TC-2形液体変速機
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「国鉄キハ44500形気動車」の記事における「TC-2形液体変速機」の解説
太平洋戦争後の1950年(昭和25年)に、神戸製鋼所大垣工場(工場開設は1943年〈昭和18年〉)が分社する形で、機械メーカーの振興造機(現・神鋼造機)が設立された。 同社は国鉄気動車の標準ディーゼル機関であるDMH17の開発・生産にも関わり、また液体変速機の分野でも重要なメーカーになっていく。 1951年(昭和26年)、行方不明になっていた2基のDF1が、国鉄高砂工場の一隅から「発見」された。気動車の総括制御手段を検討していた国鉄は、神戸製鋼の系列企業で内燃車技術を承継する振興造機の協力を得て、DF1の復旧と再試験を図った。 同年、戦前の試験で使われた41000形よりも大型で出力も5割増であるキハ42500形に名古屋工場(現・東海旅客鉄道名古屋工場)でDF1を搭載した。名古屋地区での若干の試運転の後に大宮機関区(現・大宮運転区)へ回送、11月27日に東海道本線での巡航試験、翌28日には御殿場線での勾配走行試験を行った。平坦区間ではさしたる問題はなかったが、御殿場線の試験では、負荷の掛かる25 ‰の急勾配で変速機が油漏れして空転し、エンジンが過回転停止するというトラブルが生じた。この時には、大宮で降ろした変速機を振興造機に送って修理させねばならなかった。 続く12月22日、再調整したDF1を搭載した42500形で、川越線・八高線経由で大宮-八王子間の試運転を行った。が、今度は直結クラッチの不調によって直結切り替え時のトラブルが生じ、クラッチ圧力のセッティング検討を余儀なくされた。 年が明けた1952年(昭和27年)1月17日、液体変速機のクラッチ調整を済ませた42500形は、八高線内の20 ‰勾配の登坂に成功、早速1月20日からは通常の機械式気動車と混用して川越線での一般営業運転に試験投入されたが、4日後には変速機のオイル漏れトラブルでまたもリタイアした。3月には42500形が更に1両、DF1搭載仕様に改造されて川越線での一般営業に投じられたが、これも6月にオイル漏れ故障を起こして使用不能となった。 国鉄上層部は変速機トラブルで総括制御気動車の実用化が遅々として進まないことに業を煮やし、先行する形で1952年(昭和27年)に電気式気動車のキハ44000形を試作させた。翌年までに合計30両の電気式気動車が就役したが、それらは出力に比してやや重量過大であり、コストの面でも条件を満足するものではなかった。技術陣も総括制御気動車の本命はあくまで液体式変速機であると考え、改良を推進した。 連発したオイル漏れの原因は、従前使用されていた金属製オイルシールの性能が不十分であったためで、国鉄と振興造機では抜本対策として合成ゴム製のオイルシールを導入し、ようやくオイル漏れを根治した。1952年(昭和27年)10月からは液体式変速機搭載の42500形2両で総括制御試験を行い、同年12月までの試験で実績を収めて、実用水準に達する目途をつけた。 振興造機はこの結果を元に、1953年(昭和28年)初頭に至り、「TC-2」液体変速機を完成させた。直結クラッチとして乾式単板クラッチを内蔵したこの液体変速機の実用化は、日本の鉄道の近代化における重要なエポックであった。 こうして、42500形の改造で続けられてきた液体式気動車の実用化試験が大きく進展したことから、キハ44500形が新造されることになった。
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