一時帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 16:43 UTC 版)
『一時帰国』 | ||||
---|---|---|---|---|
新しい学校のリーダーズ の ミニ・アルバム | ||||
リリース | ||||
ジャンル | J-POP | |||
時間 | ||||
レーベル | ATARASHII GAKKO! | |||
チャート最高順位 | ||||
| ||||
新しい学校のリーダーズ アルバム 年表 | ||||
| ||||
『一時帰国』収録のシングル | ||||
ミュージックビデオ | ||||
「じゃないんだよ」 - YouTube 「青春を切り裂く波動」 - YouTube 「Suki Lie」 - YouTube 「オトナブルー」 - YouTube |
『一時帰国』(いちじきこく)は、新しい学校のリーダーズの配信限定EP。2023年4月12日にリリース。
解説
2021年の『SNACKTIME』以来、約1年5か月ぶりのアルバムリリースで、配信限定シングル「オトナブルー」と「じゃないんだよ」を含めた全7曲を収録[3]。
近年は海外の音楽プロデューサーと組む事が多かったが、本作は全曲日本人クリエーターによるプロデュースとなっており、1st・2ndアルバムをプロデュースしたH ZETT Mが約4年ぶりに楽曲を提供している[4][5]。
発売週にiTunes総合アルバムランキングで初登場1位を獲得する[6]。
同年12月13日、本作のCD媒体での再リリースとなる『一時帰国 DELUXE』が発売。こちらは「オトナブルー」のリミックス版となる「オトナブルー(ハイパースクールRemix)」が追加収録されている[7]。
収録曲
- じゃないんだよ [2:59]
- 作詞・作曲・編曲:jon-YAKITORY
- 映画「ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー」主題歌
- 青春を切り裂く波動 [3:33]
- Leminoドラマ『対ありでした。~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』主題歌
- ミュージック・ビデオのロケ地は「Official Music Video」、「Official Choreography Video」ともに鳥取県鳥取市内で撮影されている[8]。
- Giri Giri [3:05]
- 作詞・作曲・編曲:yonkey
- Suki Lie [3:15]
- 作詞・作曲・編曲:yonkey
- オトナブルー [3:04]
- 作詞:新しい学校のリーダー達 / 作曲・編曲:yonkey
- 乙女の美学 [4:16]
- 作詞:新しい学校のリーダー達 / 作曲・編曲:H ZETT M
- 踊る本能001 [3:17]
- 作詞:新しい学校のリーダー達 / 作曲・編曲:H ZETT M
- オトナブルー (ハイパースクールRemix) [2:54]
- 作詞:新しい学校のリーダー達 / 作曲・編曲:yonkey
- ※DELUXE版追加収録
脚注
- ^ 新しい学校のリーダーズ、EP『一時帰国』がiTunes総合アルバムランキング1位を獲得
- ^ 【ビルボード】新しい学校のリーダーズ『一時帰国』、1,903DLで自身初のダウンロード・アルバム首位
- ^ “新しい学校のリーダーズ / 一時帰国”. ワールドアパート. 2023年5月29日閲覧。
- ^ NEW EP「一時帰国」OUT NOW!
- ^ OTOTOY ハイレゾランキング[2023.4.12 - 18]新しい学校のリーダーズ『一時帰国』が1位に登場!
- ^ “本日4月12日にリリースされた新しい学校のリーダーズのEP『一時帰国』がiTunesの総合アルバムランキング1位を獲得しました。”. アソビシステム. 2023年5月29日閲覧。
- ^ 新しい学校のリーダーズ|ニューEP『一時帰国 DELUXE』12月13日発売
- ^ 「新しい学校のリーダーズ」鳥取でMV撮影
- ^ みんなのうた 踊る本能001~ダンスではみ出せ!バージョン
- ^ True ColorsDANCE2024、やり遂げました!
一時帰国(1935年 - 1951年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 19:45 UTC 版)
「青山義雄」の記事における「一時帰国(1935年 - 1951年)」の解説
1935年、41歳で青山は一時帰国した。パリで成功した画家として青山は日本でもてはやされた。翌年には梅原龍三郎の強い勧誘で国画会会員となり滞欧作品27点を出品。第1回佐分賞を受賞し、高い評価を得た。 1937年には国画会審査員となり、青山がよき先輩として終生尊敬した梅原と並んで国画会の大看板となった。だが、世間の評価とは逆に青山は画壇のくだらぬ権力闘争や主導権争いに疲れていく。早く南仏に戻りたかったが、第二次世界大戦へ突き進む荒れた世情がそれを許さなかった。 1941年に青山は疎開を兼ねて房総半島の勝浦市鵜原に引っ越した。房総は画家たちに人気があり、青山も南仏の雰囲気を鵜原に求めた。同年、ついにアメリカと開戦。物資が窮乏し、制作も困難になっていった。終戦後、さらに状況は悪化する。絵も売れず、食べるものもない中で、それでも青山は絵の本質を求めた。 1949年、北海道に住む親友に対する手紙の中で青山はこんなことを書いている。「此頃はヂット食べて行くだけの絵も売れません。売約したものも破約して来ます。支払はおくれます。(中略)こんな時代があって日本の絵も少しはよくなるかもしれません。少なくとも我々孤独派の仕事は深められませう」(原文通り)
※この「一時帰国(1935年 - 1951年)」の解説は、「青山義雄」の解説の一部です。
「一時帰国(1935年 - 1951年)」を含む「青山義雄」の記事については、「青山義雄」の概要を参照ください。
「一時帰国」の例文・使い方・用例・文例
- 一時帰国のページへのリンク