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村上隆が日本の有名批評家を挑発している。「フランスで勝負できもしねえくせして、日本でふんぞりかえっているんじゃねえよ」と。しかし、それが「勝負」であるかどうかはともかく、たとえば『「歴史の終わり」を越えて』(中公文庫)を読んでも分かるとおり、浅田彰はフランスの思想家たちとガチに対話し、しかも「御説拝聴ではなくて、しっかり議論して、むしろ押している(福田和也の解説より)」のである。そして、それでいてつねに「私のことなどどうでもいい」とすこぶる謙虚で、およそ「ふんぞりかえっている」ようには見えない。むしろ「ふんぞりかえっている」のは村上隆の方であり、誰がどう見たって「いかがわしい」のも村上隆の方である。おそらく村上隆が「世界で勝っても日本では負けた」(本人談)のは、日本人の批評技術が、ある部分で世界的に勝っているからである。実際、日本の批評家がフランスの批評家と「勝負」しても負けるとは思えない
非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)
非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について) 最近、芸術が馬鹿になった。というか「馬鹿だから芸術やるしかない」みたいな連中が増えてきた。そういう連中にはそもそも「無知の知」が無いから、自分が何を知らないかを知らない。だからあるいは自分が馬鹿であることに気が付いていないのかもしれない。なにしろアートとイラストの区別さえ付いていないのだから、もうどうしようもない。マルセル・デュシャンもセザンヌも知らない。ただ楽しければ、面白ければアートだと思い込んでいる。ちょっとでも理論的に批判してしまえば、連中はすぐ泣く。顔をくしゃくしゃにしながら、わんわん泣く。心のこもった「気持ち」や「愛」や「笑顔」がなにしろ大事だというので、そこでは批評行為は殺人行為と同じだ。何か言えばすぐ「アートが死んじゃうよ」となる。もはや批評家は強姦魔であり精神異常者だ
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