたし彼女』って普通にツンデレだよな。女でツンデレキャラって、なんかどついてシバきまわしたくなるくらいうっぜーな。って思うのもわしだけやろうけどな。なんというか、こう、いろいろと体のあちこちが痒くなってきて、真夜中に「うあーーーーー」とか意味なく叫びをあげてみたくなっちゃう系?みたいな?『別に正直に言えば毎日つけろとか思ってないけどただなんかせっかく買ったんだし何よりこのアタシとお揃いだし?逆に光栄でしょ?みたいなてかアタシは別に
書くといふこと部屋の窓を開けて外を眺めていると、わたしはここから飛び降りることを脳内でシミュレートすることが多い。窓の下には駐車場、つまりアスファルトで舗装された黒くて冷たくて無機質な固い地面が見える。8階といえば、だいたい地上から30mくらいだろうか。人が飛び降りて死ぬには必要にして十分な高さである。わたしは高所にのぼって下を見下ろしたときに感じる、あの地面の遠さ、耐えられないほどの距離に、眩暈でくらくらするほどの恍惚を感じる。東京タワーの展望台にある、下方が透けて見えるガラス張りの床をのぞきこんだときのような気分。高所から見る地面は、ふだんわたしがふつうに地上に立って見ている地面とは、まったく異なった顔をもって迫ってくる。なにかとてつもなく、凶悪かつ獰猛な何かを秘めているようにみえてきて、ゾクゾクとしてくるのである。飛び降りたい。物理学における自由落下の法則によれば、空気抵抗を考慮しな
書くといふことほんで昨日もな、サエ(仮名・36歳独身)と飲んでてんか。天六のやかましい居酒屋で日本酒一升かましてから、いつもの西中島南方にタクシーで移動して。「あそこキャバの前に出てる嬢の写真見なさい、どいつもこいつもブッサイクやわ〜」「マスカラガン塗りで売れたらマジ世話なくね??」「あたしヨユーで一晩でこいつらより売り上げ月間1億勝てるわ〜」「しみったれた女ね〜ブス」とかあることないことギャーギャーわめきながら歩いて。ほんで、場末の煤けた裏路地のちっさいバーで年増のババアふたり飲んだくれて、あたいら典型的な負け犬よ???男なんかさっぱり寄ってこないわよ??? せっかくやからアタイ、この女のふとももに跨がって腰でピストン運動しながら「アンタそんな男日照りならアタシと一発連結ドッキングしてみる気いあんのぉ?」なんて上から目線で戯れ言吐きかけてやったわ〜。「チンポの先が蒸れた包茎童貞に興味あら
書くといふこととりとめもない、小品の数々。スタアに包含される惡意について恐らくは此のやうな事を考へるのもわたくししか居ないであらふが、はてなスタアと云ふ物を「やあい、此れまた救ひやうも無い大馬鹿である事だ、阿呆な事を言つてやがるぜこいつ」と云ふ嘲笑或は侮蔑の意を込めて引用スタアを付ける事がある。さうしてわたくしによつて付けられたスタアを見たそいつは、如何にもわたくしに無條件で贊同されたとでも思つて舞ひ上がつてゐるのだらうが、わたくしの眞意はまつたくの逆なのである。はてなスタアなる物は、サアビス開始當初はけつして「贊同」だとか「同意」だとか「應援」だとか、そのやうなポジテイヴな價値を元來一切持つてゐなかつた筈なのであり、若しあの黃色い星を見て貴方が其のやうな印象を抱くならば、其れは貴方が勝手に無意識の內に付けた色であり、本來あの黃色いスタアは無色透明であり價値中立的であり得る。故にわたくしが
どうでもいい「なあ、ミクシーて知っとう?」「あーこの前やっとオレも招待されてん」「何それ」「ブログとはちょっと違うねんけど、招待状なかったら入られへんインターネッツやねん」なんて会話を、数年前のある日学校の友人らと遊びに行った帰りの車内で思いがけず耳にするよりもはるか2年くらい昔からわしはずーーーーっとmixiやってて*1、なんとなくその頃からわしは「この手のコミュニティというのは小さく閉じていることにこそ意義がある」ということにうすうす気づいていて、それがめぐりめぐってとうとう学校の友人らまで到達してしまったという事実に、そこはかとなく漠然とソワソワした不安を覚えたものだった。仲間だけの秘密基地をつくっていたら、大人たちにバレてしまったかのような。「ひっそりとコソコソとオレらだけが楽しいことを楽しんでいたい」という少年特有の気分だった。あれから何年か経った現在では、いつの間にかmixiや
僕らがセックスについて話すこと 仕事帰りの君は、なんだか妙に浮いてた。うちらが極度にだらけて気の抜けたカジュアルな格好してるのに、君はというとカッチリしたスーツに身を固めて梅田の高層ビルのオフィスで山積みの仕事をバリバリこなす、まるで絵に描いたようなキャリアウーマンだった。キャリアウーマン、というと語弊があるかもしれない。活発さや積極性というものとは無縁の、おとなしく地味な子だった。トレンディ・ドラマ(笑)で見かけそうな闊達な女主人公からは、ずいぶんとほど遠かった。飲み会スタート。友達が連れてきた友達だったから、その場のみんなで自己紹介タイムになったときに、君に番が回ってきても、名前さえ覚えられずにそのやたらキャリアキャリアしたスーツしか印象に残らなかった程度だった。見た目に派手なわけでもないし、街角ですれ違ってもたぶん1秒後には記憶から忘れ去っているような、そういう地味な子だった。 そん
書くといふことこういってはなんだが、先ほどまでしばらく自分のはてなダイアリーを読み返してみたのだが、顔から火を噴くくらいに恥ずかしくなるのだった。もうちょっと、こう、いくら半匿名というか無意味なidで書けるインターネッツだからといって、もうすこし書きようがあるんじゃないかと思う。まったく見知らぬ人ならば、このようなことを読まれたところで痛くもかゆくもないが*1、これが身内に知られた暁には恥ずかしさのあまりリニューアルした戎橋から無理矢理に道頓堀にダイヴして死にたくなるんじゃないかとまで思う *2。それほどまでに気が狂う話である。なんだかんだいって書きつづけてきたものの、あまりの稚拙さ、ナイーヴさに目を覆いたくなるほどである。自分が気持ち悪い。なんか、よくこんな気持ち悪い生き物が平気でこの日本社会に暮らしていられるなあ、と感心さえする。やたらひょろりと細長いくせに妙に胴体に不釣り合いな頑丈な
書くといふことホッテントリなどというものは、たとえるならば邯鄲の夢、浦島太郎の玉手箱、祇園精舎の鐘の声、春の夜の夢、風の前の塵、行く川の流れ、淀みに浮かぶうたかた、このようにひとえに脆くて儚いものである。数年もいた地中から這い出して華々しく羽化しては、この世の栄華を謳歌するようにけたたましく鳴きわめいた挙句に、2週間であっけなく死骸が路上に転がるアブラゼミのようなものである。わたしはブクマなど信頼しない:たくさんブクマがされたエントリは、すなわちエントリ自体の良質を意味することはない。ホッテントリに入ったという事実は「ネタとしてのおもしろさ」以上のなにをも意味しない。ブクマは言葉遊びである。ブコメとは、100字でうまいことを言(って得た星の多さを競)うゲームである。ブコメはエントリと対称な位置に着いて対話しない。ブクマとは、常に一方通行のかたちに向けられた、非対称な発話にすぎない。つまりブ
どうでもいいおまえらしってた? おれ、すんげーあたまわるいんだぜ*1。
考察するもん京大生没落エリートがこの先生きのこるためには、という話。 - elegantly cruel. @ d.hatenaっていうか独り言っぽくつぶやいていただけで、なんか釣り糸垂らしてるつもりとか全然なかったんだが、タイトルを読み返してみたら、なんというはてブホイホイ*1。「京大生没落エリートがこの先生きのこるためには」って、まんま尻馬じゃん! 無意識に村人釣ってたよオレ! わしもすっかり脳がはてな菌に侵されてしまったなあ。まあ別に叩かれてもどうでもいいんだが。こりゃいい機会だと思ったので、いろいろつらつら考えてみる。たしかにわしは職業経験らしい職業経験もないので*2、こうゆうことを実体験として理解しているわけではなく、各方面にいろいろご意見をたまわりながら考えていきたい所存。なんか心理的メカニズムはよくわからんが、こうゆう就職系の問題になると脊髄反射で感情的になっちゃう一部のオト
どうでもいい京大生ごとき低学歴にまで噛み付かなければ気が済まない低俗な三流大卒学歴コンプ*1がうようよ釣れて大漁だった、あの例の伝説のネタ「没落エリート」がはてな界隈で大センセーションを巻き起こして早1ヶ月。わしゃどうでもいいよほんと。入った学校がたまたま京都にある大学だっただけで、わしはぶっちゃけ全然京大にも京都にも帰属意識とか民族意識的な愛着とか一切感じてないのでどうでもよろしい。せいぜい酒の席でネタにして「ええー!京大卒ぅー?見えなーいぜんぜーん!ゲラwww」とかキャバ嬢らにちやほや言ってもらうが関の山である*2。いちおう就職しようかなーと予定してるんだけどさー*3、わしゃ会社というもの全般について、どうにも適性が見えないわけである。わしは株式会社という組織自体にかなりの不信感を抱いていて、従業員の社会的生命をなんら保証してくれないのをウチの親父ほか数名をリアルな実例として目撃して
僕らがセックスについて話すこと諸君、わたしはアダルトビデオがすきである。アダルトビデオは、現代日本の最先端エンタテインメントである。アニメやマンガだけを見てジャパンのコンテンツ力がどーたらこーたら語るようなローゼン閣下*1にひっついてるやつらは、いっぺん身の回りをもう一度よーく見ていただくとよろしいね。アダルトビデオはれっきとした日本文化である。海外にこれだけのコンテンツがあるかっちゅうねん。次から次へと供給される豊富かつ潤沢な人材、見られる女としてのクオリティが高い素材、われわれ男どもの目を楽しませる数々の華やかなテクニーク、アングルやモザイクをギリギリまで追求する職人魂をみせつけるようなカメラワーク、すべてが海外を凌駕しているとわたしは思う*2。よろしいか。こういう性産業において、ジャパンが世界の最先端を行っている*3という事実は、もっとよく知られるべきである。思うに、世の男どもはちゃ
どうでもいい※きょうはなんら公共性のある話題ではなく、ただの脈絡もへったくれもない自分語りをします。オナニーですから。推定2users。毎日毎日飽きもせずシコシコシュッシュッとチンコをしごく日課のように*1エントリを書きためてるわけでありますが、おかげさまでそこそこ元気にやっております *2。こんにちは。気温も急激に下がり、めっきり秋めいてまいりましたね。ついに長袖シャツが復活しました。きょうは久々にバイク乗ってあちこち出向きました。落ち込むこともあるけれど、私は元気です。きょうはなー、モンシュシュさんまで堂島ロール買いに行ってん*3。エントリ書くたびに毎度毎度ブクマもいただいております。わたしとしてはコンスタントに30users程度の方々にお読みいただいているという事実だけで十分なのですが、ちょっと煽り気味に書くだけでブクマカーがホイホイ食いついてくれるはてなという釣り堀はなんとまあオイ
僕らがセックスについて話すこといま現在とくにすきな人がいないにもかかわらず「恋愛したい」という人々がいる。あなたの周辺にもこういった人々は多いはずであるが「あーあ、彼女ほしいよなぁー」「カレシほしい〜出会いがほしい〜」などとボヤく人間がいたら、看過してはならない。もうすこし注意ぶかく彼らの言葉に耳を傾けてみよう。「いま誰かすきな人がいるの?」という問いを投げかけて様子を観察してみよう。「いや、とくにすきな人はいないけど……」と答えるならば、その者こそ本日われわれが観察する対象である。彼らが欲しているのは、ほんとうに恋愛相手なのであろうか。まだ見ぬ相手を「愛したい」というのは、どこか矛盾していないだろうか。「具体的に誰を愛したいのか、名指してみよ」と問われ、なにも言いえない人々は、いったい誰を愛したがっているのだろうか。誰かに惚れるより以前に「(単に)恋がしたい」とはどういうことか。具体的な
考察するもん僕はここのコメント欄をいまだにオープンにしていない。ということは、僕のダイアリーを見れば誰にでも一目瞭然なのだが、これにはちゃんとした理由がある。大昔にelegantly cruel. @ d.hatenaというエントリを書いたのだけれど、ほとんどここに挙げた理由がすべてです。不特定多数の誰もが書き込めるが、誰か特定のひとりが管理している、そういう空間は管理者ひとりに過剰なコストがかかりがちだと思う*1。僕はその過剰なコストを背負うことにつき拒絶する権利がある。僕は、僕がもっているダイアリーのコメント欄につき責任を負う自由があるし、その責任の一環としてコメント欄をクローズドにしておく自由も当然そこに付随する。そういうわけで、僕になにか言いたいことがある人間たちは、ほかにも僕がいろいろな手段を残しているから、それらを利用したらよろしいと思う。僕はメールアドレスだって公開している。
考察するもんはてな村の皆さん、こんにちは。elegantly cruel. @ d.hatenaを書いている者です。きょうはわたしから皆さんに、ひとつ簡単な、しかしだいじな提案があるので、エントリを書くことにしました。それは「そろそろ釣られることを肯定してみませんか?」ということです。わたしは皆さんに問題を提起します。そろそろわたしたちは、クマさんとしての釣られお作法を身につける時期にきていると思いませんか?インターネットのアーキテクチャは、今後しばらくは変わらないとわたしは考えています。すなわち、どこの誰がどういう意図でその文章を書いたのかを、われわれが知る手段はほとんど残されていないということです。われわれがリアルにいるならば、喋っている人間の表情や声の調子など、非言語的なメッセージを総合的に判断できる環境にあるわけですが、残念ながらネットという場は(すくなくとも現状では)書かれている
僕らがセックスについて話すこと続・ヘテロセクシュアルな男子どものツラを、この本の背表紙でいてこましたい。 - 森岡正博『草食系男子の恋愛学』 - elegantly cruel. @ d.hatena。タイトル釣りだけど。えへ*1。わたしは釣り容認派である:ぶっちゃけ言うけど、ブログってゆうかはてな村というのは読まれたもん勝ちであろう。基本的に。草食系男子の恋愛学作者: 森岡正博出版社/メーカー: メディアファクトリー発売日: 2008/07/16メディア: 単行本(ソフトカバー)id:kanjinai先生の本を読んで以来2、3日のあいだ「男らしさ」ってのはなんだろう、とあれこれ考えていたんだけれど、ひとつの小結論に至った:「男らしさ」は男自身のみが言及しうるものであり、女が請求すべきものではない。だからid:kanjinai先生自身が男性であること、そして先生が同性という立場から同性たる
僕らがセックスについて話すことid:kanjinai先生の新刊である。草食系男子の恋愛学作者: 森岡正博出版社/メーカー: メディアファクトリー発売日: 2008/07/16メディア: 単行本(ソフトカバー)わたしはもう、厚顔無恥な世の男どもに向けて書くネタの大半を失ってしまった。と思う。これは肉食/草食を問わず、すべての男どもに読ませるべき、現代の教養書である。男子諸君。現代日本の恋愛至上主義社会をまっとうにスムースに生き抜くためにぜひとも必要とされる「恋愛スキル」は、この本を通じて学んでいただきたい*1。本書は、アダルトビデオの見すぎ、あるいは少年マンガやモテ指南の読みすぎによって過剰に「女はテクニークで落とすもの」教を信仰してやまない敬虔なる男子たちに課せられた必須科目である*2。結局のところ、この本が主張することは究極的に一点に集約することが可能である:すなわち『女の身になって考え
考察するもんあの、苦節20年あまり、ようやくわかりました。わたしにとって、この世でもっとも腹立たしいことは何かというと「門外漢が的外れな批判をもっともらしくわたしに向けて語ること」である。テメーが経験したこともないようなことにつき、さも自分はよく理解してますよといわんばかりに、わたしがおかれている環境や状況について何一つ把握していないくせに、わたしの弱点や敗因や欠点について、したり顔でもっともらしく分析をしてみせて語るような人間ども。こういった者どもは、唾棄すべきである*1。わたしは、自分がすきなものを誰かにけなされても、それほど腹が立つことがない。わたしが好んでいるその対象は、当然ながらわたし自身ではないし、仮に誰かがそれをきらっているとしても、そのことをもってわたしが全否定されていることにはならない。なにかをすきになったりきらいになることは、個人に委ねられた自由である。多くの人々にすか
僕らがセックスについて話すことペニスとは、他者にはたらきかけるなにものかである。ペニスをもつ男たちにとっては、彼らがペニスを股間にぶらさげていることそれ自体をもって、常に他者にセックスをはたらきかける理由となる。はたらきかける性、それはペニスをもつ性に課せられた宿命である。ペニスをもちつづける限り、男たちは常になにものかに対してはたらきかけなければならない。ペニスの命令に忠実な男たちほど、日夜ナンパに勤しむのである。ペニスをもつ男たちは、はたらきかけざるをえない。すなわち、射精せざるをえない。ゆえに、はたらきかける対象たる相手がいないとき、男たちはオナニーをして架空の対象にはたらきかける。男たちが自らを慰めるとき、彼らは誰かにはたらきかけたがっており、しかもはたらきかける相手がおらず、虚空にはたらきかける。女たち*1はペニスを羨望している。ペニスをもっていることこそが、他者を能動的に愛する
考察するもんきょうは極論ネタでいくさかいに、お前ら人面魚どもはがっぽり釣り餌に食らいついてや!*1タイトルは、桃井かおり女史の往年の名台詞「最近、バカが多くて疲れません?」的口調で読む。別にあそこにいる人々*2がすべてバカばかりとは思わないけれど、あの場自体が、なんというか、気疲れするんだということに思い至ったわけである。あれはね、すべて「場」がいけないですよ。毎日毎日仲良くきゃっきゃうふふと黄土色の下痢気味のババ投げあって黄色い声あげて喜んではるブックマーカーたちはね、あれは新興宗教の教祖 *3にうまいこと洗脳されてるですよ。偉い人にはそれがわからんのです。わしゃいいよもう。はてブに疲れた。mixi疲れみたいな感じで、はてブに疲れた。あそこにいる人々が疲れたというより、あそこにいる人々をあーゆう風に振る舞わせてる場に疲れた。もう「うおー積極的にダイアリーの作者に燃えたぎるこのアツイコメン
考察するもんヒロン師匠(id:hrykm169)にdeeply inspiredなのだけど書いてみるよ*1。20代半ばくらいの人が悟ったように書いた文章を50代までいかなくても、40代以上の人はどう思うんすかね。id:hrykm169 - hrykm169 - はてなハイク振り返ってみると、オレほんと10年くらいのネット歴のなかで、ブログ書いてたこともあるし2chに書いたりmixiに書いたり増田に書いたり*2してきたけれど、ネット上で派手に叩かれた*3記憶がないんですよ。いやこれでも叩き上等なんだけど*4。むしろもっと叩かれたくてケツの穴がウズウズしてるくらいなのだが、叩かれない。中学・高校の頃から非コミュ路線まっしぐらだったけど、いじめられても不思議じゃなかったのに、なぜか一度もいじめられたことがない。なんか妙に叩かれにくい体質であるらしい。不思議なことに。叩く価値を認められてないのかも
僕らがセックスについて話すことどうやら僕はセクシュアリティについて、もっともノリノリに書けるらしい。そしてどうやら他のみんなも、僕がセクシュアリティについて書いているのを読みたいらしい。なぜかというと、これまででもっともエントリの多いカテゴリが「僕らがセックスについて話すこと」であり、もっともはてブがついたカテゴリもまた「僕らがセックスについて話すこと」だからである。別にブクマを集めるためだけに書いているわけではないが、どうせならより多くの人々に読まれるような文章を書きたいとは思っている。まあ、そういうことである。その分野において「パンダ*1」であるからこそ、ある種類の語りが成立するのだろう。僕は多少逸脱気味であることを踏まえた上で、意識的にさらけだしている。逸脱気味だからこそ、みんなの耳におもしろく聞こえるような話もしやすいのかもしれない。人々は「自分が読みたいと思っている」文章を読みた
僕らがセックスについて話すこと男子諸君はちっとも自覚していないだろうから、そろそろ一言申し上げておこうか。成人男性の手というのは、たいへんにエロイのである。おまえら知らなかっただろう。そう、ゴツくて、ちょっと血管が浮き出ていて、ほとんど脂肪が削ぎ落とされていて、なにより、あの一見華奢ながら力強い、細長い指。骨張った関節。大きな手のひら。うそだと思うなら、そこらの女子に聞いてみるがよろし。「男の手って、女の子から見てどう思う?」と。結構な確率で隠れ手フェチは潜在する。というかカミングアウトするならば、わたし自身、自分の細長い指にハァハァ萌えるのである*1。男子の手は、いい。特に、指がいい。あの細長くて骨張ったゴツゴツした感じが、ほどよく硬派を演出しているようで、その指でタバコを挟んでいる光景を瞼の裏に思い描くだけでクラクラするほどである。華奢なのに力強い。男の手は、男の指は、かくもアンバラン
僕らがセックスについて話すことなんて全然書いてへんけどな!ワラ!*1「女は体売れば金になるんだからいいよなー」とかうそぶく男は、ゲイ相手に男が体を売る職業、すなわちウリ専のほとんどがノンケ男性だって事実を知らないんでしょうか。「女は体売れば金になるんだからいいよなー」とかうそぶく男は - みやきち日記みやきち id:miyakichi さんのエントリがはてブで火を噴いているのである。別に火を噴けばよろしいのである。こうして自分のセクシュアリティを自明のものとして疑わない大多数のノンケたちのリアクションを可視化することで、われわれマイノリティの策略がはじめて日の目を見るのだから。自明に安住する人々にこそ、われわれは問い(という名のウンコ)を投げつけなければならない。前提として申し上げておこうか。わしは過去、ウリ専*2にいたことがある。ごく短期間、男にカラダを売っていました。えへ*3。主に客層
考察するもんGoogleストリートビューにつき「おいおいあれキモくね?」と異議を表明した人がいた件で、はてな界隈ではいろいろと話題になってるような風景である。大元の主張はこういうことである:西洋諸国と異なり、ジャパンの都市部においては、路地・生活道路はある種の私空間である。共有の庭先のようなもので、町内の誰もが自分の庭のようにくつろいでふるまうような場である。西洋なら「道路から見えるところは全部パブリック」という理屈で通るかもしれないが、すくなくともジャパンにはジャパンの文化・生活様式があるのだから、なんぼ世界のぐーぐる様ゆうても各国の文化にあわせローカライズして対応すべきである *1。わたし自身はなんとなくこの主張に違和感をもった:だって2008年現在きょーびのジャパン(のうち、すくなくともわたしがよく知る東京や大阪)において、いちおう法律上公道と指定されている部分で他人様にあられもない
僕らがセックスについて話すことかわいい女子がすきである。わたしは女子たちときゃっきゃうふふしたい。女子力アップにむけて日々鍛錬を怠らないのである*1。すべての女子が目指すべきもの、それはSex and the Cityである。ちなみにわたしの役どころはサマンサである*2。女子たるもの、会話には脈絡があってはならない。ふつうの男たちが聞いているだけで錯乱してしまうような、そういう種類のおしゃべりこそが女子の本懐である。女にとって、喋ることそれ自体が目的であるので、話に中身などあっても意味がない。意味があることに意味がない。かわいい男子がすきである。あーでもわたしにとってこれは「女子がすき」というのとは別個の「すき」である。男子はなんというか、眺めているだけで満足なのである。男子というのは、口を開くとボロが出てしまうことが往々にしてありがちなので、見目麗しい男子を見かけるとむしろ黙っていてくれ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『elegantly cruel. @ d.hatena』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く