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大そうじへの備え
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● 本日未明、眼を覚ます。PCを開き、mixi画面へ。 するとマイミクさんの日記の幾つかで、 《エドワード・ヤン(楊徳昌)死去》の見出しが相次いでいた。 衝撃を受ける。哀しみ、というのではない。 砂を噛むような空しさに一瞬にして襲われ、 「才能」にまつわる「世界」の処置、 それにたいしては深甚な厭世観にさえ包まれた。 ● 僕の人生は「映画なんかどうでもいい」という疲弊に 定期的に彩られ、突然「映画真空地帯」に舞い戻ることが多い。 キネ旬で働き始めた90年代初頭なども 実はそんな映画倦怠期だった(最近もそうだ)。 何もかもが、自分の「リアル」感覚にしっくりこない。 とくに邦画新作で面白いとおもうものに当時行き会わなかった。 よく憶えているがそんな自分の逼塞感に風穴を開けたのが、 楊徳昌、それに北野武だったとおもう。 「アジアンリアル」に最も似合うのが「恐怖」だということ、 俳優の表情は不機嫌
エドワード・ヤン、恐怖分子 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ エドワード・ヤン、恐怖分子のページです。 【エドワード・ヤン『恐怖分子』】 エドワード・ヤンの『恐怖分子』がデジタル・リマスター版として今度の土曜(3月14日)から、渋谷シアターイメージフォーラムにて公開される。86年製作のこの台湾映画が最大の引き金になって、ぼくは勃興しつつあったアジアン・ハードボイルドの虜になった。この映画のノワール感覚も、オーソン・ウェルズ『黒い罠』で純粋ジャンルとしてのフィルム・ノワールが終焉したあとの「あたらしいノワール」中、最大価値をしるしている。これほどうつくしい緊迫感にみちた作品はざらにない。未見であるとすれば、おそろしい損失だ。 しかもこの映画を観ると、東京国際映画祭に『クーリンチェ少年殺人事件』をひっさげて来日した往年のヤンの、少年的で人懐っこい風貌までおもいだしてしまう(ぼくは彼のイン
【石原吉郎とバートルビー】 このところ、廿楽順治さんが職場の昼休みに書いている、思索にとんだミクシィ日記がおもしろい。石原吉郎の詩が「韜晦」「暗喩」といえるだろうかという検証からはじまって、いまではハイデガーなども動員されて、手軽に書かれているようにみえようとも、複雑で厳密な詩論に達している。 石原の詩における「馬」「花」「くほみ」などはなぜ抽象性にかがやくのか。ぼくは石原詩を論ずるのに、その書かれ方が閑却できないとおもっている。石原はたとえば散歩中に詩の第一行をおもいつくと、つづきを脳内の頁に書いてゆく。そして「記憶できる範囲」で一篇が終わり、それを帰ってから筆記してゆくという。そこでうごいているのはまず「濾過」だろう。それから同語を駆使したリズム(これは記憶適性にかかわる)。ところが石原の「身体」が詩行連鎖をゆがませてもいる。フレーズそのものは一旦脳内に書かれるとうごかない。 この石原
日本映画史家の田中眞澄さんが亡くなられた。先月29日、新宿紀伊國屋ホールでの澤登翠さんのリサイタルと忘年会の後、帰宅、施錠後に、玄関で崩れた本に埋もれて亡くなっていたことが、31日夜、弟さんと警察が部屋に入り、わかったという。郡淳一郎君から連絡があった。北海道の同郷ということもあり、亡くなり方には草森紳一さんをおもわせるものがある(大学もおなじ慶應義塾)。 田中さんとぼくとは、フィルムアート社の「映画読本」シリーズで、「成瀬巳喜男」「森雅之」を共同編集した仲。というよりも、つきあいは、ぼくがキネ旬に入って早々からあり、「筋金入りの年長の書き手」としてずっと畏敬してきた。資料の博捜、そのうえでの判断。消失した作品が、「当時」どのような評価を受け、それが通時性をもつか否かを慎重に考察しながら、実際は「人脈」によって、映画内世界が、その「外部」が、どのように拡がっていたのかをいつも原稿が示してい
朝倉喬司さんの訃報が今朝舞い込んできて 午前がすごく憂鬱になった。 孤独死らしい。 ネット探索してみると この十月に離婚して 長年棲んだ逗子市久木を離れ ひとり暮らしをはじめた矢先の 病死だったという。 あるいは転居方角が祟ったのか。 あの霊神にはふさわしからぬことだ。 はげ頭に帽子をのせて犯罪の地をさまよう 朝倉さんの痩躯はTVでもよく映った。 けれども土地の旧い霊と交感し からだの霊的水位をたかめてゆくその実際は TVの解像度ではあまり映らなかったとおもう。 むろんコメントにもとめられる還元主義を 朝倉さんはけっしてとらず、 その語りが複文構造になるのも厭わなかった。 書き手としてはもう 処女作『犯罪風土記』からのファンだった。 東海道新幹線で西走するとき 車両がつぎつぎ跨いでゆく「男川」「女川」を 朝倉さんはいつも体感への加算装置にしていた。 男女の複層。性愛の水。テキヤの襲名の酒。
前々回日記「現代的啓蒙」 〔※このブログでは掲載省略〕のコメント欄がふくれあがった。 そこでコメントをくれているはらぐろくんに応えることで いま僕が大学教員として抱えている問題を 整理できるともおもう。 まずは前提となるはらぐろくんのコメントを 以下にペーストしてみよう。 はらぐろくんのこのコメントは コメント欄のそれまでの流れや 僕の既存日記についても受けて書かれているので 意味不明の部分もあるだろうが それは当面、ご勘弁いただきたい。 ● 怒っているのではなくて、 阿部嘉昭、小説読めねえんだ、ふふふ、と 優越感に浸りながら笑っているわけです。 まあ、『虚構の時代の果て』の記憶を含めて、 春秋社の採用面接で 春秋社で良い本は大澤真幸のオウム本です、 って言った経験があるぐらいですので、 (僕は色々な出版社にいいところで入り損ねているんです。 青弓社とかも) 「相対的」なんかつけることない
繰り返すが、はらぐろくんはこう書いた。 ● 文学は権力性と常に結びつく。 それは時代によって、 宗教や、政治という権力性だったりしますが、 「それをすべての人々に解放しようとしたのが 「近代文学」というデモクラティックな企て」だったとしたら、 現在はそれが反転して、 「意味」や「経済」や「情報」という専制的権力と 手を結ぶものに成り下がっている。 ● ここから文意ははらぐろくんの 東浩紀による舞城王太郎論への批判に結びついてゆくのだが、 東評論の商業性にとむ権威にたいし 「問題点の整理2」、その書き込み欄に僕が書いたことが 良い補助線になるとおもう。 もう一回、その論旨を書こう。 ただし矛先は往年の〈現在も?〉蓮実重彦だ。 ・「凡庸批判」が主題なのに、 彼は凡庸な読者を想定し物を書く。 ・結果的にその読者の自意識が過剰になる。 これは構造的な必然だ なぜ蓮実はこんなにわかりやすい矛盾律を
沢田研二・東京ドームライヴ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ 沢田研二・東京ドームライヴのページです。 三万人、六時間半、八〇曲、六十年―― これが、憶えておく数値。 昨日の15時から21時半まで 東京ドームでひらかれた 「人間60年 ジュリー祭り」で 沢田研二がつくったものだ。 ゲストなし、ツインギター、シンセ、ドラムという小編成のバンドのみで 単身の沢田がつくりあげた数字だから、恐れ入る。 満席の会場が冬の到来もあって地味な色に感じられた。 むろんそれは1940年代から50年代に生まれた女性が 大挙、会場に繰り出したこととも関連している。 客席の雰囲気を総括すると、 新宿コマのそれと変わらないという結論が出るのだろうか。 いやちがう――周囲を見渡し、どこかではにかみをずっと保持している 「元少女」のはかない面影をもつ女性が客席にとても多いとおもった。 たとえば「ジュリー!」と歓声
万田邦敏・接吻(補足あり) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ 万田邦敏・接吻(補足あり)のページです。 昨日は女房と渋谷ユーロスペースで 万田邦敏『接吻』を観た。 映画的緊張が終始つづいた。 主題は、「非対称性の関係が 相同性と言い立てられるときのサスペンス」だ (とうぜんそれによってドラマがうごく)。 そうした主題構造からして 描写も陰謀のように選択的になり、 そこに豊川悦司の「緘黙」を 小池栄子が構造的に代弁するような「踏み外し」も起こる。 この意味で演出はリアリズムに依拠しつつ 異物のような想像性を時に張り巡らせてゆく。 ラストは書けないが 非対称の基軸が移り、このときの踏み外しで 映画が「映画的に」完了する圧倒的な展開となる。 50年代ハリウッド映画よろしく 「映画の悪運」に直面したような熾烈な終幕。 ここにいたるまでを構造的に支えていたのが 前言した「描写の選択性」。 機械
【詩集】 ゆうがたにえらぶ ぬのにかくれたなまえを もどって、そのひとをよむ 行を追えばかわるときがあり みえかくれするかおも いっときのあかし なきましたか、どうですか おのれではないもので うしろがみちていて みえるのはただ先頭のみ これまたうらがなしい 舟のさだめみたいに
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