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内藤朝雄さんの『いじめ加害者を厳罰にせよ』の第2章「いじめ発生のメカニズム」から印象的な文章を引用して詳しく考えてみようと思う。それは、僕が以前から感じていたことなのだが、うまく表現することが出来ないでいたことだ。それを見事に的確に表現してくれる内藤さんの指摘は大いなる共感を感じる。 だがその指摘は、やはり常識からはかけ離れているとも感じるので、すぐには受け入れられない人も多いのではないかと思う。どこが共感するところなのかを、客観的に語れるかどうか、論理的な合理性を説明できるかどうかを考えてみようと思う。まずは次の文章だ。 1「生徒たちにとって「仲良し」でいられないことは、「世界が壊れてしまう」くらいに恐ろしい危機なのだ。」 この文章の前に内藤さんは、自分をいじめるような人間たちとは関係を絶って相手にしなければいいのではないかと言うことを語る。それが「市民社会モード」の人が考える普通の思考
宮台真司さんは、麻布から東大という典型的なエリートコースを歩んでいるため、宮台さんが「エリート」を語ると、どうしても現行のエリートのイメージが浮かんでしまう。しかし、宮台さんの語るエリートは、そのようなものではなく、僕がずっと慣れ親しんできたもの達と重なるところがある。その自分の経験と関連させてエリートの内容をもう一度詳しく考えてみよう。 僕の尊敬する三浦つとむさんには『指導者の理論』というものがある。三浦さんが語る指導者というのは、何か立派な肩書きがある人間をさすのではなく、指導者としての正しい意識を持っている者を指導者と呼んだ。指導者としての正しい意識というのは、指導される者よりも一歩先を見る視点を持っていることだ。 三浦さんが語る指導者は、人よりもたくさん働くというような実務的な面で立派なわけではない。多くの人が当面の目の前のものしか見ていないときに、その向こうにある、未来を見ること
僕が宮台真司さんのすごさを初めて感じたのは、たまたま手にした『戦争論妄想論』の中の「「情の論理」を捨て、「真の論理」を構築せよ」という一文を読んでからだった。僕は当時姜尚中さんのファンだったので、姜さんの文章を読もうと思ってこの本を手にしたのだったが、冒頭にあった宮台さんの文章を読んで、そのすごさに圧倒された。 当時僕も「新しい歴史教科書」の論調に批判的だったので、冒頭で指摘していた「ニヒリズム、あるいは単なる無知の表れに過ぎません」という断定的な判断が非常に適切に表現されているのを感じた。断定的な言い方も、それに引っかかるよりもそのあまりに的確な判断に、断定せざるを得ないような必然性も感じたものだった。 それ以来宮台さんが語ることには、現状分析の鋭さ・的確さをいつも感じ、そこから展開される論理の見事さにしびれるような感覚を感じていたものだった。僕が宮台さんよりも若い世代だったら、きっとミ
安冨歩さんが『経済学の船出』で語っていた貨幣誕生の過程について考察してみよう。貨幣というのが、それがない社会があったことは歴史的に明らかであるから、貨幣が存在する現在の段階に、どこかで変わったことは確かだ。貨幣は誕生したことは確かだ。しかし誰もその誕生の瞬間を知らない。 貨幣誕生が歴史として記述されていることは期待できない。それはメカニズムを想像するしかない。それは論理的整合性を持った考えで、ある仮説からスタートすれば貨幣の誕生が論理的に帰結できるというものになる。それが『経済学の船出』では語られている。これは『資本論』では語られていなかった。 さて貨幣誕生のメカニズムを考える際、貨幣としての本質をどこに見るかというのが大切になる。このメカニズムは必然性を捉えなければならないのだが、それは本質に関わる。末梢的な部分は必然ではなくて偶然そのようになったものだから、論理的なメカニズムを捉えるこ
松本(元)復興相の暴言については、「上から目線」だの「傲慢」だの、松本氏の人格に関わる批判が多かった。単純に理解すれば、「ああいう人間だから、ああいうことを言う」という判断だろうか。これは単純でわかりやすい論理だが、果たしてそのような単純な論理で理解していいのだろうか。ここにもっと複雑な論理を見つけて分析し、なるほどとうならせてくれるような論説を見つけた。内田樹さんの 「暴言と知性について」 というブログエントリーがそれだ。内田さんは、松本氏の暴言を、その発言の内容から意味を取るのではなく、その発言が行われた場を総合して、言葉だけではない様々な意味を取り込んで解釈をしている。表現された言葉の意味だけから理解しようとすれば、それはかなり単純化された理解になると思うが、それ以外の状況をすべて考えに入れようとすれば、それは日本社会の在り方など、かなり広範囲の物事を考えに入れたものになる。 実際に
この本の裏表紙には次のような言葉が綴られている。 「実は豊かな時代に民主主義は不要だった。日本の政治家は密室談合して地元に利益誘導すれば良いだけだったからだ。しかし経済が収縮する時代は、民主主義が機能しないと、それはそのまま国土と人心の荒廃に直結する。そうして今回の政権交代が起こった。多くの国民は気づいていないがこれは革命だったのだ。」 「経済が収縮する時代」というのはまさに今のことである。そして、今の日本では民主主義が機能しているとは言い難い。そうするとそれは「国土と人心の荒廃に直結する」という結論になる。現在日本の国のあちこちで起こっていることは、まさに「国土と人心の荒廃」の現象のようにも感じる。宮台さんが語ることは、現実がその正しさを証明している。 それでは、論理としては、「民主主義が機能しない」という仮定から、どのような経路をたどって「国土と人心の荒廃に直結する」という結論につなが
検察審査会が小沢氏に対して、二度目の起訴相当の議決を出したらしい。次のように報道されている。 「陸山会事件:小沢氏を強制起訴へ 検察審が議決」 この記事は、時間がたつと閲覧できなくなりそうなので全文を引用しておこう。 「小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る政治資金規正法違反事件で、東京第5検察審査会は4日、小沢氏を04年、05年分の政治資金収支報告書の虚偽記載罪で起訴すべきだとする「起訴議決」を公表した。これにより、小沢氏は強制起訴されることが決まった。審査会は関与を否定する小沢氏の供述を「信用できない」と判断した。小沢氏の進退を問う声が高まることは確実で、政権に大きな打撃を与えるとみられる。 議決は、民主党代表選が行われた9月14日付。第5審査会は審査会制度について「国民は裁判所に無罪か有罪かを判断してもらう権利があるという考えに基づくもので、容疑不十分として検
僕は、宮台真司氏のブログを読むのも趣味の一つなのだが、今日は久しぶりに「社会学入門講座」を読み返してみた。その「第一回「「社会」とは何か」」の中には「この問いは、経済学の営みが前提とする「市場とは何か」という問題に比べれば抽象的すぎ、私たちが日常用語の範囲で答えることは不可能でしょう」という言葉がある。 これは、「社会」という言葉の意味するところが抽象的すぎて、日常用語の範囲では説明できないということだ。日常用語は具体的な事柄を説明することは出来るが、抽象的な概念を説明するにはどうしても専門用語がいるということだ。 この部分の宮台氏の主張は、確かにそうだと共感するとともに、それを何とか克服したいものだという願望もわいてくる。僕の好きなもう一人の著者の内田樹さんなどは、入門者に対しては、専門用語などはもちろん知らないから、とりあえずスタート時点では日常用語の理解で進んでもらおうというような説
僕は、三浦つとむさんの言語論で言語について学んだこともあり、言語という対象はあくまでも表現されたものという前提を持っている。それは空気の振動による音声であったり、文字による表現であったり、形式は違うことはあるけれども、ある物質的存在を鏡として成立するもので、唯物論的に扱うことがふさわしいと思っていた。 だから、ソシュールが言語規範を対象にして言語を考えようとしているという批判を見たとき、表現ではない言語規範を言語として扱うことは間違いではないかと思ったものだ。しかし、言語の現象としての言語規範が言語学の対象として考察されるのはそれなりに理由があることだとも感じる。 三浦さんは言語学の前半で認識に対する考察に多くを費やしている。これは、言語の成立する基礎として認識というものが重要であるという判断からだ。認識そのものは言語ではないが、言語が表現する基になるものとして認識を解明しておかなければ、
レヴィ・ストロースが、オーストラリアの未開族であるカリエラ族における親族関係の中に群構造を見出したのはよく知られている。婚姻の規則の中に、クラインの四元群と同じ構造があることを見出した。このことについて、今までの僕の感覚では、それまで誰も気づかなかった隠された構造(仕組み)を発見したことにレヴィ・ストロースの偉大さがあったと感じていた。 しかしこのような理解は、ある意味では複雑で難しいパズルの答えを見出したことの頭の良さに恐れ入ったというような感覚だったようにも思う。レヴィ・ストロースの天才性に偉大さを感じていただけであって、その内容(構造を見出したということの意味・意義)の偉大さを理解していたのではなかったような気がする。 つい最近手に入れた『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)という本の中に、「構造」の発見という構造主義の視点がいかにすごいものであるかということを教え
内田樹さんが『こんな日本で良かったね』で語る次のテーマは「言葉の力」というものだ。ここにはどのような構造が語られているのか。それはこのエントリーの表題にした「檻」で比喩されるような構造だ。「言葉の力」のイメージが、どのようにして「檻」という構造を見せてくれるのだろうか。 まずは、「言葉の力」という言葉に秘められた様々の意味を考えてみよう。内田さんは、これを学習指導要領の基本理念として提出されていることからまず話を始めている。「言葉の力」こそが「学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方」とされている。これは、国際学力調査の結果として、日本の子供の学力の「二極化」が問題にされたことから、学力の低下をもたらした原因として「言葉の力」が不足しているという発想がされたようだ。 特に低下した学力は、読解力と記述式問題で、この学力調査の結果は非常に悪かったようだ。この問題を解決するために、「言葉や体
若いときに初めて接した「構造主義」は、そこに何が書いてあるのかがよく分からないものだった。日本語としての意味は読み取れるものの、その文章が全体として何を言いたいのかが読み取れないという、何かもやもやとした気分が晴れなかった。このような思いは、複雑で難しい対象を説明した文章に接したときに、誰もが抱く感覚ではないかと思う。そのようなもやもやした分からなさを解消するための鍵はどこに見出したらいいだろうか。 僕が若い頃に接した文章は、正しいかもしれないが分かりにくいものだったように感じる。それに対して、初めて構造主義が分かったと思わせてくれた内田樹さんの文章は、曖昧で正確さを欠いているかもしれないが非常に分かりやすいと思ったものだった。それは、内田さんが『寝ながら学べる構造主義』のまえがきで語っている次のようなものが関係しているのではないかと感じている。 「思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を
『現代論理学』(安井邦夫・著、世界思想社)という本に、LPと名付けられた命題論理の公理系が紹介されている。この公理系は、3つの公理と1つの推論規則から構成されている。とてもシンプルなものである。論理記号としては「否定」と仮言命題を示す「ならば」に当たる2つだけが使われている。これは、「かつ」と「または」を表す論理記号は、この二つによって表現できるので、その構成を出来る限りシンプルにするという目的の下に、この2つに限って使われている。「否定」を「〜」で、「ならば」を「→」で表現して、3つの公理を表現すれば次のようなものになる。 公理 1 A→(B→A) 2 (A→(B→C))→((A→B)→(A→C)) 3 (〜B→〜A)→(A→B) これらの公理の意味を解釈すれば次のようになる。 1 Aという仮定の下に、Bという仮定を立てれば、そのときにAが成立することが前提とされているので、Bの前提を立
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。 この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に
『数学から超数学へ』(E.ナーゲル、J.R.ニューマン・著、白揚社)の第6章「写像とその応用」には、写像という考え方がゲーデルの定理の証明においてどのように役立っているか、それがいかに本質的な重要性を持っているかということが解説されている。それは次のように書かれている。 「写像の基本的特徴は、ある“対象”領域に含まれている関係の抽象的な構造が、他の“対象”(最初のものとは別な種類のものであるのが普通です)領域の間にも成立することを示す点にあります。ゲーデルがその証明を作り上げる際の刺激となったのは、まさに写像のこの特徴だったのです。もし形式化された算術体系についての複雑な超数学的言明が、ゲーデルの望んだように、この体系それ自体における算術的言明に翻訳(すなわち写像)出来るならば、超数学的証明の遂行を容易にするための重要な布石が完了したと言えます。」 写像というのは、学校数学でいえば「関数」
『不完全性定理』(林晋・八杉満利子:著、岩波文庫)の「まえがき」の冒頭に「ほとんど予備知識のない人が、入門書だけを読んで不完全性定理の数学的内容を理解することは不可能である」との宣言のような断定がある。そして「この定理を数学的にも理解したいならば、まず数理論理学を理解しなければならない」という言葉が続いている。これは全くその通りだと思う。 しかし、多くの人がそのエッセンスだけでも伝えようと努力をしている。そしてその初歩の論理学の入門のために多くのページを費やして説明しようとする『ゲーデル、エッシャー、バッハ』というような本がかつてベストセラーになっていたりする。この定理はそれだけ魅力あるものであり、人を惹きつけるものなのだろう。 数学的内容を理解することを「数学的理解」と名付けると、もう一つの理解として「数学論的理解」というようなものが考えられると、前掲の岩波文庫では語られている。これは、
内田樹さんは「ためらいの倫理学」の中で、スーザン・ソンタグへの批判を展開している。僕は、スーザン・ソンタグについてほとんど何も知らないが、ちょっと調べた限りでは、リベラルで良心的な立ち位置に立つ人ではないかと言うことは分かった。だから、この批判に関しては、内田さんが述べている限りでのスーザン・ソンタグのイメージに関しての批判と言うことで受け取るのだが、共感する部分から批判の方法を学びたいと思う。 「作家の最も重要な責務として、ともかくどうあるべきか……真剣さを失わないことが必要なのです。シニカルでは(斜に構えていては)いけない。そして証言すること。被害者のために声をあげて語ること。」 この文章だけを取り上げる限りでは、ここに批判すべきものを見つけることは出来ない。良心的で真摯な発言だと思うだけだ。知識人という、多くの人に影響を与える立場にいる人間としては、これだけの責任を自覚していなければ
昨日、福田首相の突然の辞任発表があった。お昼のニュースでは、防災の日の大規模な訓練で指導者として活動する姿を見たばかりだったので、この突然の辞任劇とのつながりが整合的に理解できなかった。「辞任発表があった」という事実は、その記者会見などの映像で直接理解することが出来るものの、それが「何故なのか」という他の事実とのつながりが読めなかった。このつながりを見つけるには論理の助けがなければならないだろう。 何が原因で辞任という決断に至ったのか。いかなる理由があれば、辞任を決意したのも無理はないというような理解が出来るのか。辞任という事実と、それに先行する他の事実との論理的関連性というのは、事実を眺めていれば自然に発生してくるものではない。Bという事実が発生したとき、それに時間的に先行するAという事実がいつも原因になり理由になるというわけではない。「AならばB」という仮言命題が成立することが前提とな
構造主義を語るときに、人類学者のレヴィ・ストロースは絶対に欠かせない重要な人物となっている。「親族の構造」の解明こそが、構造主義の歴史における金字塔として紹介されている。だが、今までの僕は、このレヴィ・ストロースの業績に対して、いったいどこがすごいのかということが分からなかった。確かに、世界で初めて構造というものに注目してその理論をまとめたという先駆者性は認めるものの、それは単に一つの解釈を提出しただけではないのかという思いがあった。 インセスト・タブーと呼ばれる近親相姦の禁止の習慣を、それは女の交換というものを生じさせるためだという、人々を驚かせるような意外な理論を提出したところにすごさがあるとも思えない。だいたい、この理論の正しさを僕はよく分かっていないので、これが本当に正しいと確信できなければ、この理論を提出したことのすごさというものが実感としてわいてこない。これは本当に正しいのだろ
宮台氏の社会学入門講座では、毎回その前の回の復習をしてから次の回の本題に入るような展開になっている。「連載第一四回:役割とは何か?」でも「役割」の説明に入る前に、その前の回で解説した「行為」についての確認を書いている。 この確認を読んでいると、論理的な展開というものがどういうものかというのが見えてくる。宮台氏のこの講座では、社会学の基本概念を説明するのが主目的だが、それは、その概念が論理的に展開されてどのような知見をもたらすかを説明するのが本題となっている。現実に「社会」という対象に見られるような存在を観察して、ここにこのような側面が見られるという、現実の解釈を語っているのではない。基本的な概念として、このようなものを認めれば、その概念に含まれている論理的な前提から、このような結論が必ず(論理的に)導かれるという論理の展開が語られている。 このような発想で物事を考えるというのは、「モデル理
自然科学の分野が「科学」であるという共通理解は、自然科学系(日本では理科系、宮台氏の言葉でいえば数学系)の人間にはだいたい共有されている認識だと思う。それは、板倉さんが語る意味での「科学」という概念で考えても、確かに「科学」だと納得できるものだ。 自然科学で対象になるものは一般的な抽象的存在になる。物質の運動の法則を理論化しようとしても、それは目の前にある具体的な物質にのみ当てはまる経験的な法則ではない。その物質がこのように運動したからという経験を記憶しておいて、この次もたぶんこうなるだろうというような形で記述されるものではない。 運動を考察する力学では、物質一般としてある「質量」を持った対象について成立する法則を求める。もっとも単純で考えやすいものは、その質量が1点に集まった「質点」というものを想定して、その質点にかかる力を考察する。「質量」や「質点」という概念が、力学の対象を一般的に扱
ソシュールは言語学を科学として確立したといわれている。それまでの事実の寄せ集めを解釈していただけの言語理論を、科学という理論体系として打ち立てたと評価されているのだろう。この解釈学から科学への飛躍は、その研究対象として「ラング」というものを提出したことに求められている。「ラング」の発見こそが言語学という科学を生む基になったというわけだ。 「科学」という言葉の概念は、人によってかなり違うところがあるだろう。僕は、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんからその概念を学んだ。その概念は、「科学」と科学でないものを明確に区別し、科学の有効性をはっきりと分からせてくれるものとして、僕は板倉さんが語る以外の概念で「科学」を捉えることが出来なくなってしまった感じがする。そこで、板倉さん的な概念でソシュールが語る言語学が果たして科学になるものかというのを考えてみたいと思う。 板倉さんが考える「科学」というのは
2回ほど前のマル激トークオンデマンドでは、生物学者の福岡伸一さんがゲストに招かれていた。そこでなされていた議論の中心は生命についてなのだが、それ以上に印象に残った言葉は、福岡さんがスキーを習ったときのエピソードだった。そこに、教育というものの最も大切な要素である「他者への伝達」の本質が語られていたように感じたからだ。 福岡さんがスキーのインストラクターについて習ったときに、まずは見本のように滑って見せて、さあこのようにやってくださいというようなことを言われたらしい。しかし、自他ともに認める運動音痴の福岡さんにしてみれば、「見たように身体を動かす」ということがいかに難しいことであるかが、インストラクターには伝わらない。 だから、もちろん見たような動きでは滑れないのだが、それを見てインストラクターは、「どうしてこんな簡単なことがあなたにはできないのですか?」というような目で福岡さんを見ているよ
「自由には必ず責任伴う」 と言う「自己責任論」を見た。僕は、山形浩生氏という人がどんな人なのかは全く知らないが、この文章からは、野口健氏の「自己責任論」をさらに上回る強者の論理を感じる。強者の論理は、それを信奉する人たちからは全く正しい論理のように見えるだろう。しかし、これはそれを適用する対象が、強者の論理を適用するにふさわしい対象であるときだけ正しくなる論理なのである。 なぜか今の日本では、自分が強者であるいわゆる「勝ち組」にいると思い込んでいる人が多いようだが、強者の論理は、「負け組」に入る人間は、自助努力が足りないのだから見捨ててもいいのだという論理だ。強者のみが参加する場面でなら、このような論理を使うことにも意味があるが、社会というのは、強者だけが生き残ればいいという弱肉強食の世界ではない。 弱者というのも、ある価値観や基準から見たら弱者に入るというだけに過ぎないのであって、価値観
三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』のなかで、言語の意味を関係として捉えて説明していた。言語にかかわらず表現というものは、形式と内容のずれ(矛盾)が存在する。同じ形式(外見=音声・文字の形など)であるにもかかわらず、それによって伝わるもの(内容)が違うという矛盾だ。同じ文章を読んでいるのに、まったく違う「意味」で読んでしまう人がいたりする。三浦さんは、これを形式と内容の対立物の統一として説明していた。 この矛盾はどのようにして解決するか。「同じ」と「違う」という正反対の性質が、そのまま無条件に成立すると考えると、これは形式論理に違反することになる。それは形式論理としてはあり得ないから、形式論理としての解決はどちらかを否定して矛盾を解消しなければならなくなる。その発想が、内容をある種の実体としてとらえる視点になる。内容を実体として固定してしまえば、ずれを読みとることが間違いだと言える
内田樹さんの「格差社会って何だろう」というエントリーが話題を呼んでいるようだ。はてなのブックマークも300近いものがつけられていた。これが話題を呼んでいるのは、内田樹ともあろうものがなぜあのような駄文を書くのか、という見方をされているからのようだ。 これは面白いことだと思う。もし、あの文章を内田さんが書いたのでなければ、ほとんど注目もされずに黙視されたのではないだろうか。これはひどいと思った人が多かったのだが、その文章を書いたのが内田樹だったというのであれだけのブックマークがつけられたようだ。 この現象を解釈するには二つの方向があると思う。一つは、内田樹はもともとひどいことを書く人であって、たまたま本が売れて気の利いたことを言っているように見えているだけで、実際には多くのベストセラー作家と同じように、通俗的で浅い見方だからこそ本が売れているに過ぎないのだという解釈だ。誰にでも分かるような大
板倉聖宣さんは、社会法則を学ぶための授業書として「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」というものを作った。これは仮説実験授業の授業書として作られたもので、社会にも法則性があるのだという科学的視点を教えるための授業所だ。過去にこういうことがあったという事実を知るためのものではない。 ここで語られている法則を抽象的に言えば、道徳を法律化したときの社会に対する影響というものがどういう現れ方をするか、ということを法則化したものと言える。道徳的に正しいことは、善悪の判断から言えば、いいことに決まっている。いいことだからそれを実現することが正しいと誰もが思う。そういうものは、人々の自発的な意志にゆだねて実現すべきもので、法律化して強制的に実現すべきものではない。もし、誰もがいいと思うことを法律によって強制化して実現しようとすると、予想に反して道徳的には堕落するという結果を招く。これが社会の法則なのだ
内田樹さんの『下流思考』が指摘する、今までの常識とは違う、かえって反するような事柄を考えてみたいと思う。子どもたちが勉強をしなくなったと言うことや、若者があまり仕事に関心をもっていないように見えることに対して、世間の見方というのはもっぱら子どもや若者の心の問題に帰しているように感じる。 勉強をしない子どもや仕事をしない若者は、心がけが悪いと言うことだ。それは道徳の問題であり、規律を確立し厳しくすることによって問題が解決するのではないかと考えている大人(これは大部分が男ではないかと思うのだが)が多いのではないだろうか。教育基本法の「改正」や、教育制度の改革などは、このような方向での発想から考えられていることが多いように感じる。 それに対して、そのような処方箋はほとんど効果を持たないと内田さんは語っている。子どもや若者の問題は、各個人の心がけの問題ではなく、社会という大きな単位に根本的な問題が
僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はされないに違いないと思っていた。差別糾弾という運動が大衆的な広がりを持たなかったことから、僕の感覚は正しかったものだと思っている。 普通の感覚で言うと、「差別」というのは不当性を伴っているので、その不当性が糾弾されるということに関連して「差別」が糾弾されるというふうに受け取る。だから、その糾弾に違和感を感じて、糾弾するほうこそ不当なのではないかと思うのは、糾弾している「差別」の対象を間違えているのではないか、あるいは「差別」ではないものを「差別」にしているのではないかという感じを受けることがあるからだ。 僕は、実際に「差別」があったとしても、その糾弾の仕
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