捜索隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)
残っていた遠征隊員は(まだ遠くにあったキャンベルの北隊は除く)は冬の間、エバンス岬で待機し、科学的作業は続けた。春になってアトキンソンが先ず考えなければならなかったのは、キャンベル隊に救いの手を差し伸べるべきか、南極点行隊の運命を確認すべきかということだった。全員の会合で、まずスコットの兆候を探すべきと決めた。捜索隊は10月29日に出発した。前年夏に補給のために来航したテラノバから陸揚げしたラバのチームを連れて行った。11月12日、救援隊は1トン・デポから11マイル (18 km) 南で、スコット、ウィルソン、ボワーズの凍った遺体の入ったテントを発見した。アトキンソンはスコットの日記の最後の部分を読み、災難の全容が明らかになった。日記の他に個人的な遺品や記録が集められテントを遺体の上で畳み、雪のケアンが立てられた。その上にはグランのスキーで作った十字架が立てられた。捜索隊はさらに南でオーツの遺体を探したが、寝袋が見つかっただけだった。11月15日、オーツが死んだと考えられる場所近くにケアンを立てた。 捜索隊は11月25日にハットポイントに戻って来て、キャンベルの北隊が自ら脱出して来て無事基地に戻って来たことが分かった。 1913年2月10日早朝、エドワード・アトキンソン博士とハリー・ペネル大尉がニュージーランドのオマルー港に入り、そこから遠征隊のニュージーランド代理人ジョセフ・キンゼイにコード化されたメッセージを送って、スコットとその隊の運命を伝えた。アトキンソンとパネルは明るくなるまで町で待った後、列車の乗ってクライストチャーチに近いリトルトンでテラノバを迎えに行った。
※この「捜索隊」の解説は、「テラノバ遠征」の解説の一部です。
「捜索隊」を含む「テラノバ遠征」の記事については、「テラノバ遠征」の概要を参照ください。
「捜索隊」の例文・使い方・用例・文例
- 捜索隊のページへのリンク