時事通信社
時事通信社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:20 UTC 版)
一方時事は1946年(昭和21年)8月、UPと経済通信分野における独占契約を締結。さらに1949年(昭和24年)12月、AFPと一般ニュースの契約を締結して、1952年(昭和27年)1月、ロイターと経済通信の独占契約を、その翌年にはAFPと、経済通信の独占契約をそれぞれ締結した。 しかし、時事の船出は順調には進まなかった。同盟の目ぼしい遺産は共同が引き継ぎ、さらに時事は外地から引き揚げて来る元同盟社員の受け皿とされたために人件費がかさみ、設立当初から苦難の道を歩まざるを得なかったのである。 同盟解散時、古野は将来時事と共同が再合同することを期していた。一般ニュース分野と経済通信分野とに分割して棲み分けを図ったのも、両社の無用な衝突を避けるためである。そして「時事は、一般ニュースを必要とする場合は共同から無料で供給してもらえばよい。専用線も共同のものを無償で使用すればよい」としていたが、実際に分社化するとそのようにはいかなかった。一般ニュースの自主取材は「覚書」によって厳しく制限され、また、敗戦後間もない日本経済は著しく疲弊しており、経済通信での収入も芳しくなかった。 このため、1949年(昭和24年)7月14日に社長の長谷川才次が共同常務理事の松方三郎(松方正義の末子)と直接交渉し、両者は「覚書」の撤廃に合意した。以後、共同から時事へのニュース供給は途絶し、古野の意図に反して両社の本格的な抗争が始まった。 1971年(昭和46年)、日本経済新聞社が子会社「株式会社市況情報センター (QUICK) 」を設立した。QUICKは、専用端末「ビデオ-I」で経済情報サービス分野に参入し、急成長を遂げた。新たな脅威の出現により、時事はさらなる苦境に陥った。 1971年は時事にとって、もう1つの意味で特別な年であった。この年の6月、初代社長の長谷川が退陣したのである。 「独裁的」とも評される長谷川の経営方針や、政財界寄りの態度に不満を覚えた社員らは1968年(昭和43年)、実質的には機能していなかった「時事通信社労働組合」(1950年発足)に代わる組織として「時事通信労働組合」を結成し、待遇改善などを要求する運動を展開。組合には約120人が参加した。1971年(昭和46年)3月26日と4月28日、組合は全日ストに突入し、機動隊が出動する異常事態となった。 労使の対立は、1971年5月の第51回定期株主総会で頂点を迎える。席上、組合員による質問が突如打ち切られ、提出議案が強行採決されたことに組合側が猛反発し、総会は紛糾した。こうした一連の混乱の責任を取って、長谷川ら経営陣は辞職した。
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