鎌倉前期(発祥期~備中西遷)
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「三村氏」の記事における「鎌倉前期(発祥期~備中西遷)」の解説
三村氏の歴史は少なくとも鎌倉時代初期まで辿ることができるが、もともとは常陸国筑波郡三村郷の開発領主もしくはその縁者と思われ、鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかった。 『吾妻鏡』では、暦仁元年(1238年)に将軍藤原頼経上洛に隋兵した三村親泰や、建長3年(1251年)1月3日の椀飯行事で「五の御馬」や建長6年(1254年)元日の椀飯行事で「四の御馬」を曳いた三村時親などをはじめ、「親」を通し字とする数名の三村氏が既に確認できる。 ちなみに、建長3年1月3日の椀飯行事で一の御馬を曳いたのは足利氏、二の御馬は畠山氏、三の御馬は佐原氏、四の御馬は二階堂氏で、建長6年元日の椀飯行事で一の御馬を曳いたのは北条氏(教時・時基)、三の御馬を曳いたのは伊東氏、五の御馬を曳いたのは北条氏(時定)・工藤氏であり、これら有力御家人の中にあって三村氏も鎌倉幕府内で一定の地位は認められていたようである。 三村氏は御門葉でもなく北条氏姻戚でもなかったが故に目立つこともなく、逆に北条氏による有力御家人排斥の圧力にも遭わず命脈を保てたと思われる。 伝承によれば、小笠原長経三男の長時(「長持」とする小笠原系図も一部にあるが、写本時の誤記であろう)が筑波郡三村郷に移り、その子・親時の頃より三村氏を称したという。 三村郷には長時の叔父にあたる小田清家(小笠原長清の五男)がいたとされ、その関係で長時は三村郷に縁が出来たのではないかとも言われる。 三村郷を苗字発祥の地とする長時の子孫は、承久の乱後に信濃国筑摩郡洗馬荘の地頭(いわゆる新補地頭)になったとされる(信濃三村氏)。この係累は後庁氏など分流を派生しつつ、以後小笠原氏家臣・武田氏家臣として、信濃を中心に一定の活躍をみた。 その信濃三村氏の一流が鎌倉時代後期までに備中星田郷の地頭(新補地頭)となって当地に移住したことにより、備中三村氏の歴史が始まる。 いわゆる西遷御家人である。
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鎌倉前期(1185-1223)
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「鎌倉文化」の記事における「鎌倉前期(1185-1223)」の解説
興福寺南円堂不空羂索観音坐像(奈良県奈良市、国宝) 運慶の父康慶の代表作である。1188年(文治4年)より康慶の一門が総力をあげて再興にとりかかり、翌年供養を遂げた。康慶は興福寺南円堂の諸仏をつくったが、この不空羂索観音坐像は南円堂の本尊である。カツラ材の寄木造で漆箔を施し、像高341.5センチメートル、三目八臂の巨像である。奈良彫刻の古典的な要素にたくましい造形がくわわって新しい様式の先駆がうかがわれる。南円堂には、やはり康慶一門による法相六祖像が安置され、ともに国宝となっている。同じく康慶一門によって造像された四天王像は現在南円堂に安置される像ではなく、中金堂にある四天王像がそれにあたるとされている。 東大寺南大門金剛力士像(奈良県奈良市、国宝) 運慶とその弟子快慶らによる鎌倉彫刻の最高傑作と目される寄木造の金剛力士(仁王)像である。1203年(建仁3年)の制作で使用材はヒノキである。解体修理の過程で、墨書銘や像内納入品が発見され、運慶・快慶以外に定覚、湛慶も制作にかかわっていたことが判明したが、全体の構想は運慶によるものと考えられる。口をあけた阿形と閉じた吽形の二体一対(→阿吽参照)で構成される。阿形像から発見された墨書銘に運慶と快慶の名があり、吽形像の納入品の経巻に定覚と湛慶の名があったことから、運慶と快慶は阿形像、定覚と湛慶は吽形像の制作にたずさわったと推定される。寄木造で徹底した分業によってつくられ、像高は8メートルを超える。着手よりわずか69日間という驚くべき短期間で制作されたことでも知られる。 願成就院阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(静岡県伊豆の国市、国宝) 運慶が1186年(文治2年)、北条時政のために造った諸像。 浄楽寺阿弥陀如来及両脇侍像、不動明王立像、毘沙門天立像(神奈川県横須賀市、重要文化財) 運慶が1189年(文治5年)小仏師10人を率いて、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛のために造った諸像。ヒノキ材の寄木造で漆箔が施されている。 興福寺北円堂弥勒仏坐像(奈良県奈良市、国宝) 北円堂の本尊で、運慶の指導のもとに一門の仏師によって制作された、慶派の本領がみられる作品である。運慶晩年の1208年(承元2年)から1212年(建暦2年)にかけて制作された。カツラ材の寄木造で、従来の彫刻史の集大成をなす記念碑的な作との評価もある。 興福寺北円堂無著・世親像(奈良県奈良市、国宝) 1212年(建暦2年)に運慶の指導のもとで制作された肖像彫刻。上述の弥勒仏像の左右に、それぞれ片足を弥勒仏に踏み出した形で安置されている。カツラ材を用いた寄木造で玉眼を嵌入する。無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟は5世紀ころ、北西インドのガンダーラに生まれ大乗仏教唯識派(法相宗)の教義を確立した思想家。肖像の実際のモデルは不明ながら、写実性の高い像として古来著名である。弥勒仏坐像の台座の銘によれば、世親像は運慶五男運賀、無著像は六男運助の担当と推定される。しばしば日本肖像彫刻の最高峰と評される傑作である。 金剛峯寺不動堂八大童子像(和歌山県伊都郡高野町、国宝) 不動堂の本尊不動明王像(平安時代作)に随侍する八大童子で、運慶作と推定される。制多迦童子、慧光童子、矜羯羅童子など6体が現存する(残り2体は後補)。玉眼が嵌入されており、いずれも保存状態が良好で金箔地なども用いた鮮やかな彩色がよくのこっている。 六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像(京都市東山区、重要文化財) 「夢見地蔵」と通称される。銘文はないが、像にまつわる伝承やその作風等から運慶晩年の作とされる木像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院に伝世し、さわやかで理知的な地蔵の表情や鋭利な印象の衣文の造形が運慶の真作とされる所以である。 浄土寺浄土堂阿弥陀如来及両脇侍立像(兵庫県小野市、国宝) 浄土門の信者であった快慶(安阿弥陀仏)が重源のために造った丈六阿弥陀仏と脇侍像で、重源の意図する宋風を具現化するために宋画にもとづいて造られた。寄木造で漆箔が施されている。浄土寺は東大寺再興のための播磨別所であった。夕日を後光のように背負うかたちで金色の巨像が湧雲の上に立つ姿は、西方浄土から阿弥陀三尊が立ち姿で来迎する場面を表現しており、きわめて荘厳な効果をあげている。快慶は、ここにおいて「安阿弥様」と称される独自の様式を完成し、従来の漆箔とは異なる金色相の表現を思い切って取り入れた。この西方の夕日を後光に見立て取り入れる手法は、時を経て平成時代に入り、安藤忠雄により1991年に竣工した兵庫県淡路市にある真言宗御室派の別格本山である本福寺本堂の水御堂に踏襲された。 東大寺重源上人像(奈良県奈良市、国宝) 東大寺復興をさまざまな困難にうちかってなし遂げた重源の肖像。初対面の九条兼実に「もっとも貴敬すべし」といわせた真摯な人柄を彷彿とさせる。1206年(建永元年)の重源の死後、間をおかず慶派の仏師によって制作されたとみられる。左目をやや小さく表現するなど重源晩年の姿を写実しており、重源死没後間もない作と考えられている。 東大寺勧進所僧形八幡神像(奈良県奈良市、国宝) 快慶が1201年(建仁元年)に制作。明治の神仏分離までは東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の神体であった。僧侶の姿をしており、神仏習合の特色を示す。まるで肖像と見えるほど写実的で表情も豊かであり、整いのなかにも神威が表現されている。鮮やかな彩色もよく残っている。神像のためか玉眼はおこなわず、また、二材を中央で矧(は)ぎ寄せている。 東大寺地蔵菩薩立像(奈良県奈良市、重要文化財) 快慶作。やさしい表現をした顔、均整のとれた体躯や流れるような美麗な衣文など全体的に柔らかさの感じられる地蔵の立像で、淡い彩色もよく残っている。寄木造。 興福寺金剛力士像(奈良県奈良市、国宝) 定慶の作と伝わり、制作年代は13世紀初頭と推定される。寄木造で玉眼が嵌入されている。興福寺西金堂の壇上守護のためにつくられたほぼ等身大の像で、写実性に富み、筋肉は隆々として力動感にあふれている。一部に塑土を盛り上げ、かたちを整えている。 興福寺東金堂維摩居士坐像・文殊菩薩坐像(奈良県奈良市、国宝) 維摩居士坐像の像内に銘記により、1196年(建久7年)仏師定慶の造立と知られ、同期に造られたとみられる文殊菩薩坐像と一対をなしている。『維摩経』のなかの病んだ維摩居士を文殊菩薩が見舞う一節を写実的に表現している。口をひらいて法論を挑む老いた病維摩に対し、それを黙って聞く若々しい文殊の姿が対照的である。 興福寺天灯鬼・竜灯鬼像(奈良県奈良市、国宝) 竜灯鬼像は運慶三男康弁の作。天灯鬼像も康弁かその周辺の作とみなされる。表情と身振りの巧みさにより、力強さのなかにも洗練されたユーモアと軽妙さがあり、評価の高い作品である。鬼は想像上の生きものであるが、その造形は人物を手本に写実的に表現したものであり、鬼のすがたのなかにも生き生きとした人間的な感情が感じられる。ヒノキ材の寄木造で天灯鬼は朱彩、竜灯鬼は緑青彩が施される。前者に植毛痕があり、また後者には植毛痕のほか、眉に銅板、牙に水晶、竜の背びれに獣皮を用いるなどの細かい工夫が施されている。 文殊院文殊菩薩騎獅像及脇侍像(奈良県桜井市、国宝) 快慶作。文殊院は「安倍の文殊」として有名な華厳宗寺院。巨大な獅子にまたがる総高約7メートルの文殊菩薩像を善財童子、優填王、維摩居士(最勝老人)、須菩提(仏陀波利三蔵)の4体の脇侍が取り囲む文殊五尊像である。像の完成と供養は、像内銘によれば1203年(建仁3年)、像内納入品の経巻奥書によれば1220年(承久2年)だが、作風は建仁年間のころのものを示しているとされる。寄木造で彫眼、肉身は金泥塗、衣には彩色を施している。なお、維摩居士像は後世の補作である。
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