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大そうじへの備え
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蜘蛛は、体積のうち脳みその占める割合が極めて高いことを、スミソニアン研究所のビル・エバーハルト(Bill Eberhard)氏の研究グループが突き止めた。とくに小型の蜘蛛ほど脳みその占める割合が高く、トビグモなどは体積の80パーセントにものぼるという。 彼らはそんなにも大きな割合の脳みそをいったいどこにしまっているのだろうか。頭だけでは間に合わないのではないか。 そのとおり。頭に収まりきれない脳みそは、体中の穴と云う穴を満たし、脚の先にまで脳みそがはみ出ているらしい。 体全体の80パーセントが脳みそだとしたら、胃袋や他の内臓はどこにあるのだろうか。詳しいことはまだわからないらしいが、とにかく体中の穴と言う穴を有効に活用することで、脳みそと内臓の共存を図っているらしいのだ。 蜘蛛の脳みそが大きいわけは、彼らが知的な生き方をしていることに原因がある、とエバーハルト氏はいう。蜘蛛は自分の体の数十
半藤一利さんの著書「ソ連が満州に侵攻した夏」は、1945年8月9日にソ連が対日参戦して以降日本側が蒙った損害について概括的に記録している。半藤さんによれば、8月9日以降の僅かの期間に日本軍が蒙った戦死者の数は、ソ連情報局の特別声明をもとに約8万人と推定される。たった一週間でこれだけの人間が殺されたのだ。 この他ソ連は日本人を強制連行してソ連各地の収容所に送り、強制労働に従事させた。厚生省の調査によれば、将兵56万2800人、官吏、警察官、技術者など1万1700人がシベリアに送られ、そのうち日本に戻れたのは47万2142人、さしひき10万人がソ連で無念の死をとげたことになる。 以上は主として軍関係の被害の概要だが、民間人の蒙った被害も甚大だった。ソ連参戦当時満州には約150万人の民間人がいたといわれるが、そのうち無事日本に帰国できたのは、約105万人である。残りの45万人にどういう運命が待ち
経済学者ポール・クルーグマンの最新の著作「今すぐ不況を終わらせろ End this Depression Now」の書評が,Guardian のサイトに載っていた。Paul Krugman: 'I'm sick of being Cassandra. I'd like to win for once' クルーグマンはアメリカ人だが、イギリスの政治家に対してもあけすけと忌憚のない忠告をしてくれた、とこの記事は始める。今のイギリスに必要なのは、緊縮政策ではなく、大規模な財政出動なのだと。 これはいうまでもなく、ケインズ派主流の考え方である。クルーグマンはこれまでニューケインジアンとされて、必ずしもケインズそのものの考え方に忠実だとは思われていなかったが、最近はぐっとケインズに近い考え方をするようになったようだ。 この本の中でクルーグマンが主張しているのは、今の世界不況を終わらせるためには、各国
アメリカの金融危機やEUの債務危機に直面して、今まで大繁栄を誇っていた新古典派経済学が評判を落し、一時は青息吐息の状態だったケインズ経済学が見直されるようになったが、どうも、そのケインズ経済学でも、今起きている事態、とりわけ日本の長期不況のような現象を説明できていない、説明できないから不況脱出に向けての的確な処方箋も書けない。いったいどうなっているのかね、というのが筆者のような経済学音痴の正直な感想だった。 そんな疑問に明確に答えてくれる本が現れた。小野善康さんの「成熟社会の経済学」(岩波新書)という本だ。この本の中で小野さんは、日本が長期不況に陥ったのは、経済が成熟して人々の欲しいものが満たされ、今までのような旺盛な消費意欲がなくなってしまったことの結果だと説いている。その部分を引用してみよう。 「成熟社会とは、物やサービスがそろい、お金の魅力を放棄してでも購入しようという欲望は伸びなく
3.11に東北沿岸を襲った巨大津波は、街々を嘗め尽くした後に、甚大な規模の火災を引き起こしていた。人々は、激震と津波を相次いで経験し、やっと生き延びたかと思った矢先に、広がる火災の炎に包まれ、それで命を落とした人も多かった。あまり知られることのなかった、この津波火災というべき現象について、NHKスペシャルが光を当てていた。(巨大津波 知られざる脅威) NHKの調べによると、津波の去った後に火災が生じた場所は130地点の多さに上る。何らかの原因で瓦礫に引火し、それがあっという間に広がる。海上で生じた火災も多く、海が燃えたところもある。気仙沼の場合、狭い入江状になった湾の全体が、火に包まれた。 番組は気仙沼で津波火災に遭遇し、万死に一生を得た人たちの恐怖の体験を紹介していた。岡崎さん夫妻は自宅の中にいて津波に遭遇し、必死になって生き残ったところを、火の海に囲まれた。一時はあきらめかけて、奥さん
フンボルトに始まる西洋の言語形態学では、世界の言語を、孤立語、膠着語、屈折語に分類している。これによれば日本語は、膠着語の部類に入る。 孤立語とは中国語に代表されるもので、それぞれが独立して完結した意味を持った単語を、単純に重ねることで文を構成ずるものである。中国語は一つ一つの漢字が独立した音と意味を持っている。それを積み重ねることで、どんな複雑な文章をも表現できるから、言語形態学は、これを孤立した単語からなる言語、つまり孤立語だと考えたわけだ。 膠着語とは、ウラル・アルタイ語系を中心にしたもので、独立した単語を、助詞や助動詞によってつなぎ合わせることで、文章を表現するものである。助詞や助動詞が膠のような役割を果たすことに着目して、膠着語と名づけられた。 屈折語とはヨーロッパの言語をさしていう。これは単語そのものが、人称、時制、格などにしたがって複雑に変化する。言語形態学はこの変化を屈折と
ヨーロッパ(とりわけイギリス)のいくつかの都市でスラット・ウォーク(SlutWalk)という小規模なデモが流行っているそうだ。写真にあるように、風変わりな格好をした女性たちが、目抜き通りを練り歩きながら、「わたしたちはスラットよ」と叫ぶのだそうだ。 スラットとは、「だらしがない」という意味がある。「だらしがない」が、性的なだらしなさを連想させ、そこから娼婦という意味を持つようになった。だから女性が自分をスラットとして意識し、それを他者に向かって明言するのは尋常ではない。 この運動はまだ始まったばかりだ。そのきっかけとなった小さな出来事が、今年の1月24日にカナダのトロントで起こった。ロースクールで講義をしていた警察官のサンギネッティが、「セクハラを避けたいなら、性的に挑発的な格好、つまりスラットな格好をしないことだ」といった。それを聞いていた女性たちはカチンときて、この発言は女性を古いステ
エドガー・ポーの詩「大鴉」The Raven(壺齋散人訳) あるわびしい夜更け時 わたしはひそかに瞑想していた 忘却の彼方へと去っていった くさぐさのことどもを かくてうつらうつらと眠りかけるや 突然音が聞こえてきた なにかを叩いているような音 我が部屋のドアを叩く音 いったい何者なのだろう 我が部屋のドアを叩くのは それだけで 後はなにも起こらなかった はっきりとわたしは思い出す 12月の肌寒い夜のことを 消えかかった残り火が 床にあやしい影を描いた 夜が明けるのを願いつつ 書物のページをくくっては わたしは悲しみを忘れようと努めた レノアを失った悲しみを 類まれな美しさの少女 天使がレノアと名づけた少女 彼女は永遠に失われたのだ 紫色のカーテンの かすかな絹のさやめきが それがわたしを脅かし 感じたことのない恐れで包んだ 震える心を静めるため わたしは立ったままつぶやき続けた 誰かが部
夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。 これを森鴎外のドイツ留学記と比較すると、両者の間には歴然たる差がある。鴎外は始めからこの留学の記録を発表する意思を持っていたらしく、毎日の見聞を漢文を以て整然と記録した。そしてその一部については、帰国後直ちに発表している。本体ともいうべき「独逸日記」については、そのままの形で発表するのをためらい、漢文で記した原文を和文に直して発表
漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。 「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規) この話は、お山の大将でないと気がすまない子規の性格を面白おかしく述べたもので、大分誇張が混じっている。話の中では子規のほうから勝手にやってきて、漱石の承諾もないままに居座ったようになっているが、事実としては、子規の病を知った漱石が、自分のところで静養するようにとの配慮から、わざわざ招いたのである。 当時子規の故郷松山の中学教師に赴任していた漱石は、年来の親友子規と一緒に暮らせることを喜んだにちがいないのだ。漱石は子規
かつて東欧の社会主義体制が崩壊して経済が一時的に混乱状態に陥ったとき、いち早く復活したものに売春があった。社会主義体制のもとでは基本的にありえなかったこの職業を、当時のジャーナリストたちは人類最古の職業が復活したといって、皮肉っぽく紹介していたものだ。 売春が果たして人類の歴史の黎明期に遡るほど古い文化なのか、筆者にはいまのところ詳しく跡付ける資料がない。ただ大まかに、エジプトやオリエントの古代文明において売春を行とする遊女たちが存在したらしいことを、断片的なデータに基づいて知るのみである。 比較的よくわかっているのはローマ時代である。都市の中に多く作られた公衆浴場を舞台にして、遊女たちが活躍していたことが知られている。また、中国においては、唐の時代に大規模な遊郭街が形成され、売春文化ともいうべきものが花開いた。日本でもその影響を受けてか、室町時代に遊女たちを集めた遊郭街が京の辻々に出現し
説経「さんせう太夫」は、高貴の身分の者が人買いにたぶらかされて長者に売られ、奴隷として辛酸をなめた後に、出世して迫害者に復讐するという物語である。高貴のものが身を落として試練にあうという構成の上からは、一種の貴種流離譚の体裁をとっているが、物語の比重は、迫害を受けるものの悲哀と苦しみに置かれており、故なき差別や暴力への怨念に満ちたこだわりがある。 中世の日本には、支配する者とされる者との間に、厳然とした溝があり、過酷な対立があった。そして、支配される者の底辺には、譜代下人と呼ばれる階層があり、支配者に身分的に隷属して、奴隷のような境涯に甘んじていた。かれらは、人にはなれぬ製外者(にんがいしゃ)として扱われ、支配者による搾取のほか、苛烈な差別を受けていた。 「さんせう太夫」が語る世界は、こうした下人の境遇なのである。説経を語る者たちも、定住の地を持たぬ漂泊の民であり、「ささら乞食」として差別
筆者のブログ「壺齋閑話」は、エントリーが4200件を超えて、重量オーバーとなりました。そこで、新しいブログを別途立ち上げました。「続壺齋閑話」といいます。今後はそちらの方を閲覧いただきたく、ご案内申し上げます。リンクは、こちら(続壺齋閑話) をクリックしてください。 大嶽秀夫氏の著作「日本型ポピュリズム」(中公新書)は、1990年代以降に現れたポピュリズム型政治家についての分析であり、小泉純一郎と田中真紀子に焦点を当てて、主に彼らの政治姿勢について考察を加えているのであるが、その前段として、戦後日本政治における政策軸というべきものをお浚いしている。筆者にはその部分が興味深く受け取れた。そこで、氏の分析を参考にしながら、戦後日本政治を貫いていた政策軸を、筆者なりに改めて整理してみようという気になった。
古代日本における婚姻と家族のあり方が、近年まで支配的であった嫁取り婚、つまり女が男の家に嫁ぐといったあり方とはかなり様相を異にしていたことは、文献その他を通じて広く理解されるようになってきた。 古代日本における婚姻の基本は、男が女を見初めて女のもとに通う、あるいは女の家族が男を迎え入れるといったことを基調としていた。つまり女を中心として婚姻が成立していたのである。 男が女の下に通う通い婚の具体的な姿は、万葉集や日本霊異記に散見される。また男が女の家に同居する妻方居住婚の例も多く見られる。それに対して、女が男の家に住む夫方居住婚は、女の身分が男に比べ極端に低い場合など、例外的なケースだったと見られる。 このように女を中心にして婚姻関係が成立したのは、日本には先史時代から母系社会の伝統が根強く、その名残というか影響が、平安時代の中期ごろまで作用していたことの反映であると考えられる。 縄文、弥生
平安時代の日本人は何を食べていたか。日本人は古来、食生活を軽んじて、これを詳細な記録に残すということをしなかったので、詳しいことはわからないが、幸い平安時代中期(10世紀前半)に編纂された辞書「和名類聚抄」が、当時の食物や調理に関する項目を設けているので、これを通じて平安時代の食生活の一端に触れることができる。 食べ物の種類について、和名類聚抄は、飲食部、稲穀部、菜蔬部、羽族部、毛群部、鱗介部、草木部といった具合に、独特の基準に従って分類している。そのままではわかりにくいのであるが、現代的な感覚にしたがって、これを分類整理してみると、次のようになろう。 まず主食として食べられていたであろう穀類には、稲類、麦類(大麦、小麦、カラスムギ)、アワ、キビ、ヒエなどがある。平安時代にもなると、主食としての米の地位は圧倒的だったと思われるが、上流階級は別として、庶民は米に加えてアワやヒエなどの雑穀を食
パルメニデスは、プラトンのイデア論にインスピレーションを与え、そのことを通じて、西洋哲学二千数百年の伝統の中で、格別の貢献をしたといえる。パルメニデスは形而上学の創始者と目されてしかるべき哲学者なのである。 パルメニデスは南イタリアのギリシャ人植民都市エレアに生まれた。プラトンによれば、ソクラテスが青年時代(紀元前450年頃)にパルメニデスと会ったとき、彼はすでに老人であったという。ここからして、紀元前515年頃に生まれたのだろうと推測されている。このパルメニデスを、ソクラテスは「畏敬すべきまた畏怖すべき人物で、あらゆる点で高貴な底知れないものを持っているようにみえた」と語っている。 パルメニデスはエレアのクセノパネスの弟子であり、またピタゴラス派のアメイニアスにも師事した。アメイニアスは高貴な人であったので、彼が死んだとき、パルメニデスは記念の神殿を建てさせたという。この逸話が本当のこと
先稿「子規の埋葬談義」の中で、埋葬の諸形態について触れ、別稿では、日本における火葬の始まりについて述べた。子規自身は土葬されたように、明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。 火葬が急速に普及するのは戦後のことである。これには、都市化の進展が影響したと考えられる。また、都市化に伴い従来の大家族制度が解体し、ミニ家族を単位にした家族墓が普及したことも背景にあると思われる。昭和40年ころには、火葬の普及率は30数パーセントになり、今日では実に99パーセントを超えるほどに進んだ。 それにしても、長い歴史の中で、土葬に慣れ親しんできた民族が、かくも短期間のうちに火葬文化に染まるというのは、ある意味で驚くべきことである。戦後に整備された墓地・埋葬法令が、火葬の普及を助け
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