大学院修了後
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1888年(明治21年)12月大学院修了と同時にスクリバ教授の助手に採用された後、1889年(明治22年)5月第一高等中学校医学部(後の千葉医科大学)教諭に任命され外科学を担当した。併せて附属の県立千葉病院においても外科を担当した。第一高等中学校医学部外科担当前任者は大学同期生桂秀馬であったが、同人が宮内省に転任することとなり紆余曲折の末に徳寛が後任となった。当時医学部の体制は主事長尾精一(産婦人科・小児科)、石川公一(純内科)、大西克孝(内科・精神病・診断学・薬物学)、荻生録造(眼科・法医学理論)、三輪徳寛(純外科・臨床講義)、堤宗卿(外科総論・皮膚病・臨床講義)、新井春次郎(解剖学)、松村三省(病理解剖・組織学)、山木治郎(生理)であった。
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大学院修了後
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1939年6月、外務省文化事業部より留学生として選抜され、中華民国臨時政府の支配する北平(現・北京市)に赴き東洋画の研究を続けた。北京大学講師、北京育成学校副校長を経て、1940年9月16日に北平芸術専科学校(北京芸術専科学校、現・中央美術学院)に異動、教授となった。研究者として東洋画における線の本質を究め、東西両洋の芸術研究の立場から、新しい芸術学及び芸術史の分野を開拓することをめざした。また、北京育成学校副校長、北京芸術専科学校教授に加え興亜美術展覧会の審査員を委嘱される等、中華民国における美術家の育成に携わった。この間、1941年6月第2回日本エッチング展覧会(資生堂ギャラリー)に北平より「造船場」を出品している。日本版画奉公会にも1943年5月の発足時より会員として加入している。 終戦後の1946年に家族とともに日本に引き揚げ、千葉県山武郡東金町に帰郷する。帰国後は、藤懸の推薦をもって、千葉大学、日本女子大学にて講師の職を得た。一方、美術貿易の振興についても藤懸と相談の上で準備を進めたが、資金難で中止を余儀なくされた。 その頃、近所の子供たちの絵を見ていたところ、1947年の第一回全国子供美術展で複数が特選を得たことから、自宅に石塚画塾を開くとともに東金小学校(1974年廃校)に招かれ絵の指導をすることとなった。その指導は、アカデミックな画風ではなく、自由にのびのび描かせてそれぞれの個性を活かすことに重点をおいた。1948年には前記美術展の入選者が70余名(全国で約350名)、1949年にも70名を越し、1950年には84名の大量入選者を出し、全国一の絵画学校として名を挙げ、5年連続で最優秀校表彰された。 1952年6月28日の千葉県銚子市政20周年記念式典で9名の特別自治功労者に贈呈された肖像画を油彩で描いている。 1957年4月、それまでの研究で身に付けた美術及び油彩画の知識と技術を生かした日本的絵画としての油彩風景画確立を目指し、美術史研究者としての地位を捨てて日本全国の風景を描く油彩画家となる。この際、家族(妻および二男五女)と離別した。後に再婚し、後妻と日本全国を自動車で巡りながら、風景画を制作した。しかし、1960年代に脳溢血に罹患して車椅子生活となり、長い闘病生活を送った。 1994年8月8日、東京都文京区にて死去。戒名は桂月院照喜信士。
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