選挙と戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:34 UTC 版)
1933年には既に自由党がハウを下院議員候補として検討していた。自由党は当時野党だった。当時の大衆は首相のR・B・ベネットとその保守党(トーリー党とも呼ばれた)が世界恐慌に対処するやり方を怒っており、1935年に予定される次の選挙で、自由党が政権に復帰する可能性があると見られていた。ハウは事業をやる上で政治活動を行うのは良くないと考え、政治的な見解を公にしてはいなかった。自由党の役員でハウの友人だったノーマン・プラット・ランバートが、1934年1月20日に自由党の指導者で元首相のマッケンジー・キングとハウの会談を設定した。二人はお互いに良い印象を受けたが、互いに次の行動者は相手だと考えた。ランバートの日記に拠れば、ハウがポートアーサーから出馬するには閣僚の地位が保証されることを望んでいた。 ハウはアルゼンチンに向けて新しく巨大な穀物搬送装置建設を提案することにも興味を抱いていた。この計画を検討しながら、マッケンジー・キングからの提案を待っているときの1934年遅く、ハウはポートアーサーからの自由党候補者になることに合意した。自分が当選し、自由党が勝利した場合に、最後は閣僚の地位の約束を取り付けた。ハウはそのような約束が無ければ出馬しなかったと考えられる。1935年10月14日の選挙では、ポートアーサー選挙区で多数の3,784票を集め、下院議員に当選した。全国でも自由党は下院の173議席を獲得したのに対し、保守党は40議席に留まり、自由党の大勝になった。 マッケンジー・キングはハウを鉄道運河大臣と初代の海洋大臣として2つの地位に指名した。ハウは弁護士が圧倒的に多い閣僚の中で唯一の技師であり、自由党政権では初の技師だった。このときカナダ総督が居なかったので、1935年10月23日、ハウやその他閣僚はカナダ最高裁判所長官で監督官を務めていたライマン・ダフが宣誓を取り仕切った。 1936年初期に議会が招集された後、ハウは地方港湾局を改革する法案を通そうとした。個々の港は港湾コミッショナー委員会が運営しており、その委員の指名は政治的な影響を受けることが多かった。1932年の王立委員会はその地位の廃止を推奨しており、ハウの法案は全国港湾委員会を設立することだった。下院の議論はスムーズに行っていたが、ベネット政権のときに保守党が汚職を行っていたとハウが宣言することで野党を怒らせてしまった。さらに激しい議論が行われたが、ハウの法案が通った。レスリー・ロバーツのハウ伝記に拠れば、「この国がもっと良いものを知るようになるのはハウであり、暴れ狂うハウであり、批判を我慢できず、議論を非難し、議会に固有の遅れを非難するのがハウだった」となっている。 ハウは政府の支配するカナディアン・ナショナル鉄道を健全な財政基盤に置くために動いた。ハウは同社を国有企業にする法案を提案した。野党はハウが権力の狂人になっていると苦情を言ったが、提案された再編案にはほとんど喧嘩せず、議会を通過して法制化された。1936年6月、ハウはもう一つの国有企業であるカナダ放送協会を設立する法案を提出した。この法案もあまり議論も反対も無く通過して法となった。 1936年、カナダはまだ航空路線が発達していなかった。多くのカナダ人が飛行機で長距離を旅行したいと考えていたが、それはアメリカ合衆国の航空会社の路線によってだった。自由党は国有会社を設立する法案を提案し、株式の半分はカナディアン・ナショナル鉄道が、残り半分は民間のカナダ太平洋鉄道の所有だった。カナダ太平洋鉄道がこの扱いに戸惑い、半分の株式はカナディアン・ナショナル鉄道が、すなわち全株式をカナディアン・ナショナル鉄道が取得することになった。1937年5月、トランス・カナダ航空が設立され、その最初の飛行は1937年7月30日、危険性のある大陸横断試験飛行だった。ハウは他の政府高官と共に機上の人となり、危険な気象条件であっても操縦士を激励した。ハウの政歴の残り期間を通じてトランス・カナダ航空をその管轄範囲に残しており、自分の「産物であり、概してその利益を加速させること」を考えていた。
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