「よろしければお聞かせ下さい、雨は止(や)みそうにありませんし」。 むかし妻に去られ幼い息子にも会えなくなっている六五歳の依頼人熊埜御堂(くまのみどう)氏が、都心からやや離れて景気も悪そうな場所にある探偵事務所の枕木所長にそう切り出してみた。過去にあった別の案件を思いだしながら、枕木は淡々と語る。こちらは、母親を亡くした息子が、生前の母をめぐるある謎を理解しようと依頼してきたという。 どちらの話も、いわば時効が来ているような相談で、依頼人の記憶の底の方を刺激する疼(うず)きに似た感傷が来訪のきっかけになっている意味では、一脈通じていると言えよう。作者には推理小説のように、経緯を聴きながら畳みかけていく書き方もあっただろう。けれど、枕木は理詰めで依頼人と渡り合う男ではない。我々読者も、推理小説を読むような張り詰めた雰囲気に身をゆだねる代わりに、ひたすら枕木と客人と途中からクリーニング屋から戻

真利子、マユミ、真美子、美紀子、美也子、三枝子、美果子。主人公の名にＭの音が欠けているときには、それを補うかのように三崎や村田という男が登場する。 女性名におけるこのマ・ミの氾濫は、物語には関係ない。関係ないままある種の粒をそろえる作用を担っていて、彼女たちにはどこか似たところがある。 やや長めの七つの短編を集めた１冊だ。反復されるパターンには、すぐに気づくだろう。同性の友人たち。その均衡に介入する１人の異性。それが単純な三角関係に落ち着くのではなく、多くは四人目のそれなりに重要な登場人物がいる。するとそこにはすでに社会としての広がりが濃縮されたかたちで提示される。 彼女たちはいつも魅力的だ。孤独を恐れず、ルーティーンの中に完璧な瞬間を追求する。甘えたところがなく、かといってそれで魅力を失うこともない。鍛えられた体と物腰。しばしば二つ以上の分野に才能をもつ。アクションが物語を推進させ、思い

◇伊原昭（あき）著（笠間書院・２３１０円） ◇古典文学をときほぐす「色」への尽きぬ想い 先日、三十六年ぶりにトキが野生で孵化（ふか）し、無事に巣立った。これは絶滅危惧種を救うと同時に、朱鷺（とき）色という色をも救う、大きな出来事である。鳥の名を付したひとつの色が色として成り立つためには、自然、文化、経済をふくむ、時代のすべての条件が整わなければならない。同時代に生きる者が、色に対してどのように心を寄せ、どのように接するか。鳥と色の関係は、人と言葉に、命そのものにかかわってくるのだ。 本書は、文学と色のかかわりについて地道な研究を重ねてきた著者の、成果というより「想（おも）い」の精髄をまとめたものである。さまざまな媒体で語られた「色へのことば」。大切なのは、色の言葉ではなく、色への言葉、色と自分との近さ遠さを、いま一度見きわめようとする姿勢である。 神話の時代から、色はことばとともにあった。

◇〓島（ぬでしま）次郎・著（岩波書店・２８３５円） ◇「精神外科」の医学的根拠を追う ロボトミーと聞くと、ある年齢以上の方はギクッとなさるのではないだろうか。てんかんや統合失調症など精神疾患の医療として行なわれた前頭前野の白質切截（せっせつ）手術である。 一九三五年にポルトガルで始まり、六〇年代まで欧米を中心に行なわれた。薬物や心理療法では治癒しない患者への最後の選択肢として、米国では、年間五〇〇〇件ほど行なわれていた。しかし、機能の解明不十分の中での施術であり、効果、安全性共に評価が困難なうえ、七〇年代、暴徒や受刑者への施術などから非難が生まれ、ほとんど行なわれなくなった。

◇ホンモノは本当に面白い二冊。 ◆『藤森照信の茶室学』藤森照信・著（六燿社／税込み３１５０円） ◆『大相撲新世紀２００５−２０１１』坪内祐三・著（ＰＨＰ新書／税込み７７７円） これは自慢してもいいことだと思うのだが、私は友人にめぐまれている。 この頁で、再三くどいように言っているけれども「私は読書家」ではない。本を読むのも遅いし、したがって毎月たくさんの本を読んでいるわけではない。 ところが、面白い本は必ず読んでいるのだ。どうしてかというと、友人たちが次々に「面白い本」を刊行するからである。 こういうページを「仕事」としてまかされたなら、努力をするべきであろう、とは私も思う。けれども、努力せずとも「面白い本」が毎月手許に届くのだ。 今月最高に面白かったのは坪内祐三さんの『大相撲新世紀２００５−２０１１』である。私はあんまり一般的な趣味の持ちあわせのないほうだが、コドモの頃から相撲が好きだ。

キリスト教が分からないと、西洋は分からない。ひいては西洋的な社会を前提にした近代社会の理解もあやしくなる。　だが困ったことに、このキリスト教、日本人にとって最も分かりにくい種類の宗教なのだ。そこで大物社会学者２人が、西洋文明と無縁ではいられない現代社会に生きる日本人のために、キリスト教の核心を問答形式で解き明かしたのが本書だ。　ユダヤ教を土台に生まれたキリスト教を、まず一神教とは何かという視点で解説。そこから他の一神教と一線を画す「神の子イエス・キリスト」という存在の特異性と、キリスト教がいかに西洋を形作ったかが説き起こされる。知的エンターテインメントとして楽しめる一冊。（講談社現代新書・８８２円）

◇レールが２本あれば、ぶれない 作家、堀江敏幸さんの小説『燃焼のための習作』（講談社）が刊行された。嵐の日、登場人物３人が記憶の糸を手繰り寄せながら会話を続ける。２００５年の長編『河岸忘日抄（かがんぼうじつしょう）』の姉妹編ともいえる作品だ。今年の伊藤整文学賞（小説部門）に選ばれる一方、本の読み手としても活躍し、３月には書評集『振り子で言葉を探るように』（毎日新聞社）を世に問うている堀江さん。新作や、書くことと読むことについて聞いた。【棚部秀行】 異国の川に係留する船での暮らしを描いた『河岸忘日抄』。主人公の「彼」とファクスで交信していた元探偵の「枕木」という男が、『燃焼のための習作』の中心人物になっている。枕木は運河のある街の雑居ビルで、「何でも屋」を開業している。２作は、改行やカギ括弧のない体裁においても共通している。 「枕木という人が今どうなっているのか。髪の量や体形、どんなことを考