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ところで、こうした人口減少問題がかつてイギリスの経済学会で大問題となったことがあった。世界が不穏な空気におおわれていた「危機の20年」とも呼ばれる両大戦間期のことである。 あのジョン・ケインズも議論に真剣に加わった。彼の結論は、現在の私たちにとっても大変示唆的である。 彼は、そのような時に、企業がこれまで通りに利潤を増やしづうけようとして労働者の賃金を圧縮すると悲劇が生じ、いっそう悲劇的な状況が強まると指摘した。なぜならば、賃金の圧縮は、人々の可処分所得を縮小し、いっそう消費支出を削減し、景気後退を招くからである。 そうしないためには、人々の、一人一人の賃金所得を引きあげ、格差を解消し平等化を達成するとともに、一人あたりの(あるいは世帯あたりの)家計支出を増やさなければならない。それは所得・資産を平等化し、多くの人にとって住みやすい社会をつくるだろう。人口の回復という望みも生まれる。 しか
1)過去にさかのぼって全体的にかさ上げがなされている。たしかに過去にも改訂はあったが、それは基本的には基準年が違うと物価構造が異なるが、ある程度の年数を経過すると、その基準年を変更するために生じることであり、大きく物価構造がかわることのない現在では、これほど大きな数値の差はでてこない。どうも「かさ上げの」根拠はないようであるが、きちんとした統計数値の存在しない「何か」を推計する計算方法を変えたらしい。 2)現在に近づくほと、上げ幅がおおきくなる。1990年代には数兆円規模だったのが、次第に拡大、2015年にいたっては35兆円ほどになる。これも作為の結果でしかありえない。 3)それでも、よく見てみよう。かさ上げされた統計でも、2015年のGDP(名目)は、1997年のGDPに達していない。これはまさに長期にわたる日本経済の衰退を示している。かさ上げ以前の数値では、もちろん、20兆円も低下した
外国人も日本の長期不況が不思議でならないようだ。例えば米国のTyler Durden氏などもその一人である。 特に量的緩和(QE)については、2008年の金融危機の中で行われたQE3、QE4以降はまったく効果がない。それどころか、逆効果となっているように見えるから、なおさらそうだ。 しかし、「逆効果」の理由は理解できないわけではない。 何故ならば、量的緩和は「デフレ心理」の払拭をスローガンとしているが、それは毎年2%物価上昇の期待(予想)を前提とする。そこで人々は2%の物価上昇と、2%を大幅に超える所得の増加を期待しなければならないことになる。(そうでなければ、実質所得が低下ことにになる。)もし実質成長率が(例えば)2%に設定されるならば、また安倍首相が「嘘をつかない」と言いつつ1%をかなり超える成長を訳したわけだから、この公約を考えれば、名目で毎年3%~4%の成長を期待してもよいことにな
現在の問題をはっきりさせるために、日本の法人企業(会社)が従業員に対してどのような態度をとっているかを見ておこう。ここでは財務省の法人企業統計を利用する。 この統計から明らかになることを、あらかじめ結論的に言うと、20世紀末に始まった「賃金圧縮」は依然として続いており、従業員の賃金所得が抑制されていることが注目される。また、そのため労働者世帯の家計消費支出は抑制される傾向が続いている。 まず下図から、中長期的な趨勢をみると、法人企業の給与総額は、2003年~2006年の上昇を除いて、20世紀末から現在に至るまで低下トレンドを示している。2006年に150兆円ほどに達していた給与総額(統計の不備のため賞与を除く)は150兆円に達した後、2013年に125兆円にまで低下した。ただし、2013年以降は若干回復しているが、これについては後に詳しく検討する。 賃金が圧縮されていることは、従業員一人あ
【厚生労働省人口動態統計より】 少し物騒な話しだが、人口動態統計から自殺に関する統計について疑問点を示すこととする。どこの国でも、自殺者の増減は経済状況と密接に関連していることが指摘されてきた。 実際、日本では、自殺者は、低賃金・非正規雇用の急速に増加しはじめた1997年頃に急増した。しかし、2009年頃からはすこしづつ減少してきた。もちろん減少するのはよいことである。だが、現実が本当にそうなのか疑わせる証言やデータがある。証言とは、自殺とは遺書を残したケースに限られるというものである。 厚生労働省のデータでは、自殺率の低下と対照的に「変死」(下図参照)に結びつくと思われる死因がずっと上昇してきている。しかも、「不慮の事故(交通事故を除く)」はリーマンショック直後の2010年に増加し、翌年に2万人(3.11被災者数にほぼ等しい)ほど増えたのち、2012年に低下しているが、その後は2011年
現在、アベノミクスをかつて支持していた「ブレイン」たちの言い訳があちこちでなされている。 その一人、浜田宏一氏や岩田規久男の言い訳を紹介し、批判したサイトを一つだけ紹介しよう。 Money Voice http://www.mag2.com/p/money/27546 そもそも「物価は貨幣現象」というのが、浜田氏や岩田氏、黒田氏などの「リフレ派」の主張だった。 もちろん、物価が貨幣に密接に関連した現象であることは、誰も否定していない。問題は、「貨幣現象」という表現を超えたことを、彼らが主張していることである。彼らの主張は、むしろ「貨幣数量説」と呼ぶ方が正確である。 では、貨幣数量説とは何か? それは物価水準が貨幣ストック(市場に供給されている貨幣量の総額)によって決定されるというアイデア、教義である。それは次のきわめてシンプルな数式によって示される。 PQ=MV この式で、Mは貨幣量、Vは
安倍氏の経済政策の中に、明確に「新自由主義」政策的な要素が混入していることを確認してきた。 ところで、経済社会は複雑系であり、様々な要因が複雑にからみあっていて、相互に影響しあっているため、またそれに応じて因果関係も、原因(A)→結果(B)という単純なものでないため、私の説明も先に進んだり、後ろに戻ったりしなければならないが、ここではさしあたり、前に進むことにしよう。 アベノミクスには、様々な要素が雑然と混ぜ合わさっているため、「小泉構造改革」の論理のような単純さに欠けている。そこで、新自由主義政策の側面を持つとともに、またそれと対立するように見える側面も指摘しなければならない。 それというのは、いわゆる「ケインズ政策」のことである。そもそもケインズ自身がどのように捉えていたかは別として、不況・景気後退・停滞に際して財政支出を拡大すること、したがって単年度の財政赤字の拡大を許容し、また累積
「ある一定の、変動するが有効な限度まで、産出量の増加は大量生産の方法によって一単位あたりの逓減する費用で生産されるかもしれないことは経済学者にはよく知られている。この収益逓増または費用逓減の法則は、大規模機械産業一般におけるとまったく同様に、大規模な広告における顧客の生産にも当てはまる。」(307ページ) ここで「経済学者によく知られている」という節に注意してもらいたい。アダム・スミス(『諸国民の富』1776年)をはじめとする多くの経済学者は。「収穫逓増」の事実をよく知っていた。アダム・スミスが特に経済発展の途上にある国にとって外国貿易の利益を説明したことは、その点と関係している。つまり、増加する輸出需要によって生産量が拡大すると、規模に関する収穫逓増によって、費用が逓減し、その国の産業はより有利な状態になる。経済発展の途上にある国を特に強調するのは、そのような国は、国内市場が狭く、生産量
グローバル化とナショナリズム・愛国主義の政治社会学 「きれいはきたない。きたないはきれい。」(シェークスピア『マクベス』) しばしば一見して相反する、または矛盾する事柄が同じ人(政党、団体、組織など)から発せられることがある。が、人はそれを矛盾と感ずることなく、見過ごすことが多い。 もし同じ場所・同じ時間に同じ人がその二つのことを話したら、ほとんどの人は違和感をおぼえるだろう。しかし、場所的・時間的に分離してしまうと、相反事象や矛盾が相反ないし矛盾とは意識されないことがある。おそらく何らかの事情で人間の頭脳がそのように出来ているのであろう、というしかない。 一例をあげよう。現在、企業経営者たちは、どこの国でも、「グローバル化のメガコンペティションの中で経営が苦しい。だから賃金の引き上げなど労働条件の改善が難しい」と泣き事をいうのが常套である。これは経営者の職務のようなものである。しかし、場
1970~80年代までの日本社会は、そこそこの平等主義国家の上に成立していた。不平等は存在しており、それ自体として問題ではあったのだが、日本社会の一部であり、多くの人の眼につかなかった。 しかし、1990年代初頭に1980年代末の真性バブルが崩壊し、金融危機が始まり、長期の平成不況に陥り、その後も1997年の橋本財政構造改革期の金融危機の再発と、非正規雇用の拡大による(名目・実質)賃金水準の持続的低下、2001年の小泉構造改革にともなう再度の金融危機再発と賃金の低下持続、政府財政赤字の拡大と政府債務の大幅増加、減税・公共事業による景気浮揚策の不調、誰の眼にも明らかとなってきた少子化・生産年齢人口の減少、高齢者の増加などの一連の事象・問題のなかで、人々の心にも大きな変化が生じてきた。
本ブログでも、ずっと前に合計特殊出生率(fertility)、つまり平均して一人の女性が一生の間に出生する子供の数が2またはそれに近い水準を維持している地域・国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、スカンジナビア諸国、ロシアなど)と、それよりもかなり低く、例えば1.3またはそれに近い地域・国(ドイツ、イタリア、スペイン、東欧諸国、日本、韓国など)に分化していることを、紹介した。 もちろん、次のことは多くの人が知っていることであるが、歴史的に見ると、近現代にほとんどの地域・国で人口転換が生じたか、または生じつつあり、それによって多産多死から多産少死を経て少産少死にいたる転換が生じ、この過程でいったん人口が急激に増加する時期を経て安定する時期に至る。 しかし、この人口転換を経た地域や国で、合計特殊出生率が2を維持していれば、長期にわたって人口は維持されるが、もし1.3~1.5の水準が今後とも長
マルクスは、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の中で、歴史について次のように語っている。 人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況 のもとで歴史をつるくのではなく、直接にありあわせる、与えられた、過去から受け継 いだ状況のもとでつくるのである。 私も、まさにその通りと思う。人が生きている状況は、自分が選んだものではなく、好むと好まざるとにかかわらず、所与の前提として与えられている。このことは、人をとりまく思想的。精神的状況についても同様である。そこで、マルクスは、次のように続ける。 あらゆる死んだ世代の伝統が、生きている人間の頭のうえに悪夢のようにのしかかっ てくる。そこで、人間は自分自身と事物とを変革する仕事、これまでにまだなかったも のをつくりだす仕事にたずさわっているように見えるちょうどそのときに、まさにそう いう革命的危機の時代に、気づわし
言うまでもないことですが、所得および富の格差(不平等)の要因の一つには、政府が以前は所得の再分配を行っていたのに、1980年代以降、それをやめたことにあります。もちろん、完全にやめたわけではなく、幾分かは現在でも行われています。 それがどれほどの規模(magnitude)なのか、統計で確認しましょう。といっても、特段、格別の新資料を紹介するわけではありません。政府(財務省)のホームページに載っているような統計にすぎません。が、なぜか政府や自民党(公明党も)はそれを人々に広く宣伝しようとはしませんし、またよほど強い関心を持ち・ある程度の訓練を受けた人でなければ、わざわざサイトを開いてみようとする人は多くないでしょう。 まず法人税ですが、これは以下の通りです。 法人税はかつて基準税率が43.3%でしたが、1980年代から下げられはじめ、また20世紀末、現在と引き下げられてきました。現在の基準税
今朝の東京新聞にアベノミクスのブレーンの一人、浜田宏一氏のインタビュー記事が載っている。 私に言わせてもらえば、浜田氏の話していることはかなりいい加減だが、それでもマスコミの絶賛で始まった「アベノミクス」が効を奏せず、失敗に終わったことは、はっきりと示している。本人も(また浜田氏以上に、それにのせられた黒田日銀総裁も)本当は困っており、黒田氏などは暗い表情になっているとの情報もある。 さて、浜田氏のインタビューのどこがいい加減か? そもそも浜田氏だけでなく、岩田規久男氏、黒田氏などの「リフレ論者」(この言葉使いも本当は間違っているが)は、異次元の金融緩和が貨幣ストックを増やし、物価を2%ほど上げ、その効果によって、あるいは政府・日銀が景気回復に本気になって取り組むから、国民もそれをくみ取って景気が大幅に回復するはずだという、その「期待」によって、「デフレ不況」なるものから必ず回復すると主張
講演用に作成した原稿です。急いで作成しましたので、不備な点が多々あるかと思いますので、少しずつ推敲・改稿するつもりです。 2013年初の安倍政権の誕生以来、「安倍の経済政策を意味する「アベノミクス」なるものが登場し、それは長期にわたる日本経済の「デフレ不況」を克服するための経済政策であると説明されてきた。しかし、実際には、どうなのだろうか? またあるところで安部首相は、「民主党政権」の時代に低下してきた(?!)賃金(雇用者報酬)の引き上げを実現するとも約束した。この約束(公約)は果たされたのだろうか?
世に「トリクルダウン」という語句があるが、この語句の意味するところにもそれ相応の歴史があるようである。 私の知る限りでは、この語句は、最初--かどうかわからないが、とにかく1930年代初頭という早い時期に--ウィル・ロジャース(Will Rogers)という人物(humorist)によって使われたようである。1930年代初頭というと世は、「大不況」の真っただ中。当時、アメリカの大統領だったハーバート・フーバーがある種の政策を取っており、それをロジャースが皮肉った。 「お金が、お金を持たない人々にしたたり落ちるという希望の中で、ほとんどすべてが上位階層(top)のために横取りされてきた。」(money was all appropriated for the top in hopes that it would trickle down to the needy.) ここに見られるように、「
1997年以降、日本はかなり激しい「賃金デフレーション」に見舞われてきた。 簡単に言えば、これは、<賃金率の低下→雇用者所得の減少→消費支出=消費需要の縮小→景気悪化→賃金率の低下>という悪循環に陥ったことを示している。 しかし、こうした「賃金デフレ」が見られたのは、少なくとも主要国の中では日本だけではなかっただろうか? 確かに米国でも賃金圧縮(wage squeeze)が生じ、その結果、賃金シェアーの低下が見られ、労働生産性が上昇しても実質賃金がほとんど上昇しないという現象が1970年代以降顕著となっていた。しかし、この場合でも、貨幣賃金(名目賃金)は上昇していた。もっとも米国では1980年代から今日に至るまでマイルドなインフレーション(消費者物価の上昇)が生じていたため、実質賃金がほとんど上がらなかったことも付け加えておかなければならない。 本題に戻ろう。なぜ日本のみ貨幣(名目)賃金の
EUとユーロ圏の将来を考える、といいながら、だいぶん日にちが経過してしまった。 この問題は、根本的な将来ビジョンをどのように考えるかにより、見解がまったく異なってくるため、やっかいな問題を含んでいるように思われる。ここで「根本的なビジョン」というのは、EUまたはユーロという単一通貨制度はずっと維持されるべきなのか、それとも有害物として(かりに例えば数十年後の将来に復活されるとしても)現在廃止されるべきなのかというものである。 『時間稼ぎの資本主義-いつまで危機を先送りできるか』の著者、ヴォルフガング・シュトレークは、ユーロが維持不能であり、現在ユーロ圏は「時間稼ぎ」(saving time)をしているだけであると主張し、他方、EUおよびユーロ圏のこれまでの、また現在のありかたに厳しい批判の目を向けてきたユルゲン・ハーバーマス*は、シュトレークの指摘している問題点を「経済政策上」のものとして
ケインズの『一般理論』に乗数(multiplier)が出てくるのは、この著書を読んだことのある人ならもちろん、経済の専門的研究者でなくても多くの人が知っているだろう。
アメリカとイギリスの若者の間で、新しい動きがはっきりしてきました。 それは、新自由主義(ネオリベラル)政策と決別し、新たな社会主義を模索する動きです。 そもそも1980年頃まで、世界経済は現在とはかなり異なる状態にありました。 いわゆる「資本主義の黄金時代」(golden age of capitalism)といわれる時代にあって、経済の成長率もかなり高かったわけですが、それ以上に特徴的だったのは、労働生産性の上昇とともに、それに比例して、あるいはそれ以上に人々の雇用者報酬(賃金)が引き上げられていったことです。 そのため、最近日本でも注目されたサエズ、ピケッティの研究が示すように、戦中から戦後にかけて大幅に縮小した所得格差がふたたび拡大することはありませんでした。そして、この時代に大衆消費社会が到来し、中間階層といわれる階層が出現しました。 ところが、1979年のイギリスの総選挙、それに
かつて(1980年代に)イギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャー氏(故人)は、かずかずの名言(迷言?)を残しました。 「他の代替案はない。」(There is no alternative. 略してTINA) 「くやしかったらがんばりなさい。」 「社会というものなどない。」 (その他は省略します。) 「他の代替案」というのは、彼女の推進する「新自由主義政策」で、「くやしかったらがんばりなさい」というのは、これからは何でも「自助」でゆくから、貧しいひとは一生懸命頑張って豊かになりなさい、といった意味ですjが、そもそも社会では、スタートラインに大きな格差があるのだから、誰でも頑張れば大金持ち(資産家)になれるわけではありません。 このうち「社会というものなどない」(There is no such thing as society.) というのは、社会科学者なら少々考えさせられる言葉です
四~六月期のGDPは、名目0.2パーセント、それから物価上昇分を差し引いた実質GDPは0パーセント。個人消費は0.2パーセント。 政府は、公共事業を中心に景気の活性化を狙うが、その効果は小さく、後には借金が残る。しかも、財政赤字の拡大を理由に社会保障費の負担増や消費税の引き上げがまっている。まさに「三重苦家計を圧迫」という状況が続く(本日の「東京新聞」朝刊より)。 さて、そのような訳で、今日の「東京新聞」社説は、「三年続くアベノミクスはあらためて効果が乏しいことを裏付けた形だ。四~六月期の実質国民総生産(GDP、速報値)は横ばいだった。「道半ば」ではなく、誤った道を進んでいると気づくべきだ。」としています。 まったく同感と言わざるをえません。 さて、これまでもアベノミクスについては、本ブログでも主に金融の観点から、批判的に検討してきましたが、まさにこの点では、アベノミクスの異次元の金融緩和
昨日、横須賀中央駅前を通ったところ、「年金生活者」のグループが、政府によって毎年老齢音金額を減額されてゆく現状を訴えていました。私も今年から、年金生活者の一員となり、生活不安を抱えている身。将来が不安になります。もちろん若干の蓄えはあるとはいえ、将来不安(健康、自己、子供たちのこと)のため、思い切って消費を増やす気にはなれません。 その上、消費税の10パーセントへの増税は、自民党の選挙対策の一環としてさしあたりは見送られましたが、選挙に勝ち、「改憲勢力」の3分の2を確保した自公政権にとっては、消費税の引き上げを延期する理由はなくなりました。形式的な理屈上は、日本全体の消費需要がかりに350兆円だとすると、2パーセント・ポイントの引き上げは、7兆円の税収増をもたらすことになります。ただし、これは大衆増税によって景気が悪化しなければの話であり、経済理論の常識やこれまでの経験に照らすと、(政府が
昨日から今日にかけて私の身のまわりで小さなできごとがいくつかありました。 その一つ。亡くなった義母が家の庭に放置してあったサボテンを、今春、私が大きめのポットに植え替え、土を替え、毎日水やりをしていたところ、すくすくと成長しはじめ、3日ほど前からきれいな黄色い花をつけ始めました。ところが、昨日の朝、見るとポットごとなくなっていました。 二つ目は、私の眼のこと、三つ目は老齢年金のことですが、こちらは省略します。一言だけ書くと、私も高齢化し、あちこち故障が出てきたと実感せずにはいられません。 さて、イギリスのEU離脱ですが、次に進む前に、前回の補足を一言。誤解されないようにもう一度繰り返すと、私にとっても今回の国民投票の結果はとても残念です。しかし、すべての事象には様々な原因があります。仏教でも、「法界縁起」(dependent-rising)と言う通り、すべての事象はすべての事象と関連しると
昨年の11月にブログを更新してからあっという間に半年あまりが過ぎてしまった。 この間、退職と移転を前に身のまわりを整理したり、引っ越しをしたり、体調をくずしたり、退職後にちょっとした国内旅行をしたり、しているうちに、(数えるとちょうど)7か月が過ぎている。 さて、先日はイギリスのEU残留・離脱を問う国民投票があり、また国内では7月10日の選挙をまじかにひかえ、マスコミも様々な視角から取り上げているので、私も、経済および経済学を研究しているものとして、それらについて若干の雑感じみたものを書いてみることとする。 まずは、イギリスのEU離脱について。 これについて、私の気持ちはアンビバレントである。一面で、イギリスがEUから離脱することは、いうまでもなく「一つのヨーロッパ」(one Europe, eine Europa)の理念からすれば、後退であろう。残念という気持ちがなくはない。しかし、他面
インフレーションという現象が費用=所得と関係しており、また所得分配をめぐる紛争に関係しているならば、デフレーション(デフレ)のほうはどうであろうか? もちろん、デフレも所得分配をめぐる紛争に関係していることを示す事実(facts)および証拠(evidence)は存在する。ただし、インフレが所得を増やそうとする各経済主体の行動に直接関係しており、比較的簡単に説明しやすいのに対して、デフレの場合は若干複雑である。 ここでは簡単のために外国を捨象した閉鎖経済(closed economy)を仮定する。また以下の説明は素描であり、さらに詳しい説明が必要となるだろう。 まず出発点として確認しなければならないのは、価格設定(pricing, price setting)を行なうのが消費を生産・販売する企業であることである。 この問題を考えるとき出発点となるのは、価格設定に関するこれまでの主要な企業調査
その昔、インフレーションが大きな問題だったとき(特に1970年代)には、インフレが何故生じるのかが、経済理論上の大きな論点をなしていた。 思いつくままに、その当時唱えられた「理論」を並べてみると、 <デマンド・プル論> <コスト・プッシュ論> <貨幣数量説> などがあった。しかし、これらはすべて説明理論として失格である。何故か? <デマンド・プル論> これは需要側にインフレ発生の原因を求める考え方であり、一見したところ、非のうちようのない理論に思えるかもしれない。が、よく考えると奇妙である。まず需要側という意味を、需要量が供給量より超過しているという意味に取った場合、これは事実に反している。何故ならば、当時、とりわけ1970年代にインフレーションが亢進したときには、需要量が供給量(生産能力)を超えることは決してなかったからである。むしろ1970年代は停滞と景気後退によって特徴づけられていた
安倍政権・黒田日銀は、日本が「デフレ脱却」を果たしつつあると主張しているが、それは単純な嘘にすぎない。ここでは、次の2つの点を指摘しておきたい。 1)そもそもリフレ論が立脚する貨幣数量説(マネタリズム、通貨主義)が単なる「信仰」であり、成立しないことは前に述べた通りである。 中央銀行(日銀)が市中銀行に貨幣供給(マネタリーベース)を増やしたところで、市中銀行の人々(企業、家計等)に対する貸付が増えるとは限らない。また貸付が増えても物価水準が上がるとは限らない。さらにまた物価水準が上がることと、景気がよくなることはまったく別のことである。 現実世界の経済をよく説明するポスト・ケインズ派の経済理論が示す通り、物価は、費用に、したがって所得に関係しており、費用=所得の側から説明されなければならない。 そのことを示す一例をあげよう。例えば1992年の市場移行期のロシアで生じたように、旧ソ連の多くの
多くの人は、普通常識的に、費用と所得とはまったく異なるものと考えている(もののようである)。 確かにある意味で両者が異なることは事実である。例えば、A氏が1000円の費用をかけてモノを生産し、1500円で売った場合、1500円ー1000円=500円がA氏の所得となり、1000円が費用である。つまり常識的には、費用と所得はまったく別物である。また費用を節約すれば(圧縮すれば)、所得が増えるという関係も正しい。(ただし、これはその他の条件が等しいならばという条件つきである。) しかし、視点を変えて、今度は、例えば B 氏が A 氏から1500円でモノを買う場合を見てみる。この場合、B 氏にとっては1500円は費用以外の何物でもない。つまり購入したモノが消費財であれば、生活のための費用であり、別のモノを生産するために買った原材料ならば、生産費の範疇に入ることになる。 また A 氏に1000円のモ
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