カロタイプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/08 13:35 UTC 版)
カロタイプ(Callotype )は、イギリスの科学者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが発明した写真技法である。ギリシア語のΚαλος(Kalos 、美しい)から命名された[1]。史上初のネガ - ポジ法であり、複製が可能という点でダゲレオタイプに優っていた。
製法は、食塩水[1]につけて乾燥[1]した後硝酸銀溶液を含浸させた紙[1]を感光材料とし、カメラ・オブスクラ[1]に入れて撮影[1]し、硝酸銀、酢酸、没食子酸の混合溶液で現像、臭化カリウム(のちにチオ硫酸ナトリウム)溶液で定着して6cm×6cm[1]のネガティブ像を得るというものである。露光時間は、晴天の屋外で1分程度であった。
タルボットが撮影した写真の中で一番古い写真は1835年[1]に別荘の書斎の窓[1]から撮影されたもので、ロンドンのサイエンス・ミュージアムにある[1]。タルボットはこの原理を1835年8月に発明していたが製法を秘密にしており、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプを発明し1839年に発表したのを聞いて急いで報告書をまとめ[1]、写真発明の優先権を主張した[1]が認められず[1]、写真発明の名誉を取られる形となった。
この時点では明暗の階調が逆のネガティブ像であったが、その後ネガティブ像を複写することでポジティブ像を得ることに成功、ネガ - ポジ法を完成させて1841年にイギリス特許を取得した。この方法の大きな利点は、複写によりポジティブ像を得るので1枚のネガから何枚でも写真を作れること[1]である。ポジティブ像を写真を作る際に紙を複写するので繊維が映り込み、ダゲレオタイプのようなシャープさはなかったが、絵画のようなマチエールを生かした写真が作られた[1]。
なおフランスのイポリット・バヤール(Hippolyte Bayard )も1839年にほぼ同様の写真術を発明していたが、タルボット同様彼の発明が認められることはなかった。
その後、改良が行われて写真湿板、写真乾板が発明され、複製の画質が向上することになる。
出典
参考文献
カロタイプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:55 UTC 版)
詳細は「ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット」を参照 イギリスの貴族、ウィリアム・フォックス・タルボットは、イタリアへの休暇旅行でスケッチの際にカメラ・ルシダを使ったことからこれに興味を持つようになり、より手軽なスケッチの手段として画像を定着させる研究をはじめた。ダゲールに先んじて1835年頃に、カメラの画像から、黒白の反転した陰画を銀方式で固定する手段を発見していたが、これを秘匿したまま研究を途上で放棄しており、別の研究をしていた。しかしダゲールの発明を知ったタルボットは奮起し、彼の方式を改良して人物の写真が撮れるほどの短時間での撮影を可能にした。 1840年までにタルボットは、ジョン・ハーシェルら多くの科学者の協力を得てカロタイプ方式を発明していた。カロタイプでは、紙に塩化銀を塗布し、中間的な陰画(ネガ)を取るのに使い、ここから別の感光紙に密着焼付けを行い陽画(ポジ)を得る方式をとっていた。繊維のある紙を使うため、金属板を使うダゲレオタイプとは異なり鮮明さでは劣った。しかし、カロタイプの陰画は陽画を焼くに当たって再三使える、すなわち複製が作れるというダゲレオタイプにはない利点があった。1843年には彼は写真工房を作り、複製能力を生かした写真集の出版を開始した。1844年に出版した『自然の鉛筆』(Pencil of Nature)は有名である。この『自然の鉛筆』は世界最古の写真集とされている。 タルボットはこの方式を特許とし、写真家から高額の使用料を徴収したため、特許料不要のダゲレオタイプに比べカロタイプの活用は大きく制限された。後述のコロジオン法などに対しても特許侵害だと主張した。彼は残りの人生を写真家たちを相手に特許を守る裁判に費やしたが、敗訴に失望し、最後には特許を放棄した。しかし、カロタイプの技術はフランスなどで改良された。1850年代よりフランス政府により自然、建築・遺跡、産業、災害などの記録を残すプロジェクトが始まり、フランス国内外の多くの風景が記録された。また、後にアメリカのジョージ・イーストマンはタルボットの方式を改良した。
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