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大そうじへの備え
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男たちはアンドロイド・マザーの夢を見るか? すべての男はマザコンである。 自分の身を犠牲にし子を育てる母の無償の愛があるからこそ、息子は男として家庭を旅立てる。ゆえに、すべての男はマザコンである。 映画「僕の彼女はサイボーグ」(監督:クァク・ジェヨン)は、未来の「僕」がタイムマシンで過去の自分に送ったサイボーグの彼女と僕(=ジロー)との愛や輪廻を描いたSF仕立てのラブストーリーだ。 「タイムパラドックスが穴だらけなのに、なぜか何度も観たくなる。この映画が気になって仕方ないーー」。ネット上では、よくそんな声を聞く。 それはあなたが、主演する綾瀬はるかの姿に「母」を見ているからだ。身を挺し何度もジローの危機を救ってくれるサイボーグ綾瀬に、あなたは母の無償の愛を感じている。ゆえにこの映画は観た男性に本能的な思慕の情を起こさせる。すべての男は無意識のうちに胎内回帰願望を刺激される。 だから何度も観
いつだったか鳩山さんが記者にこう質問されていた。 「これだけ財政が厳しい中、金のかかる今回のマニフェスト実現にこだわるべきだと思うか?」 鳩山さんの答えはこんなふうだった。 「自民党政権時代、選挙公約は選挙が終わるたび反故にされてきた。今回われわれが同じことをやれば、負の連鎖が断ち切れない」(論旨) いやそれは正論だが、国民は政治家が思っているほどバカじゃない。 国民は、民主党のバラマキ公約に釣られて投票したのではない。「このまま政権交代が起こらなければ日本はダメになる」と思って民主党に入れたのだ。今回は民主党がバラマキを公約した選挙と、国民が政権交代を期待した選挙とがタイミング的にたまたま一致しただけだ。 ウソだと思ったら、「財源がない今の状況下、今回のマニフェストをあなたは実現してほしいと思うか?」と国民投票にかけてみればいい。マニフェストを国民に事業仕分けさせるのだ。その上で、「マニ
ネット連載「松岡美樹の“深読みインターネット”」(ASCII.jp/アスキー)を更新しました。 ■第8回 ネット上の名誉毀損に新解釈──「ネットでは何でもアリ」にならないか? あるラーメン・チェーンの運営会社がカルト集団であるかのような書き込みをネット上で行い、都内の会社員が名誉毀損罪に問われた裁判で2月29日、東京地裁の裁判長が「名誉毀損には当たらない」と無罪判決を出しました。 判決の主旨をひと言でいえば、ネット上では「よく調べずウソを書き込んだ」のでない限り無罪になるということです。 この判決はこれ単体で見た場合は、「なるほどそうか」で終わります。ですが「無罪放免になる基準」が曖昧な上、ネット上のあちこちで簡単に拡大解釈される可能性があります。 その意味では東京地裁は、非常に社会的影響が大きい判断をしたとも言え、各方面で議論を呼びそうです。 そこで今回はネガティブな内容を書き込むときの
絵画や彫刻なんかの美術作品で、「無題」って作品をよく見かける。 とても不思議だ。 たとえばメッセージ性のある深遠なタイトルをつけ、作品そのものとの相乗効果で自分の創作意図をより有効にアナウンスしよう、とか考えないのかな。 そんな俗事に構わないのが本物の天才なんだろうけど。 一方、音楽の世界では、「無題」のポピュラーソングってありえない。演劇や文学もそうだ。美術の人だけが、なんだか別の世界にいるような気がする。 タイトルも含めてひとつの作品なのに、自分のかけがえのない作品を「無題」で終わらせるアーティストの心理ってどんなふうなんだろう? 「無題」でやりすごすくらい肩の力を抜いてモノを作ってる、ってことなのか……。 私みたいな凡人にはやっぱりわからない。
■「自分に非は一切ない」というスタンス ブログ『踊る肉とパイナップル』さん(以下、「踊る肉」と略す。敬称略)が、エントリ『当ブログにおけます記事の見出し問題について (その2)』を公開したようだ。 読むと、冒頭には「今回、自分が表記法をどう改めたか?」に関する説明書きがある。 そして自分の表記法がどんな誤解を引き起こしたかについては、「具体的にどう誤解する可能性があるのかということについては,以下で例示されていますので参照してください」と、他人のブログ記事をリンクしてある。 だが、ご自分が紛らわしい表記をしたことにより、記事を読んだ人たち(私を含め)を錯誤させたことについては、「ご迷惑をかけました」的なニュアンスの言葉がまったくない。 「自分は一切、まちがいを犯してない」というスタンスだ。 ■「はてブ」の表示は今も誤記のまま だが現にブログ「踊る肉」の常識のない紛らわしい表記
■「人のフンドシでアクセス稼ぎ」との意見も エントリ『私はタイトルの「所有権」を主張しているのではない』では、先日起こった「タイトル流用事件」について問題提起した。 ちなみに私の仕事仲間の、あるプロの編集者は、今回の一件を見てこう語っていた。 向こうのブログが行っている行為は、他人が作った「おいしいタイトル」を自記事のタイトルとして剽窃し、その他人が作ったタイトルの「面白さ」によって自ブログへのアクセスを呼び込む狙いがあるんじゃないですか? 上記の意見は、「引用という行為には、セオリーとしてどんな編集作業が必要なのか?」を、プロの常識(表記法のセオリー)として知っている編集者の言葉だ。 私はそこまで勘ぐってはいないが、ただし現象面だけ見ればそう疑う人が出てきても仕方がないだろう。それだけ誤解を招く表記だということだ。 また、あちらのブログは記事「当ブログにおけます記事の見出し問
新しいブログ記事を公開すると、運がよければ「はてなブックマーク」でダーッと連続してブックマークされる。 そのとき新発売した記事が、個人ニュースサイトでも取り上げてもらえる。 そんなときふと気づくと、たまにそれらに混じって昔の在庫記事がポツンとブックマークされることがある。 「あっ。過去ログ、読んでくれたんだな」 思わず駆け寄り、両手を握ってほお擦りしたくなる。 私は生まれてよかったのだ。
■読み手がわかりやすい表記の仕方をしよう ブログ「踊る肉とパイナップル」さんに、記事タイトルの修正のお願いをしました。ですが、どうも私の意図が正確に伝わってないようです。 2008/02/25 13:05付のコメントにおきまして,当ブログにおける紹介記事が著作権法第48条に抵触するのではないかという指摘を「すちゃらかな日常 松岡美樹」運営者である松岡さんより頂きました. ●踊る肉とパイナップル『当ブログにおけます記事の見出し問題について』 私は別にタイトルの「所有権」を主張しているのではありません。 「そのタイトルがオリジナルなのかどうか?」が、一見してわからない表記の仕方は避けてください、とお願いしているだけです。 「当然このタイトルは、このブログのオリジナルなのだろう」 読んだ人がこう誤読する可能性のある書き方ではなく、それが引用であることが一目でわかりやすく表示されてい
アメリカ人なんて、日本人がとうてい面と向かって言えない本音を言い合っている。あと大阪人とか。 その点、「和をもって尊しとなす」日本人は、直接相手に言いたいことを言ってない。 ああ。 てことはインターネットが日本人を国際化した、ってことか。大阪人はもともと国際人だしな。
■あなたは自分の中に「仮説」があるか? 前々回のエントリ『ホットな話題にリアルタイムでからむブログ力』では、アウトプットの速さとタイミングが重要だと書いた。 ただしもちろん速いだけでは意味がない。記事に内容がなければ「仏作って魂入れず」だ。では記事の内容の高さって、いったいどこから生まれてくるのか? また私が書いた「話題を先読みするアンテナ力」とは、自分の中のどんな能力が作り出すのか? ブログ「DESIGN IT! w/LOVE」さんが、私の説をうまく補足してくださった。 僕は<火がつく前に先を読む>ためにも、<タイミングを逃さない>ためにも、結局、普段からどれだけ仮説をもっているのかが重要だということかと思っています。(中略) あらかじめ仮説としての自分の視点がなくては、目の前に何か大切なものが提示されたとしても、その価値を見出すことはできないんです。つまり、普段からものを考えて、問題意
■ブログを続けて書くことの効能は? 前々回エントリの関連であれこれ記事を読み、面白いものをたくさん見つけた。 たとえば前々回のエントリでは、ブログの更新頻度と人気の関係について書いた。その流れで「ブログは気が向いたときに書くのがいいか? それとも毎日書く方がいいのか?」を考察した記事が読めた。 毎日書くことの効能がわかりやすく述べられていて興味深い。 一般論的にいえば、 「毎日書く」ほうが圧倒的にいいのではないか、と思う。(中略) 毎日書く、と決めることで、 「何を書こうか?」という目線で物事を見るし、 そこから先へ進むと、何かに触れた時に、 「これってこう書けるな」とか思えるようになる。 そこが無意識にできるようになると、 どんどん書けるし、 今まで考えが及ばなかったところまで、 自分の思考がまわるようになる。 だから、圧倒的に毎日書いたほうがいい、と思っている。 ●じだらく『ブログは書
■火がつく前に先を読む 「ネタが腐らないうちに書く」はブログの一大セオリーだ。これを一歩発展させれば、ホットなトピックにいち早くからむのが人気ブログの秘訣といえる。 公開されて間もない、話題になりそうなエントリを見つける。そして火がつく前に記事で取り上げ、トラックバックやブックマーク・コメントなどで言及する。 すると紹介した元の記事がSBMやニュースサイトなどで一斉に取り上げられた時点で、その記事と同時にあなたの記事も多くの人の目にふれる。 なんだか他人のフンドシで相撲を取るような話だ。だけど人気ブログの筆者は狙ってこれをやってるんじゃなく、自然にふるまうとそうなるのである。 多くブクマを集めているブロガーは、注目されているエントリに対して言及する早さがすさまじい。すぐに自分の意見が表明できるようだ。それは、過去に言及したことが蓄積され、すぐに提供できる状態に熟成されていたからなのだと思う
■「評価されるべきものが認められない」は自分を慰める口実だ 「自分は才能があるのに認められない」 「能力を適正に評価されてない」 これはいつの時代、どこの世界にもある人間ならではの煩悶である。 承認欲求とそれが満たされないことへの怨恨は、「恵まれてしかるべきなのに恵まれない自分」の現状を説明する合理的な理屈はないかと探し始める。で、たどりつくのが、「そうかもしれない」と思わせる都合のいい論理である。 現在、ブログで人気エントリになるのは有名ブロガーのばかりだ。たとえ同じ内容のエントリを書いたとしても、知名度によって人気エントリになるかどうか大きく変わってくる。これが大多数のブロガーのモチベーション低下につながるのではないかなと、少し思うのだ。 ●BLOG15.NET『ブログはこれからおもしろくなるのかな?』 「どんなにいい記事を書いても、無名ブロガーは人気エントリ入りするのがむずかしい。能
■「無意味なネガコメはスルー」が黄金の法則だ 3回前のエントリでは、ブクマ・コメントを読む側の心理を分析した。、また2回前のエントリでは逆に、書く側の論理を客観的に考えてみた。 で、まとめとして私の主観的な結論を言えば、過去にも何度か書いた通りだ。 【ご参考】 ※いずれもアスキー連載 ●『小倉さん、それでもスルー力は必要ですよ』 ●『スルーが効く理由(わけ)、効く場合』 自分にとってプラスになるネガコメは取り入れ、単なるノイズはスルーする。それが黄金のセオリーです、って話である。 ■ネガコメ耐性を上げよう この間、いろんな人がネガコメに言及するのを読んだ。で、だいたい冒頭に書いた通りの結論が出たんじゃないかと思う。 ネガコメは必ず自分のところに届くものなんです。 はてブを禁止にしたら、また別の手段でネガコメを届けるだけです。(中略) だから、ネガコメを受け取りたくないという考えは諦めてくだ
■拾う文章と捨てる文章をフィルタリングする人間の認知システム いまやブログやSNSの記事は洪水のように氾濫している。その上、SBMや個人ニュースサイトからは、絶えず読むべき記事が流れ込んでくる。こうなると情報を集めることより、いかに捨てるか? が重要になってくる。 で、人間はこんな自動フィルタリング機能を備えている。 ネット上である程度の長文を読むとき、無意識に一定範囲の文章を選択したり非選択にしたりしている。選択すると色は反転するわけだからそこを強調して読もうとしているのかというと、別にそういうわけでもない気がする。でも、読んでいるところの前後を含めて選択したり外したりしているので、読む作業とは何らかの関係がある気もする。 ●kokokubeta;『ネットで文章を読むときの癖』 これは確かに私も無意識のうちにやっている。「選択した文章」だけを精読し、ほかの部分はナナメ読みして「次のブログ
■読み手じゃなく書き方が悪い場合もある 前回エントリ『「はてブはネガコメが多い」と言われるのはなぜか?』では、「はてブにはネガコメが多い」と感じる人の心理を客観的に分析した。 書いたのはあくまで読み手に関する分析だ。そこで今回は少し視点を変え、情報の受け手の側の心理に加えて書き手の問題も掘り下げてみる。 ■「批判されるのがガマンならない」人は異論を嫌う 「ネガコメが多い」てな印象論に代表されるように、はてブにマイナスイメージをもつ人は存在する。じゃあいったいそれはなぜなのか? 理由は大きく3つに分類できるだろう。まず受け手の側の問題からだ。 いちばんありそうなのは、ブックマーク・コメントで自分の記事に異論を唱えられ、それを不愉快に感じるケースである。で、はてブをネガティブに捉えてしまう。自分とは異なる意見を受け入れられないために起こる悲劇だ。 無用に挑発的で礼節を欠く表現でもない限り、コメ
■賛同のブクマはしても、コメントを書かないケースは多い 人間のネガティブな思考は、強いエネルギーをもっている。だからネット上で人物や意見に否定的な感情をもつと、ことあるごとに「彼」に対して嫌味や揶揄を連発するようになる。いわゆる「粘着系」の行動だ。 これは特に意見を表明するための敷居が低いネット上では、よく起こる現象である。 それに対して「好感をもちました」とか「おもしろかった」、「気に入りました」程度のポジティブな感想は、コメントとして発露しにくい。「思い」が負のエネルギーほど強くないから、単にブックマークしただけでコメントを書かずに素通りすることも多い。 よっぽど「感動した」「強く賛同します」的な気持ちが湧いた場合を除き、わざわざポジティブな意見をコメントに書くことは案外少ない。 ■9つの「無言ブクマ」より、1つのネガコメが印象に残る このネガ・ポジ比較論は、『はてブネガコメを嫌がるア
■パブリックな精神は自律的に生まれる ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは著書「フラット革命」の中で、『「公共性の見えない世界へ』という節を立て(P209)、「フラットな社会の中で、公共性は保証されるのか? インターネットは公共性を保証できるのか?」と問題提起している。 私は「公共性がそこにある状態」って別に誰かが与えてくれたり、システムが保証してくれるものじゃなく、「自分で勝ち取るもの」だと考えている。もっといえば、ネット上でそれは自律的に形成されて行くというのが私の結論だ。 ■公共性って「アーキテクチャー」が作るのか? 佐々木さんは同じ節の中で、2006年12月に筑波大学で開かれたパネルディスカッションの1シーンを紹介している。会場で質疑の際、ある大学院生がこう質問した。以下、同書から引用する。 たとえばアフリカの飢饉や内戦といった情報や理論を伝える媒体は、これまではマスメディアが担っ
■アウトプットするには2つの難関がある ブログ記事を書いて投稿するまでには、2つの大きな難関がある。 1つはネタを考えつくまでの産みの苦しみ。もう1つは「もっとよくなるんじゃないか?」と思いながら書きあがった記事を、思い切って公開する踏ん切りだ。 前者については、ネタが思いつかなければ誰かの記事に反応することから始めてみるといい。創造物にインスパイアされ、他人の思考(記事)への感想から書き始めるのだ。すると自分にしかない発想って、案外、あとから湧いてくる。 だが問題は後者である。 ■完全主義者タイプは読ませるのをためらう 世の中には2種類の人間がいる。 完全主義者と、そうでない人だ。 何か行動するに際してあまり構えない人は、気軽に何でもやってみることができる。トライ・アンド・エラーで、走りながら考えることが可能だ。だからサクッと記事を投稿するのもわけはない。 だが走る前にあらゆる要素を熟慮
■OpenIDやgooIDなどを列挙し推奨する池田さん ヤフーが1月30日、OpenIDに対応して「おっ」と思わせたが、実名派の巨頭と目されていた池田信夫さんはOpenIDを支持しているらしい。 松岡氏もDan氏も勘違いしているが、完全匿名の補集合は完全実名ではない。OpenIDでもいいし、当ブログのようにgooIDでもいい。diggやSlashdotのようにメンバーどうしで格づけして悪質なコメントを隠すしくみもあるし、Boing BoingのようなIDと事前承認の2段構えもある。何もしないと、日本のウェブは芸能情報とオタク情報で埋め尽くされるだろう。 ●池田信夫 blog『ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには』(2008年2月5日付) 匿名主流だとウェブが芸能&オタク情報ばかりになるというのはよくわからないが、池田さんは完全実名派ではなくOpenIDでOKなんですね? ちなみ
■ブログに書き込む行為は「筆者の手を握る感覚」だ ブログを読み、「おもしろい」と感じた。 じゃあ、あなたが次に取る行動は何か? 相手ブログのコメント欄に感想を書き込むか? それともソーシャルブックマーク(SBM)でコメントするか? それが問題である。 ブログを読んでいてコメントしたいな、と思うときが多々ありますよね。で、そんな時コメントする場所(方法)ってたくさんあるんですよね。(中略) 中でもブログのコメントとブクマコメントで迷いますよね。 ●まだ限界だなんて認めちゃいないさ『どこにコメントすべきか問題』 みんな同じだなあ。 たとえば私の場合、デフォルトはブクマコメントだ。SBMを使い始める前は相手ブログに書き込んでいたが、今ではよほど感銘を受けた/反発を感じたとき以外、そこまでしない。 すごく親しい人ならブログのコメント欄に書くが、たいていはブクマ・コメントで終わりだ。 私にとって相手
■総務省や文科省が誹謗中傷対策に乗り出す 去年から今年にかけ、ネット上の誹謗中傷や有害サイトをなんとかしよう、って動きが活発になってきた。(文末の「参考サイト」参照) 今回は総務省や文科省など、お役所が対策作りに乗り出してるだけに本格的だ。うかうかしてると将来的には、「なんでもかんでも実名にしてしまえ」てな暴論に基づく法律ができちゃう可能性もなくはない。 そこで今回は実名制の実現性と、実名論議が陥りやすい「ポジショントークの罠」について考えてみる。 ■局面を限定した実名制以外は空理空論だ まず最初にお断りしておこう。私はインターネットの実名化に反対だ。だけど単に反対してるだけじゃ、お役所にとんでもない案件を通されかねない。 で、あえて実名制の肩をもち、どんな実名制なら実現する可能性があるか? を提案の意味も込めて考察してみることにした。 いちばん実現の可能性が高く現実的なのは、局面を限定し
■打ち込みが嫌いで80年代以降の音楽は聴かない 2回前と3回前のエントリでは、「なぜCDは売れないのか?」てな論議に反応した。そこで今回は逆の立場であるCDを買う側の論理を具体的に書こう。 なぜなら私自身が「CDを買う」派だからだ。 私の場合、CDを買う理由は聴く音楽のジャンルが大きい。私が好きなのは70年代のマイナーなロック(スワンプ等)やR&B、一部のJAZZであり、レンタル店や音楽配信が扱ってないものばかりなのだ。 私の中の音楽は、70年代で時間が止まっている。80年代に打ち込みがポピュラーになると同時に、最新の音楽を聴くのはやめてしまった。(最近になって新しいJAZZを聴くようになったが) 80年代のあの嵐のような猫も杓子も打ち込みだらけ攻撃には本当に参った。トラウマだ。「今はこれが売れセンだから」みたいな音楽業界の臭いには嫌気が差したし、そもそも私は打ち込み自体が嫌いだ
■浮かんだセリフを生かすために全体を書く あなたはブログをどんな手順で、どう書いていますか? これはホント人によってぜんぜんちがうから面白い。たとえばこの人の例は小説だけど、ストーリーを作る前にある場面がポンと浮かんだ。で、そのシーンを生かすために全体の話を作った、って体験だ。 一つのセリフが思いついて、それをもとにして物語を構築していくという書き方がそれです。(「死を生きる」がそうでした。「肉体は死しても、魂は未来永劫生き続けるのです」というセリフを思いつき、それを最後に主人公に言わせるためだけに物語を構築していったものでした) ●変わらない世界のふらちな呟き『天から降ってくるものを書いているような感じ』 「それを主人公に言わせるためだけに作った」というところに、筆者のこだわりが感じられる。よほどセリフに思い入れがあったのだろう。 もちろん小説じゃなくブログでもこういうのはある。何かのシ
■あなたはクリスマスに1人でいられるか? 現代人は関係性の病(やまい)に侵されている。 現代人にとって、他人とのコミュニケーションは生きる糧だ。だから「恋人がいるかどうか?」、「友だちが何人いるのか?」で人間の等級(価値)が決まる。で、負け組はひっそりアパートで孤独死して行く。 たとえばあなたは、クリスマスに1人でいられるだろうか? バレンタインデーになると意味もなくそわそわしてないか? そんな世の中の喧騒とはまったく関係なく、自分は自分だと超然としていられるか? 他人との関係性こそが生きている証だと感じる人は多い。だから音楽をピュアに楽しむのでなく、音楽を人とのコミュニケーション・ツールとして使う人たちにCDは売れた。それが90年代に起きた出来事だった。 音楽ビジネスはもともと純粋な音楽ファンを相手にした商売ではなかった。 それよりも、音楽自体に対する関心の強弱とは関係なく、音楽を媒介に
■売れているのは「質の低い音楽」だった? ああっ。ブックマークが7つくらいのときに書こうと思ってたのに。もう「500 users」を超えてるじゃないか。 音楽業界の中の人である筆者が、「CDが売れない」とボヤきつつ、理由を分析するブログ記事である。 極めて慎重に、奥底にある自分の本音には触れずに。 CDの売れない理由として、音楽の質の低下をあげるむきがあるが、それは根本的に間違っている。(中略) ちょうど10年位前、CDが最も売れていた時代にも質の高い音楽と質の高くない音楽がそれぞれ無数にあった。そしてガシガシ売れていたのはむしろ質の高くない音楽だった。(中略) ●くだらない踊り方『「終わりの始まり」―― 音楽業界の2007年と2008年』 ■「売れているのはゴミ」はアーチストの思い込みか? アーチストとかクリエイターとか呼ばれる人たちは、今も昔も「いいものが売れない。売れているのはゴミば
ところが2007年12月27日、「走行中のヘッドホンステレオが禁止される」というニュースが流れた。大ショックである。最初に読んだのは、以下の産経新聞の記事だ。 自転車運転のルールづくりを進めていた警察庁の有識者懇談会(座長・吉田章筑波大教授)は27日、走行中の携帯電話、ヘッドホンステレオの使用禁止、保護者が幼児を乗せる際はヘルメット着用を義務付けることなどを盛り込んだ報告書をまとめた。 報告を受け、警察庁は年度内にも自転車運転のマナーなどを定めた「交通の方法に関する教則」(国家公安委員会告示)を改正する方針。(強調表現は松岡による) ●MSN産経ニュース『携帯、ヘッドホンは禁止 自転車の運転で新ルール』 あえてこの記事だけで判断してみよう。まずニュアンス的には新しく規則ができ、ヘッドホンステレオが法的に禁止されるかのように受け取れる。ただし「マナー」という言葉を使っているため、じゃあ法的な
みなさん、明けましておめでとうございます。 1年の計は元旦にアリ。 てなわけで今朝は起きてすぐブログを書き始めた。RSSリーダーで読んでくれてる人には、年賀状代わりにもなるかと。まあ書き初めみたいなもんである。 で、今回のお題はタイトル通り、「クセをつける」だ。 ■クセにしちゃえば「苦」でなくなる 人間てものはなかなか学ばないもので、私はこの年になりやっといくつか人生のコツを体得できた。そのひとつがポジティブな意味でクセをつければ、生きるのがラクになるってやつだ。 代表例はブログの更新である。 私は超ものぐさで、やる気にならなきゃホントにやらない。その悪いクセが如実に出るのがブログだった。 私は2005年3月にブログを始めたが、今までに1、2度、リタイアの危機があった。1度なんかは10カ月も更新をサボり、自分にすっかり呆れてしまった。しかもgooブログの有料コースの料金を支払い続けていなが
ジャズ喫茶で嫌煙権は認められない (NATROM) 2007-12-29 10:36:59 ジャズ喫茶で嫌煙権は認められないでしょう。ジャズ喫茶で「お前らタバコを吸うな」などと言う馬鹿がいたら鼻で笑って「嫌なら来るな」と言えばよろしい。集合住宅のロビーのような公共の空間との区別がついていないから馬鹿なのです。 返信する 違うのは (通りすがり) 2007-12-29 10:45:10 喫煙者と非喫煙者でいちばん違うのは、喫煙者は加害者になる可能性が高いということです。 ジャズ喫茶は嫌なら入らなければそれで済みますが、公共施設は違います。立場は同じではありません。加害者になる可能性を持つ方が、引くのは人として当然ではないでしょうか? 返信する 双方ともに「相手への気遣い」が必要ですね (松岡美樹@管理人) 2007-12-29 11:55:32 みなさん、こんにちは。 書き込み、ありがとうご
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