幕臣時代
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旗本・本多八左衛門の孫。父が早世しており、安政6年(1859年)、祖父の家督を継ぎ、将軍の警護等を務める新番に就く。 文久元年(1861年)、東禅寺事件でイギリス公使館を守備し尊王攘夷派浪士と戦い、銀20枚を褒美として受け取る。元治元年(1864年)、慶応2年(1866年)に将軍・徳川家茂を警護し上洛する。慶応2年に歩兵指図役、慶応4年(1868年)に歩兵頭に昇進する。
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幕臣時代
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文政2年(1819年)紀伊国和歌山藩儒菊池梅軒の子として生まれた。菊池家は代々紀州徳川家に仕え、曽祖父菊池衡岳の代より儒学をもって仕えた。 安政5年(1858年)10月、徳川家茂が征夷大将軍に就任した時、成島柳北に代わって侍講に抜擢され、江戸に移った。安政6年(1859年)12月14日小納戸となり、文久3年(1863年)3月家茂に従い上洛し、8月9日小十人頭格奥儒者に抜擢されたが、元治元年(1864年)6月22日政変のため小十人頭八番組に左遷され、8月18日六番組に移り、9月30日辞職した。
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幕臣時代
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享保元年(1716年)、吉宗が江戸幕府8代将軍に就任すると、有馬らとともに江戸城へ移り、御側御用取次となって将軍と老中の間を取り持ち、享保の改革を補佐する。有馬氏倫がどちらかといえば気の強い性格でしばしばトラブルを起こしたのに対し、久通は穏やかで慎み深い性格であり、良いコンビであったという。当初の知行は紀州藩時代と同じ1,000石であった。実質的に将軍の秘書長として改革を進めたため権勢も大きく、改革の助言者である室鳩巣は「両人の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老中などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候」と書いている。 将軍吉宗の信頼が厚く、所領も加増を続けた。享保元年に伊勢国内に1,000石を与えられたのを皮切りに、下総にも所領を与えられ、享保11年(1726年)には上野にも8,000石を与えられ、合わせて1万石となり、大名に列する(伊勢東阿倉川に陣屋を置く)。以後も吉宗の信頼は篤く、延享2年(1745年)、吉宗が嫡子家重に将軍職を譲って大御所となり江戸城西ノ丸に移ると、これに従って西ノ丸若年寄となり、没するまで吉宗に仕え続けた(この昇進事例は裏方であった御側用人・御側御用取次から幕府の表の役職である若年寄に昇進した初めてのケースであり、以後は将軍側近の御側御用人・御側御用取次から若年寄・老中へ昇進するルートが開かれた)。 寛延元年(1748年)、死去。享年76。谷中墓地に葬られた。養嗣子の加納久堅(実兄加納政信の五男)が家督を継いだ。
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幕臣時代
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天文3年(1534年)4月12日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生。天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となったという。しかし、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広を養父と見る説も近年有力視されている(#系譜)。天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、与一郎藤孝を名乗る。幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。 永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。 その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。藤孝は山城国勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国や摂津国を転戦した。
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幕臣時代
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嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。安政3年(1856年)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され、親友の中條金之助とともに取締役となる。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。 この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず、弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。父の勧めもあって、17歳の頃から禅の修行も始め、長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられた。
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幕臣時代
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嘉永3年(1850年)に15歳になり元服する。嘉永5年(1852年)に17歳で父の跡を継ぎ、御持弓与力となる。嘉永6年(1853年)、吉原守拙の門下となり兵法を学ぶ。安政5年(1858年)、大橋訥庵に入門し、尊王攘夷の思想に傾倒。この頃、久坂玄瑞や金子与三郎らと交流があった。安政6年(1859年)、24歳で武家の師である稲生虎太郎の娘と結婚するも翌年の万延元年(1860年)10月17日に死別。 文久2年(1862年)、御持弓与力の職を義弟の鉦次郎に譲る。これは同年の坂下門外の変において老中・安藤信正を襲撃したとの嫌疑を避けるためであった。翌文久3年(1863年)、28歳で山田宗弥の娘・睦(のちに改名し綾)を妻とする。 慶応3年(1867年)、開国論者の勝海舟の暗殺を企てるが、未遂に終わる。海舟は隆吉に鐙斎(とうさい)とニックネームを付け二人は親友となる。同年の大政奉還を幕臣として迎える。
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