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心は何に、そして、どこに宿るのか。こうした問いには、それが一定の普遍性を持っているがため、胸を衝かれるものがある。根拠になりうるほどの根拠はなかろうと、心は必ずや存在するという思いなしの上に我々の生活が成り立っているのだと感じられる場面は決して少なくないのである。 山田胡瓜の『AIの遺電子』は、ヒューマノイドが人権を得た未来、主にヒューマノイドの治療に当たっている医師、須堂が立ち会ってきた様々なケースを描く。オムニバスの形式で編まれたマンガだ。AIに人格は認められるのか。これはマンガに限らず、SFの小説や映画に古今東西からあるテーマだろう。また、医師と患者の苦悩をオムニバスの形式に編んだ作品ということであれば、その多くがヒューマニズムに対するアウフヘーベンを内包しながら、現在もあまた登場している。スタイルについて、目新しさのみで判じることはできない。が、双方の要素を、おそらくは最良の形で結
この最終40巻には見開きの2ページを丸々使ったカットが三箇所ある(三箇所しかない)のだが、まずはそこから話を広げていきたい。なぜなら、それは古谷野孝雄の『ANGEL VOICE』というマンガにおける感動や説得力が、優れた構成や場面の作り方によって支えられていることの確認になりうるからである。 一箇所目と二箇所目は対になっている。特筆すべきは一箇所目の見開きの2ページであろう。高校サッカー選手権千葉県予選決勝、市蘭(市立蘭山高校)と船和学院の試合は、激しい競り合いの末、とうとうPK戦にまでもつれこんだ。しかし、PK戦でも〈先に蹴る船和学院が決め・市立蘭山がすぐそれに追いつく〉という〈まるで試合の再現を見ているよう〉な展開が繰り広げられ、優劣のつかぬままに5人目の順番がきてしまう。ここで主人公たちのライヴァルである船和学院の5人目を任せられたユゥエル・カールソンのキックが、一箇所目のカットにあ
古谷野孝雄の『ANGEL VOICE(エンジェル ボイス)』は、34巻よりこちら、どの巻もクライマックス過多と評して差し支えがない。要するに、目頭は熱くなるし、胸は震えるし。で、ここまで熱量の高いものを見せ続けられたら(もちろん、良い意味で)読む方が困ってしまうのだ。おいおい、こんな作品、滅多にないぜ、と思う。34巻よりこちら、というのは、つまり、主役である市立蘭山高校サッカー部(市蘭)が高校選手権千葉県予選決勝に勝ち進み、ついに宿敵であり強豪である船和学院との対決を迎え、その試合がはじまってからずっとのことである。 端的にいって『ANGEL VOICE』のあらすじに特筆すべき点は少ない。難病を患った女子マネージャーのためにサッカー部の元不良少年たちが再起、奮闘し、不可能を可能に変えるような奇跡に挑んでいく。こうしたあらすじは、極めて通俗的であるし、予定調和として散々消費された感がある上、
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以前にも述べた気がするが、小沢としおはデビュー以来一貫して学園ものを描き続けている。現代少年マンガ史を振り返ったとき(一、二作でリタイアしたマンガ家を除けば)これは極めて異例のことといっていい。しかし、『ナンバデッドエンド』の頃からか。その手つきにはいくらかの変化が見られはじめていた。変化は『ナンバデッドエンド』に続く『ガキ教室』において、より顕著であったろう。『ガキ教室』も当然学園ものであったわけだけれど、学生を主人公にするのではなく、教師の側から見られる学校を作品の舞台としていたのである。いや、何も主人公の立場の違いを指して「変化」だと言いたいのではない。そうではない。学校の存在をこの社会の比喩として描いたり、社会のミニチュアとして扱うのではなく、学校の存在をあくまでもこの社会の一部分としていること、社会から切り離された空間=特区のようには描かなかった点にこそ変化が現れているのだ。 さ
いま現在、最も無意味なマンガを述べよ、ということであれば、間違いなくこれを挙げたい。いや本当に。他と比べてどうとかではなく、もしかしたら世界で唯一このマンガだけが無意味なのではないかとさえ思う。誤解があってはいけないのだが、褒め言葉のつもりはまったくなくて、ひどい、くだらない、と積極的に非難するのもばからしいマンガなのである。友木一良の『絶品!らーめん娘』は。しかし滅茶苦茶を言うようだけれど、ごめん。それでも『絶品!らーめん娘』のことが気になって仕方がないのだ。いつの間にか欠かさずに読んでいるマンガの一つになっているのだから弱る。弱るのだよ。こんなのを楽しみにしていると世間にバレた日にはもう絶対に後ろ指さされちゃうもんな。 ジャンルとしてはギャグ・マンガである。片田舎で人知れず(!)営業されているラーメン屋を切り盛りする三姉妹とそこを訪れる青年客が繰り広げるシチュエーション・コメディ(の亜
あだち充は現代の夏目漱石である。これは日本で最も早くコミックスの発行部数が一億冊を突破し、要するに国民的な作家になったことのみをいっているのではない。多少文学ぶって述べるのであれば、(欲望とは他者の欲望を欲望することであるとしたら)他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)な主体を常に描き続けている、という意味において漱石的なのであって、それはもちろん、三角関係や家族の構成、死者の問題として現れているのだし、技術の確かさで軽く読み流すことと深く読み込ませることを両立してしまっている点などは、ある種の手本として評価されるべきものであろう。かつて島本和彦は『タッチ』の上杉達也と浅倉南を指して、まるで婚姻していない夫婦のように描かれているのが今日のラブコメとの最大の違いと分析していたが、そこから彼らが生活しているリズムであったり温もりであったりがよく伝わってくるところなど
難破剛、ついにぐれる。 喧嘩上等の青春を期待された少年が、いかにぐれず、健全で真っ当な学園生活を送り続けられるかを『ナンバデッドエンド』は、コメディとシリアスの絶妙なバランスを保ちながら描いて来たのだったが、9巻と10巻におけるドラマティックなほどの急転回を経て、ああ、やるせないことこの上ない、『ナンバMG5』から続くシリーズのなかで最大の絶望へと至った。あんなにも必死で自分の居場所を守ろうとしていた主人公の剛が、その努力も空しく、白百合高校から追放されてしまうのである。作者の小沢としおが、やはり只者でないのは、作中人物たちはもちろん、読み手の多くが決して望みはしなかった展開を、ここに用意したことだろう。 やられた。うわわわ、の驚きがあり、ちくしょおおっ、の悔しさがある。はたして試練は終わったのか。それとも受難は続くのか。この11巻では、すべてが御破算になろうとする瞬間が、そしてすべてが御
少し前の話、小説家の長嶋有(いやブルボン小林だったっけ)が、文芸誌のアンケートで他の作家に、マンガ『キャプテン』の歴代キャプテンでは誰派か、みたいなことを尋ねていたけれど、当の長嶋はいったい誰派だったのか。もしかしたらどこかに書いていたりするのかもしれないが、目にした記憶がなく、ずっと気になっているのは、自分の場合は断然、丸井派だからである。そして経験上、丸井派の人間にはあまり出会ったときがないのを残念に思っているためだ。いや、たぶん近藤派には負けていないような気もするが、やはり多数は谷口派であり、次いでイガラシ派という感じではないだろうか(個人的に長嶋は近藤派なんじゃないかとにらんでいる)。たしかに、ストーリーがもっともドラマティックなのは谷口がキャプテンの編だし、試合内容の濃さでいうならイガラシがキャプテンの編を選ぶ。もちろん、近藤がキャプテンの編も、ついに名門校となってしまったがゆえ
たとえば『君に届け』のストーリーについて、ピュアであるというような修辞を用いるとき、それはヒロイン、黒沼爽子の純粋が周囲の人物たちにいかなる影響を与えたか、を指すべきだと思う。当然、その周囲の人物たちのなかに風早も含まれているにはいるわけだが、爽子と風早の、つまり一対一の関係性においては、むしろ、自己評価の低い人間にとっての恋愛をどう描くか、ということに作品の重心がおおきいことを、この9巻はうかがわせる。にもかかわらず、ここにきてピュアであるピュアであるばかりしか述べないような感想は、たんなる思考停止にすぎない。たしかに、それまで恋愛を知らなかった人間の恋愛があらわされている、こうした観点に立つのであれば、爽子と風早の関わりをピュアであるというふうに見ることはできるだろう。しかし、必ずしも初心であること(だけ)が二人をすれ違わせているのではないというのも、おりおりのモノローグを含めた言動に
この『立原あゆみ 雑誌掲載作品データ1970~1979』は、今夏コミックマーケット76で頒布された同人誌で、内容のほうはその誌名からうかがえるとおりなのだが、あとがきに〈今回の調査はあくまでも筆者が個人的に可能な範囲で行ったもの。立原先生にも出版社にも全く無関係です〉とあるように、とにかく、これだけのデーターを個人でまとめた労力には恐れ入るし、じっさい、立原あゆみというマンガ家の、初期の活動を一望できるふうにしてくれたのは、ファンにしてみたら、とてもうれしい。自分の話をすれば、立原の作品を熱心に読むようになったのは、ヤング誌『アニマルハウス』(のちの『ヤングアニマル』)で『あばよ白書』の連載がはじまったあたりからであって(89年)、じつは現在でも70年代頃の活動、要するに少女マンガ家であった時代(あるいは、のなかのばらの別名義)をよくはフォローしてはいないのだけれど、しかしだからこそ手元に
うう。おお。ああ。はっ。息が詰まるほどの絶望が漏れる。あいかわらず、狂気の沙汰である。そしてこの、浦賀和宏の、カッティング・エッジなアプローチのみが唯一、もしかしたら小説の未来に通じているのではないかとさえ、大げさにも思わされる。松浦純菜(もしくは八木剛士)シリーズという、空前絶後の物語をなしとげてしまったあとだけに、しばらくは新作を期待できないだろうと予測していたのに、まさかこんなにもはやく、驚愕の一撃が届けられてしまうだなんて、にわかには信じられないよ。そう、つまりは『萩原重化学工業連続殺人事件』のことだ。 しかしながらまず、今までの作品に比べ、ひじょうにまともな長篇のレベルで仕上がっていることに、驚かされる。まっとうにシリアスで、いたくエモーショナル、ともすれば感動的ですらあって、いやまあ、そう受け取れてしまうというのがすでに、この作者に毒されている証拠なのかもしれず、ネタを割りかね
小谷野敦の新書『『こころ』は本当に名作か 正直者名作案内』は、題名からするといっけん、夏目漱石の『こころ』について論じられたものかという気がしてしまうけれど、じつは『バカのための読書術』に続くブック・ガイドとして読まれたい内容になっている。とはいえ、『バカのための読書術』が、書物の読み方、読まれ方をベースとし、現代的な観点から、文学にかぎらず、哲学や社会学も含め、種々の作品を再評価していたのに対して、この『『こころ』は本当に名作か』は、あくまでも文学として見られるもののなかでもとくに、世間一般の評価が、たとえじっさいには読まれていなくとも、定まり、不動になっているような古典や準古典の価値を、あらためて検討し直している。そのさいに念頭に置かれているのは、小谷野の〈「文学作品に普遍的な価値基準は存在しない」というのが私の持論であ〉って、〈ある文学作品をいいと思うか、共感するか、ということは、読
『週刊少年チャンピオン』17号の、「MY FAVORITE!~私が愛したチャンピオン作品~」という特集記事のコメントによれば、古谷野孝雄は、石山東吉のアシスタントから出てきたのだという。ある意味で生粋の秋田書店っ子ではあるが、同じく石山のもとから登場してきた哲弘が、そもそもが石山の師匠格にあたる車田正美のパロディをにおわせるような作風なのとはまた違う印象で、どこか、旧き良き時代の『週刊少年ジャンプ』的なイディオム、矜持を持っているのは、なるほど、それもそれとして一因にはあるのかもしれないな、と、かなりの牽強付会にすぎないのだけれど、評論家によって語られないマンガ史とでもいうべきを、しばし妄想させられる。しかしまあ、そうした余談はさておき、いよいよ本筋も佳境に入り、がぜんヒートをアップさせているのが『ANGEL VOICE』の10巻である。当初は、問題児ばかりで再出発された市立蘭山高校のサッ
末次由紀『ちはやふる』の1巻を、08年上半期最大の収穫として挙げたい。それぐらいこのマンガはおもしろい。もうすでに30回は読み返しているけれど、そのたびに鮮度の高まっていくような興奮がある。 まず第1話目(第一首)の冒頭、単行本のページでいうと4ページ目から7ページ目まで、〈お願い だれも 息をしないで〉とヒロインの横顔があり、次の瞬間、〈ち――――〉という読み上げとともに、かるたの札が、勢いのある擬音とともにはじかれる、このときのインパクトにどれだけの情報が凝縮されているか、物語を追ううちに気づかされ、振り返り、おどろかされる。わずかなコマのなかに示される力強い動き、烈とした目の輝き、そしてそれらを統べる集中力が、いったいどこからやって来ているのかが、その後に、もちろん1巻の時点ではすべてではないだろうが、非凡なほどの緻密さをもって展開されているためである。 さっそうとしたクライマックス
市街戦をモチーフとしたメロドラマ以上のものを期待しなければ、十二分におもしろい。ぶっちゃけて、中身はスカスカなので、それ以外のことを言おうとすると、どうも批判的な文章になってしまうなあ。『SUTADIO VOICE』3月号のなかで、前島久が、有川浩について〈有川の小説は「自衛官のロマンスを書きたい!」という欲望に駆動されている〉〈有川の作品を読み解くポイントは、こういった思想性ではなく「萌え」によって高まるぷち右翼性に存在している気がしてならない〉と書いているが、良くも悪くも、そのとおりであるかもしれないねえ、と思う。この『図書館戦争』の場合、自衛隊は直截的には扱われないが、しかし、物語のために仮構された図書隊というのは、まあ似たような組織であるといえるし、また、ただ一個人の恋愛感情を引き立てるために、人々は争い、傷ついてゆく、あるいは死ぬ、身も蓋もない言い方をすれば、それだけのお話にまと
もしかしたら反動的なことを書くようだが、鈴木央の『金剛番長』は、ギャグを眺めるのに近しい斜めからの視線で受けとるのでなければ、熱い、とか、燃える、とかの評価を前提にし読まれ、漢(おとこ)というタームをふんだんに使い語られるべき作品、マンガなのかもしれないけれど、個人的には、いまいち、こう、かっと盛ってくるものを得られず、漢といったところで、今日のサブ・カルチャーにおいては、中身の乏しさを形容するのに似た空虚なレトリックとして使われることが多く、それが相応しくあるのは、やはり、ちょっと、まずいだろ、と思ってしまう。ここで、学園マンガというか、ガクランもの、とりわけ番長ものの歴史を振り返りたく、引用したいのは、横山光輝の『あばれ天童』の文庫版1巻に付せられた飯城勇三の解説である。飯城は、その、70年代半ばに発表された横山にとっては異色にあたる番長ものに対し、〈私は本作を連載中に愛読したのだが、
佐藤友哉が、02年から04年にかけ、三回にわたって『新現実』誌に発表したシリーズが、このたび全面改稿され、『世界の終わりの終わり』として、一冊にまとまったわけだが、これがまったくべつの作品に変えられているから、おどろく。というと、語弊がありそうなので、言葉を換えれば、完全にオルタナティヴなヴァージョンになっている。まず出だし、今回のヴァージョンでは〈いきなりでもうしわけないが、想像して欲しい〉といわれている箇所は、初出の段階において〈いきなりで申し訳ないが、あなた達はこれを読むな〉というものであった。こうした短いセンテンスを覗き込んだだけでも、その言葉を動かす力学が、以前とは異なったものであることが、わかる。話の筋自体に大幅な変更が加えられているわけではない。小説のつくりは、作者を思わせる作中人物が、これを書きつつ、語り手をつめとる、おそらくはメタ私小説とでもいうべき装いなのだけれど、そう
『ANGEL VOICE』を読んでいると、『GO ANd GO』のころに比べ、古谷野孝雄の作風はずいぶんと洗練されたな、という印象を受ける。より正確にいうなら、『GO ANd GO』の長期連載を経て、現在の作風が確立された、とするべきか。いずれにせよ、井上雄彦、森田まさのり、ハロルド作石、高橋ヒロシら、つまり、90年代から現在にかけてファンタジーの系とは異なったセンでイディオムを作り上げてきたマンガ家たちの影響をあからさまに、しかし、そのうえで着実に、このマンガ家にしか描きえない物語を築きつつある、そう感じられるのだ。〈サッカー部の現状はそれは酷いものです いつの頃からか ケンカ自慢の子の集まりになってしまって 今では「県内最強軍団」という肩書きまでついてしまいました 不良と呼ばれる中学生の中には その肩書きに憧れて 我が校に進学し サッカー部に入部する者すらいます〉。そうして今年も市立蘭
円城塔の『Self-Reference ENGINE』には、自分にSF読みの資質が備わっていないことを痛感させられるばかりであったのに、同じく第7回小松左京賞最終候補になりながらも受賞を逃した経緯を持つ、伊藤計劃(けいかく)の『虐殺器官』に関しては、やたらエキサイトしたわけだが、いや、それは何も、どちらのほうが優れているということではなくて、(作品の、そして、こちらの)趣味や指向性に還元される問題に他ならないのだけれども、じつは読み比べつつ、両者における違いとは、結局のところ、村上春樹と村上龍の差異のようなものなのだろうな、と思ったのだった。いや、べつに、両村上のどちらかの影響下にそれぞれの作家がある、ということでは、ない。この点をどう説明したらいいか、考えていたとき、あ、とヒントになったのは、つい最近になって講談社から新創刊された文芸誌『FICTION ZERO』に収められている、東浩紀
太田出版に移った『新現実』VOL.4は、ざっくりと読んだ感じ、以前にも増して政治的であろうとしているのかな、といったところで、個人的には、人は何かしらかのイデオロギーをともなわないと生きていけないにしても、筋金入りの恋愛至上主義者なので右も左も結構です、お引き取り下さい、といったタイプだから、このシリアスさをちゃんと理解できているのかどうかは自信がなくて、ひとまず編集日記で大塚英志が角川の新雑誌(『コミックチャージ』だよね)について悪口いっているのを、下卑た調子でおもしろがる。二線級って、いやまあ。ところで、その角川の新雑誌の、某マンガの一話目でさあ、江藤淳がどうのこうの、とあったのを大塚は読んだだろうか、と、そういうあたりが気になってしまう。さて、ここからが本題である。たとえば「「ヲタ」が「サヨク」化するか」という文章と「サブカルチャーのファシズム起源」という文章を読むと、大塚の抱えてい
この、深町秋生という作家の小説を読むのは、なにせはじめてのことなので、最初は『ヒステリック・サバイバー』という題名や、その装丁、帯における過剰にチープな煽り具合から、ショッキングな筋立てに頼った(だけの)ものか、そうでなければ、サブ・カルチャー的な意匠を凝らした(だけの)ものを予想しつつ、ページをめくり出した次第なのだけれども、いやいや、それはあらぬ誤解でしかなく、こちらの不明を恥じなければなるまい、なんともこれは、エモーショナルな物語のうちにアクチュアルな問題意識を持ち込もうと腐心したことのうかがえる、ひじょうに誠実な態度の作品である。〈九ヶ月前の悲劇が彼の人生を一変させた〉。米アイダホ州の公立中学に通う三橋和樹は、そこで、何げない日常とともに、若さゆえの自信に満ちた、賑々しい青春を謳歌していたはずだったが、しかし突然、同校の生徒による多数の死傷者を出すほどの銃撃事件に遭遇し、親しい友人
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