北条時政とは? わかりやすく解説

ほうじょう‐ときまさ〔ホウデウ‐〕【北条時政】

読み方:ほうじょうときまさ

11381215鎌倉幕府初代執権在職1203〜1205。源頼朝の妻政子の父。通称四郎頼朝の挙兵助け鎌倉幕府創業貢献頼朝死後2代将軍頼家謀殺して実朝擁立初代執権として幕政実権握ったが、のち、実朝を除く計画失敗して引退した

北条時政の画像

北条時政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/15 04:59 UTC 版)

 
北条 時政
『大日本六十余将』の北条時政。画:歌川芳虎
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 保延4年(1138年
死没 建保3年1月6日1215年2月6日
別名 北条四郎
戒名 願成就院明盛
墓所 伊豆の国市寺家願成就院
官位 駿河伊豆守護従五位下遠江
幕府 鎌倉幕府十三人の合議制京都守護、初代執権
主君 源頼朝頼家実朝
氏族 北条氏桓武平氏直方流
父母 父:北条時方時兼
母:伊豆掾伴為房の娘
兄弟 時定?
伊東祐親の娘
牧の方
宗時政子時子義時阿波局時房稲毛女房政範畠山重忠室(後に畠山義純[注 1])、平賀朝雅室(後に藤原国通室)、三条実宣室、宇都宮頼綱室、坊門忠清室、河野通信室、大岡時親室?
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北条 時政(ほうじょう ときまさ、平 時政[1](たいらの ときまさ))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将鎌倉幕府初代執権北条氏の一門。伊豆国の在地豪族北条時方もしくは北条時兼の子。北条政子北条義時の父。得宗家初代当主。

家系桓武平氏平直方流を自称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の豪族出身という説もある。

名称

北条時政ではなくもっぱら「北条四郎」を名乗り、「北条殿」と呼ばれ、正治2年(1200年)4月の任官後は「遠州」と呼ばれている(『吾妻鏡』)[1]。ただし「北条四郎」の呼称は当時の史料に基づくものだろうが、「北条殿」は鎌倉後期の『吾妻鏡』編纂時にすでに覇権を確立していた北条氏の祖の呼称として工夫したものだろうとの見解もある。源頼朝の生前には無位無官だった時政は官位を有する御家人[注 2]より序列が下であり、通称である「北条四郎」の名が官位を有する御家人の「三河守」「左衛門尉」などより上にあるのは不自然なため、『吾妻鏡』は「北条殿」の呼称を工夫したのではないかとの推測である[2]

家系

北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。時政以前の系譜は系図により全て異なるため、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。ただし祖父が北条時家、父が時方または北条時兼という点は諸系図でほぼ一致している。

吾妻鏡』は40歳を越えた時政に「」や都の官位等を付けず、「豪傑」とのみ記していた。また、時政は保有武力に関しても石橋山の戦いの頼朝軍の構成を見る限り突出した戦力を有していたとは言いがたく、時政は北条氏の当主ではなく傍流であり、国衙在庁から排除されていたのではないかとする見解がある。ただし河越太郎重頼(武蔵国留守所惣検校職)、小山四郎政光(下野大掾)のように国衙最有力在庁でも太郎・四郎と表記される例や、後年の護良親王令旨や吉田定房の『吉口伝』のように時政を在庁官人とする史料もある。また北条氏の本拠は国府のある三島狩野川流域に近接して軍事・交通の要衝といえる位置にあり、国衙と無関係とするのは考えがたく、時政は在庁官人であった可能性が高い。また京において時政の眼代(代官)として活躍し、左兵衛尉の官職を持つ北条時定が北条氏の嫡流で、傍流の時政が在庁していたとする説もあった[3]が、現在では系図の分析から時定は時政の弟[4]または従弟[5]と考えられている。

いずれにしても、時政の前半生および内乱以前の北条氏については謎に包まれている。ほぼ一代で天下第一の権力を握るに至ったにもかかわらず、兄弟や従兄弟が時定以外は歴史に登場してこない(粛清された記録も無い)。そのため、不遇の死であったにもかかわらず、得宗家以外にも名越金沢大仏などの名で大きく枝葉を広げていく北条一族はすべて時政一人の系統(息子のうち義時と時房の系統)である。

生涯

頼朝の舅

柳庵随筆(日本随筆大成第2期第9巻)の時政。画:栗原信充

平治の乱で敗死した源義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流されたことによりその監視役となる。妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧を知行していた[注 3]。やがて頼朝と娘の政子が恋仲となった。当初この交際に反対していた時政であったが、結局2人の婚姻を認めることとなり[注 4]、その結果頼朝の後援者となる[注 5]

治承4年(1180年)4月27日、平氏打倒を促す以仁王の令旨が伊豆の頼朝に届くが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし源頼政の敗死に伴い、伊豆の知行国主平時忠に交代すると、伊豆国衙の実権は伊東氏が掌握して工藤氏や北条氏を圧迫した。さらに流刑者として伊豆に滞在していた時忠の元側近山木兼隆が伊豆国目代となり、また頼政の孫・有綱は伊豆にいたが、この追捕のために大庭景親が本領に下向するなど、平氏方の追及の手が東国にも伸びてきた。自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に協力を呼びかけた。時政は頼朝と挙兵の計画を練り、山木兼隆を攻撃目標に定めた。挙兵を前に、頼朝は工藤茂光土肥実平岡崎義実天野遠景佐々木盛綱加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らに自分だけが特に頼りにされていると思わせ奮起させたが、「真実の密事」については時政のみが知っていたという(『吾妻鏡』治承4年8月6日条)。

挙兵

8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。この襲撃の後、頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。北条時政父子も他の伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。

頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。一方の時政は、途中経過は文献によって異なるが[注 6]、いずれにせよ頼朝とは一旦離れて甲斐国に赴き、同地で挙兵した武田信義ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。その後、佐竹氏征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している。

亀の前事件

治承4年(1180年)末以降、時政の動向は鎌倉政権下において他の有力御家人の比重が高まったこともあり目立たなくなる。寿永元年(1182年)、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の父または兄である牧宗親に命じて広綱宅を破壊する(後妻打ち(うわなりうち))という事件を起こす。12日、怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。

元暦元年(1184年)も時政は、3月に土佐に書状を出したことが知られる程度でほとんど表に出てこなくなる。この年は甲斐源氏主流の武田信義が失脚しているが、武田信義の後の駿河守護は時政と見られる。駿河には牧氏の所領・大岡牧に加え、娘婿・阿野全成の名字の地である阿野荘もあり、縁戚の所領を足掛かりに空白地帯となった駿河への進出を図っていたと考えられる。

京都守護

文治元年(1185年)3月の平氏滅亡で5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結したが、10月になると源義経行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。10月18日、後白河院は義経の要請により頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。11月24日、頼朝の命を受けた時政は千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。時政が使者として選ばれたのは、頼朝の岳父であるからという説が一般的であるが、元木泰雄野口実は時政と経房の関係が重視されたためではないかとしている[6]。経房の五代孫である吉田隆長の日記『吉口記』には、時政と経房が以前から関係があったことが記されている。在庁官人であった際に罪を得て召籠られてしまった時政は、当時伊豆守であった経房の対応に深く感じ入り、頼朝に経房が賢人であると告げた。このため頼朝は経房を信頼するようになったというものである[6]。経房は頼朝が上西門院蔵人を務めていた際の上司であり、頼朝も経房を深く信頼していたと見られる[7]

時政の任務は京都の治安維持、平氏残党の捜索、義経問題の処理、朝廷との政治折衝など多岐に渡り、その職務は京都守護と呼ばれるようになる。在京中の時政は郡盗を検非違使庁に渡さず処刑するなど強権的な面も見られたが、その施策は「事において賢直、貴賎の美談するところなり」(『吾妻鏡』文治2年2月25日条)、「公平を思い私を忘るるが故なり」(『吾妻鏡』文治2年3月24日条)と概ね好評だった一方で、『玉葉』文治2年3月24日条には「時政は九条兼実に『籍』を提出するために家司の源季長に預けたが、季長は時政の一連の行為に笑ってしまい、『時政は田舎者なので当然やりかねない』と兼実に述べた」とあるように、田舎者として恥をかくこともあった[8]。しかし3月1日になると、時政は「七ヶ国地頭」を辞任して惣追捕使の地位のみを保持するつもりでいることを後白河院に院奏し[注 7]、その月の終わりに一族の時定以下35名を洛中警衛に残して離京した。これは、『吾妻鏡』文治2年2月25日条に見える時政家来による京都での濫妨行為が関係していると見られ、時政が第2の義仲・義経になりうる可能性を含んでいたのである[8]。後任の京都守護には頼朝の義弟一条能保が就任した。時政の在任期間は4か月間と短いものだったが、義経失脚後の混乱を収拾して幕府の畿内軍事体制を再構築し、後任に引き継ぐ役割を果たした。『吾妻鏡』によれば、後白河院は時政の離京を酷く惜しんだとされている[9]

鎌倉に帰還した時政は京都での活躍が嘘のように、表立った活動を見せなくなる。文治5年(1189年)6月6日、奥州征伐の戦勝祈願のため北条の地に願成就院を建立しているが、寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の文治2年(1186年)から造り始められており、本拠地である伊豆の掌握に力を入れていたと思われる。

富士の巻狩り

英雄百首より(『源平盛衰記』巻20に見える、八牧(山木)兼隆を討ったときの歌)

建久4年(1193年)3月、後白河院の崩御から1年が過ぎて殺生禁断が解けると、頼朝は下野国那須野、次いで上野国吾妻郡三原野で御家人を召集して大規模な巻狩りを催した。奥州合戦以来となる大規模な動員であり、軍事演習に加えて関東周辺地域に対する示威行動の狙いもあったと見られる。5月から巻狩りの場は富士方面に移り、駿河守護である時政が狩場や宿所を設営した。ところが5月28日の夜、雷雨の中で、曾我祐成曾我時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を襲撃して討ち取るという事件が勃発する。混乱の中で多くの武士が殺傷され、兄の祐成は仁田忠常に討たれ、弟の時致は頼朝の宿所に突進しようとして生け捕られた(曾我兄弟の仇討ち)。時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もあるが真相は不明である。

伊豆の有力者だった祐経の横死は時政に有利に働いたようで、建久5年(1194年)11月1日、伊豆国一宮である三島神社の神事経営を初めて沙汰している。なお、この年の8月には長年に亘って遠江国を実効支配していた安田義定が反逆の疑いで処刑されているが、安田義定の後の遠江守護は時政と見られる。伊豆・駿河・遠江3か国に強固な足場を築いた時政は、正治元年(1199年)に頼朝が死去すると十三人の合議制に名を連ね、幕府の有力者として姿を現すことになる。時政は頼朝の生前には無位無官であり、御家人の中での序列は必ずしも最上位ではなかった[10]

梶原景時の変

頼朝の死後は嫡子の頼家が跡を継ぐが、頼朝在世中に抑えられていた有力御家人の不満が噴出し、御家人統制に辣腕を振るっていた侍所別当・梶原景時が弾劾を受けて失脚、12月に鎌倉から追放された(梶原景時の変)。

玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士達から恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。時政は弾劾の連判状に署名をしていないが、景時糾弾のきっかけとなったのは時政の娘・阿波局であり、景時一族が討滅された駿河国清見関は時政の勢力圏であることから景時失脚に関与していた可能性が高い。

比企能員の変

正治2年(1200年)4月1日、時政は遠江守に任じられ、源氏一門以外で御家人として初めて守としての国司となった。時政の幕府内における地位は大いに向上したが、将軍家外戚の地位は北条氏から頼家の乳母父で舅である比企能員に移り、時政と比企氏の対立が激しくなった。建仁3年(1203年)7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼす。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した(比企能員の変)。

実朝擁立

時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1379)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられている[11]。また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは十三人合議制あたりからである。ただ、その間に領土的な地盤は拡充されており、旗揚げ時にもわずかな兵しか動かせなかった小豪族・北条家は、三浦や畠山といった大族に対抗し得るだけの軍事力をも蔵するようになってきていた。

時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れた。武蔵国の国務は岳父の時政が代行することになり、侍所別当・和田義盛の奉行により武蔵国御家人に対し、時政に忠誠を尽くす旨が命じられている(『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)。11月には比企能員の変において逃げ延びた一幡が捕らえられ、時政の子・義時の手勢に殺された。

畠山重忠の乱

時政による武蔵支配の強化は、武蔵国留守所惣検校職として国内武士団を統率する立場にあった畠山重忠との間に軋轢を生じさせることになった。『明月記元久元年(1204年)正月18日条によると、京で「北条時政が畠山重忠と戦って敗北し山中に隠れた。大江広元がすでに殺されたとのことだ。」という風聞が流れ、広元の縁者がそのデマに騒ぎ荷物を運び出す騒動になるなど、両者の対立は周知のこととなっていた。3月6日には義時が相模守に任じられ[注 8]、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修善寺で死去したが、『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば頼家は義時の送った手勢により、古活字本『承久記』や『梅松論』では時政の送った手勢により暗殺されたという。

11月5日、実朝が坊門信清の娘(西八条禅尼)を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかり16歳で急死。時政・牧の方鍾愛の子であり牧の方所生唯一の男子であった政範の死が、畠山重忠の乱から牧氏事件へと続く一族内紛のきっかけとなっていく。なお、『吾妻鏡』では実朝の正室を迎える使者として上洛した御家人の代表を政範1人としているが、『仲資王記』元久元年11月3日条によると時政もともに上洛していたことが確認される[12]。『島津家文書』によると、時政は娘婿であった重忠父子を勘当したが、元久2年(1205年)正月に千葉成胤のとりなしによって両者はいったん和解している[13]。しかし6月に時政は娘婿である平賀朝雅・稲毛重成の讒訴を受けて、重忠を謀反の罪で滅ぼした(畠山重忠の乱)。

牧氏事件と失脚

北条時政墓(願成就院

閏7月、時政は牧の方と共謀して将軍の実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした。しかし閏7月19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある[14]。だが最も同時代に近い『愚管抄』では事件の首謀者を一貫して時政としており、『吾妻鏡』は北条氏の祖である時政を擁護するために牧の方を事実以上の悪役に仕立てているとする見解もある[15]。幕府内で完全に孤立無援になった時政は同日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった(牧氏事件)。

この牧氏事件に関しては『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計、『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だったとしている。畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される[注 9]。以後の時政は二度と表舞台に立つことなく政治生命を終えた。

建保3年(1215年)1月6日、腫物のため伊豆で死去した。享年78。

評価

名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、畠山重忠謀殺や実朝暗殺未遂で晩節を汚したためか、子孫からは初代を義時として祭祀から外されるなど、あまり評判は良くない人物である。

時政の孫で第3代執権の北条泰時は清廉で知られ、頼朝・政子・義時らを幕府の祖廟として事あるごとに参詣し、歳末の年中行事も欠かさなかった。しかし時政は「牧氏事件で実朝を殺害しようとした謀反人」として扱われ、仏事は行なわれず、存在を否定されている[16]

邸跡をめぐる動き

昭和15年(1940年)ごろに一部の研究者によって衣張山の麓にある遺跡が時政邸跡であると推定され、以降、神奈川県教育委員会が作成した遺跡地図や遺跡台帳にも「北条時政邸跡」と記されてきた。しかし鎌倉市平成20年(2008年)後半に発掘調査を実施した結果、時政の時代の遺物は発見されず、最も古い遺構でも13世紀後半のものと推測されたため(時政は13世紀前半に没している)、時政邸跡ではない可能性が濃厚になり、平成21年(2009年)になって「大町釈迦堂口遺跡」と名称が変更された。

上記の調査の結果、同遺跡は鎌倉時代の宗教的施設ではないかと考えられており、その歴史的価値から平成22年(2010年)8月5日に国史跡となっている[17]

系譜

系図(時政以前)

  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 聖範 — 時直 — 時家 — 時方 — 時政 (尊卑分脈)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 時方 — 時家 — 時政 (系図纂要)
  • 貞盛 — 維時 — 直方 — 維方 — 時方 — 時家 — 時政 (続群書類従)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 雲範 — 時直 — 時家 — 時方 — 時政 (野津本)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 聖範 — 時家 — 時兼 — 時政 (中条家文書)
  • 貞盛 — 維時 — 直方 — 維方 — 時方 — 時家 — 時兼 — 時政 (入来院家所蔵)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 盛方 — 聖範 — 時家 — 時兼 — 時政 (野辺文書)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 盛方 — 時家 — 時兼 — 時政 (妙本寺本)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 盛方 — 時家 — 時方 — 時政 (正宗寺本)
  • 貞盛 — 維時 — 直方 — 維方 — 俊則 — 時家 — 時方 — 時政 (山門文書)
  • 貞盛 — 維将 — 維時 — 直方 — 維方 — 時方 — 時兼 — 時家 — 時政 (指宿氏系図)
  • 貞盛 — 維時 — 直方 — 維方 — 時方 — 時家 — 時政 (延慶本平家物語)
  • 貞盛 — 維衡 — 維度 — 維盛 — 盛基 — 貞時 — 時家 — 時包 — 時政 (源平闘諍録)

偏諱を与えた人物

脚注

注釈

  1. ^ 重忠の死後、重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻し、継承したというのが通説だが、異説として、義純が婚姻した女性は重忠の未亡人(時政女)ではなく、重忠と時政女との間に生まれた女性で、この女性が畠山泰国の母であるとの説もある。この説の場合、義純は重忠の娘婿で泰国は重忠の外孫にあたることになる[出典無効]
  2. ^ 元暦元年(1184年)6月に源氏一門の源範頼源広綱平賀義信が、文治元年(1185年)8月にやはり源氏一門の山名義範大内惟義足利義兼加賀美遠光安田義資源義経がそれぞれ国司となっており、建久元年(1190年)12月には千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉に、三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重右兵衛尉に、和田義盛佐原義連足立遠元左衛門尉に、小山朝政比企能員右衛門尉にそれぞれ任官している。
  3. ^ ただし、この婚姻時期については頼朝流刑の前とみる説(杉橋隆夫)と頼朝挙兵後とみる説(細川重男)双方が存在する。また、当時の時政クラスの武士は側室を持たなかったことから、北条時房の誕生以降に絞られるとする指摘もある(坂井孝一)。
  4. ^ 源平盛衰記』によると、頼朝と政子の関係を知った時政は政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとしたが、政子が頼朝の元へ走ると、一転して時政は2人の結婚を認めた、とある。だが、頼朝政子の間に生まれた大姫の年齢と兼隆の流刑執行時期を考えるとこの逸話は事実であったと言い難い。
  5. ^ この婚姻に関する時政の考えとしては、この頃、京都では平清盛後白河法皇の間に対立の兆しが見え始め、延暦寺強訴安元の大火鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こっていた。在京して中央の情勢を見ていた時政は、平氏政権が長く続かないことを見越して頼朝を婿とした可能性もあるとみる一方[要出典]、ただ単に政子の熱意に押されただけで、利害を求めるとしても頼朝はその貴種が在地豪族である伊東氏に対する防波堤を果たす可能性があることを多少期待したに過ぎないという見方もある。(細川重男『頼朝の武士団』(洋泉社))
  6. ^ その後の時政の行動は『吾妻鏡』によると、一旦別ルートで安房へと渡り、頼朝と合流。態勢の立て直しが模索される中、9月8日に甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて甲斐に赴き、15日に武田信義一条忠頼のいる逸見山に到着、「頼朝の仰せの趣」を伝える。上総広常を味方につけた頼朝は20日、土屋宗遠を第二の使者として甲斐に送る。24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集め、頼朝と駿河で参会すべきか評議したという。一方、『延慶本平家物語』には、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。
  7. ^ 「七ヶ国地頭」の設置対象地域は畿内近国と推定されるが詳細は不明であり、惣追捕使との関係も明瞭ではない。現在ではこの「七ヶ国地頭」は鎌倉時代に一般的だった大犯三ヶ条を職務とする守護、荘園・公領に設置された地頭ではなく、段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限を持つ「国地頭」であり、守護の前段階とする説が有力となっている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』〈講談社選書メチエ〉講談社、1996年)。国地頭は強大な権限を持つ反面、荘園領主である貴族・寺社との紛争処理や国衙行政の監督、後白河院からの要望など、対応しなければならない諸問題も多く、時政は義経・行家の捜索に専念したい思惑から軍事・検断関係を職務とする惣追捕使となることを望んだのではないかとする見解がある(松島周一「北条時政の京都駐留」『日本文化論叢』9号、2001年)。
  8. ^ 武家年代記』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『鎌倉年代記』『系図纂要』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。
  9. ^ 乱後に重忠の無罪が明らかになると、時政派の稲毛重成、榛谷重朝(重成の弟)が三浦義村に誅殺されている。
  10. ^ 通説では伊東祐親の娘とされる。ただし、祐親の妹とする異説もある。
  11. ^ 坂井孝一は真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の伯母と書かれていることから、政子の母も宗時・義時を生んだ伊東祐親の娘としている[19]。また、坂井は当時の時政クラスの武士は側室を持つ習慣がないため、時政は最初の妻である伊東祐親の娘の死後に牧の方と再婚したと結論付けた上で、政範・平賀朝雅妻・三条実宣妻・宇都宮頼綱妻・坊門忠清妻・大岡時親妻は牧の方の子で河野通信妻も牧の方の子と推定されるため、合計7名の子を産んだとし、宗時・政子・義時・時子・阿波局・時房・稲毛女房・畠山重忠妻は伊東祐親の娘の子可能性があるとした上で、時政が20歳の時に生まれた政子が第1子で、12歳年下の時房が第8子(祐親娘の末子)であったとしている[20]。ただし『愚管抄』では大岡時親は牧の方の兄とあり、その場合は牧の方の娘を娶ったとは考えられない。
  12. ^ 重忠の死後、重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻し、継承したというのが通説だが、異説として、義純が婚姻した女性は重忠の未亡人(時政女)ではなく、重忠と時政女との間に生まれた女性で、この女性が畠山泰国の母であるとの説もある。この説の場合、義純は重忠の娘婿で泰国は重忠の外孫にあたることになる。
  13. ^ 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)、典拠は『吾妻鏡』建久元年(1190年9月7日条。詳細は当該項目を参照のこと。
  14. ^ 「甲斐信濃源氏綱要」(『系図綜覧』所収)の信政項に「元久元年十一十五首服加冠平時政、理髪三浦介、號小五郎、十、信光三男也、請加冠字、既為嘉例也」とある。

出典

  1. ^ a b 加藤晃 1984, p. 109.
  2. ^ 近藤成一『執権 北条義時』三笠書房 知的生きかた文庫、2021年、p.36-41
  3. ^ 杉橋隆夫 1987.
  4. ^ 野口実の説。
  5. ^ 奥富敬之坂井孝一の説。
  6. ^ a b 野口実 2012, p. 32.
  7. ^ 野口実 2012, p. 32-33.
  8. ^ a b 野口実『治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立』(清文堂出版、2014年)
  9. ^ 野口実 2012, p. 48.
  10. ^ 近藤成一『執権 北条義時』三笠書房 知的生きかた文庫、2021年。p.36-41
  11. ^ 湯山賢一 1991.
  12. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p135
  13. ^ 山野龍太郎「畠山重忠の政治的遺産」『武蔵武士の諸相』勉誠出版、2017年。
  14. ^ 安田元久 1986, p. 118.
  15. ^ 坂井孝一 2021, p. 174.
  16. ^ 上横手雅敬 1988, p. 151–152.
  17. ^ 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2023年2月3日閲覧。
  18. ^ 『系図纂要』
  19. ^ 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年9月10日 ISBN 978-4-14-088661-8 P42-44.
  20. ^ 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年9月10日 ISBN 978-4-14-088661-8 P48-51.
  21. ^ 「牧の方」『国史大辞典』
  22. ^ 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏―義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(NHK出版、2021年)は、彼女を伊東祐親の娘の子と推測する(P50.)

参考文献

  • 上横手雅敬『北条泰時』(新装)吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年。ISBN 4-642-05135-X (初版は1958年)
  • 安田元久『北条義時』(新装)吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。 ISBN 978-4-642-05033-3 (初版は1961年)
  • 加藤晃「日本の姓氏」(井上光貞ほか『東アジアにおける社会と習俗』学生社、1984年。)
  • 杉橋隆夫「北条時政の出身:北条時定・源頼朝との確執」『立命館文學』1987年3月。 (立命館大学文学会編)
  • 湯山賢一「北条時政執権時代の幕府文書-関東下知状成立小考-」『中世古文書の世界』、吉川弘文館、1991年。 ISBN 978-4-642-02635-2 (小川信編)
  • 佐々木紀一「北条時家略伝」『米沢史学』第15号、1999年。 
  • 関幸彦『北条時政と北条政子:「鎌倉」の時代を担った父と娘』山川出版社〈日本史リブレット〉、2009年。 
  • 坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏:義時はいかに朝廷を乗り越えたか』NHK出版〈NHK出版新書〉、2021年。 
  • 野口実北条時政の上洛」『研究紀要』第25巻、京都女子大学宗教・文化研究所、2012年、 ISSN 09149988NAID 120005541718 

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北条時政

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夢語りシリーズ」の記事における「北条時政」の解説

鎌倉幕府初代執権北条政子義時、時房の父。「夢語り」、「月のほのほ」、「砂の鏡」に登場

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