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しばらくこのブログを書かなかったのは、特に理由があるわけではない。忘れていたわけでもないのだが、少し間が空くと、何となく書きにくくなる。動画の配信の場合と同じである。そういえばこの数ヶ月、どちらかというと動画の方に気が向いていて、書くことがちょっとおろそかになっていた。それはたしかだ。 室井尚さんが3月21日に亡くなったこと、その前後のことや、彼と計画していた「哲学とアートのための12の対話」についても、ここではまだ書かなかった。学会誌に訃報や追悼のテキストを書いたり、「対話」については彼の亡くなる9日前の3月12日に銀閣寺でプレトークを行い、その記録は動画でもテキストでも公開しているのだが、そうした作業に追われてこのブログでの投稿に戻ってくる余裕がなかったかもしれない。ちなみにそれらについての情報は以下↓にあります。 https://mxy.kosugiando.art/?fbclid=
陰謀論もウィルスと同じように広がり、またウィルスと同じように、陰謀論から身を守ることのできる確実なワクチンというものは存在しない。 事実を直視しなさい!と言っても、コロナ騒動にせよアメリカ大統領選挙にせよ、私たちのほとんどが見ている「事実」というのは、みずから現場に赴いて目の当たりにする現実ではない。メディアによって媒介された情報である。私たちが「あなたは事実から目を逸らしている」と言っても、陰謀論者はその「事実」を伝えるメディアが操作されていると主張するのだから堂々巡りであり、彼らを議論で説得することは不可能なのである。 陰謀論は理屈でない。むしろ感情である。だから合理的な議論の対象というよりは、美学の対象なのである。美学は陰謀論に対するワクチンにはならないけれども、一種の鎮静剤くらいにはなる。なぜなら美学とは、「事実」を問題にするのではなく、直接的な感覚経験、「直感」を問題にする態度だ
この問題は続いているし自分も辞職しない限り関わりは続くので、そしていろんな場所で意見を聞かれたりするので、ここでは正直なところを書いておきたい。このブログは公開ではあるけれど、個人的な活動なので、ぼくが美学会の会長であるとか、日本学術会議の哲学委員長であるとか、そういう立場からの公式見解では全くないのです‥‥と断りつつ、しゃべってる人間は同じなのだから、そんなキレイに切り分けられるもんではないのですけどね。 さて日本学術会議のことなのですが、政府でもそのあり方が検討され、同時に学術会議内部でも、自主的に組織や活動のより良いあり方を模索する動きがあって、ぼくも意見を求められたりしてきたのですが、基本的に言うと、ぼくはそんなことを今慌ててする必要はまったくないと考えているのです。組織に問題がないと思っているわけではない。問題はあります。でもその程度のことは、どんな組織にもある。この間、学術会議
10月24日(土)に京都大学文学研究科で行われた、「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」という、不思議なタイトルのシンポジウムに出演した。京大文学部に勤めていた頃の同僚である出口康夫さん(哲学)に頼まれて、ふーん文学部でそんなことやるのかという、まあ興味本位で参加したのである。本来は4月に予定されていたのだが、コロナのために延期されたのだった。かなりの人が現地に観に来て、オンラインの視聴者も国内外から何万という単位であったらしい。大変なイベントに呼んでもらったということが後で分かった。 とはいえぼくは、「緊縛」という文化についてほとんど何も知らないし、「アートとしての緊縛」という題を最初にいただいたが、到底そんなことは話せないと思って悩んだ挙句、「縄と蛇」という話をした。縄が人間身体を緊縛する以前に、縄はそもそも自分自身を緊縛しているではないかという考えから、縄の想像的・象徴的・神話的起源で
美学会のホームページに、以下のような声明を発表しました。 日本学術会議会員任命拒否に関して 日本学術会議第25期の1部(人文社会科学分野)の新規会員として推薦された35名のうち6名が任命されなかった問題に関して、それは誰の責任において判断したのか、またその判断に至った理由について開示することを求めます。法や手続きに関する細かな議論以前に、本件はこの種の人事過程の「常識」からして異常な事態であり、また大きな社会的影響を持つことから、任命主体には理由を公開する責任があります。その上でもしもその理由が不正なものであれば、関係者に謝罪の上再任命すべきであると考えます。 美学会会長 吉岡洋 10月1日から3日まで開催された先週の日本学術会議総会の後半が、ちょうど美学会全国大会と重なっていて、ぼくは総会は初日の10月1日しか出席できず、その日に京都に帰って、翌日の美学会合同委員会、3日、4日の研究発表
以下の原稿は、もともと2019年10月12-13日、東京の成城大学における第70回美学会全国大会のために用意した講演原稿ですが、台風19号のために中止となったため、2020年1月12日に同じく成城大学において発表させていただいたものです。その後、雑誌『美学』に掲載するという話もあったのですが、字数制限などがあり残念ながら実現しませんでした。美学会の将来ということを意識した内容なので、このまま一般の雑誌原稿としても発表しにくいため、ここで共有したいと考えました。 〈1〉「歴史の終焉」が意味するもの 2010年、中国の北京大学において、第18回国際美学会議が開催されました。その時の大会テーマは「美学の多様性(Diversities of Aesthetics)」というものでした。企画者のひとりであった佐々木健一氏はそこで「美学の哲学的役割(Philosophical Role of Aesth
このタイトルで書くのはこれで最後にしたいと思います。前記事の最後に書いたように、日本学術会議の会員任命拒否に関しては、その理由の開示についてはしつこく求めていくべきだけれども、それは現在この国が直面している最重要問題ではないからです。けれども過去2つの記事が数日間で10万回近く読まれ、様々な反応が来ているので、それについてまとめてお答えしておきたいと思います。 全体としては賛同を示していただいた方が圧倒的に多いのですが、もちろんネガティブな意見もありました。それも大切だと思っています。ネガティブな意見の大半は、今まさに権力によって学問の自由が侵害されようとしているのに、あなたは何を呑気なこと言ってるんだ! というようなお叱りです。これをきっかけに今こそ政権に打撃を与えるチャンスなのに、学術会議の人文系会員であるいわば当事者が、なんで水をさすようなことを言うのか? と。 それは言論の自由があ
昨日の記事について、たくさん質問をいただきました。全部に答えるのは無理だけど、いくつか。 ◯ まず、お前は誰だ?(笑) 的な質問。 ちょっと失礼だけど、まあいい。 このブログは「hirunenotanuki」という名前で動かしてきましたが、別にアイデンティティを隠しているわけではありません。過去の記事を見れば分かります。 日本学術会議の会員ならエラい先生なのだろうと思う人もいるかもしれませんが、実は学問的にたいした業績も貢献もありません。別に謙遜して言ってるのではない。ただ京都大学で美学の教授を10年くらいつとめ、この4年間は美学会の会長をしてきて、歳も相応にとってきたので推薦を受けたのではないか。 ◯ 次に、あなたも左翼なのか? というような質問。 違います。たしかにぼくは若い頃テオドール・アドルノやユルゲン・ハーバーマスを読んでいて、その意味ではフランクフルト学派つまり新左翼の哲学を勉
これはポンポコ先生じゃなく「中の人」? が書いています。どこが違うのだと言われると困るのだけど。 すでにいくつかのメディアで報道されているように、日本学術会議が推薦した第25期の新たな会員のうち、人文・社会系35名のうち6名が、内閣総理大臣によって任命されなかったという事態が起こりました。 ぼくは新会員のひとりであり、昨日の総会に出席しました。前会長の山極寿一さんが退任挨拶の冒頭で、経緯について簡単に説明しました。新会員の名簿は何ヶ月も前から内閣府に提出されていたのに、一部を任命しない事実が知らされたのはわずか2日前だったとのことです。つまりこの決定について現会員や執行部に抗議する時間的余裕を与えない、ギリギリのタイミングで知らされたということです。 こうしたことは、日本学術会議の発足以来初めてのことです。過去においても政府と学術会議が対立したことはありましたが、任命者である総理大臣が会員
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 013◉ 【Q】昔の小説や映画、あるいは昭和時代のマンガなどにもよく「作中には現在の人権意識からすると不適切な表現がみられますが、作品の歴史的価値を尊重しオリジナルのままで収録します」みたいな但し書きがあります。意味は理解できるのですが、そう言われると余計にその問題の箇所とはどこだろう、という興味が湧いたりします。ふつう差別語などの不適切な表現は、気にする人がいるなら言い換えればいいだけではと単純に思ったりもしますが、芸術作品の場合はそれを変えてはいけないという特別な理由があるのでしょうか? 美学ではどう考えられているのかということが知りたくて質問しました。 【A】「昭和時代」ですか‥‥(笑)。いや、もちろん2つも前の元号なので「時代」扱いされても当然なのですが、自分が生まれ30代までを過ごした時間を何気なく「時代」と言われると、つい感慨にひたってしまい
「美術館よ、お前も〈映え〉と〈女子〉に走るのか?」 やっぱり来たね、この話題。 何人かから、どう考えるか質問を受けた。講義の内容と直接関係はないけど、答えておきましょう。 話題を知らない人のために。これは美術館連絡協議会と読売新聞オンラインによる企画「美術館女子」のことです。オンラインの『美術手帖』を見てください。 https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22140 ポイントはふたつですね、〈映え〉と〈女子〉。 まず〈映え〉というのは、「インスタ映え」などの〈映え〉ですが、要するにビジュアル的な魅力によってネットを中心に拡散し、たくさんの人が見るようになる、さらには現地を訪れるようになること。つまり美術館が、そうした効果が期待できるような場にならねば、という戦略です。 ようするに「営業」です。 そりゃあ仕方がないだろう、と思う人もいる
関西学院大学 大学院「美学特殊講義1」 第1回(2020年5月20日 水曜4限 15:15-16:45) 関西学院大学の大学院生の皆さん、こんにちは。2020年度春学期の授業「美学特殊講義1」を担当する吉岡です。現在の状況下において講義をどのように実施すべきか検討した結果、このような形で進めることに決めました。この講義が予定されていた日時、水曜日の4限(15:15)に、今行っているような形で文章としてアップロードしますので、その内容に関連した短いレポートを作成し、次の週の水曜15:15までに送ってください。詳細は学内の教務システムとメールで通知します。本日は初回ですので、この講義についての全般的な紹介と、今回なぜこういう形で講義を行うことにしたのかという理由について、お話ししたいと思います。 この講義「美学特殊講義」は、これまで様々なトピックを扱ってきました。私のバックグラウンドはヨーロッ
以下のテキストは、また3年間会長を続けることになった美学会のことを意識して書いたものではありますが、あくまでぼくの個人的所感であり、学会全体の立場を表明するものではありません(なんてことをいちいち断らなきゃいけないのも今の時代の窮屈さだし、断ったからといって別に内容の印象が変わるわけでもないのだけどね)。 --------------------------------------- あいちトリエンナーレの「表現の不自由」展に起因する補助金停止問題について、美学会としても何か声明を出すべきだという意見が、会員の中から上がった。すでに芸術関係のいくつかの学会や団体から、文化庁・文部科学省に向けた声明や抗議が出ているので、芸術分野全般の研究をカバーする美学会としても何らかの意見表明を行うべきだという声が出るのは、当然であろう。 たしかに、文化事業のために交付を決定した補助金を、外部審査員に相談
18世紀(欧米・日本ともに)について、若い頃とは違った仕方でよく考えるようになったのだが、それは200年以上前のことに歴史的興味があるからではなくて、むしろ18世紀の人々から見て、私たちが生きているこの現代はどんな風に見えるのだろうか? と想像してしまうためである。二つの時代の間には大きな断層があるとも思えるし、意外なところで繋がっていると思ったりもする。 たとえば芸術に関する考え方において、18世紀の欧米と今とでは、どこが大きく違うだろうか? いくらでも現象面での違いをあげることは可能だけれども、案外見過ごされているひとつの重要な違いは、かつては芸術創造が「白人の優位性」を示すためによく引き合いに出されていたということである。 このところ、トランプ大統領が人種差別主義者だということが問題にされている。それはもう、確信犯的にその通りだと思うけれども、それでは歴代の(オバマ以外の)アメリカ大
アートは一見無力にみえるけれども、そしてこの世の実効的な力としては実際無力なのだけれども、まさにその無力さのゆえに、何らかの闘争の道具として用いられることも、稀ではない。それは、今に始まった事ではない。 アートは、真理――というと身構える人もいるが、そんな深遠なことを言おうとしているのではなくて、ようするにこの世の相対的な価値基準、現在たまたま通用している常識や政治的配慮の影響から離れた、何か絶対的なもの――に直感的に呼びかけるために、現世的な力を諦めることである。だからアートが「力」を持つとしても、それは政治的な力とは別種の力能である。 だがまさにそうした、政治的な相対的力を越えた質を持つがゆえに、アートには政治的な利用価値が発生する。だからアートは、この世の出来事であるかぎり、必然的に政治に巻き込まれる。これを避けることはできないし、避けられると思うのは幻想である(つまり「非政治的なア
書くこととは原理的に、ひとつの「愚かさ」を引き受けるという選択だと思う。 そしてそれは悪いことではない。「愚かさを引き受ける」とはぼくにとって「生きる」ことと同義なので、けっしてシニカルに言っているのではない。逆に言えば、愚かさの反対の「賢明さ」とは、それを究極まで突き詰めれば、何も言わないことであり書かないことである。あるいはたとえ言ったり書いたりしたとしても、それを突き放してみることである。世界から自分を隔絶することだ。そうすることはいかにも賢くみえる。 たしかにそうした態度がいちばん賢明な生き方であることは自明なのだが、さらに言えば、生きることはそもそも賢明ではないかもしれない。「最善のことは生まれなかったこと、生まれてしまったら今すぐ死ぬこと」というギリシア的ペシミズムは、思春期からこれまでずっと真理だと考えてきた(と同時に、真理だからどう?とも思ってきた)。 真理はいつも目の前に
以下の文章は、2018年11月16日に群馬県前橋市で開催されたシンポジウム「文化芸術による社会包摂は可能か?」において行った講演の原稿です。 --------------------------------------- 芸術領域における「実践ありき」主義を再考するというこのシンポジウムの趣旨に、ぼくは強く共感しました。実践から距離を取ることは、何よりも、将来のより良き実践のために必要不可欠である、というよりむしろ、そのことはそもそも実践それ自体と不可分であると、常に思ってきたからです。 実践から距離を取るとは、つまり「理論」ということですが、理論というのは、実践と対立する活動ではありません。言い換えれば、それ自体が何らかの実践でないような理論はありません。 それに対して「実践ありき」、実践「主義」というのは、そもそも何か? それはつまり、「やってみれば分かる」「やらないで何が分かるのか?
…と、あえて断言したくもなるほど、現代社会ではスノビズムは蔑まれている。 「スノビズム(snobbism)」という言葉は日本語では「俗物根性」などと訳されているけれども、ちょっと違う(「俗物根性」というのも現代では正確に何を指すのかよく分からないのだが)。スノビズムというのは、自分が現実に属しているよりも上の階級に属しているかのようにふるまう態度のことである。たとえば平民が貴族のふりをしたり、庶民がブルジョワの真似をするといったことだ。でも上の階級を全面的に偽装するのは難しいので、せめてそれらしい話し方をする、というのがスノビズムである。『おそ松くん』のイヤミみたいに、海外に行ったこともないのに「おフランスでは‥…ざあます」みたいのがそうである。 スノビズムは優れて英語的な概念である。スノビズムの源は靴屋を意味する「スノッブ(snob)」という言葉で、18世紀イギリスの上流階級出身の大学生
(『有毒女子通信』8号の巻頭エッセイです。広報のために冒頭のみ公開していましたが、同誌8号はすでに売り切れで入手不可能ということもあり、全文を公開することにしました。最終段落にある「〈死なない〉ための唯一の方法、それは死を先取りすることである」は、同じ頃に書いたブログ記事「自愛について」と響き合うテーマですが、たぶん後者の方を先に書いたのだと思います。) -------------------------------------------------------------------------------- 「毒娘(Visha Kanya)」という話がある。インドのマウリア朝時代(紀元前317 - 180年頃?)に遡るとされる説話らしいが、現代でもインドの文学や映画などには登場する。毒娘とは、生まれながら暗殺者として育成される少女である。古代インド版「最終兵器彼女」とでも言うべきか。
秋田公立美術大学から出た『辺境芸術最前線---生き残るためのアートマネジメント---』という、なんかすごい切実なタイトルの本のために書いたテキストです。秋田で行った「芸術と道徳」シンポジウムでの講演がもとになっています。書店では手に入らない本なので、同大学の許可をとってここに転載します。オンラインで読みやすいように、改行を増やしました。注釈は省略されています。 この世の人たちより、地下の人たちを喜ばせなければならぬ時間の方が長いのだ。 ーソポクレース『アンティゴネー』 芸術と道徳とは、そもそもどんな関係にあるのだろうか? 誰にとっても、これはきわめて重要な問いである。と同時に、それ自体としてはひとつの抽象的な問いでもある。「芸術」そして「道徳」という一般概念がいったい何を意味するのか、この問いだけからは分からないからである。 現実性を重んじる人は、このような「抽象的な問い」を無力だと感じる
2017年3月11日金沢で、主に高校生に向けて行った講演のトランスクリプトです。 ぼくの専門は美学芸術学です。この「美学」も「芸術学」も、聞いただけで「ああ、なるほど」と思う人は少ないでしょう。どちらも日本語だから何となく意味は分かる(ような気はする)けれども、実際のところ、いったいどんなことを研究する学問なのか、それほど広く知られてはいないと思います。それでもいいのですが、こういう場所でたくさんの人に話す機会をいただいたので、今日は美学芸術学がどういう学問かということについて、とりあえず説明したいと思います。さて、どうするか‥‥美学芸術学には「美学」と「芸術学」というふたつの要素がくっ付いているようですので、とりあえずバラバラにして、ひとつずつ説明してみたいと思います。デカルトも「難しいことはひとつずつ分ける」("...diviser chacune des difficultés...
今年も室井尚さんのおかげで、横浜国立大学での年末集中講義に呼んでもらった。といっても場所は大学ではなく、みなとみらいにある日本丸訓練センターという所である。クリスマスイヴを挟んだ4日間で、2年前は馬車道をそぞろ歩くリア充カップルを窓の外に眺めながらみんなで「幸福とは何か? 」を哲学するという、なかなかオツな(笑)趣向であった。さて、今年の講義テーマは「戦争と文明」である。室井さんもずっと参加してくれ、2日目午後には友人のUCLA教授エルキ・フータモが「メディアと戦争」という特別講義もしてくれて、ハードだが楽しい4日間だった。講義の全体をまとめる余裕はとてもないが、いくつかの重要なポイントについて覚書のように記しておきたい。 まず戦争について考える出発点は、「戦争はイケナイ」「戦争ハンタイ」という定型句の苦しさである。これは今にはじまったことではなく、ぼくの若い頃でも同じだった。たとえば「戦
オリンピックは、競技・演技は面白く観ても、その後のインタビューを聞くのは辛い。 競技・演技がすべてを語っているのに、どうしてその直後につまらんことをいろいろ訊かなければならないのだろう。勝てば嬉しいに違いないし、負ければ悔しいのは分かってるのに、そんなことをどうしていちいち、本人に確認とらないといけないのか、ぼくにはまったく不可解である。第一、疲れてるのに可哀想じゃないか。 とはいえ、カメラとマイクを向けられると何か言わないわけにはいかない。つらいところである。それで仕方なく聞いていると、そうしたインタビューでの選手の発言はどれもよく似ていて、二つのまったく異なった種類のコメントから出来上がっている。一つは「人々の期待」に関わるもので、もう一つは「今を生きる」ことに関わるものである。 「人々の期待」というのは、親や親戚、コーチや先生、友だち、近所や地域の人々、最終的には自分を応援してくれた
今日の午前中、こころの未来研究センターに来てくれた福岡県立明善高校の一年生の皆さん60名あまりに講義をしました。以下に、そのために書いたテキストを掲載します。実際の講義では、時間の制約もあり全部の話題には触れられなかったので、明善高校の皆さんにもこのブログを参照するようにお知らせする予定です。 --------------------------------------- 「スーパーサイエンスハイスクール」というプログラムの一環として、皆さんは一昨日から、理化学研究所のスーパーコンピュータ「京」を見学したり、京都大学のiPS細胞研究について話を聞いてきたということですが、いわゆる科学研究の「最先端」を目の当たりにした感想はどうでしょうか? びっくりしましたか? それとも、アニメやゲームなどの「物語」の中では、もっとすごいことがいくらでも実現されているので、正直それほどショックは受けなかった
この土日は日本記号学会大会だった。今年のテーマは「Bet or Die! 賭博の記号論」で、大阪大学の檜垣立哉さんに企画していただいた。 檜垣さんは傑出した哲学研究者であると同時に、人も知る競馬ファンである。だから大会は「哲学」と「賭博」から構成されていた。「哲学」の部分としては、土曜日午後の最初のセッションで、青山学院大学の入不二基義さんをゲストに迎え講演していただいた。賭けというのはいわば偶然との戯れであるが、偶然と必然とは対立しているのではなく、形而上学的レベルでは偶然の極は必然と重なってくるという話である。ぼくの思考パターンとはかけ離れているが、とても明晰で分かりやすく、面白く理解できた。理解できたというのは、話の内容だけではなくて、そういう話をする動機もよく分かったという意味である。 一般に抽象度の高い議論を聴くと、そんなものは現実離れしている、「スコラ的」だ、「神学論争」だと言
芸術は-自由で「無私」の活動であるがゆえに-人権を侵害してもいいのだろうか? もちろん、いいわけはない。芸術に許されている法律上の「自由」とは、それ自体が基本的人権の範囲を超えることはありえない。だから表現の自由は、原則的にはそれが他人の生存を脅かさない限りにおいてのみ認められる。法的な議論においてもその表現が「美的」「芸術的」であるかどうかがまったく勘案されないわけではないが、何を「美的」「芸術的」と考えるかは人によって意見が異なるので、多くの人が認め既に社会的通念となっている美や芸術の概念に依拠せざるをえない。 けれどもそうした概念は、新たな美や表現の可能性を生み出すべく格闘しているアーティストにとっては、しばしば通俗的で形骸化したものに見える。そんな形だけのものではなく、自分たちの求めているものこそ本当の美であり芸術であると、アーティストや彼らを支持する人々は主張したいのである。この
秋田で「美の本質と善(道徳)」という、ちょっとすごいタイトルのシンポジウムに出演しました。このシンポジウムの背景には、数年後(小学校は2018年、中学は2019年)に実施される「道徳の教科化」ということがあります。「美と善」といった問題が真正面から扱われるようなことはあまりないので、参加しました。聴衆には現場の教員の方々もたくさんいらっしゃいました。そこで話したことを少し加筆修正して、ここに掲載しておきます。 まずはじめに、「本質」とは何かを簡単に説明しておきたいと思います。「本質」というのは「変化を通じて変わらないもの」のことです。何かがいろいろな仕方で現れる、と私たちが言うとき、いろいろな現れ方をするその「何か」が本質です。このように、本質とは何かを説明することは容易なのですが、その本質が何かを直接知ることは容易ではありません。 たとえば私たちは日常生活の中で、相手に合わせて様々に異な
誰がだれのマネしたとかせんとか、もう本当にウルサイことである。 オリジナリティとは何かという問題についてついぞ考えたこともなく、今後もけっして考えないであろう人たちだけが、盗用があったとかなかったとか、そんなことだけで騒ぎたがるのである。騒ぎたければ勝手に騒げばよいが、そのことによって等閑視されてしまう問題があり、それが美学的には重要な問題なのである。 オリジナリティとは何かをちゃんと考えたことのない人たちにとって、オリジナリティとはたんに、他のものに似ていないということにすぎない。そういうオリジナリティだったら、ネット検索で容易に判定できる。そんなことはまあ、美学的には、どうでもいい。いや、むしろ有害な態度である。なぜならそうした態度は、作品をちゃんと視て真剣に思考することから、私たちをどんどん遠ざけてしまうからである。 類例がないからオリジナルだという考えは、戦争がないから平和だという
先日久しぶりに会った知人が何の前置きもなく「君もたいへんだなぁ」としみじみ言うので、いったい何のことかと訊ねたら、国は大学には人文社会科学、とりわけ文学部なんてもう必要ない、という方針なんだろう? 自分は大学の事情はよく知らないが、ニュースで大々的に報道されているからみんな知ってるよ、講義で学生たちに「ぼくたちどうなるんですか?」なんて聞かれたらどう答えるの? と。つまりぼくが文学部の教授であることを知っているので、心配してくれたわけだ。 実はこのような問いは、講義の後すでにある学生から質問されたことがある。それでぼくはどう答えたかというと、「文学部がなくなったって、ぜんぜん大丈夫」というものだった。ちょっとヤケクソに聞こえるかもしれないけど、その時はなぜかそうとしか答えられなかった。本質的な問題は「文学部」とか「何々学」などという制度の存続ではないし、自分が今たまたまそうした制度の中で仕
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