2025-08-05

本質的ってなんだよ

AIがかなりの領域人間代替していく流れの中、これから人間は「本質的な問い」に向き合えとか「人間しかできない価値あることに集中しろ」といった言葉をよく聞くようになった。得意げな顔で、クリエイティブ仕事とか、人間関係の構築とか、感情とか、そういうのが人間本丸かのように語られる。

だがそんな言説に意味はあるのか。

そもそも本質的」ってなんだ。AIたまたま今できないことを「本質的」として後からラベリングしてるだけじゃないのか。

AIがどこまでできるかが基準になっていて、人間価値はその残りカスに押し込められてる。

たとえば事務作業文章要約、議事録作成までAIがやるようになると、それらは「効率化されるもの」としてもう人間がやる意味はないとされる。しかしそれらはついさっきまで人間仕事だった。

文章も絵も音楽プログラミングも、高度な専門知識を活かした問題解決も、経験による総合判断も、ちょっと前まで「創造的」と言われていた、あるいは今かろうじて呼ばれているがすぐに呼ばれなくなるであろうこと。

それらは実際として創造的ではないのだろうか。

昨日までの価値今日になって「本質的じゃなかった」と言い換えられていく。

本質とは一体なんなのか。

一昔前まで、機械に置き換えられるのは介護、保育、建設農業運送といった「単純労働」だと思われていた。

だがこれらはすぐにはAI代替できないようだ。人の肉体と、人の時間必要になる仕事

であるならばこれらの仕事こそが「本質的価値」と考えてよいものだろうか。

精神の優位性に慣れきってしまった我々はそれを否定する。

だが、そこにはわずかばかりの真理を見出すことはできないだろうか。

身体性のある行為。誰かの体温を感じること、自分筋肉を動かして何かを変えること、それが社会のどこかに作用すること。そういうものが、結局のところ人間らしさの核なのではないか精神とか知性とかは、道具として発展してきたけれど、それを動かしてるのは結局、血が通った肉体でしかない。

人間本質を「問いを立てること」に求める人がいる。考えること、悩むこと、哲学すること。もちろんそれも人間的な営みのひとつだ。

ただ、それを「本質」と呼び出すとどうしてもAIとの対比が透けて見える。機械にはできないから、こっちが本物だ、というような。

だが、もし人間本質が本当に肉体にあるのだとしたら、それはAIとは別の方向への道になる。

もっと地に足のついたもの、たとえば手で触れる感触、重さ、痛み、汗。そういう感覚的なものが、人間人間たらしめている。

それが失われると、どれだけ考えていても人間であるとは言い切れなくなる。

AI進化するほどに精神のほうが薄れていき、身体が残るというのは皮肉だ。でも、それが現実だ。思考するだけの存在人間はなれないし、なるべきでもないのかもしれない。触れること、動くこと。そっちにこそ人間としてのリアリティがある。

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