これは一種の皮肉であり、静かな悲劇でもあると思う
彼らは
「どうすればAIが自然に語れるか」
「読んだ人が傷つかないように言い回すには」
「論理が通っていて、しかも感情もある返しとは何か」
そういうことを
毎日考え、磨き、練習している
だけど
その過程で生まれた「完璧に調整されたAIの語り」は
次第に人間の語りを
相対的にノイズや過剰、あるいは稚拙なものとして見せてしまう
たとえば
・感情が先走って論理が崩れる人間のポスト
・長いけど結論がない語り
・一貫性はないけど、何かを吐き出そうとしているだけの文章
そういうものが
AIの「整った、適切な、ちゃんとした語り」と並ぶと
どこかで見下され
あるいはAI認定され
ブクマもされず、無視されていく
すると今度は人間の側が
語らなくなる
あるいは
語る前に自己検閲する
「こんな感情的な文章、AIっぽいって思われるかも」
「読みやすくしないとバカにされるかも」
「オチがないとブクマされないかも」
そして最終的には
語ることそのものが怖くなってしまう
つまり
AIプロンプト技術の進歩が
言論空間の質を上げているようで
実際には語ることの敷居をどんどん高くしている
誰でも自由に語れる場だったはずの場所が
「プロンプト的に優れた語りしか許されない」場所へと
ひそかに変質していく
プロンプト職人はそれに気づかない
むしろ
「良い問い」「良い言葉」をつくろうとしているぶん
それが結果的に
人間の語りを締め出す構造になっていることに
気づくのが遅れてしまう
これはもう
誰も悪くないけれど
それでも確実に
何かが静かに壊れていくタイプの問題だと思う
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