大西洋の壁
大西洋の壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「大西洋の壁」の解説
ヒトラーはロンメルを見限ってはおらず、B軍集団の担当地区を北イタリアから北フランスに変更し、1943年11月にロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動を命じられ、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。ドイツ軍は連合軍の次の侵攻地を突き止めるのに躍起となっていたが、ヒトラーは北フランスへの連合軍の上陸を恐れており、信頼していたロンメルをかの地に置いたのであった。さらにヒトラーは「要塞をつくることにかけては、古今を通じ、私ほど偉大なものはない」と自信満々であった「大西洋の壁」の整備を監督させるため、「進攻正面防備特務査察監」という新たな役職まで作ってロンメルをその役職に任じた。イタリアで落胆したロンメルであったが、任務の重要性とヒトラーからの信頼を痛感して、着任するなりデンマークからフランスまで精力的に視察して回った。 1944年の1月になって、ドイツ軍は連合軍が西ヨーロッパで「第2戦線」を構築するため大規模な上陸作戦を展開するという情報を掴んでおり、2月にはその場所がヒトラーの懸念通り、北フランスになるという情報を掴んでいた。連合軍の上陸地点としては、ドイツ軍はイギリスからもっとも至近距離となるパ・ド・カレーと予想していた。ロンメルはドイツ軍の殆どの予想とは異なって、上陸地点はノルマンディになると唯一正しい予想をしていたという意見もあるが、ロンメルは1943年12月23日付の報告書において「敵はまず第一にパ・ド・カレーを目指す」と書いていたり、連合軍上陸直前の1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団をパ・ド・カレーにより近いセーヌ川の北部に配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に、連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーと予想して作戦準備を進めていた。 一方で、連合軍の上陸に対抗する「大西洋の壁」の整備状況としては、上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、ノルマンディー地方に至っては20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。ロンメルは準備の遅れに危機感を抱きつつも、精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。ロンメルは「大西洋の壁」の整備と並行して、防衛計画の策定も進めていた。ロンメルは連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても最も長い一日(Der längste Tag)になる」、として「水際配置・水際撃滅」を主張した。これはロンメルが北アフリカで連合軍の圧倒的な航空戦力で叩かれた苦い経験に基づくもので、連合軍空軍の制空権下では、装甲部隊が戦線にたどり着くためには、小部隊に分散且つ時間をかけて移動する必要があり、反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵、砲兵、装甲部隊全ての兵力を配置し、上陸部隊を速やかに撃滅するべきと考えたからである。しかし、連合軍の大規模上陸作戦においては、必ず戦艦や重巡洋艦などの大口径の艦砲による艦砲射撃が行われており、その射程内に配置されている陣地や部隊は大きな損害を被っていた。ロンメルは連合軍の大規模な艦砲射撃を経験しておらず、明らかにその威力を軽視していたと思われるが、実際には連合軍の上陸を撃破することは困難と認識しており、一縷のむなしい望みにかけたという意見もある。 1943年3月に西方総軍司令官に任命されたルントシュテットも、「大西洋の壁」などと喧伝されている陣地の構築状況が遅々として進んでおらず、これに頼らない作戦を検討する必要に迫られていた。そこで機甲部隊の運用の専門家でもあったルントシュテットは陣地に頼るのではなく、装甲部隊に重点を置くこととした。しかし、最前線地区に配備してしまえば、上陸前の連合軍の圧倒的な航空攻撃と艦砲射撃で連合軍部隊が上陸前に大損害を被る懸念が大きかったため、ルントシュテットは装甲部隊をその射程の外に配置し、海岸陣地の歩兵が上陸部隊が押しとどめている間に、装甲部隊が海岸付近に駆けつけて、艦砲の射程外でまだ体制が整わない上陸部隊を一気に叩く作戦を考えた。これは、ルントシュテットがハスキー作戦やアヴァランチ作戦で、連合軍の圧倒的な艦砲射撃に大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリス通と言われたレオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将も賛同した。 ロンメルはルントシュテットを尊敬し立ててはいたが、一方のルントシュテットは、ロンメルの勇気と忠節ぶりには敬意を払っていたものの、戦略家としての評価は決して高くはなく「良き師団長になるための特性は全て備えているがそれ以上ではない」と評していた。またヒトラーの信頼でのし上がってきたナチの成り上がりものという見方もしており、作戦の全てを握られることに警戒を強めていた。 ロンメルとルントシュテットの意見の相違は、やがてドイツ軍を二分するような「装甲部隊論争」に拡大したが、最終的にヒトラーが問題解決に介入し、機甲4個師団を予備部隊とし国防軍最高司令部の指揮下におくこととした。この4個師団は国防軍最高司令部の許可なしでは動けないこととなり、結局のところ、ロンメルとルントシュテットは自分たちの対立によって余計な手枷足枷を付けることとなってしまった。 こうした将軍同士の対立の中で準備が進められたが、ロンメルは準備を進めていく中で次第に連合軍はノルマンディに上陸する公算が大きいと考えるようになった。そのため、ノルマンディへの視察の頻度を上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸の防備の強化を命じ、鹵獲したフランス軍の戦車砲をトーチカに設置し海岸砲台とするなど徹底した強化が図られたため、ロンメルが北アフリカで苦戦させられたイギリス軍の拠点に因んで「トブルク」と名付けられた。またロンメルは、自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、大量の地雷の埋設も命じ、一説にはその数600万個にも達したと言われるが、実際には地雷の数も足りておらず、ロンメルを満足させるためやむなくダミーの地雷が埋設された。ロンメルを誤魔化す目的で作られたダミー地雷原は、皮肉にも上陸してきた連合軍を混乱させるという予想外の効果もあげている。ロンメルの軍の実情を考慮しない命令によって、ドイツ軍将兵は防備を固めることに多くの時間を取られることとなり、訓練をする時間が殆どなかった。また、演習用の弾薬も不足しており、訓練度が少ないまま連合軍を迎え撃つこととなってしまったので、火器の命中率の低さに悩まされることとなった。
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