選挙とその後
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「1924年12月ドイツ国会選挙」の記事における「選挙とその後」の解説
12月7日の投開票の結果、1920年の総選挙で議席を大きく減らしていた社民党がやや党勢を回復させて131議席を獲得。国家人民党も前回より得票と議席を若干増やして103議席を獲得した。中道3党(中央党、人民党、民主党)もわずかながら得票や議席を増加させた。しかし中道3党だけでは政権が作れない構図は同じで、したがって右(国家人民党)か左(社民党)のどちらかを政権に加える必要がある状況は変わっておらず、明確な議会の変動はなかったといえる。 一方で極右と極左の得票が大きく減少し、共産党と国家社会主義自由運動(ミュンヘン一揆の失敗で禁止されていた旧ナチ党勢力とドイツ民族自由党の合同政党)が議席を大きく減らした。原則に固執して常に政府反対に回る勢力の議席が減ったわけだから、若干ながら組閣が容易になった結果ではあった。 マルクス内閣は12月15日に連立交渉に匙を投げて総辞職したが、エーベルトから組閣を命じられた財相ハンス・ルターは、右に政権を広げることを選択し、1925年1月15日に国家人民党・人民党・中央党・バイエルン人民党を与党とするルター内閣を創設することになった。 投票に臨むエーベルト大統領 選挙活動する共産党 選挙活動する人民党
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選挙とその後
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「1899年ケンタッキー州知事選挙」の記事における「選挙とその後」の解説
選挙当日の11月7日、暴力行為の可能性が取りざたされていたが、州内のほとんどは静かなままだった。州内で1ダース足らずの人々が逮捕された。有権者の出足は緩りであり、夜になってもまだ優劣が付けがたかった。公式開票結果が報告されたとき、テイラーが193,714票、ゴーベルが191,331票であり、テイラーが当選した。ブラウンは12,040票に留まり、ポピュリスト党の候補者ブレアは2,936票だった。ゴーベルが第3の政党のどちらかに行った票を纏めておれば、当選した筈だった。公式結果が発表される前から、選挙違反の告発が始まった。ネルソン郡では共和党候補者を「W・S・テイラー」とすべきところを、1,200票が「W・P・テイラー」となっていた。民主党はこれらの票を無効化すべきと主張した。ノックス郡とジョンソン郡では、有権者が「薄いティシューのような投票用紙」について苦情を言っており、それでは書かれていることが透けて見えた。ある民主党のボスは、ルイビルで州兵が選挙民を威嚇していたので、ルイビルでの投票を全て無効にすべきとすら要求した。ルイビル市だけを見てもテイラーが約3,000票差で制していた。 控訴裁判所がネルソン郡の投票は有効と裁定したときに、共和党が勝利を得ていた。しかし、選挙の最終判定は、ゴーベル選挙法で創設された選挙管理委員会が行うこととされた。州内の新聞各紙は、民主党支持にしろ共和党支持にしろ、委員会の判断を最終のものとして受け入れることを要求した。委員会が審問を行う日が近付くと緊張感が高まり、共和党支持者の多い東ケンタッキーからは武装した男達の小さな集団が州都フランクフォートに到着し始めた。委員会の判断が発表される直前には、武装したマウンテンマンの数が500人と推計された。委員会はゴーベルが支配していると考えられていたが、2対1の票決で既に発表されていた選挙結果を支持して驚かせた。委員会の多数意見は、如何なる司法権も持っていないので、証拠を調べたり証人を尋問したりできないというものだった。テイラーは1899年12月12日に宣誓して就任した。民主党は怒った。党指導者が12月14日集まり、ゴーベルとベッカムに選挙結果に対する異議申し立てを要求した。ゴーベルは結果を受け入れ、1901年にアメリカ合衆国上院議員の議席を求める気持ちに傾いていたが、党指導者の考えを容れ、委員会裁定に異議を提出した。 州民主党の議長アリー・ヤングは、州議会の民主党議員総会を1900年1月1日に招集した。この総会の結果として、J・C・S・ブラックバーンをアメリカ合衆国上院議員候補に、ゴーベルをケンタッキー州上院議長代行に、サウス・トリンブルをケンタッキー州下院議長に決めた。州議会が招集されると、民主党の議長候補が選出された。民主党は両院ともに絶対多数を支配していた。副知事のマーシャルが上院に委員会のリストを提出したが、上院は19対17の票決でこのリストを棚上げし、ゴーベルが用意したリストを承認した。同様に下院でも委員会のリストがトリンブル議長によって提出され、40の委員会が承認されたが、どれ1つとして共和党が多数のものは無かった。 ゴーベルとベッカムの選挙結果に対する異議申し立ては1月2日に州議会に提出された。翌日、議会は異議申し立てに含まれる陳述、中でも選挙違反や有権者に対する違法な軍隊による脅しなど、調査するための審査委員会を指名した。この委員会の委員は無作為に選ばれたことになっていたが、その無作為に作為があった可能性が強く、僅か1人の共和党員と10人の民主党員で構成された。議会の構成を考えれば、共和党員が4人ないし5人は入る可能性があった。規則に関する合同委員会が、この審査委員会は州議会の意図で報告するものであり、一旦所見が提出されれば議論は制限され、報告は議会の合同会議の票決に委ねることを推奨した。また合同会議は、習慣通りの副知事ではなく、下院議長が議長を務めることとされた。少数党の共和党はこの条項に抵抗したが、多数派民主党がその反対を押しきって成立させた。
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