就航後
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1954年(昭和29年)9月2日から車両甲板積みでの自動車航送も行われたが、並行するフェリー航路が充実して来た1962年(昭和37年)4月30日限りで終了している。 紫雲丸事件の衝突相手として有名であるが、船首積みのため、喫水線レベルでの船首の幅は通常の船同様狭いのに、水面上約1mの車両甲板エプロン部では幅約9mにまで広がり、船首部喫水線上側面の船体外板は著しく傾斜したフレアーの大きな船型となった。そのうえ着岸時の衝撃や重い車両の通過にも耐えられるようこの部分は極めて堅牢に造られたことも、本船船首を船体側面に衝突される形となった紫雲丸側の損傷を大きくした要因であった。 従来の国鉄連絡船の外舷色は戦時中の警戒色の時期を除き、黒と白であったが、本船では、新造時から1967年(昭和42年)まで、緑と白に塗り分けており、後に続く色とりどりの連絡船のさきがけとなった。車両甲板上には屋根がなく、側面にトラス類似の構造があり、青函連絡船第一青函丸を前後逆にしたような外観であった。
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就航後
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就航後、照国丸は姉妹船靖国丸や箱根丸級の4隻とともに、横浜~ロンドン間で月に2回の航海を行なった。照国丸は横浜とロンドンを結ぶ定期航路だけでなく、「ノース・コンチネンタル・クルーズ」として、アントワープ、ロッテルダム、ハンブルクなどの北海沿岸の都市を巡ったこともある。 船内の装飾は基本的には洋風ながら、特別室のサロンには松田権六による蒔絵を取り入れるなど、日本風のインテリアも多用され、外国人の船客に特に好評であった。 航路 横浜-神戸-上海-香港-シンガポール-ペナン-コロンボ-アデン-スエズ-ポートサイド-ナポリ-マルセイユ-ジブラルタル-ロンドン 往路46日、復路41日。
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就航後
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2004年1月12日、テロリストに対する厳戒態勢の下、2,620名の乗客を乗せたクイーン・メリー2はイギリスのサウサンプトンを出港し、アメリカ合衆国フロリダを目的地とする処女航海を行った。 7月4日、アメリカ独立記念日に際しニューポートに寄港した。8月13日から始まったアテネオリンピック開催中にはアテネのピレアスに2週間停泊し、水上ホテルとしてイギリス首相トニー・ブレア夫妻やフランス大統領ジャック・シラク、元アメリカ大統領ジョージ・ブッシュを迎えた。 2006年1月、クイーン・メリー2は南アメリカ一周航海を開始したが、フォートローダーデール出港に際し防潮壁にスクリューが衝突し損傷した。これにより速力は低下し、目的地ブラジル・リオデジャネイロに向かうまでの寄港地の一部は通過を余儀なくされた。乗船を待ちこがれていた客の中には、座り込み抗議を行う構えを見せていた者もいたが、キュナード社が払い戻しを申し出たことにより事態は収束へ向かった。船は本来の速度を発揮できぬまま航海を続け、旅程の一部は変更となった。損傷が完全に復帰したのは、6月にヨーロッパに帰港し、乾ドックでのスクリュー解体修理が終了した11月のことだった。並行して、スター・プリンセス火災事件後に発効した新規制を遵守するため、船内の全てのバルコニーにスプリンクラー設備が設置された。また、視界向上を目的としてブリッジの左右が2メートルほど拡張された。 南アメリカ一周航海を終えた2006年2月23日、クイーン・メリー2はカリフォルニア州ロングビーチにおいて、初代クイーン・メリーと対面した。小型船隊にエスコートされた女王たちは汽笛を鳴らし、交歓した。その音は街中に響き渡るものであった。 クイーン・メリー2に乗船した有名人や賓客としては、イギリス女王エリザベス2世、エディンバラ公フィリップ、ブレア首相、ブッシュ元アメリカ大統領、ミュージシャンロッド・スチュワート、ジャズピアニストデイヴ・ブルーベック、不動産王ドナルド・トランプなどが知られている。2007年1月10日より、クイーン・メリー2は就役以来初となる81日間世界一周クルーズを行っている。また、2月20日には僚船のクイーン・エリザベス2とシドニー湾で顔を合わせた。キュナード社のクイーンシップがシドニーで一緒になるのは、兵員輸送船として使用されていた初代のクイーン・メリーとクイーン・エリザベスが経験した第二次世界大戦中の1941年以来であった。午前5時42分という早朝の到着にもかかわらず、シドニーでは多数の見物人がクイーン・メリー2を見ようと詰めかけた。このため、当局はシドニー・ハーバーブリッジとアンザックブリッジを一時封鎖するに至った。1600人がシドニーで下船し、キュナード社は今回の寄港が地元に与える経済効果は100万ドルを超えるだろうと試算している。
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就航後
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1960年5月、当時の日本で高い人気があった島津貴子(昭和天皇第5皇女)と島津久永夫妻が、新婚旅行で利用し、その様子が大々的に報じられた。 1964年6月には、河野一郎建設大臣と瀬戸内沿岸の知事・市長らによる「瀬戸内総合開発懇談会」が船上で開催されている。 しかし、長距離フェリーが増加したことに加え、1975年3月の山陽新幹線の岡山駅 - 博多駅間の開業により、阪神・別府航路の利用客は1979年にはピーク時の半分程度となり、「くれない丸」「むらさき丸」の乗船率も25%前後に下落した。また1975年12月の時刻変更で、両船の運行時間が景色を楽しめない夜行便に変更されたことも人気の下落要因として挙げられた。 こうした情勢を受けて1980年に阪神・別府航路はフェリー化されることとなり、7000トン級のカーフェリー「フェリーに志き丸」「フェリーこがね丸」に航路を譲り退役。同航路は産業的輸送路線の色彩を強めた。それらの後続船は搭載されるトラックのドライバー用船室のほか二等客室なども重視される設計となり、阪神・別府航路の格式は変化を余儀なくされた。 くれない丸は阪神・別府航路からの退役後は1981年まで予備船として用いられ、その後佐世保重工業に売却される。しばらく係船されたのち、1988年スエヒログループ総帥の吉本日出夫が率いる日本シーラインによってレストランシップに改装され、1989年より横浜港大桟橋を母港としてレストラン船営業を開始。 1994年からは太平洋フェリー傘下の「横浜ベイクルーズ」が運航し、2000年12月には吉本興業が本船を買収し傘下の新会社「ロイヤルウイング」に営業を譲渡、2006年にはモックが子会社化し、2008年5月からはサンリオの子会社となり、今なお現役を続けている。2019年には建造から60年を迎え、現役で稼働する日本の客船としては最古で、長い就航期間は世界的にも希少と報じられている。
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就航後
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1929年11月に日本郵船によって就航した後、横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し太平洋横断の速度記録を作った。その後は、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに出場する西竹一をアメリカに運んだほか、西の親友であるハリウッドスターのダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻が来日の際に乗船。また、ヘレン・ケラーが来日の際にも乗船した。 1937年9月に香港沖で、台風の中でイタリア王国の客船であるコンテ・ヴェルデと接触後座礁するというアクシデントに見舞われた。救助作業は日本サルヴェージが請け無事救助に成功(この顛末については内藤初穂著「太平洋の女王 浅間丸」に詳述されている)し、翌年の9月15日には定期航路に復帰した。なお、コンテ・ヴェルデとは第二次世界大戦中にコンビを組んで長距離航海をすることになる。
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就航後
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翔鳳丸型は1924年(大正13年)5月から12月にかけて順次就航したが、車両積卸し可能な専用岸壁は未完成であった。そのうえ、車両の連結器も、北海道の 自動連結器と、本州以南のねじ式連結器では、相互に連結ができず、これらの問題が解決されるまで、比羅夫丸・田村丸に代わって、通常型の客船として使用され、この間、車両甲板上には臨時の手小荷物・郵便室が設置されていた。
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就航後
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1930年(昭和5年)4月19日、「平洋丸」は大阪から神戸を経由して香港まで回航された。香港では米を積んだ後5月2日に出港し、門司、横浜、ホノルルなどを経て、6月3日にロサンゼルスに到着し、7月9日にはチリのバルパライソ港に到着した。日本郵船は乗客の殆どを占める三等旅客へのサービス向上を目指し、「平洋丸」には立派なダイニングルームが作られ、居住区には4~12人用の客室が設けられた。これは、同時期のブラジル航路の三等船客居住区が貨物倉に置かれた組み立て式の2段寝台であったのに比べると、かなりのサービス向上であった。 その後も「平洋丸」は香港や日本とチリの間を往復し続けた。1939年(昭和14年)8月に最後のペルー移民を輸送した。1940年(昭和15年)には、ペルーで発生したリマ排日暴動事件で壊滅的な被害を受け、日本に帰国を希望した54家族216名をカヤオから横浜へ移送した 。1941年(昭和16年)6月22日の神戸発を最後に南米西岸航路が休航となった後は日本の港に繋船されたままとなっていた。
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