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blog.livedoor.jp/nina313
最近、ふたつの言葉の厳密な定義を知りたくて仕方がない。「剽窃」と「模倣」である。前者は悪徳として、後者は敬意の表明として扱われるものなのだろうが、うまく言葉にできない。そこで手に取った一冊。 ジャン=リュック・エニグ(尾河直哉訳)『剽窃の弁明』現代思潮新社、2002年。 結論から言って、この本はわたしの疑問に直接答えてくれるものではなかった。だが、間接的にはいろいろなことを学べたし、糸口は見つかったように思える。本文中や「訳者あとがき」にたくさんの魅力的な書物が紹介されていたので、それらを丹念に読んでみたいと思った。以下は疑問に答えてくれた若干の部分。 「剽窃は、自分の文に他人の文を溶け込ませてこれを消滅させようとする。希釈による掠め取りである。文体模写(パスティッシュ)は逆に他人の肉を纏って、その人に見せかける。こちらは役者の演技練習に似ている。しかしこの練習において自らが偽者であること
Today I was talking with my colleagues about a list from Esquire called "30 BOOKS EVERY MAN SHOULD READ BY 30". When I was looking at it, same as all the time I see this kind of list, I had lots of complaints. Obviously, nobody could be satisfied if you can only choose 30 books. Even 300 is not enough. If it was 3000, well, there will be another problem that you might forget to include some import
おそらく今年最もショッキングな出版物の一つに数えられるであろう、彩流社の先月の新刊。『不純なる教養』に紹介されていたことから手に取った。 不可視委員会(『来たるべき蜂起』翻訳委員会訳)『来たるべき蜂起』彩流社、2010年。 まず、これはフランスにおいてcomité invisible(不可視委員会)なるグループが著した“L'insurrection qui vient”という書籍の翻訳である。訳者も「『来たるべき蜂起』翻訳委員会」に依るものとなっていて、表紙には個人名が一切ない。手掛かりとなるのはジュリアン・クーパーがこの本を評した言葉、「取り返しがつかないほど正しい」のみ。そこには一体何が書かれているのか。 「この本には架空の集団名が付されている。編纂者たちは作者ではない。ただこの時代のありふれた考え、バーのテーブルや閉ざされた寝室での囁きを多少整理したにすぎない。つまりは必然的な真理を
ほんとうにおもしろいものは、何度読んでもおもしろい。もう一度言う。ほんとうにおもしろいものは、何度読んでもおもしろい(しつこい)。初めて読んだのは生田耕作訳(ちなみに、そのときの記事。これを書いたのがかつての自分だなんて、信じたくない)、二度目は原書に挑戦(が、例のごとく歯が立たず途中で断念)、そして三度目の今回は、9月に刊行されたばかりの新訳版だ。そう、ザジ! レーモン・クノー(久保昭博訳)『地下鉄のザジ』水声社、2011年。 生田耕作の名訳があるのに、わざわざ新訳を出す必要なんてない。そう思っているひともいるかもしれない。じつは刊行されるという噂を聞きつけた当初は、わたしも同じことを考えていた。たしかに、昨今の新訳ブームを考えてみれば、わざわざ読む必要を感じさせないものも多い。そういうときは単純に買わなければいいし、読まなければいい。でも、一読してみて、この新訳『地下鉄のザジ』について
『無産大衆神髄』と『愛と暴力の現代思想』で知られる在野の思想家、矢部史郎の最新刊。 矢部史郎『原子力都市』以文社、2010年。 在野の思想家とは、換言すれば権威を持たない知識人である。先日読んだばかりのサイードの『知識人とは何か』で語られた知識人像にここまで合致する人物もなかなかいないだろう。矢部史郎は亡命こそしていないが紛れもないアウトサイダーであり、この本においては郊外に生まれた「原子力都市」の数々を巡っているのである。 「この街には「なにもない」。すべてが揃っているにもかかわらず、何もないのだ。人々の関心を惹きつけるような過剰や欠落、あるいは都市が表現する位置とベクトル、それらを示すなにか特徴的な差異を、この街は失っている。あらゆるものがありながら、そのdifference(=差異)が蒸発してしまっている。そして、ぞっとするようなindifference(=無関心)が、街を覆っている
レーモン・クノーが作成した「理想の書斎のために」という書物目録を、日本の出版状況に照らし合わせて紹介してみようという試み。 元ネタはWikipediaフランス語版に載せられていた「Pour une Bibliothèque Idéale」、1956年にクノーによってまとめられた同名の書籍である。記事にはリスト以外に詳しいことがなにも書かれていないので、これが具体的にどんなことを目指したものだったのかは原書を手に取るまでわからないのだが、残念ながら現在では絶版、古書も出回っておらず、まったく手がつけられない状態になってしまっている。 「Bibliothèque」という語には「図書館」や「叢書」という意味の他に「蔵書」や「書庫」という意味もある。挙げられているのは文学・人文書に関わらず大部のものが多く、「叢書」としたらどうやっても全部で300巻を優に超えるものとなってしまうので、「書斎」に常備
日本で書店員をやっていたころに大変よくして頂いた空犬さんが、ご自身のブログ「空犬通信」のなかで「こんなときだからこそ、本を」という記事を書いていらっしゃいました。記事によると、発起人は上落合にある伊野尾書店の店長さんだとか。大切な友人たちのために何かできることはないか、と模索している最中だったので、是非ともこの素晴らしい流れに参加させて頂きたく、こんなリストを作成してみました。 <笑顔が湧き出るユーモア文学> 選書の基準は、まず気楽に手に取れること、次に頭を使う必要がないこと、そして何より笑えることです。漫画よりも長い時間楽しめて、普段なかなか小説を手に取ることのない方にも薦められる本を厳選致しました。 ずっと以前に登録して放置していたアマゾンのリンク機能を使用していますが、実はこれはただ表紙を見て頂くためで、できれば書店に足を運んで頂きたいと思っています。というのは、かつて自分が働いてい
2010年に読んで一番面白かった本を発表します。昨年は気の迷いで「ニナ文藝賞」などという講談社あたりが主催しそうな名前をでっち上げましたが、ちょっと悲しくなるほどださい上に、代替案も特に見つからないので、今年は単に「一番面白かった本」とします。 「好きな作家ベスト100」を挙げたときにも書いたとおり、今年は読んでいる冊数が例年に比べて遙かに少なかったものの、印象に残っている本を思い返してみるとその数は決して少なくはなく、ずいぶんと選書に恵まれた感があります。そんな良書たちの中からわざわざ一冊を決める必要などまるでないのですが、お祭り行事ということで無理をして選んでみました。 まずは最終候補に残った作品から。引用文は印象に残っているものの内、特に気に入っているものを一節だけ選び出しました。 ・ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』 「否でも応でも狂人だってやつと、自分からすき好んで狂人に
翻訳不可能と喧伝されたペレックの傑作、"La Disparition"の邦訳がとうとう刊行。その名も『煙滅』。 ジョルジュ・ペレック(塩塚秀一郎訳)『煙滅』水声社、2010年。 原書はフランス語で最も使用頻度の高い文字「e」を一文字も使わずに書かれたもので、「リポグラム(文字落とし)」について語る際には必ずと言っていいほど言及される伝説的作品である。「翻訳不可能」というよりも、どのように翻訳すれば原書が持つ味わいを損なうことなく多言語に移し替えることができるか、ということが大問題となる小説だ。 日本語において最も使用頻度の高い文字とは「い」である。このことから翻訳者である塩塚秀一郎は「い段(いきしちに…)」を一文字も使わずにこの本を訳した。これがどれほど常軌を逸した離れ業であるかは、試してみるとすぐ判るだろう。ちなみに私も今回の文章は全て「い段」抜きで書いてみよう、と思っていたのだが、二行
公開した途端に後悔する、という、 友人たちと実施している半年毎の恒例行事。 好きな作家を100人挙げて あえてランキング形式にする、というもので、 その時分の趣味が判りやすく反映される。 作り終えた後には「忘れた作家がいるんじゃないか」という 強迫観念に襲われるのも毎年のこと。 というわけで、2009年下半期のベスト100を発表します。 作品名は是非とも読んでもらいたい一作品。 1.レーモン・クノー『イカロスの飛行』 2.エーリヒ・ケストナー『飛ぶ教室』 3.ジョルジュ・バタイユ『空の青み』 4.G・K・チェスタトン『木曜日だった男』 5.アントン・チェーホフ『かわいい女・犬を連れた奥さん』 6.ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』 7.R・L・スティーヴンスン『新アラビア夜話』 8.ホメロス『イリアス』 9.イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』 10.レーモン・ルーセル『ロク
吉祥寺の古本屋「百年」でとうとう手に入れた、欲しい本リスト最上段の主、ミッシェル・カルージュ。8400円という値段で購入したが、ネットの相場が20000円を容易く越えることを考えると、決して高くはない。むしろ安い。 ミッシェル・カルージュ(高山宏・森永徹共訳)『独身者の機械 未来のイヴ、さえも……』ありな書房、1991年。 この本を求めて『東京ブックナビ』を片手に、町田や早稲田や千駄木や本郷や渋谷や中野や高円寺や阿佐ヶ谷や荻窪や三鷹や神保町をウロウロしたことが思い出される。結局最寄り駅の一つである吉祥寺で見つかったのが可笑しいが、ともかく、ようやくこの幻の本を手に入れたのだ。 マルセル・デュシャンやアンドレ・ブルトンの同時代人で友人でもあるカルージュが、カフカの『流刑地にて』における処刑機械とデュシャンの『大ガラス』(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』)との繋がりを発見した
アンドレ・ブルトンが1924年に発表した、シュルレアリスム運動の拠り所となった記念碑的テクスト。 アンドレ・ブルトン(巖谷國士訳)『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫、1992年。 本来ならば敬愛する生田耕作訳の『超現実主義宣言』(中公文庫)を読むべきところだが、この岩波文庫版の『シュルレアリスム宣言』にはブルトンが自動記述によって生み出した「溶ける魚」という小話集が付されているのだ。「小話集」とはブルトンの言葉だが、これは詩集とも短篇集とも呼ぶことのできる確固たる作品である。ちなみに生田訳の方には1924年の第一宣言の後にブルトン本人が発した第二・第三の宣言が併収されているので、巖谷訳とはまた異なった楽しみ方ができるということを付け加えておきたい。 シュルレアリスムがどういったものなのかを理解するためには、当然ながら、まずこの作品を読まなければならない。そう意気込んで読み始めたのだ
稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』を読んで以来ずっと読みたかった、泉鏡花の代表作。 泉鏡花『草迷宮』岩波文庫、1985年。 「山ン本五郎左衛門」とは日本の妖怪の名前で、宝暦年間に備後三次の稲生屋敷にて起きた怪事が元になっているそうだ。巌谷小波や稲垣足穂、そしてこの泉鏡花によって小説の題材とされ、現在までその名を残している。 足穂と鏡花が同じ怪事を題材にしていると言っても、その語り口は全く違う。五郎左衛門が何やら茶目っ気のある無害な妖怪であることに変わりはないのだが、足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』がこの妖怪の所業に照射を当てたものであるのに対して、鏡花の『草迷宮』における五郎左衛門の登場は、その後に控える物語全体の謎を解く鍵でしかない。 表紙に書かれた解説を引用しよう。 「幼な子の昔、亡き母が唄ってくれた手鞠唄。耳底に残るあの懐かしい唄がもう一度聞きたい。母への憧憬を胸に唄を
好きな作家の本を読めるというのは、なんて幸せなことなんだろう。しかも、それがまだ未読のものであるなら尚更だ。とはいえ、いつもこの調子で読んでいたら、すぐに未読のものはなくなってしまう。ジレンマだ。もったいない。とうとう読んでしまった。 エーリヒ・ケストナー(池田香代子訳)『ふたりのロッテ』岩波少年文庫、2006年。 ケストナーを読むたびに、大きく揺さぶられる。恋人がいた頃には、彼女にも読み聞かせてやらなきゃ、と駆り立てられたものだ。今はそれがない。その分、何だか寂しくなってしまった。『ふたりのロッテ』ほどの作品を、たった一人、暗い部屋の中で読んでしまうなんて。作中に登場するお父さんは芸術家だ。こんな一節があった。 「「ほんものの芸術家」たる者は孤独に耐えるべきだ」(72ページ) それがどれだけ寂しい考え方だか、ケストナーは声高に主張する。そんな彼も芸術家だ。ケストナーも当然、これを
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