日本鋼管の索道
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かつて天川村中城の観音峯山中腹には大峯鉱山と呼ばれる鉱山があった。『大阪鉱務署管内鉱区一覧』では大正7年版(1918年)から記載があり磁鉄鉱などの鉱物資源が採れた。日本鋼管が、この鉱石を運び出すために観音峯山から南葛古瀬(今の御所市古瀬。吉野口駅付近)へと通ずる延長23.8kmの専用索道・通称大峯索道(おおみねさくどう)を1917年(大正6年)に開設し、翌年7月から運転を開始した。この索道の動力は、途中の阿知賀で大阪ガス製100馬力発動機を取り付け長瀬まで運転し、長瀬で50馬力に変えて運転したという。 鉱石運搬は1921年(大正10年)まで続いたが、早々に専用索道から貨物用索道に転換された。『架空鉄索道台帳』によると1919年(大正8年)8月8日に免許申請があり翌1920年(大正9年)1月24日に認可されている。洞川駅(鉱山口)、虻峠駅(天川村洞川)、阿知賀駅(下市町)、吉野口駅の4駅があったが、臨時に黒木辻(笠木峠東方)や深谷(天川村川合)に駅を設けて貨物の積み込みを行うこともあった。洞川電気索道と競合したはずだが扱う荷物を洞電側と協議するなどして共存が図られていたようである。 経由地は以下の通り 観音峯山-洞川口-笠木-桂原-長瀬-広橋-岩森-阿知賀-南葛古瀬(吉野口駅付近) また貨物索道となってからは大阪荷箱株式会社(この会社は弥山川の奥地で伐採し索道で天川村沢谷に搬出し、製板して荷箱材料を製造していた)の索道も接続した。天川村発行『天川村ガイドブック』などには、天川村沢谷から虻峠に伸びる索道や搬器の「吉ノ口行」の文字を読み取れる古写真が掲載されており、この索道を撮影したものであることがわかる。 貨物用索道に転用され延命した大峯索道ではあったが、1929年(昭和4年)頃まで使われたものの翌年には休止。昭和10年前後に撤収された。 観音峯山南側のハイキング道脇に鉱山施設の遺構があるが、そこから約50m西の地点に事務所跡・索道駅跡と推定されるコンクリート基礎群が残っている。また旧笠木峠道の脇(北緯34度16分11.0秒 東経135度50分31.1秒 / 北緯34.269722度 東経135.841972度 / 34.269722; 135.841972 (索道黒木辻駅跡))にコンクリート塊が残る平場があり黒木辻駅跡と推定されるが、洞川電気索道の遺構である可能性もある。阿知賀駅跡は近年の再開発で掘り返されており姿を留めていない。吉野口駅跡は鉄道駅の北西にある畑(北緯34度25分23.0秒 東経135度44分59.9秒 / 北緯34.423056度 東経135.749972度 / 34.423056; 135.749972 (索道吉野口駅跡))に基礎が一つ残っている。かつてはJR線から索道駅への引き込み線もあったという。 輸送・収入実績年度貨物総量(トン)賃金(円)距離(哩)1923 552,800 6,600 8.7 1924 530,000 31,800 8.7 1925 797,000 7,970 8.7 1926 9,460 14,559 31,0 1927 1928 - - - 1929 - - - 1930 休業中 奈良県統計書各年度版、1927年版は欠本(国立国会図書館デジタルコレクション)
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