AIがかなりの領域で人間を代替していく流れの中、これからの人間は「本質的な問い」に向き合えとか「人間にしかできない価値あることに集中しろ」といった言葉をよく聞くようになった。得意げな顔で、クリエイティブな仕事とか、人間関係の構築とか、感情とか、そういうのが人間の本丸かのように語られる。
だがそんな言説に意味はあるのか。
そもそも「本質的」ってなんだ。AIがたまたま今できないことを「本質的」として後からラベリングしてるだけじゃないのか。
AIがどこまでできるかが基準になっていて、人間の価値はその残りカスに押し込められてる。
たとえば事務作業や文章要約、議事録の作成までAIがやるようになると、それらは「効率化されるもの」としてもう人間がやる意味はないとされる。しかしそれらはついさっきまで人間の仕事だった。
文章も絵も音楽もプログラミングも、高度な専門知識を活かした問題解決も、経験による総合的判断も、ちょっと前まで「創造的」と言われていた、あるいは今かろうじて呼ばれているがすぐに呼ばれなくなるであろうこと。
それらは実際として創造的ではないのだろうか。
昨日までの価値が今日になって「本質的じゃなかった」と言い換えられていく。
本質とは一体なんなのか。
一昔前まで、機械に置き換えられるのは介護、保育、建設、農業、運送といった「単純労働」だと思われていた。
だがこれらはすぐにはAIに代替できないようだ。人の肉体と、人の時間が必要になる仕事。
であるならばこれらの仕事こそが「本質的な価値」と考えてよいものだろうか。
だが、そこにはわずかばかりの真理を見出すことはできないだろうか。
身体性のある行為。誰かの体温を感じること、自分の筋肉を動かして何かを変えること、それが社会のどこかに作用すること。そういうものが、結局のところ人間らしさの核なのではないか。精神とか知性とかは、道具として発展してきたけれど、それを動かしてるのは結局、血が通った肉体でしかない。
人間の本質を「問いを立てること」に求める人がいる。考えること、悩むこと、哲学すること。もちろんそれも人間的な営みのひとつだ。
ただ、それを「本質」と呼び出すとどうしてもAIとの対比が透けて見える。機械にはできないから、こっちが本物だ、というような。
だが、もし人間の本質が本当に肉体にあるのだとしたら、それはAIとは別の方向への道になる。
もっと地に足のついたもの、たとえば手で触れる感触、重さ、痛み、汗。そういう感覚的なものが、人間を人間たらしめている。
それが失われると、どれだけ考えていても人間であるとは言い切れなくなる。
AIが進化するほどに精神のほうが薄れていき、身体が残るというのは皮肉だ。でも、それが現実だ。思考するだけの存在に人間はなれないし、なるべきでもないのかもしれない。触れること、動くこと。そっちにこそ人間としてのリアリティがある。