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bonjin5963.hatenablog.com
訓読 >>> 576 今よりは城山(きやま)の道はさぶしけむ我(わ)が通(かよ)はむと思ひしものを 577 我(あ)が衣(ころも)人にな着せそ網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触(ふ)るとも 578 天地(あめつち)と共に久しく住まはむと思ひてありし家(いえ)の庭(にわ)はも 要旨 >>> 〈576〉あなたがお帰りになったこれから先、城山の道はきっと寂しくなるでしょう。お会いできるのを楽しみにせっせと通うつもりでしたのに 〈577〉私がお贈りした着物は、他の人に着せてはいけません。網を引く難波男の手に触れるのは仕方ないとしても。 〈578〉天地の続く限りいつまでも住み続けようと思っていた、この家の庭であったのに。 鑑賞 >>> 576は、大伴旅人が都に上った後に、筑後守の葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)が、嘆き悲しんで作った歌。葛井連大成は、梅花の宴の上席の一員だった人
訓読 >>> 556 筑紫船(つくしふね)いまだも来(こ)ねばあらかじめ荒(あら)ぶる君を見るが悲しさ 565 大伴(おほとも)の見つとは言はじあかねさし照れる月夜(つくよ)に直(ただ)に逢へりとも 要旨 >>> 〈556〉筑紫へ向かう船はまだ来てもいないのに、その前からよそよそしくしているあなたを見るのが悲しい。 〈565〉筑紫船は大伴の御津(みつ)に泊てますが、あなたに逢っていたとは言いません、誰が見ても分かるほど明々と照らす月の夜にじかにお逢いしているとしても。 鑑賞 >>> 556は、賀茂女王(かものおおきみ)が、大伴三依(おおとものみより)に贈った歌。賀茂女王は、故左大臣、長屋王の娘。大伴三依は、壬申の乱で活躍した大伴御行の子で、大伴旅人が太宰帥だった頃に筑紫に赴任したとされます。歌によると、二人は夫婦関係になっており、三依が筑紫へ出立する前の歌であることが知られます。「筑紫船」
訓読 >>> 我(あ)が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜(よ)逢はぬ夜(よ)二走(ふたはし)るらむ 要旨 >>> 我がご主人さまはこの私めを死ねと思っていらっしゃるのか。逢ってくださる夜、逢ってくださらぬ夜と、二つの道を迷いながら行くのでしょうか。 鑑賞 >>> 大伴三依(おほとものみより)の歌。大伴三依は大伴御行(おおとものみゆき)の子で、天平20年(748年)従五位下、主税頭、三河守、民部少輔、遠江守、刑部大輔、出雲守などを歴任した人。宝亀5年(774年)散位従四位下で没。『万葉集』には4首。 「我が君」は、相手が身分の高い女性だったためか、わざと敬称で呼んだもので、三依が通って行ったにもかかわらず、逢ってくれないことがあったのを恨みの心をもって贈った歌です。三依の恋人としては賀茂女王が知られますが、誰に贈った歌かは分かりません。「わけ」は、年少の召使の意で、自分を指す卑称。「わけ」は
訓読 >>> 549 天地(あめつち)の神も助けよ草枕(くさまくら)旅行く君が家に至(いた)るまで 550 大船(おほぶね)の思ひ頼みし君が去(い)なば我(あれ)は恋ひむな直(ただ)に逢ふまでに 551 大和道(やまとぢ)の島の浦廻(うらみ)に寄する波(なみ)間(あひだ)もなけむ我が恋ひまくは 要旨 >>> 〈549〉天地の神々もお助け下さい。旅立つ君が家に帰り着かれるまで。 〈550〉お頼りしていた君が行ってしまわれたら、私は恋しく思うことでしょう。じかにお逢いする日まで。 〈551〉大和道の島々の浦のあたりに寄せる波のように、絶え間がありません。私のあなた様を恋する心は。 鑑賞 >>> 神亀5年(728年)に太宰少弐の石川足人朝臣(いしかはのたるひとあそみ)が遷任となり、筑紫国の蘆城(あしき)の駅家(うまや)で送別の宴をした時の歌3首。太宰少弐は、大弐と共に大宰府の次官、従五位下相当官
訓読 >>> 意宇(おう)の海の潮干(しほひ)の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を 要旨 >>> 意宇の海の潮が引いた干潟ではないが、片思いのままあの子を慕いながら行くのだろうか、長い旅の道のりを。 鑑賞 >>> 門部王(かどべのおほきみ)恋の歌。左注に「門部王が出雲守に任ぜられたときに管内の娘子を娶ったが、どれほどの時も経たないのに通わなくなった。何か月か後に再び愛しむ心が起こり、この歌を作って娘子に贈った」との注釈があります。「意宇の海」は、島根県の中海。上2句は「潟」の同音で、「片思」を導く序詞。「道の長手」の「長手」は、長い道のり。これを相手の女の許を訪れる場合の道のりと解する向きもありますが、国司として朝集使などの任務で上京する際に詠んだものだろうとされます。『和名抄』には、出雲から都まで上り15日とあります。門部王の出雲在任は、養老3年(719年)以
訓読 >>> 敷栲(しきたへ)の枕(まくら)ゆくくる涙にぞ浮寝(うきね)をしける恋の繁(しげ)きに 要旨 >>> 枕を伝って流れ落ちる涙で、波のまにまに漂う辛い浮き寝をしました。絶え間ない恋しさのために。 鑑賞 >>> 作者の駿河采女(するがのうねめ)は、駿河国駿河郡出身の采女とされますが、伝不詳です。采女というのは、天皇の食事に奉仕した女官のことで、郡の次官以上の者の子女・姉妹の中から容姿に優れた者が選ばれました。身分の高い女性ではなかったものの、天皇の寵愛を受ける可能性があったため、天皇以外は近づくことができず、臣下との結婚は固く禁じられていました。この歌で言っているのは、任が解けてからのことか、あるいは宮廷に仕える男子を密かに思ってのことでしょうか。 「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕ゆくくる」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。。「くくる」は、水中を潜行することを言いますが、ここは、
訓読 >>> 492 衣手(ころもで)に取りとどこほり泣く子にもまされる我(わ)れを置きていかにせむ 493 置きて去(い)なば妹(いも)恋ひむかも敷栲(しきたへ)の黒髪(くろかみ)敷きて長きこの夜を 494 我妹子(わぎもこ)を相(あひ)知らしめし人をこそ恋のまされば恨(うら)めしみ思へ 495 朝日影(あさひかげ)にほへる山に照る月の飽(あ)かざる君を山越(やまご)しに置きて 要旨 >>> 〈492〉着物の袖に取りすがって泣く子にもまさる思いでお慕いしているのに、私を置いて行くなんて、私はどうしたらいいのでしょう。 〈493〉あなたを置いて行ってしまったなら、あなたをさぞかし恋しく思うだろうな。ひとり黒髪を敷いて、この長い夜を。 〈494〉置いてきた彼女と引き合わせてくれた人を、別れて恋心が募る今となってはかえって恨めしく思う。 〈495〉朝日が射してきた山の端にまだ残っている月のよう
訓読 >>> 481 白栲(しろたへ)の 袖さし交(かへ)て 靡(なび)き寝(ね)し 我が黒髪の ま白髪(しらか)に なりなむ極(きは)み 新世(あらたよ)に ともにあらむと 玉の緒(を)の 絶えじい妹(いも)と 結びてし ことは果たさず 思へりし 心は遂(と)げず 白栲の 手本(たもと)を別れ にきびにし 家ゆも出(い)でて みどり子の 泣くをも置きて 朝霧の おほになりつつ 山背(やましろ)の 相楽山(さがらかやま)の 山の際(ま)に 行き過ぎぬれば 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 我妹子(わぎもこ)と さ寝し妻屋(つまや)に 朝(あした)には 出で立ち偲(しの)ひ 夕(ゆふへ)には 入り居(ゐ)嘆かひ 脇(わき)ばさむ 子の泣くごとに 男じもの 負(お)ひみ抱(むだ)きみ 朝鳥(あさとり)の 哭(ね)のみ泣きつつ 恋ふれども 験(しるし)をなみと 言(こと)とはぬ ものにはあれど
訓読 >>> 434 風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦廻(うらみ)の白つつじ見れども寂(さぶ)しなき人思へば (或いは「見れば悲しもなき人思ふに」と云ふ) 435 みつみつし久米(くめ)の若子(わくご)がい触れけむ礒(いそ)の草根(くさね)の枯れまく惜しも 436 人言(ひとごと)の繁(しげ)きこのころ玉ならば手に巻き持ちて恋ひずあらましを 437 妹(いも)も我(あ)れも清(きよ)みの川の川岸(かはきし)の妹が悔(く)ゆべき心は持たじ 要旨 >>> 〈434〉風の激しい美穗の海辺に咲く白つつじを見ても心は楽しめない。死んだ彼女のことを思うと。(見れば見るほど悲しい、死んだ彼女を思うにつけて) 〈435〉みずみずしく立派な久米の若子が手を触れたという、磯辺の草が枯れていくのは残念でならない。 〈436〉人の噂のうるさいこのごろ、もしもあなたが玉ならば、腕輪にしていつも持ち歩き、こんなに恋
訓読 >>> 420 なゆ竹の とをよる御子(みこ) さ丹(に)つらふ 我(わ)が大君(おほきみ)は こもりくの 泊瀬(はつせ)の山に 神(かむ)さびに 斎(いつ)きいますと 玉梓(たまづさ)の 人ぞ言ひつる およづれか 我(わ)が聞きつる たはことか 我(わ)が聞きつるも 天地(あめつち)に 悔(くや)しきことの 世間(よのなか)の 悔しきことは 天雲(あまくも)の そくへの極(きは)み 天地の 至れるまでに 杖(つゑ)つきも つかずも行きて 夕占(ゆふけ)問(と)ひ 石占(いしうら)もちて 我(わ)がやどに みもろを立てて 枕辺(まくらへ)に 斎瓮(いはひへ)をすゑ 竹玉(たかたま)を 間(ま)なく貫(ぬ)き垂(た)れ 木綿(ゆふ)だすき かひなに懸(か)けて 天(あめ)なる ささらの小野(をの)の 七節菅(ななふすげ) 手に取り持ちて ひさかたの 天(あま)の川原(かはら)に 出(い
訓読 >>> 須磨(すま)の海女(あま)の塩焼き衣(きぬ)の藤衣(ふぢごろも)間遠(まどほ)くしあればいまだ着なれず 要旨 >>> 須磨の海女が塩を焼くときに着る藤の衣の、その布目が粗いように、たまにしか逢わないので、いまだにしっくりと身に馴染まない。 鑑賞 >>> 題詞に「大網公人主(おほあみのきみひとぬし)が宴吟(えんぎん)の歌」とあります。大網公人主は、伝未詳。「宴吟」は、宴席で節をつけて歌うことで、古歌か自作かは分かりません。「須磨」は、神戸市須磨区一帯。ここの塩焼きは、志賀の海女(巻第3-278)とともに有名でした。「藤衣」は、藤の皮の繊維で織った海女の作業着、または庶民の衣服。上3句はその衣の布目が粗いことから、女と逢う機会が粗い意の「間遠く」を導く譬喩式序詞。「間遠くし」の「し」は、強意の副助詞。「いまだ着なれず」は、女とまだしっくりと打ち解けない意を掛けています。 あるいは
訓読 >>> 398 妹(いも)が家に咲きたる梅のいつもいつもなりなむ時に事(こと)は定めむ 399 妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ 要旨 >>> 〈398〉あなたの家に咲いている梅が、いつなりと、実になったという時に、事は取り定めよう。 〈399〉あなたの家に咲いている花の、その梅の花が実になったら、どのようにも定めよう。 鑑賞 >>> 藤原朝臣八束(ふじはらのあそみやつか)の梅の歌2首。藤原八束は、藤原北家の祖・房前(ふささき)の第三子で、後の名は「真楯(またて)」。聖武天皇の寵臣として、春宮大進・治部卿・中務卿などを歴任し、天平2年(766年)1月に大納言に至りますが、同年3月に52歳で薨じました。大伴家持との親交が窺われ、『万葉集』に8首の歌を残します。 398の「妹が家」の「家」は、「いへ・へ」の両様の訓みがあります。下に「咲きたる梅」と娘を指している語が
訓読 >>> 梅の花咲きて散りぬと人は言へど我(わ)が標(しめ)結(ゆ)ひし枝(えだ)ならめやも 要旨 >>> 梅の花が咲いて散ったと人は言うけれど、まさか我がものとしてしるしをつけた枝のことではあるまいな。 鑑賞 >>> 大伴宿祢駿河麻呂(おほとものすくねするがまろ)の「梅の歌」。大伴駿河麻呂は、壬申の乱の功臣である大伴御行の孫ともいわれ(父は不詳)、天平15年(743年)に従五位下、同18年に越前守、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わったとして、死は免れるものの処罰を受け長く不遇を託ち、のち出雲守、宝亀3年に陸奥按察使(むつあぜち)、陸奥守・鎮守将軍として蝦夷(えみし)を攻略、同6年に正四位上・参議に進みました。宝亀7年(776年)に亡くなり、贈従三位。『万葉集』には短歌11首、また勅撰歌人として『続古今和歌集』にも一首の短歌が載っています。また、大伴宿奈麻呂と坂上郎女との
訓読 >>> 391 鳥総(とぶさ)立て足柄山(あしがらやま)に船木(ふなぎ)伐(き)り木に伐り行きつあたら船木を 393 見えずとも誰(た)れ恋ひざらめ山の端(は)にいさよふ月を外(よそ)に見てしか 要旨 >>> 〈391〉鳥総が立てて足柄山で船木を伐ったのに、ただの材木として伐って行ってしまった。惜しむべき船木だったのに。 〈393〉たとえ見えなかろうとも、誰が心惹かれずにおられよう。山の端にいざよう月を、遠目ながらにも見たいものだ。 鑑賞 >>> 沙弥満誓(さみまんぜい)の歌。391の「鳥総」は、梢の枝葉がついた部分のこと。大木には木霊(こだま)が宿ると信じられていたため、その伐採後、精霊に感謝するために常緑樹の木の枝を立てていました。これが「鳥総立て」、後世「株祭」と呼ばれる儀式です。「足柄山」は、船材に適した巨木の産地だった箱根・足柄の山々。『相模国風土記』逸文に「足軽山(足柄山
訓読 >>> 368 大船(おほふね)に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)き大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み磯廻(いそみ)するかも 369 物部(もののふ)の臣(おみ)の壮士(をとこ)は大君(おほきみ)の任(ま)けのまにまに聞くといふものぞ 要旨 >>> 〈368〉大船に多くの楫を取り付け、大君の仰せを謹んで承り、磯巡りをすることであるよ。 〈369〉朝廷に仕える官人たる者は、大君のご命令のとおりに、いかなることも諾い従うべきものです。 鑑賞 >>> 368は石上大夫(いそのかみのまへつきみ)の歌。「大夫」は、四位・五位の人への称。左注に「今考えると、石上朝臣乙麻呂(いそのかみのあそみおとまろ)が越前の国守に任ぜられている。あるいはこの大夫か」との記載があります。天平11年(732年)に密通事件で土佐に配流された時の歌が、巻第6-1019~1023にあります。「大船に真楫しじ貫き」は成
訓読 >>> 梓弓(あづさゆみ)引き豊国(とよくに)の鏡山(かがみやま)見ず久(ひさ)ならば恋しけむかも 要旨 >>> 梓弓を引いて響(とよ)もすという豊の国の鏡山、この山を久しく見ないようになったら、さぞ恋しくてならないだろう。 鑑賞 >>> 鞍作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)が、豊前国を去り、京に上る時に作った歌。「豊前」は、福岡県東部と大分県北西部。鞍作村主益人は、伝未詳。「村主」というのは古代の姓で、古代朝鮮語の村長の意の「スグリ」からきたという説が有力であり、おもに渡来人の下級の氏として与えられました。巻第6-1004にも同じ作者の歌があり、その左注には、内匠寮の大属(宮中の造作をつかさどる内匠寮の四等官)だったことが記されています。 「梓」は、カバノキ科の落葉高木で、これで作ったのが「梓弓」。「梓弓引き」は、梓弓を引っ張って響もす意で「豊国」を導く序詞。「豊国」は、豊前
訓読 >>> 伊勢の海の沖つ白波(しらなみ)花にもが包みて妹(いも)が家(いへ)づとにせむ 要旨 >>> 伊勢の海の沖の白波が花であったらよいのに。包んで妻へのおみやげにしよう。 鑑賞 >>> 伊勢国に行幸された時に、安貴王(あきのおおきみ)が作った歌。安貴王は志貴皇子の孫で、春日王の子。養老2年(718年)2月、元正天皇の美濃行幸に随行した時の作とされます。「沖つ白波」は、沖の白波。「花にもが」の「もが」は、願望。花であってほしい。「家づと」は、家へのみやげもの。「つと」は、決まって物に包むことからの称でるため、「つつむ」と「つと」は相互に繋がる意味を持ち、音韻の上でも対応しています。都人にとって、伊勢の海の荒い波は驚異的だったとみえ、また、白波に花を感じているのは、都人ならではの優美な心といえます。 安貴王が従駕した行幸が、養老2年(718年)であるということは、安貴王は、まだ若い10
訓読 >>> 真土山(まつちやま)夕(ゆふ)越え行きて廬前(いほさき)の角太川原(すみだかはら)にひとりかも寝む 要旨 >>> 真土山を夕方越えて行って、廬前の角太川原で、ただ独り旅寝することになるのだろうか。 鑑賞 >>> 題詞に「弁基(べんき)の歌」とあり、左注に「或いは、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)が法師であったときの名」とあります。弁基は、大宝元年(701年)、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。和銅7年(714年)正月に従五位下。『懐風藻』にも詩1首、『万葉集』には8首の短歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。 「真土山」は、大和と紀伊の国境にある山。「廬前の角太川原」は、和歌山県橋本市隅田町付近を流れる紀ノ川の川原。大和から紀伊へ向かっての旅の途上で、その夜の寝場所を心
訓読 >>> 我が命しま幸(さき)くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波 要旨 >>> もし私の命さえ無事であったら、再び見ることもあろう。志賀の大津に寄せるこの白波を。 鑑賞 >>> 穂積朝臣老(ほづみのあそみのおゆ)の歌。穂積朝臣老は、和銅2年(709年)に従五位下、養老2年(718年)に正五位上。養老6年(722年)1月に元正天皇を名指しで非難した罪で斬刑の判決を受けたものの、首皇子(聖武天皇)の奏上により死一等を降され、佐渡に配流された人で、後に恩赦によって位が旧に復されています。この歌は、配流された折に詠んだとされます。巻第13-3240~3241にも、同じ時に詠んだ長・短歌が載っています。 「我が命し」の「し」は、強意の副助詞。「ま幸くあらば」の「ま」は接頭語、「幸く」は無事であること。「志賀の大津」は、滋賀県大津市。天智天皇の大津宮があった所で、唐崎から瀬田川の近くまでを指
訓読 >>> ここにして家(いへ)やもいづち白雲(しらくも)のたなびく山を越えて来にけり 要旨 >>> ここからだと我が家はどちらの方向になるのだろう。それが分からないほどに、白雲がたなびく山々を越えて、はるばるやって来たものだ。 鑑賞 >>> 題詞に「志賀に幸(いでま)す時に、石上卿(いそのかみのまつへきみ)が作る歌」とあります。志賀への行幸は、歌の前後の配列から、文武朝のころかとみられます。石上卿の「卿」は三位以上の者について言いますが、「名は欠けたり」とあり、未詳。「ここにして」は「此処に在りて」の意で、「ここ」は、志賀。「家」は、大和の我が家。「やも」は、疑問の「や」と詠嘆の「も」。「いづち」は、どの方向だろうか。原文「何處」で「イヅク」とも訓めますが、イヅクは場所についての不定称、イヅチは方角についての不定称であり、ここの解釈は、どこにあるのかと捜すのではなく、どの方向だろうかと
訓読 >>> 190 真木柱(まきばしら)太き心はありしかどこの我(わ)が心 鎮(しづ)めかねつも 191 毛ころもを時かたまけて出(い)でましし宇陀(うだ)の大野(おほの)は思ほえむかも 192 朝日(あさひ)照る佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に鳴く鳥の夜哭(よな)きかへらふこの年ころを 193 畑子(はたこ)らが夜昼(よるひる)といはず行く道を我(わ)れはことごと宮道(みやぢ)にぞする 要旨 >>> 〈190〉真木柱のように太く動じない心でいたつもりだが、皇子の御薨去によって打ち砕かれ、今は平静でいられない。 〈191〉狩りの季節が来るたびにお出ましになった宇陀の大野は、これからもしきりに思い出されることだろう。 〈192〉朝日が照る佐田の岡辺で鳴く鳥のように、夜泣きに明け暮れたものだ、この一年間というものは。 〈193〉墓造りの農夫たちが夜昼となく往来する道を、我らはひたすら宮仕えの道
訓読 >>> 285 栲領巾(たくひれ)の懸(か)けまく欲(ほ)しき妹(いも)が名をこの背(せ)の山に懸(か)けばいかにあらむ 286 よろしなへ我(わ)が背の君(きみ)が負ひ来(き)にしこの背の山を妹(いも)とは呼ばじ 要旨 >>> 〈285〉妻の名を声に出して呼びかけたいものだ。いっそのこと、この背の山に妹(いも)という名を付けたらどうだろう。 〈286〉ちょうどよい具合にも我が背の君にふさわしく呼ばれてきた背の山の名を、いまさら妹(いも)山とは呼べません。 鑑賞 >>> 285は、丹比真人笠麻呂(たじひのまひとかさまろ)が紀伊の国に行き、背の山を越えたときに作った歌、286は、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)がすかさず和した歌。丹比真人笠麻呂は、伝未詳。打ち揃っての旅であるところから、行幸の供奉の時の歌ではないかとみられ、笠麻呂が主で、春日蔵首老が従という主従関係であることが分かり
訓読 >>> 我が背子(せこ)が古家(ふるへ)の里の明日香(あすか)には千鳥(ちどり)鳴くなり妻待ちかねて 要旨 >>> わが友よ、あなたがかつて住んだ古家のある明日香の里には、千鳥が鳴いている。連れ合いが待ち遠しくてならずに。 鑑賞 >>> 694年の藤原京遷都の後に、長屋王(ながやのおおきみ)が、古京の明日香を訪れて詠んだ歌とされます。「我が背子」は、女性が男性を親しみを込めて呼ぶ語ですが、男性同士でも用います。ここでは長屋王の友人を指しているらしく、荒廃した明日香の里を訪れ、その寂しさを報じた歌のようです。「古家」は、以前住んでいた、明日香の浄御原宮付近にあった家。「千鳥」は、水辺に棲む鳥。 なお、「妻待ちかねて」の原文は「嶋待不得而」となっており、「嶋」は「嬬」の誤写であるとする説に従っての上記解釈ですが、「嶋」が正当だとすると、千鳥が「棲みつく島を待ちわびて」のような解釈になりま
訓読 >>> 204 やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高(たか)光る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神(かむ)ながら 神(かみ)といませば そこをしも あやに恐(かしこ)み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽(あ)き足らぬかも 205 大君(おほきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)りたまひぬ 206 楽浪(ささなみ)の志賀(しが)さざれ波しくしくに常(つね)にと君が思ほせりける 要旨 >>> 〈204〉天下を支配せらるる我が主君、高く光り輝く天皇の皇子は、天上の御殿に神々しくも神として鎮まりになられた。そのことを無性に恐れ畏み、昼は昼中、夜は夜中、伏して悲しみ嘆いているけれども、いつまでたっても嘆き足りない。 〈205〉わが大君は神でいらっしゃるから、天雲が幾重にも重なる向
訓読 >>> 3552 松が浦に騒(さわ)ゑ群(うら)立(だ)ち真人言(まひとごと)思(おも)ほすなもろ我(わ)が思(も)ほのすも 3553 味鴨(あぢかま)の可家(かけ)の湊(みなと)に入る潮(しほ)のこてたずくもが入りて寝(ね)まくも 3554 妹(いも)が寝(ぬ)る床(とこ)のあたりに岩ぐくる水にもがもよ入りて寝まくも 要旨 >>> 〈3552〉松が浦に波のざわめきがしきりに立っていて、そんなざわついた世間の噂をあの人は気にしておられるようだ。この私も思っているのと同様に。 〈3553〉安治可麻の可家の河口に入ってくる潮が緩やかなように、人の噂もおだやかであってほしい。あの娘の家に入って共寝したいから 〈3554〉あの娘が寝ている床の辺りに、岩の間をくぐる水であったらなあ。ずっと潜り込んで一緒に寝ようものを。 鑑賞 >>> 3552の「松が浦」は地名と見られますが、所在未詳。「騒ゑ群
訓読 >>> 204 やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高(たか)光る 日の皇子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮に 神(かむ)ながら 神(かみ)といませば そこをしも あやに恐(かしこ)み 昼はも 日のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 臥(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽(あ)き足らぬかも 205 大君(おほきみ)は神にしいませば天雲(あまくも)の五百重(いほへ)の下に隠(かく)りたまひぬ 206 楽浪(ささなみ)の志賀(しが)さざれ波しくしくに常(つね)にと君が思ほせりける 要旨 >>> 〈204〉天下を支配せらるる我が主君、高く光り輝く天皇の皇子は、天上の御殿に神々しくも神として鎮まりになられた。そのことを無性に恐れ畏み、昼は昼中、夜は夜中、伏して悲しみ嘆いているけれども、いつまでたっても嘆き足りない。 〈205〉わが大君は神でいらっしゃるから、天雲が幾重にも重なる向こう
訓読 >>> 185 水(みな)伝ふ礒(いそ)の浦廻(うらみ)の岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも 186 一日(ひとひ)には千(ち)たび参りし東(ひむがし)の大き御門(みかど)を入りかてぬかも 187 つれもなき佐田(さだ)の岡辺(をかへ)に帰り居(ゐ)ば島の御橋(みはし)に誰(た)れか住まはむ 188 朝ぐもり日の入(い)り行けばみ立たしの島に下(お)り居(ゐ)て嘆きつるかも 189 朝日(あさひ)照る島の御門(みかど)におほほしく人音(ひとおと)もせねばまうら悲しも 要旨 >>> 〈185〉水際に沿う磯辺にいっぱい咲いている岩つつじ、その道を再び目にすることがあろうか。 〈186〉ご生前は、一日にあれほど何度も出入りしていた東の大きな御門。今では、悲しみのために入りかねることだ。 〈187〉縁もゆかりもなかった佐田の岡辺に帰ってお仕えする身となったが、皇子がおられた島の宮のお池
訓読 >>> つのさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山(はつせやま)いつかも越えむ夜(よ)は更けにつつ 要旨 >>> まだ磐余の地も過ぎていない。こんなことでは、泊瀬の山を越えるのはいったいいつになるだろう。夜はもう更けてしまったというのに。 鑑賞 >>> 春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の歌。春日蔵首老は、弁記(べんき)という法名の僧だったのが、大宝元年(701年)、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。『懐風藻』にも詩1首、『万葉集』には8首の歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。 「つのさはふ」は、蔦の這う石の意から「磐余」に掛かる枕詞。「磐余」は、藤原京のすぐ東、奈良県桜井市池之内と橿原市池尻の一帯。「泊瀬山」は、桜井市の初瀬にある山。「いつかも越えむ」の「か」は疑問、「も」は詠嘆
訓読 >>> 赤駒(あかごま)が門出(かどで)をしつつ出(い)でかてにせしを見立てし家の子らはも 要旨 >>> 私の乗った赤毛の馬が、出発のときに渋るのを、見送ってくれた家の妻は、ああ、今ごろどうしているのか。 鑑賞 >>> 「赤駒」は、赤みを帯びた毛色の馬。「門出」は、防人や衛士・仕丁などに徴されてのことと思われ、乗馬で行くのは、ある地点までだっただろうとされます。「出でかてにせしを」は、出て行きにくそうにしたのを。「かて」は、可能の意の「かつ」の未然形。「見立てし」は、見送っていた。「はも」は、詠嘆の終助詞。 和銅5年(712年)正月十六日の詔に「諸国の役民郷に還る日、食糧絶え乏しく、多く道路に飢へて、溝壑に転填すること、其の類少なからず」とあり、巻第9にある田辺福麻呂の「足柄の坂を過ぎて死(みまか)れる人を見て作る歌」は、任務を終えて帰国の途についた衛士や仕丁、あるいは脚夫たちが行路
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